昨日は朝から電車で都内に出かけた。午前中の講演と午後の打ち合わせのためであり、珍しい対面での仕事だった。講演は、区内の校長や園長向けGIGAスクール対応の内容で、求められたテーマは、リーダーシップや管理や人材育成であった。コロナ感染で、5月の予定が7月に延びたのは、担当者が、どうしても対面で、という希望が強かったからである。実をいうと、管理職対象で、しかも管理とかリーダシップなどは、研究とは距離があって、ほとんど講演した経験は無かったのである。しかし、5月の予定が7月に延びたのが、幸いした。先にブログでも書いたが、長い間教育で仕事をしてきた人の一言と、長い間台所で家事をしてきた家内の、何気ない言葉が、何か磁石のように引き合って、結び付いた時、ふと感じるものがあって、それも内容に含めたのだが、それが、主役を際立たせる脇役のような存在になって、話がどこか華やかな色どりを帯びた。それは、参加者の表情やメモを取る光景を見れば、分かる。対面とは、こんな意味を持っていたのか、参加者からのフィードバックが、手に取るように感じる、これは、反応が鈍い、これは思ったより効果的だ、など、対面だから得られる情報なのである。オンラインは、電車に乗って出かける時間も節約できて有難いのだが、どうしても講演者と視聴者との、目に見えない暗黙的な対話に欠ける。予定したトッピクは5項目あったが、2項目しか話せなかった。90分の時間、間に5分の休憩を入れたが、重要な内容はすべて話したので、十分である。経験のないテーマ、それは尻込みすることではない、そこから、多くのことを学ぶことができる。苦手なテーマでの講演など未経験のことは、大歓迎である、それが自分に新しい生き方を与えてくれる。
井戸の中の蛙
昨日は、オンライン会議が無かった、珍しいが、午前はオンラインでの採点があって、その後、資料作成と関連文献の調査をして、午後は私用で市内の会計士に家内と一緒に行った。文献調査をしながら、ふと思う、自分はこれまでほとんど勉強してこなかった、独りよがりのことばかりで、自分が関わった範囲のことしか、知識がない、これでは、人前で偉そうに、モノは言えない。企業などから、相談を受けることもある、知ったかぶりで話すこもある、先生方の前で、講演をすることもある、その時は、これで精一杯、という気持ちだが、井戸の中の蛙大海を知らず、の格言通りだ、と最近よく感じる。在宅勤務の関係で、時間的な余裕ができると、井戸だけではなく大海のほうまで、目が向くようになる。すると、そうか、こんなことを考えている人もいるのか、こんな研究をしているのか、と目が覚めるようなことが起きる。歳をとってくると、自分の見方考え方が固定化して、つまり頑固になるようだが、自分は、そうでもない、やっと勉強するとか、文献を調べるとか、専門書を読むとか、少し分かりかけてきた。こんなことを書くと、何を謙遜して、などと思う人がいるかもしれないが、まったくの本心である。昔から言われてきたような、戒め、ことわざ、処世訓などは、若い頃は分からない、が、今の自分には、確かにそうだ、と共鳴することが多い。すると、文献を調べたり専門書を読むのが楽しくなって、まるで学生のように、知識がすっぽり頭の中に入ってくるような感じで、本当に、豊饒な知識の大海が、この世には存在している、これは凄い、宝のような知識が、まだまだいっぱいある、と思うようになる。今朝は、朝早く電車に乗って、都心に行かなければならないので、これで筆を置く。
講演の修正
昨日は、2回目のワクチン接種の翌日なので、運動はしないで、ゆっくりと過ごすように、家内から厳しく言われ、そのつもりだが、世の中はうまくできていて、朝10時から午後4時過ぎまで、オンライン会議があった。ある自治体のGIGAスクール対応の連絡協議会で、自分はそのアドバイザー役になっているので、報告や協議を視聴した後、1時間の講演をしたので、まる1日、書斎で過ごしたから、ワクチン接種の翌日としては、優等生であった。アドバイザーとしては、地区代表や学校長の報告、主に進捗状況や課題だが、を聞いて、講演に含めなければならないので、メモが必要だった。2台のパソコンを前にして、1台はオンライン用にして、1台はメモ用だが、音声入力にすると、視聴しながらメモできるので、重宝した。自分としたら、講演はまずまずの出来だった、もう数えきれないほど、講演をしているが、なかなか合格点に達しない。先週だったか、シンポジウムの司会をして、登壇者の1人の、さりげない一言だったが、何かピンときた。そして、その日の夕方、家内と話していたら、何でもない、独り言のような、言葉を聞いた。お風呂上りから夕食までの、ゆったりとした時間だが、本当にそうかもしれない、と、思った。長い間教育に携わってきた人の話と、長い間台所に立ってきた主婦の話が、細い糸で結ばれたような気がして、昨日の講演資料を修正しようと思った。その修正した内容が、画面の向こうの先生方に、共感を呼び、頷きを起こし、話にリズムを与えてくれた、ような気がする。そして、傍らにおいた、先ほどのメモ用紙を見ながら、話しの中に、キーワードを入れて、参加者の報告と関連付けられたので、自分としては、まずまずだと満足できた。昨日の夕方は、その余韻が残っていて、気が緩んだのか、ワクチンの副反応か、少しけだるい気がしたが、何でもない、仕事に満足できれば、それは最高の治療薬である。
ワクチン接種
昨日は、2つのオンライン会議があった、そして、2回目のワクチン接種をした。ワクチン接種の日は、運動やアルコール飲酒は禁止と聞いているので、接種する前に、ジョギングをした。接種前なら影響はないはず、と思って、走ってきたが、自分では、この運動のお陰で、食事も美味しく睡眠も満ち足りている、だから、ワクチン接種も良いはずと、非科学的な仮説を持っているが、果たして結果はどうなのか。その結果は、今日でないと分からないが、かかりつけの医院に行って、なじみの看護婦さんに注射をしてもらった。表現はいかがとは思うが、何の不安もなく、まったく副反応もなく、普段と変わらない、むしろ休憩時間のような、居心地の良い時間だった。車で5分もかからない市内の医院なので、気が楽なのである。家内のほうが心配して、あれこれ言うが、聞き流している。それは、男と女の違いだから、と言うが、心配することに意味はない、と思っているので、いつもと同じように、お風呂で疲れを流し、美味しい夕食をいただき、好きな録画番組を見て、寝床に入った。ぐっすりと寝て、今朝起きたら、特に痛くもかゆくもなく、少し注射跡が硬い感じがする程度で、副反応は皆無である。1回目もそうであったが、テレビなどで報道する内容は、特別の症状ではないか。淡々と受け止め、心配しすぎないことであろう。ただ、今日だけはジョギングはしないが、アルコールの飲酒は問題ないようで、有難い。運動すると、アドレナリンとかドーパミンなどのホルモンが分泌されるので、それが精神的に良いと言われるが、何か実感する。前向きに物事を捉えることができるようで、ワクチン接種と言っても、ただの注射ではないか、騒ぐほどでもない、とか、翌日は、ゆっくりできる休養日なので、気が楽だと思えば、何の心配もない。どんなことでも、なるようになる。
梅雨の季節
昨日は、月曜日、週の始めなので、定例のオンライン会議がある。その他の仕事を済ませて、ジョギングをして夕方整体院に行った。朝から青空で、まるで夏のような日差しで、汗でびっしょりになる。昨日、走ったコースは、西方向で小川や畑が広がる光景で、NHKの小さな旅で紹介されるような、ラジオの昼の憩い、の音楽が聞こえるような、のどかな地帯なのである。走りながら、先の会議で、あれはこうしたほうがいいのではないか、こう言えば良かった、など後になって思い出すが、その時には、思いつかなったのだろう、脳のどこかに断片が残っているようだ。今の梅雨の季節には、アジサイと立葵を、家々の庭先に見かける。真っすぐ上に向かう立葵は、夏のヒマワリのような存在感があって、さすがは徳川家の葵の御紋か、と思わせる。アジサイは、どこか淡い存在で、遠慮がちに咲いているような印象があって、雨に降られる毎に、色がさらに薄くなっていく。今朝は、昨日と打って変わって、小雨が降っている。しとしと、の擬態語が似合う、梅雨そのものである。人は我がままで、雨が降ると、晴れるとジョギングがしやすい、と思い、晴れると、今年の梅雨はどうなのか、野菜は育つのか、と思う。会議も同じかもしれない、今日は良い内容だった、が、こうすれば良かった、と、いつも逆のことを後で思いだすようだ。梅雨の季節も、夏のような晴天もあり、大粒の雨が降る時もあり、小雨に煙る時もある。昨日は朝刊に歌壇のある日で、こんな句があった。立葵競い合いては雨を呼び(腰山正久)は、上に向かって伸びる立葵は、雨を呼びこむ姿である。空と海どちらの青も夏の青(服部芳郎)は、夏には青が良く似合い、まるで昨日の天気のようだ。梅雨が終わり、夏が来て、五輪も成功して、コロナも終息する日を待っている。
演歌を聞く
昨日は、日曜日、土日は同じ生活パターンで、午後は買い物や用事を済ませて、スポーツジムに行って健康維持に努めている。家内の用事で、車で西方向に行くと、車のラジオから音楽が流れてくる。聞き慣れた演歌であり、歌手と番組の司会者との会話が聞こえてくる、そうか、この時間は、高齢者向けなのか、今流行りの歌は、自分には合わない。古い時代の昭和の男には、演歌が似合う。演歌は、小さな酒場の片隅、幸せ薄い女性、どうにもならない運命など、相場が決まっていて、せつないメロディが、心の五線譜の旋律によく合う。成功物語とか天にも昇る喜びなどは、どうも演歌には馴染まないようで、別れとか寂しさなどが合うのは、どうしてだろう。誰でも幸せを求めているが、現実にはなかなかうまく行かない、また駄目だったか、など、誰でも、小さな苦悩を抱えて生きている。その気持ちを、演歌が代弁してくれるからだろうか、今の若い人たちは、どうだろうか、演歌などは見向きもしないだろうが、彼ら彼女らにも、古い人間と同じような苦悩もあるだろう、イヤホンにつないだ歌を聞いて、癒しを求めているのだろうか。若い頃の同僚や友達は、今はどうしているのか、コロナ禍で落ち込んでいないか、病気になっていないか、家族は元気か、それは、古い時代を生きてきたもの同士に分かち合える問いである。時代を生きるとは、その時の感じ方、価値観、倫理観など、すべてを身に付けることであり、新しい時代になっても、なかなかそこから抜け出すことはできない。時に古いと感じながらも、同窓会などでは、演歌を歌う世代だから、若い世代とは違う。つまり、世代間の異文化とも言えるわけで、その意味では、飛躍するが、介護問題、嫁姑問題、企業の上下関係など、すべてギャップがあって当然なのであろう。演歌も良し、新しい歌も、また受け入れる自分でありたい。
無意識な記憶
昨日は土曜日、と言っても平日と変わらないが、午前中は書斎で仕事をして、午後は家内と食事と買い物、と言っても、ここ一番カレーと100均だが、定番のコースになっている。その後、土日なのでスポーツジムに行った。6月は、理事会などの役員会や教員研修の講演などがあって、忙しい時期で、7月に入れば、時間的な余裕が出てくる。だから来週までは何かと忙しいが、在宅勤務なので時間的な余裕があるので、講演などは、これまでよりも丁寧な準備をするようになった。スポーツジムでランニングをすると、講演の内容が浮かんでくる、すると、ふと思いつく、が、たわいもない内容や言葉などが多い。シンポジウムで聞いた、なにげない一言、文献で読んだ、どこにでもあるような文章、夕食をする前のリラックスした時の家内との会話、公園での親子の会話、などである。何故だろう。それは、脳の深い部位に、沈殿しているような記憶の断片なのだが、それが浮上するのは、そこに意味があるからではないか、普段は気にもかけない言葉や文章だが、無意識に脳に閉まっているのは、何か理由があるだろう。講演内容のどこかが気に食わない、おかしい、と思っていて、海に釣り糸を垂れていて、そこに記憶の断片が寄ってくる、ような感じで、思い出すのである。ランニングしながら、ふと我に返ったような気がして、そうか、帰宅したら、資料を見てチェックしよう、と考えて、修正をしたら、喉のつかえがとれたような、歯間ブラシで障害物を取り除いたような気持になった。これで、良し、と言って、お風呂に入ったが、こんな経験は何度もある。無意識から意識に戻り、形になって現れるようで、嬉しくなって笑みがこぼれる、それは自分だけの小さな幸せな出来事なのである。
研究という仕事
昨日は金曜日、3つのオンライン会議があって、忙しかった、というか、話しっぱなしの1日だった。午前は、オンラインの録画機能を使った免許更新講習の録画で、数人と対談したのだが、内容が濃く、得ることが多かった。一昨日のシンポジウムでも、なるほど、と胸にスッと落ちるような内容があり、昨日も、さすが一流の科学者は深く考えている、と感じる発言があった。最後のオンライン会議は、5時半に終わる予定だったが、直感で伸びるな、と思ったので、お昼に、ジョギングをした。空は青く、風に吹かれて、気持ちのよい汗をかいたが、5時半が6時半まで伸びて、しかもその頃、小雨が降ってきたから、運が良かった。こうして1日が過ぎたが、振り返って見ると、自分は、他人から知恵をもらい、学び、それが仕事になっている。なんと贅沢な、と思う。世の中は、そのような人ばかりではないことは、知っている。コロナ禍で自粛する生活は、人を孤独にし、希望の光を奪っていくようだ。今週のテレビ番組で、加藤登紀子さんの俳句、やりくりも万策尽きて梅雨ごもり、を思い出した。句は、金策でやりくりをしているように読めるが、本心は、仕事ではないか、と思う。歌手は、大勢の人を前にして、舞台に立って歌うのが本業だとすれば、その場がなくなった、それは羽をもがれた鳥のようなもので、自宅に巣ごもりするしかない、という心境を歌ったとすれば、納得がいき、共感する。昨日の自分は、5時半が6時半終了になったのだから、朝から話しっぱなし、だった、ということは、幸せな1日だったのだ。それは、仕事という分類には入らない。研究者の端くれとしては、研究は、仕事を与えられるのではなく、仕事を作ることだと、思っている。話をするのも、聞くのも、すべて研究の材料、料理で言えば、食材である。まだまだ、美味しい料理を作りたい。
備えあれば憂いなし
昨日は、自分の所属する団体の総会・理事会・講演会とシンポジウム、と大一番の日だった。前日に原因不明のネットトラブルがあって、内心不安だったので、チェックをした。電柱からの光回線の引き込み線、ルータの電源、Wi-Fi の他に、直接のLANケーブルでの接続、スマホの5Gによるテザリングなどで、3つのパソコンを準備して、臨んだ。備えあれば憂いなし、とは、心が落ち着くことだ、と分かった。もう大丈夫、と思って、午前中は何も気にならず、自分の仕事に集中した。午後は、大勝負のようなもので、すべてのイベントに司会役として出たので、途中の10分程度の休憩の他は、12時過ぎから4時まで、釘付けになった。しかも、4時5分から、別団体の会議があるので、遅れることは許されない。スタッフが事前に作成した予定表には、分刻みで話し言葉が書いてある。この予定表に従って話すのは、自分は苦手だが、仕方がない、総会などはこの形式に基づくしかないのだ、と思って、議決をしていく。それに対してシンポジウムは、臨機応変で予定表はない、だから、そこにドラマが生まれる。時間の短いシンポジウムだが、講演との間の休憩を止めたので、始まりが5分早くなった、それで最初のプレゼンの後、1つの質問をした。これで、場が動く、4人のシンポジストのすべてに質問をした後、コメンテータが、優しくて鋭い、しかも誰も納得するようなコメントを投げる、それを受けて、と議論が続くと、視聴者からの質問が出てきて、という丁々発止が続いて、終わりの時間が5分だけ伸びて、終わった。劇場で言えば、役者がすべて良い演技をして、観客を魅了したのである。そうか、やはり、昨日のネットトラブルは、今日が成功するように、という天の声であったか、と確信した。事の前には小さな災いがある、と、昔らの言い伝えがある、準備を怠るな、備えをせよ、との意味を、しっかりと経験させてもらった。
ついていない1日
昨日は水曜日、3つのオンライン会議があって、やはり忙しかった。忙しいのは良いことだが、最後のオンライン会議の途中で、突然に画面が固まった。ネットが繋がらなくなったのだが、2階には中継器を通しているので、そこからの電波は受信しているが、インターネットにつながっていない。1階のルータをチェックして、電源を入れ直して、通常はこれで接続できるが、どうもつながらない、不安になって電柱からの光回線の自宅までの線を確認して、1階の回線の終端を見たが、これ以上はどうしようもない、と思ったら、つながった。1階のパソコンでチェックをしたのだが、オンライン会議での挨拶は済んでいたので、画面の向こうでは、何か用があって席を外したくらいしか思っていなかったようで、ホッとした。夕方、ジョギングをしたが、曇り空だが青空も見え隠れするほどで、東の公園に入って走っていると、ポツリと来た、が、まあ、たいしたことはないか、と思ったが、ポツリ、ポツリになったので、途中でUターンして帰り路を急いだが、小雨どころか大雨が降ってきた。これは梅雨ではない、夏の夕立だ、仕方がない、このまま、文字通りずぶ濡れになって走ろう、と決めたが、メガネだけは、時々拭かないと前が見えない。帰宅した時、ちょうど雨が止んだ、なんだったのか、この雨は、とぼやいたが、濡れた服やズボンは洗濯機へ、そしてそのままお風呂に入ったら、何か憑き物が落ちたような気持になった。そういえば、ネットの故障も、明日、つまり今日の重要なオンラインの前触れだと思えば、良かったのだ、夕立のような雨降りも、怪我をしたわけでもなく、何も問題はない。実は、今日の午後に大一番のオンラインイベントがある。たかをくくらず、しっかり準備しろ、という天の声かもしれない、と思って、実は、今日は朝からネットの点検や対応を、2重3重にしている。昨日は、ついていなかった、否、今日でないから、ついているのだ。
