メガネと五輪

昨日は日曜日、いろいろな用事が重なって、電車で出かけたり買い物をしたり、仕事ではなく、日常生活のあれこれで忙しかった。家内は新しいスマホのケース、どうも純正品でないと合わないらしい、自分はZoffで眼鏡を買った。パソコン画面を見る時間が長くなったせいか、涙が出る頻度が多く、パソコン用眼鏡が合わなくなったような気がして、ブルーカットで目を保護したいと思ったからである。注文して、受け取るまでの30分間、ちょうど昼時になったので、所沢駅近くのインドカレー店で、ナンとキーマカレーを食べた。コロナ禍以前は、好きでよく食べにきた。周りを見ると、まるで密の状態で、小さな子の親子連れ、若い女子会のようなグループ、見るからに食べ盛りでニキビ盛りの男子高校生の数人、笑い声がひときわ大きい若い女性たち、どうも言葉から東南アジア系のような気がするが、食事と話で盛り上がっている。老夫婦の自分たちまで、その世界に引きずられて、心が弾んで頬が緩む。そうか、人が集まることは、こんなに楽しいのか、人は、やはり人に元気をもらうのか、自粛、その大切さは分かる、だが、人が人によって生きる力をもらうことも、同じくらい大切だ。五輪の開催や観客数の問題で、もめている。要は、データに基づく科学なのか、総合的な判断に基づく政治なのか、のせめぎあいだが、批判を承知で言えば、自分は、科学ではなく政治に軍配を上げたい。凶と出るか吉と出るか、誰も分からない、が、数字だけで決定されるのは、それだけでコロナに負けているような気がするからだ。インドカレー店で見た、明るい人々の笑顔は、どんな事態になっても、乗り越えられそうな気がする。なお、正直に言えば、このブログは、日曜の夕方に書いたのだが、それは、新しいメガネを早く使いたかったからである。投稿は月曜だが、待つよりもやってみる方が好きだからでもある。だから科学的ではないが、五輪もやったほうが良い。

気付きの意味とは

昨日は土曜日だが、学会の研究会で、午後1時から4時半まで、オンラインで机にしがみついていた。文字通りパソコン画面に釘付けされ、休憩時間は10分も無かった。オンライン接続のトラブルも多少あったが、内容に惹き付けられた。研究報告は、デジタルに対応する授業研究と言ってよいが、いくつか気付きがあった。この気付きの言葉は、昨日の研究会でも頻繁に出てきたが、それは素晴らしいことで、1人1台端末、デジタル教科書など、新しいメディアが登場すると、新しい気付きが生まれる。否、メディアだけではない、世の中と自分との関わりが起きると、すべて気付きが生まれる。講演依頼があって、アーあれか、と既にある資料で十分だ、と思うと、気付きは生まれない。少し違う内容、それはテーマでも対象でも良く、特に苦手な内容であればさらに良いが、その違いが気になって、文献を調べたり、資料を見たりするようになる。ただ、そのような意識的な行動で得た情報だけはなく、無意識的にスッと入ってくる情報があって、それらが、不思議につながってきてストーリができる。昨日の内容も、そうだ、と手を叩きなるような気付きがあったが、他人から見れば、何を喜んでいるのだ、と思うだろう。講演のストーリ、論文の構成、原稿の流れなど、どれをとっても、始めに考えたことと違ってくることが多い、それでいいのだ、計画したことと同じだということは、その間に、新しい気付きがないからだ。考えてみれば、授業をする教師も、授業で学ぶ子供たちも、計画通りではなく、何が起きてくるかわからない、新しく生まれる瞬間瞬間に生きており、教師と子供との間に生まれる気付きを、自分の知的財産として蓄えているのではないか、それを学びと言うなら、真正の学びと言ってよいだろう。昨日は、発表者も自分も、そのような気付きの意味を共有したような気がした。

能力の低下とは

昨日も忙しく、1つの電話打ち合わせ、2つのオンライン会議、そして夕方、床屋に行った。自分は、スケジュールを手帳に書いているが、どうも予定通り行っていない、というのは、会議などは手帳で分かるが、そのためには下調べ、調査、準備などが必要だが、その予定は書いていないで、頭の中でなんとなく処理している。それが、どうも余裕がなくなって、数日後に原稿を送る、数日後に講演する、など、どうしても1週間は準備に時間が必要なのだが、その調整期間が、予定されていないようで、焦って処理することが、何回か起きている。ということは、スケジュール能力、あることをするには、その前にどの位の期間が必要か、を見積もる能力が低下したのか、と思うが、どうも見落としや勘違いなどもあるようだ。準備をしていても、別の用事が入ってくる、文献も読みたい、とか読まないと、話もできず原稿も書けない、となると、時間を見積もる能力が必要になるが、やはり低下しはじめたのか、と嘆く。どこか、寂しい気持ちになるのは、人情だろう。在宅勤務になって、秘書的な人が実質的にいなくなり、自分ですべて処理するようになるので、時間の使い方が異なってきた、と同時に、脳を使う部位も、多岐にわたってきたのかもしれない。得意なことだけでなく、苦手なことも、時には、小言のようなことも、言わなければならない。そして、自分の能力の低下を嘆くこともある。が、それでいいのかもしれない、人はいつまでもバラのように華やかに咲き続けるのではなく、アジサイのように淡く咲くのが今の自分の生き方で、それを認めることが、生きていく杖になる。小雨に煙るアジサイは現実の花というよりも残像ではないか、と、以前のブログで書いた。今は、そんな気がする。

ジョギングをしながら

昨日は3つのオンライン会議があって、忙しかった。3つ目のオンライン会議が終わったのが、午後5時を過ぎていたので、5時半からジョギングをして、頭を切り替えた。いつまでも会議の残像が残っているようだったので、運動の効果はある。昨日は、自宅近くを流れる小川の上流に向かう西方向だが、周りの風景が、心を癒してくれる。小さな公園の近くに神社と鳥居があり、その近くの小川で、時折釣りをしている人がいる、やがて、収穫を終えて今は何もない広い畑になっているが、少し前には麦が一面に咲いて見事な光景だった、その通りを過ぎる。その近くの小川には、春の小川の歌詞が書かれた立て看板があったほどだから、昭和の時代のような優しさは伝わるだろう。やがて大きな公園に出て、そこでは大勢の子供たちがサッカーやキャッチボールに興じている。どこにでも見られる風景だが、どこか嬉しい。帰り道では、家々にアジサイの花が咲いて、雨のしずくを抱えているが、自分の好きな花だ。我が家の小さな庭にも、かつて息子の嫁が送ってくれた薄紫のアジサイがきれいに咲いている。お前は、今幸せか、と走りながら問うてみる。うん、そうかもしれない、今のままでよい、と自答する。夕食はテレビを観ながらだが、昨日は俳句の番組で、梅雨の季節なので傘がお題で、ジェラシーを折ってたたんで白日傘(森口ようこ)が記憶に残った。女優という職業柄、競争は激しく、時に嫉妬もわくだろう、それを折りたたみ傘のように、折ってたたんでしまい込む、という心情は、誰でも経験している。昨日のオンラインは、企業からの相談事だったが、この世界も厳しく、勝った負けたのような世界で生きている。自分の今の心境は、若い頃とは違って、そこから少し離れているようで、赤や青の原色のバラではなく、薄ぼんやりとした淡いアジサイのようだ。若い頃、働き盛りの頃、それは激しくも、葛藤も、生きがいもある世界だが、そこから引いた後では、それとは違う世界が開けてきて、それもまた良き生き方でもある。

会議の良し悪し

昨日は、午前に原稿を書いて送り、午後は2つのオンライン会議があった。誰でも、ワクワクするような原稿や気楽な会議と、うーんと考え込むような原稿や気が重い会議があるだろう。原稿や会議だけでなく、講演も審査も、ジョギングすら、気が向く時と腰が重くなる時がある。土日はスポーツジムに行くようにしているが、その時でも、筋トレしよう、プールで泳ごう、と意気込む時もあれば、今日は止めたいと思う時がある。いろいろ経験してくると、意気込む時は結果が満足で、止めたい時は結果が不満足になる、という訳ではない、ことが分かってくる。始めと結果は、異なるのが通常らしい。計画と評価は異なるので、PDCAの仕組みができたのだろう。昨日の会議も同じで、ある会議は、始めはどこか気が重かったが、会議が始まると、主張すべきことは主張し、聞くことは聞き、すべて出し切ったので、参加して良かった。会議の始めでは、分からないのである。やってみて、その場に入ってみないと、誰も予測できない、それをあたかも劇のストーリのように決まっていると考えることが、誤りなのだろう。人は、往々にして、これまでの経験から、事前に推測しがちであるが、もちろん、事前に予測し、計画し、対応策を考えることが誤りではないが、実際には、その場になってみないと、状況によって、変わってしまう。zoomの会議だったので、自分の顔の表情が見える、ふと思った。尊敬する、大阪大学の故水越先生が、君の話は、赤堀節だね、と言われたことがあった。どうも、そのように言われていたらしい。昨日は、言いたいことがあって、思わず力が入っていたようだ。終わってみたら、心に爽やかな風が吹いたようで、どこか気持ちが華やいだ、なるほど、良き会議だった。

老いては

昨日は、午前に眼科に行って、検査をしてもらい、午後は2つのオンライン会議があった。眼科の検査は、都内から所沢市内へ変えた、それも、自宅から徒歩2分程度だから、便利この上ない。しかも、喜ぶべきか悲しむべきかわからないが、空いている。眼科の検査など、名医も何も関係なく、看護婦さんがするので、空いた医院で良いだろう。午後のオンラインは、研究打ち合わせで、どちらも若い研究者との対話で、自分は学ぶ立場である。老いては子に従え、の格言通り、若い人の活発な姿勢や研究方法に耳を傾けると楽しい。歳をとってくると、自分に固執するようになるが、場合によって、頑固になる人も多いようだが、そのようにはなりたくない。自分の父親は、母親と共に認知症になって、藤枝市から所沢市に連れてきて、同じ老人施設に入居した。家内は毎日通って、洗濯ものなどを持ってきていたが、自分も水曜日の朝だけ、施設に寄った。市内の早稲田大学キャンパスに講義に行く途中だからだ。認知症になった両親との会話が楽しい。俺も27歳になった、そろそろ身を固めるか、など、介護士も爆笑する。帰り際では、意識が正常になるのか、もう帰るのか、と言うので、いや、刺身と冷ややっこ、を買って、お昼を一緒に食べるから、と言うと、嬉しそうで顔が笑っている。小さな嘘をついて、自分は講義に行くのが、あの頃だった。自分も、遺伝なのか、父親の好きな、刺身と冷ややっこが、大好物で、思えば、好きな日本酒をもっと飲ませてやりたかった。あれは、アジサイの咲く今頃だったかもしれない。

地元で暮らす

昨日は月曜日、週始めなので、所属団体のオンライン会議があり、その後、市内の研究指定校を訪問して、講演をした。帰宅して、ジョギングをして夕食という1日だった。何というか、このような1日は有難いというか、自分の今の生活にぴったり合っている。コロナ禍以前は、土日を除いて、都心に通勤する毎日で、それが普通の生活だったが、一旦在宅勤務を経験すると、もはや元に戻れない。午前中はなるべく仕事を入れないで、自分のこと、原稿書き、データ分析、出版企画と原稿、専門文献調査、実践文献調査、論文査読、審査系の仕事など、で時間を費やす。少し作家気取りのような気分で、それが許されることが嬉しい。午後はオンラインが良いが、対面の仕事もある。研究指定校は市内なので、車で行って講演をした。都内に出かけるのではなく、市内で移動したい、と思うようになった自分に気が付いた。完全に所沢住民になったのだろうか、市内で仕事をする人よりも、都心に通う人の方が多いような気がするが、自分は、今のほうが心地よい。都心に通うのは、市内は仮住まいのような気持にさせるが、市内で仕事をするのは、もう地域住民であり、ここに骨を埋める、という気持ちになる。お墓も市内にあるし、教育委員会での委員会も、教育センターでの研修活動も、地元中学校の評議員も、もう市内の教育活動に、どっぷりと浸かっている。ここが終の棲家で、環境にも仕事にも感謝している。オンラインであれば、どこでも良い、自分の今はワーケーションである。

美味しい食事

昨日は日曜日、いつもと変わらない生活だが、どこか楽しい。スポーツジムに行ったが、運動をする効果は素晴らしく、夜はぐっすり寝れて、食事も美味しい。熱海温泉で買った、天城産のワサビがピリッと舌にきて、そのワサビ独特の辛さが美味しい。熱海から帰りの国道沿いの店で買った、小田原名産のかまぼこも上等の味で、かまぼこにワサビを挟んだ、板わさは、絶品の味で、昨日で食べ終わったが、お酒のつまみとしても、ご飯のおかずとしても、素晴らしい。かまぼこの板とワサビなので、板わさ、と言うと、家内が言うが、日本人の味覚は、繊細で、自然の味が生きているようだ。天城の浄蓮の滝あたりは、ワサビの産地で、冷たい水にひっそりと栽培されて、あの辛みが出てくるのだろう。天然ワサビは、チューブから出てくる練りワサビとは、横綱と幕下くらいの違いがある。朝食で食べる納豆も、美味しい、外国の人は、どう感じるのだろうか、納豆も自然食品で体に良いが、白菜やキュウリの漬物なども、もちろんタクワンも、大好物だ。朝は、青汁・ヨーグルト・ミルクなどを飲んでいるから、血液循環が良くなるのかもしれない。刺身や肉も美味しいし、時折、無性にラーメンが食べたくなる、キムチチャーハンは、中華店で食べると、あまりの美味しさに癖になってしまうので、封印している。こんなことを書くと、舌が湿ってくるので止めておくが、歳をとって、何でも美味しい、と思うようになった。ビールもワインもウイスキーも、飲むと1日の疲れが飛んでいく。食事は、生きる喜びでもある。

会議の過ごし方

昨日は、土曜日だったが、午後は5時までのぎゅうぎゅう詰めのオンライン審査だった。審査なので、内容は書かないが、充実した内容だった。充実とは、形式的ではなく、内容に意味があることだが、例年この6月は決算月なので、理事会などが多い。そのほとんどは、承認を得ることが目的になっているので、形式的なのである。審査系は、そこが違う、中身そのものを議論するので、面白いのである。面白くない形式的な会をどうしたら面白くなるか、この前、対面理事会で実験した。決算報告なのだが、通常の貸借対照表の説明で、しかも丁寧に1円単位まで説明するので、欠伸を殺すのに困るほどだが、待てよ、講義だと思って理解しようと思い直し、数値だけの表に下線やメモを入れたり、関係構造が分かるようにして聞いたら、何を強調したかったがよく分かった。オンラインでも聞くだけの場合は、退屈極まりないので、隣のパソコンで内職を、では芸がないので、この前は率先して、画面表示を手伝いましょう、と言って提示係を申し出た。担当者は、恐れ多いが大変助かります、と大喜びの表情をした。資料は事前に郵送してあるので、それを見ることになっているが、現実には忘れたり、下を向いているばかりだと、本当に眠くなってしまうから、画面提示は役立つ。そして、説明の言葉にしたがって、マウスの先で網掛けのようにして注目できるようにしたら、参加者から意見が飛び出すようになって、活発な理事会になった。聞き流すだけ、形式的に参加するだけ、では、詰まらない。何でもいいので、これから勉強しようと思うと、いろいろなことを教えてくれる。昨日のオンライン審査では、面白いアイデアを2つもらった。なるほど、さすが、と気付くことがあって、得した。

ワーケーション

昨日は、ブログを休んだ、正確には書く暇がなかった、というのは、熱海温泉に一泊していたからである。歳をとってきたら、温泉旅行に行こう、と家内と約束して、何度か果たしたが、コロナ禍の中、ほとんど1年間は行けなかったが、一昨日行けた。忙中閑あり、というか、忙中閑を作り、で、一昨日午前中は書斎で原稿を書いて送り、午後出かけても、車で3時間でホテルに着く。たまには良い、非日常で、温泉街を歩いたり、昨日の早朝は、朝風呂の後、文字通り熱海の海岸を散歩して、まるで夏休みのような観光気分であった。夕食は、地元の金目鯛の刺身やエビの天ぷらなど、生ビールのジョッキによく合う。天国のような一時を過ごして、昨日の朝にブログを書くつもりだったが、あいにくと朝8時から9時までオンラインの会議に参加したので、時間が無かった。9時半にホテルを出ると、午後は自宅で平日と同じような生活ができる。ワーケーションとは、ワークとバケーションを組み合わせた造語で、観光地やリゾート地でテレワークを活用し、働きながら休暇をとる過ごし方、と、 ウィキペディアが書いているが、どうも流行っているらしい。昨日は、ワーケーションかもしれないが、自分の感覚では、毎日が 小さなワーケーション と言っても良いだろう。仕事とリラックスやリゾートの組み合わせなら、書斎での仕事、公園を回るジョギングや、筋トレやプールなどスポーツジムでの運動、美味しい夕食にビールやワイン、熱海温泉でも、我が家のお風呂でも、お湯には変わりがない。そう思って、楽しく仕事をしたほうが良い。いつも温泉旅行でもパソコンを持っていくが、そこで仕事をすると、家内には不評である。せいぜいメールくらいで良い。ワーケーションは自宅で、バケーションは温泉旅行で、が、自分の仕事や生活の仕方である。