オリンピック

昨日は4連休の初日、オリンピックも競技が始まり、夜はサッカーの試合があった。高速道路も大渋滞のようで、例年のような光景になってきた。しかし、コロナ感染者数は、増える一方で、大会組織委員会の人事では、海外からのクレームで退任騒ぎがあり、日本全国35度などの猛暑日が続き、沖縄では、なかなか動かない台風で大雨と大風に叩かれ、自然も日本に味方してくれないようで、日本バッシングが続いている。こんな時もあるのか、オリンピックを心待ちにして、当選した切符を恨めしく思う人も多いだろう。ついてない、と思う人も多いだろうが、否、物事には、表と裏がある。昨日は、ほぼ毎月1回の散髪の日で、床屋で主人と世間話をしたが、無観客で良かった、かもしれない。この猛暑の中、直射日光を観客席で浴びたら、熱射病で倒れる人が続出するかもしれない、女子ソフトも男子サッカーも、選手たちは頑張っている、その光景を、エアコンの効いた涼しい自宅でテレビ観戦できるのは、贅沢な一時としか言いようがない。選手には、観客も目に入らないだろう、テレビカメラも関係ないだろう、それは、周りが気にすることだけだ、と思うと、オリンピックの見方も違ってくる。感染者数の増大は、残念ではあるが、重症者数や死亡数は少なく、海外に比べたら、桁が違うくらい低い数字である、日本は安全な国であることは、世界が認めていることである。組織委員会の人事の揉め事も、日本人だから素直に退任して事なきを得ているが、諸外国では、異議申し立てをして、さらに騒ぎが大きくなるだろう、日本人の潔さと美学が生きている、と思えば、そんなに深刻に悲観することではない。小さな庭だが、百日紅のピンクの花が咲いている、今年も忘れずに来たのか、夏の季節を華やかに飾っている。有難いではないか。

心弾む

昨日は、オンライン会議が2つあった。いづれも、講演やセミナーに関する打ち合わせだったから、心弾んだ。いくつになっても、自分が何かにお役に立てると思うと、少年のように、嬉しくて、顔の表情まで違ってくる。というのは、家内が、そう言うからである。コロナの関係で、家族には会っていないが、幼い孫たちは、何か嬉しいことがあると、全身で喜びを表現する。世界で一番好きなママといるだけで、これ以上の幸せはないような、満ち足りた顔をする。子供は、すべてを現わす、つまり外化するが、大人になると内に込める、つまり内化する、顔で笑って心で泣いて、という世界になるから複雑だが、大人であっても、好きなことは素直に喜べばよい。テレビで見るタレントは、どんな仕事でも、どんな役でも、必ず引き受けると聞いた。それは、競争相手が多く、いつ仕事が来なくなるか、明日が見えない世界だから、と言うが、それは、私たちでも同じかもしれない。いつ仕事が無くなるかもしれない、いつお呼びが来なくなるかもしれない、一寸先は分からない、と思えば、タレントと同じように、緊張感をもって仕事をし、絶えず先端研究を勉強し、という気持ちになるだろう。池上彰さんは、超多忙の中、いつ勉強するのだろう、と感心するが、たぶん、信じられないような努力を重ねているだろう、と、それほど勤勉でない自分は、自省している。ただ、人は、その立場に立つと、誰でも、猛烈に頑張っています、と言わなくても、自然に努力をし、脳が研ぎ澄まされるような気がする。自分がまだお役に立てる、と思うだけで、人は、自然に活力が出てくる。梅雨明けから、連日猛暑が続いているが、その暑ささえも、心地よく感じるのは、少年のように、今は夏休みだ、好きなことができて嬉しい、と思うことと同じである。今日も朝から上天気である。

自分を見る

昨日は、2つのオンライン会議があって、午前は予定していたが、午後は急に決めたが、仕事らしい仕事をした。この表現はわかりにくいが、研究は仕事ではなく、趣味とか好きなことをやっているだけ、という意識が強いので、こんな書き方をしている。多くの仕事は、人と人が協力しながら、助け合いながら、織りなす創作作品のようなものだから、その模様の美しさは、どの程度、お互いが内容や気持ちを共有しているかに、係っている。しかし、人の世は、なかなか難しく、ちょっとした気持ちのずれが、模様を歪にする。その時、たいていの人は、自分も含めて、相手のせいにし、相手の責任にすることが多く、それが、人間関係を複雑にして、出来あがりの組み紐の模様が、ゆがんでしまう。昨日、ふと思った、そうか、これは、他人事だと思っていたが、自分のことかもしれない、自分の本業は研究であって、その他の仕事は雑用に過ぎない、という長年の思い込みが、間違いだった、それは、職人芸を磨くのは、良いかもしれないが、1人だけで作品を作るなら許されるかもしれないが、団体や組織で事業を遂行し運営する場合は、それでは、傍観者であり責任放棄ではないか、と思って、考え直した。すると、少しづつ見えてくる、それは自分の姿であり、相手の言葉であり、受け止め方であり、世界の見え方である。教育工学の研究に、教師の見え、の研究分野がある、ベテランと初心者では、子供の見え方が、まったく異なる。初心者は、表面だけ見る、あるいは、ほとんど見えていない、ベテランは、深く見る、凝視する、本質を捉える、それをベースにして言葉掛けをする、と言うが、その通りである。自分は、自分の姿さえも見えていなかった、と自省したら、アイデアが浮かんできて、早速行動した。人は、誰でも欠点がある、そして、それは自分では、なかなか見えない、しかし見えたら、直ぐに対応すれば良いのだ、だから、人は救われるし、前向きになれる。会議が終わったら、口笛を吹きたくなった。

会議での調整

昨日は、手帳には赤字の海の日だったが、今年は平日で、週の後半から祝日になる。久しぶりに事務所に行き、いろいろな用事が重なり、忙しい1日だった。午前中に事務所で事前打ち合わせ、午後にオンラインの事務局会議、その後文科省に行って打ち合わせ、神田神保町に行って打ち合わせ、と1日中、都内を駆け巡った。35度にも達するかという猛暑の中、スタッフとの移動は、タクシーだった。車の中は、冷房が効いているか、窓が開いていて、気が休まる。文科省との打ち合わせも、事務局会議も、すべては人との会話であり、議論であり、難しい内容ではなく、教育の話である。教育は、すべて、子供をどう幸せにするか、という目標だから、その軸はぶれてはいけない。企業は、どう営業成績を上げるか、という目標だとしたら、軸が違うので、意見がすれ違うだろう。それでも、打ち合わせをすると、立場によって、微妙にずれる、始めの軸の方向が5度違っても、先に行けば、かなり距離が離れる。それを意識して、絶えず原点の軸に戻りつつ、議論しなければならないが、時折、自分を振り返って、思い違いはないか、軸はぶれていないか、など、自問しながら、打ち合わせをする。会議とは、結局、自分も他も、それぞれの考えの軸を修正しながら、歩み寄り、共通の軸を探すことかもしれない。団体の代表としての自分の立場は、それぞれの考えが釣り竿だとしたら、しなやかに曲がって、共通軸に束ねる役目である。人に求められるのは、曲がっても決して折れないで、柔軟な弾力のある考え方であろう。折れるのは、文字通り心が折れたり、怒りになったり、絶交になったり、ろくなことにならない。自分も含めて、弾力性のある良い釣り竿になりたい。

気付きメモ

昨日は日曜日、いつもの通りだが、午後はスポーツジムに行って、帰宅してシャワーを浴びると、1日が終わったような気がするが、夕方は書斎に入ることが多くなった。これまでは、お風呂上りと夕食の間は、ぽっかり空いた時間で、居間で小説などを読むのを楽しみにしていたが、スポーツジムやジョギングをすると、仕事や研究上のことで思いつくことが多いので、どうしてもそれを確かめたくなり、パソコンの前に座るからである。思いつくとか、気付くとか、それは新しいアイデアの場合もあるし、自分の勘違いの場合もある。おかしいな、どうして返信が来ないのか、などと考える時は、たいてい自分の勘違いのことが多い。昨日も、メールを見落としていた、それに気が付いた時は、ほっとした、そうか、自分の責任なのか、これからは気を付けよう、と思ったのだが、自分のことは、なかなか見えないものである。気付き、それは素晴らしいことで、多くの科学の発見などは、それがヒントになって、自然が見えてくると言うが、凡人には、自分の姿のことである。自分が、勘違いしていないか、見落としていないかと、まず自分の姿を確かめると、大事に至らないで済む。昨日は、その経験をして、今後はそのようなことがないように、いろいろ工夫をした。講演なども、準備期間を予定に入れるように、以前の内容と重複がないように、などを考えると、頭で記憶する、手帳に書くだけは、不十分で、外部記憶が必要になる。気付きメモとか、講演メモとか、文献の優れた考察とか、実践からのメッセージとか、やはりパソコンに保存していかないと、引き出すことができない。昨日の夕方は、そんなデジタルメモを作っていたら、直ぐに夕食になった。

予定外のこと

昨日は土曜日、朝から良く晴れている、梅雨が明けたからだろう。朝ふと実験のことが気になって、共同研究者にメールを出した、直ぐに返信が届いて、数時間後に、オンライン打ち合わせをした。仕事のことや研究のこと、気になることは、誰でもあるだろう。今の世の中は、スマホでもパソコンでもネットにつながっていれば、直ぐに連絡ができる、調べられる、チェックできる、これは素晴らしいことである。just in learinigと本に書かれていたが、その通りである。霧が晴れるように、梅雨明けの晴天のように、実験することが楽しみになった。午後は、家内と市街に用事があって電車で出かけて、街を歩くと、その暑さは尋常ではなく、家内の日傘のお裾分けをもらって歩いたが、どうも歩きにくい。持っていた扇子でささやかな日陰を作って、抵抗したくらいである。帰宅して一息ついたら、今日は土曜だからスポーツジムに行く日だったが、行く気がしなかった。お日様が少し西に傾く頃、庭の緑がきれいに見えたので、予定を変えて、東の公園にジョギングに行った。灼熱と思っていたら、風が爽やかで、暑さも吹き飛んでいき、公園の緑が深く、太陽を浴びて背伸びをしているようで、帰宅した時は、満足感があった。家内が、今日は外出したので、お風呂を沸かす時間が無かったので、シャワーでよろしく、と言われ、シャワーを浴びたら、汗がきれいに流されて、文字通り、身も心もさっぱりした。思えば、昨日は、すべて予定外のことばかりで、手帳に書いていないことで、日が過ぎた。予定は、その時の事情や、気付きによって、変わる、変わることは、生きている証拠なのである。

研究と仕事

昨日は、仕事の事でいろいろあったが、仕事とはこのようなものだろう。行き違いや考え方のすれ違いや、それぞれの顔が違うように、違うのが当たり前なので、難しいのである。所属する団体は、企画や事業の進捗状況は順調なので、平穏無事かというと、徐々に、いろいろな課題が出てくる、それが仕事の性格なのかもしれない。うーん、と頭をひねる、実質的にはスタッフが仕事を遂行するが、一応形式的には代表なので、自分の立場で眺めると、いろいろな問題が目に入ってくる。ブログでは内容は書けないが、どこにでもある困りごとで、問題は、これに、どう対応するか、である。菅総理などは、コロナへの対応、五輪の開催、秋の総選挙など、一般人が見ていても、同情したくなるほど、問題が山積して、すべてうまくいくとは到底思えないが、放り出すことはできない。外野は、五輪を止めてしまえ、能力がないからだ、と言いたいことを言えるが、当事者は、成し遂げなければならない、そこが、大きな違いである。だが、その対応を、どう捉えるかである。新聞で、面白い記事を読んだ、映画だが、日本のプロ野球監督は、野球は遊びじゃない、仕事だ、と言って、選手を叱咤激励する。それを聞いたアメリカの選手は、子供の頃、仕事と思って野球をしたか、と反論する。深刻に考えるのか、楽しく考えるのか、の違いが面白い。この記事を読んで、その通りで、研究などは、あれは趣味であって、研究で悩むとか、難しいとか、それは素人だと、自分もよく言っていた。研究以外の仕事も同じで、どんなことにも、面白いことがある、ワクワクすることがある、同じするなら、深刻な顔ではなく、笑顔で引き受けたい、すると、良いアイデアが浮かんでくる。それは、研究とまったく同じである。

免許更新講習

昨日は、オンライン採点をした。ある団体が主催する免許更新講習をオンラインで実施しているが、その受講生の試験をオンライン採点するのである。多肢選択問題は、自動採点できるが、記述式問題は、人間の手で、出題者の意図に添って、採点しなければならないので、オンライン採点になる。毎週木曜日に採点することになっているので、手帳に予定が書かれていて、授業時間割のように、実行している。新聞報道では、この免許更新講習の評判が悪く、実践に役立たない、教育委員会と同じような内容だ、授業や生徒指導に忙殺されて時間が生み出せない、など、教員からの苦情が多いので、廃止の方向を検討していると、言う。そうかもしれない、自分が受講生の立場だとしたら、同じような不満を言ったかもしれない。私立大学教育学部に勤めていた時は、当然ながら対面で講習を行っていた。夏休みの時期だったと思うが、300人くらい入れる大教室で、250名くらいの先生方を前にして、100分だと思うが、毎年講義をしていた。講義の後直ぐに、試験を実施するが、感想を書いてくる先生もいる。日頃教える立場から、受ける立場になることで、自分を知るチャンスになる。自分で言うのも気が引けるが、大学では最も評判が高かった、ので、この講習会は楽しみでもあった。自分は、高校の経験はあっても、小中学校の経験がない、それが劣等感で、その思いが、先生方を尊敬しながら講義していたようで、それが相手に伝わっていたような気がする。知識を知らない学生に講義するのだ、と同じ気持ちだったら、受講生から、しっぺ返しを受けるであろう。講習の在り方は、難しい。

二つの会議

昨日は2つのオンライン会議があったが、1つは専門的でかなり重い審査系の会議、他方は自分の専門の会議で、自分で仕切るので、比較的軽い会議である。専門的な会議、特に自分の専門外の会議で、審査系だと、事前の準備も必要で、何回か分厚い資料を読んだ。この場合は、紙に印刷して下線を引いたりメモしたりすると効果的で、プレゼンを聞きながら、書き込みをした。専門分野以外では、何を質問していいかわからない、ことを経験した。知識がバラバラなので、いかにも素人の質問になるが、専門分野であれば、よく見えるので、メタレベルで質問ができる。他分野の質問内容を聞くと、同じようにメタレベルの質問をして、本質的である。つまり専門家とは、常に本質とか中心とかを意識していることを、改めて認識した。3時間の長時間で、しかも休憩はなく、トイレなどは、自由に行ってほしい、というコーディネータの言葉に、いかにも技術的で専門家集団の文化を感じる。他方、夕方の気持ちが軽い会議は、面白く、楽しく、和気あいあい、の言葉がぴったり合う会議だった。研究企画のような内容で、審査系でないこともあるが、メンバーが気心の知れた研究仲間だったこともある。こうして、昨日は、終わったが、ふと思う、どちらが、良い会議なのだろうか。他の専門家がいる会議では、多少緊張もし、自分が謙虚になれる、そうか、彼もこんな良いところもあるじゃないか、と、他人の良さが見えるようになる。仲間内の会議では、そんなことはなく、お山の大将とか井の中の蛙のような意識になる。井戸端会議のような雰囲気になれば、そこにいない他人の良くない点が見えてくる。なるほど、人の美点が見える時、人の欠点が見える時、がある。それが、人間関係を難しくしているのかもしれない。だから、自分はもう駄目だ、と落ち込むことも良いではないか、まだまだ大丈夫だと自信を持つことも、もちろん良い、とすれば、世に中はよくできている。

長い会議

昨日は火曜日、久し振りに対面の会議があった。対面の会議は、教育関係の会議が多い。何故か分からないが、教育は、元々対面で、子供の顔を見て、という原則が生きているからかもしれない。教育委員会宛ての連絡では、メールは難しく、電話かFAXである。教育委員会では、アンケートやチラシなど情報が過多で、とても対処しきれない、ことが本音だろう。それと、文科省を始め、役所の中にあるので、官の世界である、つまり、何かの意思決定では、責任上、上司の許可が必要で、勝手に決められない。もしメールの返信で、自分の意見を書いたら、文字なので証拠が残る。役所という所は、江戸の昔から、武士の世界がまだ生きているようで、自分のような人間には、肩が凝る。昨日の会議の内容は、ブログでは書けないが、会議の時間が、3時間半という、超時間である。長時間を超えているで、途中で、もう少し時間を考えたらどうか、と発言しそうになった。会議の雰囲気では、言えそうもなく、言葉を飲み込んだ。自分の世界、特に研究の会議では、上下は関係なく、いつも、自分の意見を言う、それもなるべく新規性のある意見、つまり他とは違う意見のほうが価値が高いので、教育委員会の会議とは、文化がまったく異なる。この会議は、我慢大会か、と苦々しく思っていたが、ふと待てよ、と考えた。武士とは我慢の代名詞のような印象があるが、武士の優れている点は、潔さであろう。それならば、よし、じっと聞いてみよう、それも内容が複雑だから、書類に関係図を書いて可視化して、背景となる枠組みを考えていたら、かなり深く理解できた。終わってから、不満が残らないで、今日は良い勉強をした、と思った。決意すること、それは、事を逆転することなのだ。