昨日は月曜日、週始めなので定例の事務局会議があるが、3ヵ月に1度の歯科医院に行く日だった。久しぶりの都内で、自宅から徒歩6分の西所沢駅から急行電車に乗った。いつもは混む急行だが、所沢駅より1つ手前の駅なので、この時刻だとゆっくり座れる。昨日のブログで書いたように、所沢駅界隈は、まるで都心並みの賑やかさと、マンションや洒落た専門店やレストランで、ここは原宿か新宿かと見紛うほどである。巷の噂では、駅前の建設中のマンションなどは、億ションだと言われ、すでに予約で売却済だというから、世の中は分からない。しかし、通勤するには不便だろう、所沢駅からの乗客が圧倒的に多いので、座れる確率は低いのである。1つ手前の駅ならば、ゆったりと座って、乗車の様子を見ることができる。仕事や生活の仕方も、似たような所があって、便利なことは、別の角度から見ると、それが不便になる。ともかく、電車で都内に出かけ、電車の中で、仕事上の審査系の書類を読んだ。歯科医院も事務所も、溜池山王駅で降るのだが、この駅が好きで、アメリカ大使館、超高層ビル、高級ホテル、洒落たレストランなどが、周辺にある。歯科医院では、歯の治療というより歯の掃除なので、機械で歯をきれいに磨くだけである。超高層の森ビルの近くだが、そこからアメリカ大使館辺りを通ると、緑の木々と人工的な小川が流れている散歩道があって、そこを歩くのが好きである。ベンチがあるので、若い人たちが弁当やサンドイッチなどで、昼食を取っている。自分は、そこを通り抜け、庶民的な店の、なか卯で、ざるうどんを食べて、事務所に行って、午後1時からの会議に参加した。住まいのある西所沢駅、休日に行く所沢駅、事務所のある溜池山王駅、どれも好きな駅である。駅にも、それぞれの顔があって、周辺にも、それぞれの個性がある。自分の今の生活は、たまに都内に出かけるので、それぞれの駅の良い面だけを見ているような気がする。毎日通勤だと、その良さが見えず、ストレスになるのは、人の世と同じだろう。
大雨の日
昨日は日曜日、いつもながら休日の過ごし方がある。午前中は書斎で机に向かい、午後は、お中元の返礼の買い物をするので、駅前に歩いていった。25分かかるが、健康に良いので、老夫婦は、なるべく徒歩で出かけるようにしている。久しぶりに、駅近くのスパゲティー店で昼食をとったが、渡り蟹パスタが好きで、コロナ禍以前は、この店によく来た。窓際の席がお気に入りで、2階から眺める光景が、どこかヨーロッパを思わせる。食後のコーヒ―も、ゆったりとした気持ちに寄り添って、その香りが楽しめる。駅は、全体がきらびやかな商業施設になって、老いも若きも、休日を楽しんでいる。昔と変わらない密な空間で、自粛とは言え、庶民はそれなりに楽しむ術を知っている。家内との買い物を済ませて、自分は、駅と自宅を結ぶ道路に面しているスポーツジムに行って、帰宅した。ジムを出たとき、空は曇り空だったが、1分も経たない内に、猛烈な大粒の雨が降ってきた。食事をしている時、買い物をしている時、積乱雲が覆っているが、空は青く真夏の天気だったが、一転して、大雨が地面を叩きつけ、大音響の雷が鳴っている。傘は持っているが、帰宅途中の市民図書館の広場の屋根の下で、雨宿りをした。小さな男の子が、この土砂降りが嬉しいのか、雨の中ではしゃいでいる。小さい時は、何でも嬉しいのだ、と思いながら、帰宅した。昨日は、猛暑の夏の時間と、雷のとどろきと猛烈な土砂降りの時間、の両方を体験したが、どれも良いだろう。毎日を平穏で無事に過ごすことは、そうありたいと願っても、無理なことで、食後のコーヒーを楽しむような平穏無事な日もあり、稲妻の光を伴った大雨に打たれて避難する緊急の日もある、そんな生活が、自然なのであろう。
夏のような日
昨日は土曜日、午前にオンライン会議があって、午後はスポーツジムに行った。プールで泳いで、2階の屋外にジャグジーがあって、そこに椅子が置いてある。足をコンクリート台に投げ出し、椅子に座って、街や空を見ていると、いつもながら、リゾートに行ったような気持がして、楽しい。それでも、まったく考えることがないわけではなく、いろいろな事が浮かんでくる。多くは、仕事の事や研究の事などで、私的なことは、ほとんどない。それは、平穏だから、とも言えるが、自分は、身の回りや家族や子供や孫のこと近所のこと、健康や金銭的なことなどは、頭が回らず、あまり興味がないからかもしれない。ボーとしながら、空を眺めていると、昔のことや、いろいろなことが浮かんでくると、すぐに時間が経ってしまう。昨日の空は、夏真っ盛りで、梅雨の合間だが、30度を超すかもと思える気温で、気持ちは、石垣島かバリ島に行ったようだ。街を眺めていると、マンションのベランダに、洗濯物が干してある。新聞に載っていた、干してあるシャツの白さよ夏きたる(高科謙称)を思い出した。投稿者の名前は、自宅に帰って切り抜きで調べたが、そんな光景である。海外旅行など、今は死語に近い。スポーツジムからの帰り道、あまりの暑さに、自宅近所のスーパーに寄って、アイスキャンディを買った。ガリガリ君という、棒にアイス氷が付いているだけの素朴な形だが、自宅に帰って、食べようとしたら、家内も食べたいと言って、老夫婦の2人で、今年初めてのアイスを食べた。ふと、夏が来れば思い出す、の歌が浮かんできた。夏は、どこか昔の子供の頃に戻るようだ。
毎日の生活
昨日はオンライン会議が1つ、ジョギングをして、夕方に整体院に行って、という生活だった。すべて手帳に書いている予定通りで、生活が時間ときちんと連携しながら進んでいるので、快適である。その間は、原稿を書いたり、今は論文の修正をしたり、書類の作成などをしているが、自分は今の生活スタイルが気に入っている。自分のやりたい仕事、講演資料の作成とか、気になる文献の調査とか、データの分析などは、すぐに時間が経って、ずっとやっていたいのは人情だが、そこが重要で、手帳の予定表が、それを許さない。今日は、走るのを止めておこうか、などと思うことは多いが、長年の経験では、予定に従って行動する方が、結果的に良い。突発的な出来事には、予定を変えて対応しなければならないが、それ以外では、なるべく予定通りに行動している。手帳は、自分の授業時間割だと、思っているからである。そして、小さな変化も起きる。昨日は、透明のビニール傘が壊れたので、ゴミ箱に捨てて、近所のスーパーに買いに行った。透明ではなく青色のビニール傘にしたが、何故か嬉しい。整体院に行く時、傘を持って行ったら、途中で雨が降ってきて、ワクワクした。着いて、傘を振ったら、青色のビニールが、雨粒をはじいて飛ばし、青春真っただ中の若者のように思えた。子供から、父の日には遅いが、黒牛のステーキの贈り物が届いて、夕食で食べたら、柔らかく、舌触りが良く、極上だった。何気ないことだが、歳をとっていくと、子供の気持ちに戻るのだろうか。気に入った傘をニコニコしながらさしている、美味しいステーキに幸せを感じる、時間割に従って規則正しく生活をし、その間に、小さな喜びが舞い込み、時には、苦しい思いもしながら、毎日を過ごしているのは、幼稚園か小学校に通う子供のような生活かもしれない。自分には、上等の生活である。
自分を変える
昨日はオンライン会議もあったが、特に記述するほどの印象は無く、淡々と進んだ。その間、いろいろな仕事が入ってくる。締め切りがあるので、手帳とToDoリストにメモして、忘れないように処理している。例えば、昨日原稿を書いた、自分では、この短時間によく書けたと思った、そこが落とし穴で、何度も経験しているので、紙に印刷して読み直すが、それでも見落としがあり、これで完璧と思ったら、今朝の寝床で修正を思い出したから、人の思い込みは根深い。論文などもその通りで、これで完璧だと思って投稿するが、条件付きの査読結果を受けとり、その意見に従って修正をするが、これは、人生の修行かもしれない、と思うことがある。考え方の違いであるが、自分を納得させるために時間がかかる、そして、じっくり考えて、査読者はこのように考えているのか、このように捉えているのか、と相手の土俵の中で考えないと、自分の世界だけでは納得できない。査読者が基本的に勘違いしている場合は、きちんと説明するが、それ以外は、すべて受け入れると、自分に言い聞かせている。それでいいのだ。人は、それぞれ違う。違う見方や考え方があること、それは、相手の土俵に自分の足を入れないと、分からない。先般読んだ専門書に、自分のことは分からない、自分で自分を見ることはできない、鏡か写真かビデオか、他を通してしか見ることはできない、と書かれていたが、ということは、ほとんどが思い込みなのだ。自分の思い込みを、鏡やカメラや他人を通して見ると、こう見えるのだ、と見させてくれる、と思えば、自分で直すしかない。論文の査読とは、自分を見る鏡かもしれない。自分では綺麗な服で着飾ったように思っているが、他人から見ると、薄汚れた服で、醜い姿に映っているかもしれない。自分で、自分を変えるしか方法はない。昨日の夕方、菅総理の記者会見の様子を、テレビで見た。今、苦渋の選択をしていて、総理という立場上、自分の考えも修正しながら、仕事をしているのだろう。立場は違うが、よく分かる。
研究と事業の違い
昨日は7月7日七夕だが、昨今のニュースを聞くと、そんな優雅な気持ちとは程遠い。午前中のオンライン会議は、戦略的な会議で、これは面白い。自分の研究スタイルは、自分の興味関心だけで計画するので、個人研究が多いが、団体などの企画は、当然ながら組織的な事業運営になる。組織的な運営では、多くの人が参画するので、それぞれの人の持ち味や専門性を生かしながら、全体でまとめていく方法論になる。個人研究の場合は、すべて自分の考えや方針に基づくので、深く掘り下げていく方法論になる。広くまとめ上げるのか、深く掘り下げるのか、の違いだが、世の中では、まとめ上げていくほうが、影響力は大きいだろう。個人研究は、職人の世界と似ている。技を磨くのだが、なかなか目標に到達できないので、終生をかけて追及することになり、たぶん年齢も関係なく、個人研究ができる小さな部屋さえあれば、いつまでも持続できるだろう。伝統工芸や伝統芸術のような技などは、その深さは計り知れない、作家や美術家や音楽家なども同じで、高名な芸術家は、高齢になっても意気軒昂に作品を作っている。たぶん、利益などは眼中になく、奥深く追及しているので、自分との闘いである。一方、組織の活動は、広く人々を巻き込むので、調整能力、方向性、困難に出会ってもなんとか乗り越える力、など幅広い能力が求められる。政治家や企業の経営者などを見ると、違いがよく分かる。昨日は、規模は小さいながら、その両方の仕事をした。組織が行う事業も、ワクワクするような魅力があり、個人の研究も、また心惹かれる。人は、このように柔軟にできているようで、自分は、こうだ、とは決められないのではないか。だから、仕事は何でも面白いのだ。
多様な仕事
昨日は午前に都内の大学病院に行って、血液検査と診断を受けた。3ヵ月に1回の経過観察だそうだが、何も問題はなく、次回は半年後になった。今の大学病院は、設備が最新鋭で、血液検査を受けて30分後には、その結果を元に医師の診断を受けられる。午後は、市内の教育センターで、今年から始まる新しい研究指定校の運営委員会で、もう10年になった。永く関わらせていただき、歴代教育長も何人にもなった。年々歳々人同じからず、の例え通り、教育委員会の担当者は変わっていくが、自分は、年々歳々花相似たり、のように同じ席についている。帰宅して、メールをチェックすると、いろいろな仕事が舞い込んでくる。6月は理事会シーズンなので、忙しいのは理解しているが、7月は時間的な余裕ができる、と思っていたが、どうもそうでもないようだ。原稿、審査、実験など、締め切りが近いので、手帳にきちんと書いておかないと、迷惑をかけてしまう。その間に、出版の準備、資料作成、文献の調査、研究の準備など、自主的な活動がある。昔は、これらの研究に関する仕事と学生指導が重要で、その他のことは雑用と呼んでいたが、今は違う。すべてが重要で、そのことは、内心では、昔も今も同じである。昨日読んだ文献でも、頭が切れる優秀な人だから、仕事ができる、のではなく、仕事が多く、しかも、雑用のような多様な仕事があるから、頭が切れるようになる、という趣旨の研究が書かれていた。頭が切れるとは、脳が素早く、しかも的確に処理できるので、ボケない、ことに繋がる。ということは、高齢者になったから、ボケるのはなく、仕事や活動がなくなったり、しなくなるから、ボケる、ことになる。今の自分は、この意味で、ただ感謝するしかない。研究以外の仕事、コロナ禍での在宅、ワクチン接種、所属団体の仕事、家庭での諸々の仕事、庭の雑草刈、買い物など、すべて雑多な用事で毎日が満たされているが、それで良いのだ、だから人は存在できる、とは、ガーゲンの本を読んだからだが、識者には、拡大解釈だろう、と言われるだろうが、人は他との関係の中で、生きる、という考えに同感している。
紙とデジタル
昨日は月曜日、週の始めで、定例の会議、申請書の会議、研究打ち合わせの3つのオンラインがあった、いづれも大切な会議である。月曜日は新聞の歌壇の曜日なので、朝食の後で、読むのが習慣になっているが、時折気に入った句があると、切り抜いている。コロナ禍以前から長い間続いているので、小さな紙であっても、書斎の机の引き出しの中に貯めているが、かなり膨らんでいる。昨日、切り抜こうと思って、ふと思った。面倒だと、誰でもそんな思いをすることがあるだろう、それでスマホで写真を撮って保存した。ただ、何が気に入ったのか、今は思い出せない、なるほど、ハサミで切り抜きながら保存すると、手間はかかるが、どこか記憶に残りやすいのかもしれない。午前中は自分の時間で、いろいろな文献調査などもしているが、どうしても読みたい本が出てきた。専門書であるが、amazonで検索すると、あった。人は不思議な動物で、すぐに読みたい、数日待て、と言われても、幼児の我がままと同じで、親の言うことを聞かない駄々っ子のようになる。見ると、電子版があった、これだ、と思って注文すると、即座に手元に届いた。他の仕事を横に置いて、夢中になって読んだ、どうしても確かめたかったことが、整然と書かれている。満足するとは、このようなことか、と思うような至福の時だった。確かに、デジタルは有難い、人の願いを即時に叶えてくれる、が、同時に、我慢できない人を生み出すのかもしれない。自分は、かつての著書で、これを待てない症候群と呼んで、情報モラルの課題として書いたことがある。現代は、紙の新聞もスマホで写真を撮るのも、紙の本も電子本も、両方を活用することが、時と場合に応じて、必要だろう。ちなみに、自分が気に入った句は、新聞の折り目柔らか梅雨に入り(杉山太郎)である。湿度が高くなる季節は、紙も湿気を吸って柔らかになるのだろうか、昨日の雨模様の天気にピッタリの句だった。
世の中の苦しみ
昨日は日曜日、平穏な1日だったが、梅雨空で雨が降っている。熱海市などでは被害が出ているようで、先般、熱海温泉に行った時、坂道が多く平地が少ないので、地震や大雨の時は、山崩れなどが怖いと感じていたが、現実になった。大雨の被害、コロナ感染者数、ワクチン接種、五輪の開催、都議会選挙など、世の中は常に動いている。もう7月に入って、1年の折り返し地点まで来た。スポーツジムから帰り、夕食前の空いた時間に、家内と世間話をした。世の中では、様々な出来事があり、人それぞれの生き方があり、家族の幸せを求めているが、現実は厳しく苦闘している、というような世間話である。きっかけは、スポーツジムのランニングマシーンで走りながら見たテレビのドキュメンタリーであった。詳細は書くスペースもないが、タレントを目指す娘と父親の葛藤で、見ている方が苦しくなるような内容だが、現実に生きていくことは、こんな苦しみがあるのか、と思うが、自分には、どこか遠い世界のようだった。山本周五郎の小説で、苦しみても、なお働け、この世は修行である、という言葉があったような気がしたが、世の中は、生活苦、親子や家族、仕事、病気、介護など、苦しみが多く存在して、それに向かって、闘っているのだろうか。都知事も心痛や過労で入院し、やつれて退院したようだ、スマホのSNSで、癌で亡くなった息子のことを思う有名人の心情を読んだ、この世は、確かにいろいろな事が起きる、この世は修行かもしれない、と思いながら、我が身を振り返ってみると、申し訳ないのだが、あまりそんな気がしない。苦しみて耐える、のは、日本人の心情だが、額にしわを寄せている光景が目に浮かび、こちらまで苦しくなる。生活苦でも、病気でも、介護でも、仕事でも、苦しさを飛び越して、楽しさで乗り越えられないか、自分の経験では、ほとんど楽しさだけが残っている、どんな事態でも、楽しく生きることができる。
愛嬌のある人
昨日は土曜日、特にオンラインもなく、午前は書斎で仕事をし、午後は蕎麦の外食と、お墓参りと、スポーツジムに行った。今取り組んでいる仕事が面白いのだが、それは置いて、休日は平穏なので、肩の凝らない話を、あまり脈絡もなく書こう。昨日の朝刊を読んで、笑った。ガッツ石松さんが、クイズ番組で、太陽はどこから昇るか、と聞かれて、すかさず、右!と答えた。人生はわからないもので、それがきっかけで、タレントとして人気が出たという。どこか可笑しさがある、何か愛嬌がある、憎めない人柄を感じる、テレビ視聴者は、そんな人を求めているのかもしれない。政治家にも、企業の経営者にも、辣腕の人、頭の切れる人、頼りがいのある人、リーダーシップのある人など、多くいるが、愛嬌のある人には叶わないと言う。それは、くすっと笑って許せる人で、自分の知り合いの大企業の社長さんは、そんな人だった。都心の超一等地の高層ビルにある窓越しに通りを見下ろせる応接室で話をする時は、どこか緊張するものだが、みじんも感じさせないで、下町の路地で世間話をするような印象があった。今でも、あの笑顔を見たいと思うが、その後、別会社の社長として赴任されたが、今は音信はない。昨日も、定年になった方からの葉書をもらった。一方、7月1日付で、新しいポストに就きました、という官僚からのメールももらった。キャリア官僚は、国を背負っているという気概があって、頭の切れる人なので、たぶん活躍するだろう。官庁街は、人事異動の月でもある。先のガッツ石松さんは、亀は英語で何という、という質問に、スッポンと答えた、というが、出来すぎかもしれない。
