昨日は土曜日、午前にオンライン会議があって、午後はスポーツジムに行った。プールで泳いで、2階の屋外にジャグジーがあって、そこに椅子が置いてある。足をコンクリート台に投げ出し、椅子に座って、街や空を見ていると、いつもながら、リゾートに行ったような気持がして、楽しい。それでも、まったく考えることがないわけではなく、いろいろな事が浮かんでくる。多くは、仕事の事や研究の事などで、私的なことは、ほとんどない。それは、平穏だから、とも言えるが、自分は、身の回りや家族や子供や孫のこと近所のこと、健康や金銭的なことなどは、頭が回らず、あまり興味がないからかもしれない。ボーとしながら、空を眺めていると、昔のことや、いろいろなことが浮かんでくると、すぐに時間が経ってしまう。昨日の空は、夏真っ盛りで、梅雨の合間だが、30度を超すかもと思える気温で、気持ちは、石垣島かバリ島に行ったようだ。街を眺めていると、マンションのベランダに、洗濯物が干してある。新聞に載っていた、干してあるシャツの白さよ夏きたる(高科謙称)を思い出した。投稿者の名前は、自宅に帰って切り抜きで調べたが、そんな光景である。海外旅行など、今は死語に近い。スポーツジムからの帰り道、あまりの暑さに、自宅近所のスーパーに寄って、アイスキャンディを買った。ガリガリ君という、棒にアイス氷が付いているだけの素朴な形だが、自宅に帰って、食べようとしたら、家内も食べたいと言って、老夫婦の2人で、今年初めてのアイスを食べた。ふと、夏が来れば思い出す、の歌が浮かんできた。夏は、どこか昔の子供の頃に戻るようだ。
毎日の生活
昨日はオンライン会議が1つ、ジョギングをして、夕方に整体院に行って、という生活だった。すべて手帳に書いている予定通りで、生活が時間ときちんと連携しながら進んでいるので、快適である。その間は、原稿を書いたり、今は論文の修正をしたり、書類の作成などをしているが、自分は今の生活スタイルが気に入っている。自分のやりたい仕事、講演資料の作成とか、気になる文献の調査とか、データの分析などは、すぐに時間が経って、ずっとやっていたいのは人情だが、そこが重要で、手帳の予定表が、それを許さない。今日は、走るのを止めておこうか、などと思うことは多いが、長年の経験では、予定に従って行動する方が、結果的に良い。突発的な出来事には、予定を変えて対応しなければならないが、それ以外では、なるべく予定通りに行動している。手帳は、自分の授業時間割だと、思っているからである。そして、小さな変化も起きる。昨日は、透明のビニール傘が壊れたので、ゴミ箱に捨てて、近所のスーパーに買いに行った。透明ではなく青色のビニール傘にしたが、何故か嬉しい。整体院に行く時、傘を持って行ったら、途中で雨が降ってきて、ワクワクした。着いて、傘を振ったら、青色のビニールが、雨粒をはじいて飛ばし、青春真っただ中の若者のように思えた。子供から、父の日には遅いが、黒牛のステーキの贈り物が届いて、夕食で食べたら、柔らかく、舌触りが良く、極上だった。何気ないことだが、歳をとっていくと、子供の気持ちに戻るのだろうか。気に入った傘をニコニコしながらさしている、美味しいステーキに幸せを感じる、時間割に従って規則正しく生活をし、その間に、小さな喜びが舞い込み、時には、苦しい思いもしながら、毎日を過ごしているのは、幼稚園か小学校に通う子供のような生活かもしれない。自分には、上等の生活である。
自分を変える
昨日はオンライン会議もあったが、特に記述するほどの印象は無く、淡々と進んだ。その間、いろいろな仕事が入ってくる。締め切りがあるので、手帳とToDoリストにメモして、忘れないように処理している。例えば、昨日原稿を書いた、自分では、この短時間によく書けたと思った、そこが落とし穴で、何度も経験しているので、紙に印刷して読み直すが、それでも見落としがあり、これで完璧と思ったら、今朝の寝床で修正を思い出したから、人の思い込みは根深い。論文などもその通りで、これで完璧だと思って投稿するが、条件付きの査読結果を受けとり、その意見に従って修正をするが、これは、人生の修行かもしれない、と思うことがある。考え方の違いであるが、自分を納得させるために時間がかかる、そして、じっくり考えて、査読者はこのように考えているのか、このように捉えているのか、と相手の土俵の中で考えないと、自分の世界だけでは納得できない。査読者が基本的に勘違いしている場合は、きちんと説明するが、それ以外は、すべて受け入れると、自分に言い聞かせている。それでいいのだ。人は、それぞれ違う。違う見方や考え方があること、それは、相手の土俵に自分の足を入れないと、分からない。先般読んだ専門書に、自分のことは分からない、自分で自分を見ることはできない、鏡か写真かビデオか、他を通してしか見ることはできない、と書かれていたが、ということは、ほとんどが思い込みなのだ。自分の思い込みを、鏡やカメラや他人を通して見ると、こう見えるのだ、と見させてくれる、と思えば、自分で直すしかない。論文の査読とは、自分を見る鏡かもしれない。自分では綺麗な服で着飾ったように思っているが、他人から見ると、薄汚れた服で、醜い姿に映っているかもしれない。自分で、自分を変えるしか方法はない。昨日の夕方、菅総理の記者会見の様子を、テレビで見た。今、苦渋の選択をしていて、総理という立場上、自分の考えも修正しながら、仕事をしているのだろう。立場は違うが、よく分かる。
研究と事業の違い
昨日は7月7日七夕だが、昨今のニュースを聞くと、そんな優雅な気持ちとは程遠い。午前中のオンライン会議は、戦略的な会議で、これは面白い。自分の研究スタイルは、自分の興味関心だけで計画するので、個人研究が多いが、団体などの企画は、当然ながら組織的な事業運営になる。組織的な運営では、多くの人が参画するので、それぞれの人の持ち味や専門性を生かしながら、全体でまとめていく方法論になる。個人研究の場合は、すべて自分の考えや方針に基づくので、深く掘り下げていく方法論になる。広くまとめ上げるのか、深く掘り下げるのか、の違いだが、世の中では、まとめ上げていくほうが、影響力は大きいだろう。個人研究は、職人の世界と似ている。技を磨くのだが、なかなか目標に到達できないので、終生をかけて追及することになり、たぶん年齢も関係なく、個人研究ができる小さな部屋さえあれば、いつまでも持続できるだろう。伝統工芸や伝統芸術のような技などは、その深さは計り知れない、作家や美術家や音楽家なども同じで、高名な芸術家は、高齢になっても意気軒昂に作品を作っている。たぶん、利益などは眼中になく、奥深く追及しているので、自分との闘いである。一方、組織の活動は、広く人々を巻き込むので、調整能力、方向性、困難に出会ってもなんとか乗り越える力、など幅広い能力が求められる。政治家や企業の経営者などを見ると、違いがよく分かる。昨日は、規模は小さいながら、その両方の仕事をした。組織が行う事業も、ワクワクするような魅力があり、個人の研究も、また心惹かれる。人は、このように柔軟にできているようで、自分は、こうだ、とは決められないのではないか。だから、仕事は何でも面白いのだ。
多様な仕事
昨日は午前に都内の大学病院に行って、血液検査と診断を受けた。3ヵ月に1回の経過観察だそうだが、何も問題はなく、次回は半年後になった。今の大学病院は、設備が最新鋭で、血液検査を受けて30分後には、その結果を元に医師の診断を受けられる。午後は、市内の教育センターで、今年から始まる新しい研究指定校の運営委員会で、もう10年になった。永く関わらせていただき、歴代教育長も何人にもなった。年々歳々人同じからず、の例え通り、教育委員会の担当者は変わっていくが、自分は、年々歳々花相似たり、のように同じ席についている。帰宅して、メールをチェックすると、いろいろな仕事が舞い込んでくる。6月は理事会シーズンなので、忙しいのは理解しているが、7月は時間的な余裕ができる、と思っていたが、どうもそうでもないようだ。原稿、審査、実験など、締め切りが近いので、手帳にきちんと書いておかないと、迷惑をかけてしまう。その間に、出版の準備、資料作成、文献の調査、研究の準備など、自主的な活動がある。昔は、これらの研究に関する仕事と学生指導が重要で、その他のことは雑用と呼んでいたが、今は違う。すべてが重要で、そのことは、内心では、昔も今も同じである。昨日読んだ文献でも、頭が切れる優秀な人だから、仕事ができる、のではなく、仕事が多く、しかも、雑用のような多様な仕事があるから、頭が切れるようになる、という趣旨の研究が書かれていた。頭が切れるとは、脳が素早く、しかも的確に処理できるので、ボケない、ことに繋がる。ということは、高齢者になったから、ボケるのはなく、仕事や活動がなくなったり、しなくなるから、ボケる、ことになる。今の自分は、この意味で、ただ感謝するしかない。研究以外の仕事、コロナ禍での在宅、ワクチン接種、所属団体の仕事、家庭での諸々の仕事、庭の雑草刈、買い物など、すべて雑多な用事で毎日が満たされているが、それで良いのだ、だから人は存在できる、とは、ガーゲンの本を読んだからだが、識者には、拡大解釈だろう、と言われるだろうが、人は他との関係の中で、生きる、という考えに同感している。
紙とデジタル
昨日は月曜日、週の始めで、定例の会議、申請書の会議、研究打ち合わせの3つのオンラインがあった、いづれも大切な会議である。月曜日は新聞の歌壇の曜日なので、朝食の後で、読むのが習慣になっているが、時折気に入った句があると、切り抜いている。コロナ禍以前から長い間続いているので、小さな紙であっても、書斎の机の引き出しの中に貯めているが、かなり膨らんでいる。昨日、切り抜こうと思って、ふと思った。面倒だと、誰でもそんな思いをすることがあるだろう、それでスマホで写真を撮って保存した。ただ、何が気に入ったのか、今は思い出せない、なるほど、ハサミで切り抜きながら保存すると、手間はかかるが、どこか記憶に残りやすいのかもしれない。午前中は自分の時間で、いろいろな文献調査などもしているが、どうしても読みたい本が出てきた。専門書であるが、amazonで検索すると、あった。人は不思議な動物で、すぐに読みたい、数日待て、と言われても、幼児の我がままと同じで、親の言うことを聞かない駄々っ子のようになる。見ると、電子版があった、これだ、と思って注文すると、即座に手元に届いた。他の仕事を横に置いて、夢中になって読んだ、どうしても確かめたかったことが、整然と書かれている。満足するとは、このようなことか、と思うような至福の時だった。確かに、デジタルは有難い、人の願いを即時に叶えてくれる、が、同時に、我慢できない人を生み出すのかもしれない。自分は、かつての著書で、これを待てない症候群と呼んで、情報モラルの課題として書いたことがある。現代は、紙の新聞もスマホで写真を撮るのも、紙の本も電子本も、両方を活用することが、時と場合に応じて、必要だろう。ちなみに、自分が気に入った句は、新聞の折り目柔らか梅雨に入り(杉山太郎)である。湿度が高くなる季節は、紙も湿気を吸って柔らかになるのだろうか、昨日の雨模様の天気にピッタリの句だった。
世の中の苦しみ
昨日は日曜日、平穏な1日だったが、梅雨空で雨が降っている。熱海市などでは被害が出ているようで、先般、熱海温泉に行った時、坂道が多く平地が少ないので、地震や大雨の時は、山崩れなどが怖いと感じていたが、現実になった。大雨の被害、コロナ感染者数、ワクチン接種、五輪の開催、都議会選挙など、世の中は常に動いている。もう7月に入って、1年の折り返し地点まで来た。スポーツジムから帰り、夕食前の空いた時間に、家内と世間話をした。世の中では、様々な出来事があり、人それぞれの生き方があり、家族の幸せを求めているが、現実は厳しく苦闘している、というような世間話である。きっかけは、スポーツジムのランニングマシーンで走りながら見たテレビのドキュメンタリーであった。詳細は書くスペースもないが、タレントを目指す娘と父親の葛藤で、見ている方が苦しくなるような内容だが、現実に生きていくことは、こんな苦しみがあるのか、と思うが、自分には、どこか遠い世界のようだった。山本周五郎の小説で、苦しみても、なお働け、この世は修行である、という言葉があったような気がしたが、世の中は、生活苦、親子や家族、仕事、病気、介護など、苦しみが多く存在して、それに向かって、闘っているのだろうか。都知事も心痛や過労で入院し、やつれて退院したようだ、スマホのSNSで、癌で亡くなった息子のことを思う有名人の心情を読んだ、この世は、確かにいろいろな事が起きる、この世は修行かもしれない、と思いながら、我が身を振り返ってみると、申し訳ないのだが、あまりそんな気がしない。苦しみて耐える、のは、日本人の心情だが、額にしわを寄せている光景が目に浮かび、こちらまで苦しくなる。生活苦でも、病気でも、介護でも、仕事でも、苦しさを飛び越して、楽しさで乗り越えられないか、自分の経験では、ほとんど楽しさだけが残っている、どんな事態でも、楽しく生きることができる。
愛嬌のある人
昨日は土曜日、特にオンラインもなく、午前は書斎で仕事をし、午後は蕎麦の外食と、お墓参りと、スポーツジムに行った。今取り組んでいる仕事が面白いのだが、それは置いて、休日は平穏なので、肩の凝らない話を、あまり脈絡もなく書こう。昨日の朝刊を読んで、笑った。ガッツ石松さんが、クイズ番組で、太陽はどこから昇るか、と聞かれて、すかさず、右!と答えた。人生はわからないもので、それがきっかけで、タレントとして人気が出たという。どこか可笑しさがある、何か愛嬌がある、憎めない人柄を感じる、テレビ視聴者は、そんな人を求めているのかもしれない。政治家にも、企業の経営者にも、辣腕の人、頭の切れる人、頼りがいのある人、リーダーシップのある人など、多くいるが、愛嬌のある人には叶わないと言う。それは、くすっと笑って許せる人で、自分の知り合いの大企業の社長さんは、そんな人だった。都心の超一等地の高層ビルにある窓越しに通りを見下ろせる応接室で話をする時は、どこか緊張するものだが、みじんも感じさせないで、下町の路地で世間話をするような印象があった。今でも、あの笑顔を見たいと思うが、その後、別会社の社長として赴任されたが、今は音信はない。昨日も、定年になった方からの葉書をもらった。一方、7月1日付で、新しいポストに就きました、という官僚からのメールももらった。キャリア官僚は、国を背負っているという気概があって、頭の切れる人なので、たぶん活躍するだろう。官庁街は、人事異動の月でもある。先のガッツ石松さんは、亀は英語で何という、という質問に、スッポンと答えた、というが、出来すぎかもしれない。
未経験のテーマ
昨日は朝から電車で都内に出かけた。午前中の講演と午後の打ち合わせのためであり、珍しい対面での仕事だった。講演は、区内の校長や園長向けGIGAスクール対応の内容で、求められたテーマは、リーダーシップや管理や人材育成であった。コロナ感染で、5月の予定が7月に延びたのは、担当者が、どうしても対面で、という希望が強かったからである。実をいうと、管理職対象で、しかも管理とかリーダシップなどは、研究とは距離があって、ほとんど講演した経験は無かったのである。しかし、5月の予定が7月に延びたのが、幸いした。先にブログでも書いたが、長い間教育で仕事をしてきた人の一言と、長い間台所で家事をしてきた家内の、何気ない言葉が、何か磁石のように引き合って、結び付いた時、ふと感じるものがあって、それも内容に含めたのだが、それが、主役を際立たせる脇役のような存在になって、話がどこか華やかな色どりを帯びた。それは、参加者の表情やメモを取る光景を見れば、分かる。対面とは、こんな意味を持っていたのか、参加者からのフィードバックが、手に取るように感じる、これは、反応が鈍い、これは思ったより効果的だ、など、対面だから得られる情報なのである。オンラインは、電車に乗って出かける時間も節約できて有難いのだが、どうしても講演者と視聴者との、目に見えない暗黙的な対話に欠ける。予定したトッピクは5項目あったが、2項目しか話せなかった。90分の時間、間に5分の休憩を入れたが、重要な内容はすべて話したので、十分である。経験のないテーマ、それは尻込みすることではない、そこから、多くのことを学ぶことができる。苦手なテーマでの講演など未経験のことは、大歓迎である、それが自分に新しい生き方を与えてくれる。
井戸の中の蛙
昨日は、オンライン会議が無かった、珍しいが、午前はオンラインでの採点があって、その後、資料作成と関連文献の調査をして、午後は私用で市内の会計士に家内と一緒に行った。文献調査をしながら、ふと思う、自分はこれまでほとんど勉強してこなかった、独りよがりのことばかりで、自分が関わった範囲のことしか、知識がない、これでは、人前で偉そうに、モノは言えない。企業などから、相談を受けることもある、知ったかぶりで話すこもある、先生方の前で、講演をすることもある、その時は、これで精一杯、という気持ちだが、井戸の中の蛙大海を知らず、の格言通りだ、と最近よく感じる。在宅勤務の関係で、時間的な余裕ができると、井戸だけではなく大海のほうまで、目が向くようになる。すると、そうか、こんなことを考えている人もいるのか、こんな研究をしているのか、と目が覚めるようなことが起きる。歳をとってくると、自分の見方考え方が固定化して、つまり頑固になるようだが、自分は、そうでもない、やっと勉強するとか、文献を調べるとか、専門書を読むとか、少し分かりかけてきた。こんなことを書くと、何を謙遜して、などと思う人がいるかもしれないが、まったくの本心である。昔から言われてきたような、戒め、ことわざ、処世訓などは、若い頃は分からない、が、今の自分には、確かにそうだ、と共鳴することが多い。すると、文献を調べたり専門書を読むのが楽しくなって、まるで学生のように、知識がすっぽり頭の中に入ってくるような感じで、本当に、豊饒な知識の大海が、この世には存在している、これは凄い、宝のような知識が、まだまだいっぱいある、と思うようになる。今朝は、朝早く電車に乗って、都心に行かなければならないので、これで筆を置く。
