配慮すること

昨日は月曜日、週の始めなので、定例会議もあり、仕事が始まるという感覚がある。午前に、係りつけのクリニックに行って、先般受けた特定健診の結果を聞いた。結果は大きな変化もなく、まあまあだった、と言っても、コレステロールと体脂肪などが多く、アルコールと食事を減らさないと、と自戒した。数字で示されると、説得力があるので、意識が変わる、ということは、データに基づく政策決定は、やはり意味があるのか、と思い直した。午後は2つのオンライン会議だったが、2つ目の会議で、思い直したことがあった。自分は、どうも話過ぎ、前に出すぎ、自分の主張を言いすぎ、相手への配慮が欠ける、などと自省した。若い頃から研究については、上下の違い、身分の違い、男女や年齢の違いなど、すべて関係なく、優れているかどうか、正しいかどうか、だけで、議論してきたせいか、どうも、その性癖が抜けないようだ。会議のメンバーで、自分よりはるかに年下だが、尊敬する先生がいて、彼の発言を聞くと、一言でいうと、優しいのである。他人に対する優しさ、思いやり、心遣いが、隅々に感じられて、自分が、まだ精神的には、若造のような未熟さを、感じた。主張すべきは主張する、若いうちは、ただそれだけであるが、年齢を重ねると、それを超えて、相手への優しさが出てくる。自分は、まだ修行が足りない、意気込んで、相手を説得しようとし、論理的に説明して、という姿は、大人げない、と思ったのである。身体の健康も、心の健康も、意識して、改善に勤めなければいけない。スピードを上げすぎれば交通違反になって検挙されるように、ブレーキをかけて、自分を制御することも必要だ。自分は、行け行けドンドンが好きなようで、周りへの配慮が不足している。この世を生きていくには、進むと止まる、アクセルとブレーキ、自信と謙虚、表と裏、光と影のように、両方をうまく使いわけて、制限スピード内で運転することが必要なのか、でも、あまり深刻になることは、ない、努力すれば、相手も分かってくれるだろう、と気楽に考えるが、これは良いことなのか、反省すべきことなのか。

不満足とは

昨日は日曜日、だが、雨が降ったり止んだりで、はっきりしない天気だった。生活パターンはいつもの通りだが、午前に気になっている仕事をやらねば、と思いながら、出版予定の原稿を修正しているのは、この方が、ああでもない、と思いながら仕事をするので楽しいからである。ああでもこうでもない、と思うのは、工夫することでもあるし、逆に、このままでは満足していないことでもある、だとすれば、現状に満足していないことは、楽しいことに繋がるのか、そういえば、どこか頭の隅に隠れていて、あの図をこうすれば面白い、など、スポーツをしても歩いていても、時々顔を出してくる。昨日は、その気掛かりなことを、やっていて、時間を忘れた。午後は、家内の用事で、庭に植える花とか野菜とか土壌などを買いに、郊外のホームセンターに行った。ある団体から、携帯に電話が掛かってきたが、運転中は出ることができない、自宅の固定電話にも一昨日かかってきたが、携帯に掛けてほしいと、家内が伝言したようで、車を止めてから、電話をしたが、今度は相手が出ないし、留守番電話の設定になっていないようで、何度掛けてもつながらない。確かに、電話は不便である、最後はメールでようやく送ってもらい、事なきを得た。電話は時を同じにしないと通じない、メールは時を超える、ということは、電話に満足しないことが、メールに繋がったのか。物事は、なんとかしてくれ、などの不満足があって、それが新しいものを生み出す、のは、モノの世界だけでなく、先の原稿の修正も、否、すべてに通じることではないか、それならば、満足しないこと、なにかやってくれ、ということは、すべて面白いことに繋がる。昨日の電話の要件は、原稿依頼であった。これで、また楽しいことが増える。

小さな幸せと小さな不幸

昨日は土曜日、朝から雨が降り続け、書斎の窓から見えるマンションも、少しグレイがかっている。午前は原稿を書きながら、いろいろ雑念が浮かんでくる、台湾からの留学生の論文を早く読みこまないと、英語で質問ができない、時間は取れるだろうか、とか、今書いている原稿は、一般向きでも教員向きでもないので、売れないだろうな、とすれば出版社に済まないな、とか、人は先々のことを勝手に想像して不安になる。午後は、家内と月に一度のお墓参りと買い物に出かけ、最近は必需品になった運動靴を買い、その後スポーツジムに行った。新しい運動靴を買っただけで、子供がおもちゃを買ってもらったような気持になるのは、年齢に関係ないのだろうか。夕食は、テレビニュースを見ながらだったが、菅総理の退陣の余波が、政局に喧騒の渦を巻き起こしている。いつかのブログでも書いたが、自分は菅さんを応援している、実直で着実に仕事をこなしていくタイプに見えるからだが、家内の評価は、華がないから、どうも、という世間と同じだった。菅さんは、職人が技を磨くような仕事ぶりで、それが研究者の生き方に似ているから、どこか親近感を持つのかもしれない。尾身さんも凄い研究者だが、タイプが違うようで、人にはいろいろな仕事の仕方がある。どのような生き方にも、運動靴を買って嬉しい気持ちと、出版しても売れないだろうという不安の気持ちが混じって、小さな幸せと小さな不幸が、さざ波のように、やってくる。今週月曜の新聞に載っていた、ノートから付箋が落ちていくようにあの日のこともいつか忘れる(吉村おもち)の句を思い出した。若い女性の失恋の句のようにも思われるが、若い人も年配者も政治家もサラリーマンも自営業も教員も、そして子供さえも、小さな不幸を抱えている。菅総理の立場とは大きさは違っても、この句のように、誰も人生のノートから一枚一枚はがされていき、楽しい思い出だけが残っていくのではないだろうか。

変化の中で生きる

昨日は、午前中に出版のための原稿書きの時間がようやく取れた、午後はソフトバンクの新しいルータの設置をした。お昼を食べながら、テレビを見たら、政局が大きく動いて、菅総理が総裁選を辞退するニュースで持ち切りだった。昨日のブログで書いたが、常に世の中は動いている、変化している、留まっていることはない。だから、歳をとったからとか、もう気儘に生活したいからとか、理由はいくらでもつけられるが、その変化と共に、生きていくしか術はないようだ。原稿を書いていて、こんなことを書くのは、気恥ずかしいが、自分でも気に入った、庶民的な感覚で言えば、惚れ込んだ、という印象がないと、筆が進まない。昨日は、そんな感じで、文章が自分を惹き込んでくれて、そうだ、その通りだ、と言いながら、原稿の中の自分と対話していた。ビゴツキーの言う通りだ、と思いながら、自分の世界に入っていた。ただ、出版できても、売れるかどうかは別問題で、そこが世の中の厳しさである。午後は、ソフトバンクのBBユニットというルータの設置をしたが、恥ずかしながら、バージョンアップがあって、無料で機材を交換できることを、知らなかった。オンラインが日常化しているので、Wi-Fi が、たまに不調になることがある、なんとかしたいと思っていたら、この機材はレンタルだと知って、早速チャットで連絡して、昨日届いたので、スマホ、パソコン、プリンターなど、すべて設定を変えた。プロバイダーへの連絡は、今は電話ではつながることが稀で、チャットならすぐにつながることを知り、スマホの音声入力で、簡単にできた。確かに、世の中は動いている。原稿も、内容が古ければ、誰でも知っているとか、文字通り陳腐であれば、誰も見向きもしないし、プロバイダーへの連絡も、チャットならスムーズだし、失敗もするだろうが、それは変化に対応することの必需品であり、当たり前のことだ。と思いながら、凡人の自分では、失敗しないように、どこか丸く収めたいなどの気持ちが起きるが、どうもそれだけでは、この世の中は生きていけない。だが、コロナ禍の時代、変化があること自体が、有難いかもしれない。

世の中の変化

昨日は、午前中はオンライン採点が中心で、午後はオンライン講演があった。オンライン採点は、毎週木曜日に充てているが、教員免許更新講習の受講生のレポート採点だが、主催者からの要請で毎週木曜に採点して、報告することになっているが、既に決定されたように、来年度までで、この制度そのものが廃止になる。レポートを読んでいると、自分の意図と違う受け取り方に気付いたり、こんな工夫があるのか、と感心したり、受講生から学ぶことが多い。75分の講義ビデオを4本受講して、その後でレポートを書くので、かなり多くの時間がかかり、多忙な先生には負担だろう、と思い、夏休みのような自由な時間がないと、受講することも難しいことが分かるので、制度の解消も止むを得ない、と同情する。世の中は、常に動いている。午後はオンライン研修で講演をしたが、自分の準備したスライド枚数が多すぎて、時間のコントロールが難しく、正直に言えば、話しながら焦った。受講した先生方には、申し訳ないと思い、最後まで視聴していただくだけで、有難く思った、ただ、これは自己効力感や自己肯定感で言えば、マイナスなのだが、ふと思う。自分はどこか弱い、まだまだだ、と思うから、今度はなんとかしよう、とか、それに比べればあの人は凄い、と尊敬する気持ちも出てくる。もう一度、ここを勉強したい、など、自分がつまづく毎に思うことが、研究や仕事へのエンジンになっているから、有難いのだ。自分の団体を財政的に支援している会員はすべて企業だが、この前新規会員があったので、ネットで調べた。こんなに業務内容が変遷しているのか、カメラからデジタルへ、100人規模から数万人規模へ、ただ驚くことばかりで、明日は分からない、一寸先は誰も予見できない、と思って努力してきたのだろうか、企業だけでなく、政治も教育も動いていくのが世の常だと知った時、免許更新講習の制度もオンライン講演も、変わるのが当たり前で、生きている限り、変化についていくことが、すべてなのだろう。

所沢駅のお昼時

昨日は、用事があって、お昼時間に久し振りに所沢駅に行った。自宅に最寄りの西所沢駅と違って、都市開発をしているので、まるで都心並みで、ここは新宿か渋谷かと見紛うような賑わいであった。駅が2階で、そのまま直結で西武デパートに、デパートから直結でマンションに、というように、車の動きを気にせずに移動できる。駅ビルには、洒落たレストランや、ここは銀座か思うような目を引く店が並んでいて、改札口を出ると、広場があって、待ち合わせができる席が用意されている。お昼時なのか、若い人たちが大勢歩いていて、銀ブラのように店を覗いたり、レストランで食事をしている姿を見ると、緊急事態宣言地域のことなど忘れてしまう。高校生が目に付く、この時間にと思ったら、9月1日、そうか、今日から始まったのか、嬉しそうに談笑している、久し振りに友達に会ったのか、今日は始業式で早く終わったのか、駅ビルは楽しさで包まれている。駅でアナウンスがある、今日は防災訓練の日なので、電車が少し遅れます、ご了承ください、の声を聞いて、昔と変わっていない、どこかはしゃぐ自分に気が付いた。家内と待ち合わせて、お蕎麦屋さんに入った、コロナ禍以前は、よく行ったが、新宿のオフィスビルにあるチェーン店の蕎麦屋さんで、何か新宿に行って仕事をしてお昼時間になったような錯覚を覚えた。駅ビルの中の大きな本屋で、欲しかった小説を買い、隣接のデパートで、ご執心のボールペンの芯を買ったが、外は小雨が朝からずっと降りっぱなしである。人が集まること、それはなんと心が弾むことなのか、雨など関係ない、吹き飛ばしてくれる、人は人によって生きていけるのだ。自粛で狭い家で、子供も親も巣ごもりの生活を続けたら、うつ状態になるだろう、新聞では児童虐待が急増していると言う。高校生が嬉しそうに歩いている、老いも若きも行き交っている、早くワクチンを接種して、人は人らしい生活をする方が良い。山に何故登るのか、そこに山があるから、は名言であるが、同じように、学校は何故素晴らしいのか、そこに子供がいるから、も正解だろう。子供がいない学校は、建物だけで、むしろ怖い存在になる。子供たちよ、新学期の学校生活を精一杯生きよ。

気付くこと

昨日は午前にオンライン研究打ち合わせがあり、午後にオンライン委員会があった。午後の会議が正念場であるが、会を仕切る者としての不安はなかったが、急な開催にも関わらず、多数の参加があって、活発な議論ができた。オンラインであろうと対面であろうと、議論することで事業が進む、日本人はどうしても委員会のような席だと、思ったことを言えず、後で発言しておけば良かったとか、後悔することが多く、その場の雰囲気とか空気とか、なにやら得体の知れないものに囲まれて、仕方がなかったのだ、と慰めることが多い。パラリンピックの子供たちの観戦についても、東京都の教育委員全員が反対したにも関わらず、決定しなかったと委員長が後悔していたが、その場の空気や知事への遠慮や、決まっていることだから、ということで場に流されてしまう。昨日の委員会は、そこが違う、空気ではなく、意見で決める、流されない、少しずつ委員会の個性が出てきたようだ。気付いたら、すぐに言えば良い、すぐに行動すれば良い、すぐにメールを出せば良い、それで成功するかどうか、凶とでるか吉とでるか分からないが、後で悔やむより良いだろう。昨日は、ルータの事で気が付いて、すぐにプロバイダ―に連絡、と言っても、最近はチャットが早いが、そのチャットも音声入力にしたから、スムーズに処理できた。これで、オンラインもやりやすくなる、有難い。この前、100分のオンライン講演をしたが、受講の先生方からのアンケート結果やコメントなどが送られてきて、好評であったが、こうしたらどうか、という文章が目に留まった。通常は、自分は結果のコメントなど読まないのだが、昨日は何故か、その文章だけが目に入ってきた、ような印象で、それがヒントである方法に気が付いた。午後のオンライン会議が終わって、早速その方法を取り入れたら、曇っていたメガネをきれいにクリーニングしたように、受講生がよく見える感じになった。昨日は、気になっていたことが、2つ解決した。それは、気付きのお蔭である。

好転するとは

昨日は月曜日、週の始めで、早速オンライン会議があった、午後に続けて3つの会議である。午前は自分の仕事をし、午後1時からびっしり会議の連続で、ほっとして、すぐにジョギングに行ったから、頭と身体をフルに使った1日だった。仕事は順調に行っている時は良いが、少し不都合なことが起きると、いろいろ気を遣い、頭をひねり、不足に思い、感情的になったり、ろくなことはないが、昨日は、その不都合なことを乗り越えたような気がした。団体の代表として、少しは会長らしい仕事をしたのか、という思いがあった。気を遣うこと、環境を整備すること、いろいろな関係者の調整をすること、それは、研究とかデータ分析とか原稿執筆とか講演資料の準備などと、使う脳の部位が違うので、逃げたくなる場合もある。しかし、およそ仕事をすれば、大なり小なり問題が起きるので、それに取り組まなければ、仙人のような暮らしになるだろう。世の常は、自分にとって不都合なこと、苦手なことであっても、取り組むことが、人に課せられている。ただ、その途上にいる時は、どうしても逃げたくなったり、相手を非難したり、自分の身を安全な場所に置きたくなったりするが、後になって見れば、解決することが多いのである。昨日の会議で、それを実感した。なんとか、自分なりに、よかれと思ったことを、誠実にこなしてきたではないか、それで結果はどうなっても、自分が責任を取ろうと思えば、事態は好転する。自分も相手を非難したことがあったが、本当に済まなかった、と心から詫びる気持ちになる。そんなことを、これまで何度も経験したが、どんなに歳をとっても、心の修業は続く。その当時は、どうしてこんなに事態が悪くなるのかと、思っていたことが、今思えば、あれで良かった、あのままでいたら今は困った事態になる、助かったのだ、という経験を何度もしている。人の世は、努力すれば、誠実に仕事をすれば、必ず好転する。

新しき事

昨日は日曜日、午後は家内と100均で買い物をし、スポーツジムに行って、くらいが、平日と違う。朝から一日中どんよりとした曇り空で、人は天気とか環境に左右されるようで、どこかすっきりしない気持ちになる。ランニングマシーンで走りながら、テレビで、同じ智弁学園同士の決勝戦なのか、と高校野球を観るが、例年と違って新鮮味がなく感動は薄い。プールに行って、筋トレで汗びっしょりになった身体を水に浸ける、と言っても、その前にシャワーで洗い流すが、水が全身を包み込んで、泳ぐと波しぶきが後ろに小さな軌跡を作るが、それが爽快感を生み出すようで、子供に戻ったような気がする。この快適さが忘れられなくて、皆プールに入るのか、とも思う。隣のレーンで、インストラクターが、生徒、つまり受講生を指導している。老いも若きも、と言いたいところだが、老いも老いも、指導を受けて、クロールの初歩を練習している。コロナの関係で経営方針が変わり、授業料が高くなったのか、生徒数を限定したのか、6,7名程度だった。だが、よく見ると、全員が楽しそうで、今の泳ぎは良かったよと、弾んだ声が耳に入ってくる。全員が飛び切りの笑顔で、どこか童心に戻ったようだ。そう言えば、自分が初めて25mを泳げた時、初めて自転車に乗れた時、初めて自動車を運転した時、初めて講演で拍手を浴びた時、初めて論文が採択された時、など思い出して、初めて、とは何と感動することなのか、今この生徒の皆さんは、その喜びを全身で表わしているようで、その笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。老いも若きも関係ないのだ、初めてのこと、新しいことは、すべて楽しく嬉しく、そしてワクワクすることなのだ。幼児や子供は、することなすこと、すべてが新しい出会いだから、あんなにはしゃぐのか、そんなに嬉しいのか、と納得した。ということは、生きている限り新しいことに挑戦し続けることが、正解なのだろう。100均で、一人用のソファー椅子の滑り止めを買って、使ったら大成功で、こんな小さなことでも、新しいことなので、嬉しくなって何度も座った。新しきことは、良きことかな。

短編を読む

昨日は土曜日、オンライン会議はない、少し気を抜ける日だった。土日はスポーツジムに行く日だが、木曜日までメインテナンスで5日間休館だったせいか、かなり密な状態だった。夕方帰宅して、シャワーを浴び、さっぱりして、夕食までの15分から30分位の間が、一番リラックスする時間である。この時間に、小説など肩の凝らない本を読むのが楽しみになっている。昨日は、重松清のビタミンFの小説を読み終えた、中でも、セッちゃんの短編が珠玉の作品だった。中学3年生の一人娘を持つ3人家族の平凡な、否むしろ親子仲の良い恵まれた家庭と言ってよいが、夕食時に、娘が学校のことを話す。セッちゃん、という転校生が来たのよ、でもクラスの女生徒たち全員に嫌われてね、体育祭でやる創作ダンスの練習だけど、その振り付けが変わったんだけど、セッちゃんには知らせなかったのよ、だから、セッちゃんは、周りを見て、1人だけテンポが遅れて、その恰好がおかしくて、全員が笑って眺めていたけど、可哀そうなんだよ、という会話から始まるのだが、体育祭に出かけて、初めて、そのセッちゃんが、自分の娘であることを知る。体育祭には絶対に来ないで、という娘の願いは、これだったのか、1人だけ周りから浮いて、きょろきょろしながら、必死で皆に追い付いていこうとする娘のダンスを見て、涙が止まらなかった。親子の間に、微妙な空気が出てくるが、父親は、ふと小さな店で流し雛を買う、この人形に願いを込めて川に流せば、病気も苦しみも流れてしまう、という言い伝えにすがってみようかと思って、親子3人で川に行く、その時、親子はすべてを知っている、知っているから、お互いが心を寄せ合うことができる、だが、その子は言う、でも現実は厳しいのよ、とまだ大人ではない思春期の子が必死でいじめに向かっている姿に、両親は何もできないもどかしさを感じる、という短編である。小説だから、創作しているのだが、作家の筆致の見事さに惹かれ、すべてリアルに感じて、しばらく、この子の健気さと両親の悲しみが伝わってきて、茫然となった。決して、いじめを許してはいけないのだ。