昨日は日曜日、午後は家内と100均で買い物をし、スポーツジムに行って、くらいが、平日と違う。朝から一日中どんよりとした曇り空で、人は天気とか環境に左右されるようで、どこかすっきりしない気持ちになる。ランニングマシーンで走りながら、テレビで、同じ智弁学園同士の決勝戦なのか、と高校野球を観るが、例年と違って新鮮味がなく感動は薄い。プールに行って、筋トレで汗びっしょりになった身体を水に浸ける、と言っても、その前にシャワーで洗い流すが、水が全身を包み込んで、泳ぐと波しぶきが後ろに小さな軌跡を作るが、それが爽快感を生み出すようで、子供に戻ったような気がする。この快適さが忘れられなくて、皆プールに入るのか、とも思う。隣のレーンで、インストラクターが、生徒、つまり受講生を指導している。老いも若きも、と言いたいところだが、老いも老いも、指導を受けて、クロールの初歩を練習している。コロナの関係で経営方針が変わり、授業料が高くなったのか、生徒数を限定したのか、6,7名程度だった。だが、よく見ると、全員が楽しそうで、今の泳ぎは良かったよと、弾んだ声が耳に入ってくる。全員が飛び切りの笑顔で、どこか童心に戻ったようだ。そう言えば、自分が初めて25mを泳げた時、初めて自転車に乗れた時、初めて自動車を運転した時、初めて講演で拍手を浴びた時、初めて論文が採択された時、など思い出して、初めて、とは何と感動することなのか、今この生徒の皆さんは、その喜びを全身で表わしているようで、その笑顔を見ると、こちらまで嬉しくなる。老いも若きも関係ないのだ、初めてのこと、新しいことは、すべて楽しく嬉しく、そしてワクワクすることなのだ。幼児や子供は、することなすこと、すべてが新しい出会いだから、あんなにはしゃぐのか、そんなに嬉しいのか、と納得した。ということは、生きている限り新しいことに挑戦し続けることが、正解なのだろう。100均で、一人用のソファー椅子の滑り止めを買って、使ったら大成功で、こんな小さなことでも、新しいことなので、嬉しくなって何度も座った。新しきことは、良きことかな。
短編を読む
昨日は土曜日、オンライン会議はない、少し気を抜ける日だった。土日はスポーツジムに行く日だが、木曜日までメインテナンスで5日間休館だったせいか、かなり密な状態だった。夕方帰宅して、シャワーを浴び、さっぱりして、夕食までの15分から30分位の間が、一番リラックスする時間である。この時間に、小説など肩の凝らない本を読むのが楽しみになっている。昨日は、重松清のビタミンFの小説を読み終えた、中でも、セッちゃんの短編が珠玉の作品だった。中学3年生の一人娘を持つ3人家族の平凡な、否むしろ親子仲の良い恵まれた家庭と言ってよいが、夕食時に、娘が学校のことを話す。セッちゃん、という転校生が来たのよ、でもクラスの女生徒たち全員に嫌われてね、体育祭でやる創作ダンスの練習だけど、その振り付けが変わったんだけど、セッちゃんには知らせなかったのよ、だから、セッちゃんは、周りを見て、1人だけテンポが遅れて、その恰好がおかしくて、全員が笑って眺めていたけど、可哀そうなんだよ、という会話から始まるのだが、体育祭に出かけて、初めて、そのセッちゃんが、自分の娘であることを知る。体育祭には絶対に来ないで、という娘の願いは、これだったのか、1人だけ周りから浮いて、きょろきょろしながら、必死で皆に追い付いていこうとする娘のダンスを見て、涙が止まらなかった。親子の間に、微妙な空気が出てくるが、父親は、ふと小さな店で流し雛を買う、この人形に願いを込めて川に流せば、病気も苦しみも流れてしまう、という言い伝えにすがってみようかと思って、親子3人で川に行く、その時、親子はすべてを知っている、知っているから、お互いが心を寄せ合うことができる、だが、その子は言う、でも現実は厳しいのよ、とまだ大人ではない思春期の子が必死でいじめに向かっている姿に、両親は何もできないもどかしさを感じる、という短編である。小説だから、創作しているのだが、作家の筆致の見事さに惹かれ、すべてリアルに感じて、しばらく、この子の健気さと両親の悲しみが伝わってきて、茫然となった。決して、いじめを許してはいけないのだ。
審査と草刈り
昨日は忙しかった、というか、頭も身体もすべて動かしたので、老いの身では十分だった、という感触が残っている。午前中は、台湾からの留学生、日本の大学院に入学する学部か修士の学生の研究論文の審査に、すべて時間を充てた。この論文が難しく、専門以外の内容がほとんどなので、うんうん、呻吟しながら、審査を続けていたので、頭の芯が痛くなりそうな感じがしたが、これは本当に凄い頭のトレーニングだと思って、終わった頃には、感謝した。こんなチャンスがなければ、専門外のことを勉強するはずがないからである。9月にオンラインの審査があるが、自分の分担は、かなりの数が英語審査だが、日常英語ではないので、専門の中身がわからないと、質問すらできない。この審査委員は、自分以外は現役の大学教員だが、2人体制で、それぞれの専門分野毎に、台湾にいる学生とオンライン審査をするが、少し緊張する。自分は、手帳に予定を入れて、論文を読む時間を確保しているが、昨日でおよその論文は読んだので、内心ほっとした。専門外のこと、自分の得意でないこと、それは研究でも仕事でも、実はチャンスかもしれない、と思うようになった。自分だけに閉じこもらない、幅を広くする、他人の意見も理解する、新しい見方を知る、など、別の世界が開けるからである。お昼の後、太陽が照り付ける庭を見ると、雑草が、性懲りもなく無造作に伸びている、ふと草刈りをしなければ、と思い、帽子をかぶり、汗だくだくになって、身体を動かした。終わってシャワーを浴びたが、夕方もジョギングをしたので、老いの身には、十分な運動量だった、文字通り、よく学びよく動き、という1日だった。専門外だから、暑いから、止めておこうでは、面白くない。面白さは、避けるのではなく、中に入ることで、得られるのかもしれない。夕食の、冷えたビールの美味しさは、もう言葉にならない、この世の極楽、そうか、これは、ご褒美なのか。
免許更新講習
昨日は、オンライン打ち合わせが午後にあったが、午前中はオンライン採点で、すべて時間を使った。オンライン採点は、受講生のレポートを読んで採点するのだが、なるほど、こんな工夫もあったのか、こんな実践知があるのか、こんなに子供のことを思っているのか、など、教員の生の声や考えに触れることができるのが、楽しい。私学で大勢の学生レポートや試験を採点するのは、好きではなかった、と言うのは、時間が制限されているからである。だから、多肢選択問題と記述式の問題を作って、多肢選択はマークカードで自動採点し、記述式は自分が採点することで、時間を節約した。が、たまに、成績評価について、学生から異議申し立てがある、こんな低い成績ではない、というクレームだが、こんな時、データが活きてくる、客観的な証拠があれば、心配することはない。covid-19のワクチン接種の効果についてのデータと同じで、記述式であっても、採点基準を決めていれば、主観が客観に変わる。私学では、成績について敏感で、教員に非がある場合は、始末書ものだった。昨日のオンライン採点は、教員の免許更新講習における試験で、ビデオオンデマンドで受講して、上記のように、多肢選択問題とレポートで評価するシステムだが、よくできている。新聞報道によれば、文科省は、来年度を持って、この免許更新講習の制度を廃止するらしい。と言うことは、オンライン採点も、来年度で打ち切りになる、どこか寂しい気もする。世の中は、自然と同じように、変わっていく。いつの間にか、蝉の声が、ヒグラシやツクツクボウシに変わり、朝夕は少し涼しくなり、夜は虫の声が聞こえる。白日傘とほく線路を渡りけり(中島由美子)、の句が新聞にあった、夏もこれから太陽を公転して、1年間の旅に出るのか、今年の夏はいろいろあった、楽しいことも大変なことも、思い出として残しながら、去っていくのか、その姿に、どこか人に似た哀愁を感じる。
審査と甲子園
昨日は、オンライン打ち合わせもあったが、締め切りの原稿と論文審査があった。締め切りと言っても、自分で決めた締め切りなので、少し余裕をもって見積もっているのは、誰でも同じだろう。手帳に予定を書いているので、今日は、これを片付けようと思い、取り掛かるが、自分にとって、午前中は貴重な時間で、外からの仕事に充てたくないのだが、時間の配分では、朝から取り掛かるしかない。朝食後に2階に行って、論文審査を始めるが、いろいろな雑念が浮かんでくる、あまり面白くない、自分の興味と合わない論文の場合、頭に入ってこない、左横の窓から外を見る、今日も暑そうだ、隣の家の向こうにある駐車場の車が太陽の光を反射しているなど、とりとめのないことを考えたりする。勉強に飽きた子供や、興味のない授業では、教室の窓から外を眺めて、空想にふけるが、それと同じだと苦笑する。時々、1階に降りて、お茶かコーヒーを入れたりしながら、なんとか一通り審査が終わる頃、ようやく気持ちが前に向いてきて、おや、これは面白いアイデアではないか、このデータは貴重ではないか、など気が付く。当たり前だが、審査する場合、論文と正面を向いて対峙しないと、見えないのである。よそ見では、空想では、雑念では、本質が見えないのは、当たり前である。ふと思った、甲子園球場では、一般客はなく、例年と違う高校野球なので、自分は今年はテレビで観ていない、忙しいこともあるが、関心が薄れるのである。夕食時のニュースの中で、その光景が画面から飛び込んでくる、それは、ホームに飛び込んで砂ぼこりを上げ、負けて泣き、勝って飛び上がる光景で、そうか、高校生にとって、観客など関係ないのだ、青春のすべてをかけているのだ、真正面から勝負しているのだ、と自分が恥ずかしくなった。新聞に、こんな句があった、泣くことのできる若さや夏の雲(入田葉子)、若さとは、まぶしいほど素晴らしい。
大一番
昨日は、午前のオンラインが、自分にとって大一番であった。愛知県のある団体からの依頼によるオンライン講演だった。ただ、この講演時間が、100分だった。オンラインで100分は、果たして緊張が続くのか、途中で退出する人が続出しないか、ネットトラブルが起きないか、スライドが予定通り提示できるか、など、初めて学芸会に出る小学生か幼稚園児のような、気持ちだった。さすが、100分を話しっぱなしでは、視聴者が疲れるので、意識的に5分間の休憩を入れた。実際に、自分もトイレ休憩をしたが、ほっと一息入れる時間、バレーの試合の作戦タイムにも似た時間だが、話し終わった後、司会者に促されて、余分に数分話したので、正味100分きっかりだった。先週の岡山の研修は対面で、講演は70分、実技を入れて3時間だったので、なんとか乗り越えた。90分は経験しているが、100分は初めてだ、どうしようか、など、たぶん誰でも考えるだろう。昨年の対面での研修が、コロナの関係で今年に延期し、さらにオンラインになり、テーマも変わり、一から出直しの講演だった。人は、何かが変わると、身が引き締まって、自分に新たな意識が芽生える、そして、小さいながらも挑戦をするのである。いろいろ考えた、全体の構成、スライド、実践事例、写真、最新のトピック、背景となる学習論、分かりやすい事例、などだが、自分としては、かなり新しい戦略で臨んだ。だが、それが凶と出るか吉と出るか、分からない、科学実験のようにシミュレーションをするわけにはいかない、文字通り、出た所勝負だった、だから、オーバーだが、ここ大一番だったのである。歌手は3分間に、漫才や落語は15分間に、それぞれ最高のパフォーマンスを見せようと、命の炎を燃やす。100分とは、なんと贅沢な時間なのだろう、この上なく大切な時間だと思い、それなりの努力をした。一昨日の朝刊に、そのときはそのときと決め髪洗う(深沢ふさ江)、とまるで自分を見透かしているような句があった。結果良し、自分では吉であった。
昨日の会議
昨日は月曜日、定例の団体の事務局会議、夕方から研究会で、双方ともオンラインである。事務局会議も、仕事だからいろいろあっても、前向きな発言が多く、自分も思ったことを、誰に遠慮することもなく、素直に言える、それが、嬉しい。研究会も、話が弾み、誰でも自由に発言できる、それは、どうしたら現場に役立つか、何を学校にこちらから提供できるか、で全員が一致しているからだろう。研究は、昨日のブログでも書いたが、自分たちの研究レベルを競う目標と、こちらから世の中や学校に提供する目標がある。役に立つこと、提供できること、それは、自分の枠を超え、研究の枠さえ超えた高度な目標なのである。その認識があれば、全員が、ワクワクしながら、義務でも仕事でもなく、全員が同志のような気持になって、取り組むことができる。嬉しい時間で、あっという間に時間が経過する。自分は、立場上、仕切ったり助言をしたり、まとめたりするのだが、歳をとって、それがこの上なく有難いと思うようになった。自分のような、もう引退して末席にも座れない立場なのに、今現役で働き盛りの人たちと一緒に、会議に参加できるだけで有難いのだ、と思うことがある。だから、自分は、会議に臨む時、オンラインで参加者の顔を見る時、そうか、自分ではできない仕事をして、それぞれが精いっぱいの力を出して、教育の役に立ちたいと思っているのだ、と思うと、すべてを受け入れる自分になれる。昨日は、特にそんな気持ちになった。昨日の朝刊に載っていた句、すぐ父の顔に似てくる夏の雲(岡部泉)が浮かんだ。積乱雲の形が、好きだった父親の顔に見える、それは、自分の心の姿の反映である。昨日の自分は、素直な気持ちだったのだろう、すべてが素晴らしく、ただただ感謝した。
研究発表を聞く
昨日も午前中は、ブログでも紹介した通り、科学教育のオンライン発表会に参加した。参加して良かった、得るところが多かった、面白い研究をしている、と感心した。ふと振り返る、先週に岡山で講演をして、受講の先生方に助けられた、とブログで書いたが、自分が受講生になってみて、そうか、どれだけ得るものがあったのか、どれだけ自分にとって役立つのか、が評価尺度になる、と当たり前のことを改めて思った。若い頃は、こんなことにも気が付かなかった、心の隅に、どうだ、このアイデアは、この手法は、この結果は、など、腕比べのような気持があった。確かに論文賞とか優秀賞などの表彰があるので、どれだけ優れているか、を競う場面もある。視聴者にとっても、つまらない発表はそっぽを向き、優れた発表には身を乗り出すようにして聞き、さらに興味深い発表には、質問までする、それは、そうせざるを得ないような気持ちになるからである。それは、優れたというエビデンスなのかもしれない、その上に、自分にとって役に立った、という尺度が加わると、自分事として受け入れることができる。なるほど、そうか、参考にしよう、それなら、少しこの考え方を取り入れてみよう、自分もやってみよう、など、自分がそこに参画する意欲が湧いてくる。昨日も一昨日も、視聴した発表は、そのような気持にさせた、だから、参加して良かったのである。テレビで、優れた作品を視聴する、ドラマであったり、ドキュメンタリーであったり、時代劇であったり、時に感動したり、なるほどと納得したりする、それと学会の研究発表も同じかもしれない。テレビドラマは、名優が演じた時、脚本が優れていた時、視聴者に内容を伝えることができるのだろうか、それと同じように、優れた研究は、優れた研究者、優れた研究の枠組みや研究上の問いなどに、規定されるのだろうか、さらに付け足して言えば、受け手に、どれだけ得るものを与えたのか、演劇のように、良かった、感動した、だけではなく、同じ研究者に対して、今後の研究に、どれだけ役立つのか、というお土産まで、必要なのかもしれない、研究とは、かなり奥深い。
科学教育の学会
昨日の午前中は、科学教育の学会に参加した。オンライン参加であるが、勉強になった。オンラインは、仕事やコミュニケーションでは課題はあるが、研究発表をするとか聞くとか、一方通行では、自分の都合でコントロールできるので、便利である。但し、発表の内容によるのは、対面でも同じなので、自分は時間が節約できる分だけオンラインの方が有難い。まだ自分も会員なので、参加申し込みをしていたが、参加して良かった。やはり、研究は進歩している、その目指す先に触れることで、自分の脳もリフレッシュされるからだ。特に、若い人たちの研究は、目の付け所も良く、こんな分野にも、凄い研究があるのか、と自分の専門外にも、目を開かせてくれる。視聴した内容は数学モデルと社会だが、面白かった。もう一つは、招待講演で、これは自分の弟子の発表だが、内容が素晴らしく、なるほど、このような目線なのか、このような分析なのか、だからインパクトがあるのか、など、多くのことを学んだ。老いてくると、自分の領域に閉じこもり、それ以外には興味も関心も無くなり、そして自己中心の考え方になる傾向がある、とも言われるが、自分はそうなりたくない。こんな分野にも、研究の炎を燃やして、切磋琢磨しているのか、だから、あれほど議論に夢中になるのか、その光景は、今熱戦を繰り広げている甲子園球場の野球と変わらない。自分は、そこに触れて、少しでもいいから、近づきたいのだ。数年前まで、対面で、この学会の大会に参加していた、夏の日差しが照り付ける、ヒグラシが鳴いている、久し振りに会う先生たちと挨拶を交わす、面白そうな研究に目をつけて、会場を回る、ポスターセッションで議論する、時々会場外に出る、あー夏真っ盛りか、今頃家内や子供たち孫たちは、何をしているのだろうかなど、とりとめのない思いが浮かんでくる、あれは、高松の会場だったか、オンラインでも、学会の大会はどこか郷愁に似た思いを誘う。
対面研修
昨日はブログでも書いた通り、岡山に出張した。対面での講義と演習なので、3時間の研修だが、参加された先生方のお蔭で、また担当指導主事のお蔭で、なんとか少しお役に立った。このように、お陰で、とか書くと、社交辞令のように思えるが、決してそうではなく、本心なのだ。演習はプログラミングであるが、自分も本を出版しているので、あまり気にしていなかった、長い間、プログラミングの経験もあるし、仕組みはよく理解しているのだが、実技は、また別の世界なのである。言語はスクラッチだが、バージョンが違って、オンラインになって、かつ、機種がGoogleOSなので、操作が違う。幸い、自宅にクロムブックを買っておいたので、少しは慣れているが、研修室では、別の機種やクラウド環境、特に外部者が利用する時の、セキュリティが厳しく、共有も難しいことが、行ってみて、操作してみて、始めて分かった。事前に慣れていないことは、誰でも焦る、困った、どうしたらいいだろうか、と思う場面が何回もあった。考えてみれば、それは仕方のないこと、事前の策として、共有フォルダーのアドレスをQRコードにして送信し、その印刷資料からアクセスできるようにしたが、これで救われた。一応、出来ることはやったのだ、後は出たこと勝負だと、丁か半かの博打うちのような気持になって、ここはどうしたらいいかな、とか、誰かこのブロックを知りませんかと、操作のデモ画面をスクリーンに映しながら、マイクで受講生に呼び掛けると、後ろの方から、ここだ、とか、聞こえてくる。そうか、ありがとう、確かにあったと、まるで掛け合い漫才のような光景になった。勉強不足なのだから、仕方がない、システムもOSも違うから、先生も生徒も関係ない、そう思っていたら、3時間の対面研修があっと言う間に過ぎていった。前列の先生方の隣同士で話し合うつぶやきが、聞こえてくる。それは、はしゃぐ子供のような嬉しそうな声だった。本当に、昨日は、先生方に救われたのだ、自分の力不足を、補ってくれたのだ。
