今日は火曜日の夕方で、時間を節約しながら、ブログを書いている。昨日は、月曜日で、1日中、忙しかった。朝から、虎ノ門と溜池山王に行って、事務局会議や対面での打ち合わせなどがあり、帰宅後にジョギングをしてから、夕方のオンライン会議に出席して、プレゼンもした。考えてみれば、これが普通の生活で、コロナ禍以前なら、電車に乗って毎日都心に通うことが当たり前だが、在宅になると、なかなか元に戻れない。人は、いくつになっても、仕事から頭が離れないようで、それは、自分のような職業が特例なのかもしれないが、知的仕事は、年齢とはあまり関係がないようだ。もちろん、分野によるのだろうが、教育は、若いから優れている、というわけではなく、歳を取ると、別の意味での良さが出てくるようだ。毎日、書斎でパソコンに向かっているが、このブログでも書いたが、mustの仕事とwantの仕事がある。もちろん、wantだけやる訳にいかないので、mustに取りかかっているが、なかなかはかどらない。やり方を変えてみようと思って、些細なことだが、少し変えたら、何かスーッと頭に入ってくるような気がした。何故だろう、と考えていたら、すぐに文献を調べたくなって、ネット検索をして、どこかにメモしたら、それだけで時間をロスしてしまった。ただ、この場合、何か得した気分になるのだ。人は、知的作業と言っても同じことには耐えられないようで、何か変えたくなる、別のやり方を試してみたくなる。それでいいのだ、幼児と同じで、幼稚園や小学校低学年の先生は、15分毎に活動を変える、と言うから、まるで手品師のような技を持っている。家内に言わせると、仕事があるだけで有難い、ジョギングができるだけで有難いのだ。こうして、今日も日が暮れた。
動的平衡論
今日は日曜日、昨日、ブログは昼間に書いて、と言ったことを取り消すことになった。なんと朝令暮改なのか、恥を知れ、と叱咤される人がいるかもしれない。今は、日曜日の夕方である。確かに、今日の昼間にどうしようか、と考えたが、とても無理だと、分かった。そもそもブログは日記のようなものなので、朝1番なら、昨日のこと、夕方なら、その日のことを書くが、いづれも過去を振り返って書くのだが、昼間は、今何をしているか、を書かなければならない。矛盾であり、意味がない、という当たり前のことに気が付いた。それもそうだし、昼間は書く気が起きないのだ。ということで、また元に戻った。日曜なので、スポーツジムに行って、帰宅してシャワーを浴びて、夕食までの時間で書いている。読書の時間も計算に入れて、ジムで運動した。午前中と午後2時半までは、平日と変わらず、資料作りや審査系の仕事をしたが、スポーツをしている間に、どうしても気になる資料が頭をかすめる、そして、はっと気が付く。帰宅したら、修正しようと思うのだが、これは正常なのか、それとも何かに取り憑かれていて、どこかおかしいのか、とも思う。このブログでも書いたが、脳細胞は、新しい細胞が再生され、古い細胞は分解されて排出される、という動的平衡論に従って活動しているから、新しい細胞から見ると、古い細胞が考えた内容のおかしさを指摘することができるし、それが正常なのである。恋愛も同じだろう、その時は夢中になっているかもしれないが、その細胞が古くなって新しい細胞が生まれれば、あれはいったい何だったのか、と冷めた状態になるのは、正常なのである。ということは、資料のおかしさに気づくのも、書く時間を昼間から夕方に変えるのも、細胞の動的平衡論から考えれば、きわめて正常なのである。自分の脳は、まだ大丈夫だ。
昼間に書いて時々休む
今日は土曜日、今は夕方でお風呂上りで、ゆったりした気持ちで、このブログを書いている、と言いたい所だが、逆である。2日前のブログで、仕事が重なって午前中の貴重な時間を有効に使いたいので、朝1番にブログを書くのは止めて、夕方に移動した、と書いた。昨日の夕方は夜までオンライン会議があったので、当然ながらブログは休みにして、今日は土曜日なのでオンラインの予定はなかったが、予定は未定で、世の中は何が起きるかわからない、急なオンライン会議と私用の外出があって、その後ジョギングをしたら、もう時間がない、楽しみにしている小説を読む時間が無くなった。仕事の時間も確保し、自分の楽しみの時間も欲しい、人は欲張りな動物なので、こんな風にして、模索しながら、やっていくのだろう。ブログを書くために、2階の書斎に行くのもおっくうで、1階居間のパソコンの画面に向かって、キーボードをたたいている、テレビ番組も見ながら、だから、本当に欲張りなのだろう。このブログは、テレビ番組の音声も聞きながらなので、文章が論理的ではないだろう。さて、ブログを書く時間はどうするのか、朝は、メールのチェックから始まり、その後、朝餉に向かうが、その後、直ぐに原稿や書類審査などをすると、思考が直線的に入っていくので、仕事がはかどるような気がする。そこに、ブログを挟むと、直球ではなく、曲がって球が投げられていくようで、元に戻すのに、多少時間がかかる気がする。じゃ、どうすればいいのだ、と自問してみる、仕方がない、昼間に書いて、オンラインで時間が無くなれば、休みにする、表題のようなやり方でやってみよう。まあ、人生の重要なことでもないから、と思いつつ、朝でも夕方でも昼間でもいいだろう、時間がある時に、気の向いた時に、流れに添って、ゆったりと、温かい日差しに瞳がまどろむように、そんなやり方でいいだろう。歳をとると、その方が似合っている。
時々書いて時々休む
昨日は、1台のPCでオンラインにアクセスし、もう一台のPCで仕事をしていたら、聖徳太子と違って、オンラインの方は、ほとんど頭に入っていない、時々画面を眺める程度になって、やはり凡人には無理だと思った。何故こんなことをしているか、と言えば、時間が足らないからだ。このところ、仕事が重なって、締め切りが迫ってくると、焦りがでてくる。焦ると、若い頃と違って、質が落ちる、今は、余裕のある仕事、ゆったりとした生活の仕方を信条としているので、このような状態になると、どうも落ち着かない。審査、オンライン会議や採点、原稿書き、対面での会議、講演の準備など、10月から11月にかけて、いろいろ入ってきた。昔なら、うまく割り振って処理できたが、今は、処理速度が遅くなったのか、別の視点から考えるようになったのか、時間がかかる。ただ、自分の気持ちとすれば、今の方が、味のある、少し渋みのある、仕事のような気がする。鮎の旨さは、少し苦いからで、あの苦さで、味に深みが出るとブログでも書いた、ワサビがあるから刺身や蕎麦も旨い、ように、大人になって分かる味がある。自分では、そのような歳の取り方、仕事の仕方、生活の仕方を目指しているが、どうも、時間が足らなくなった。このブログは、朝の爽やかな時間に書いているが、午後はオンライン会議などがあるので、午前は自分の仕事の貴重な時間なので、この時間を仕事に充てたい、と思い、ブログを書く時間を夕方に変更しようと思う。ということは、夕方にオンラインなどの用事が入ってくるので、表題のように、時々書いて時々休むことになる。毎日読んでいただく読者には、お許しいただきたい。
目標と多様性
昨日は、ある大企業のセミナーがあって、参加した、というより視聴した。オンラインセミナーであれば、気軽に参加できるのが、有難い。しかも、知り合いから、メールで開催を知らせてくれるので、自宅に居ながらにして、勉強できる。ただ、昨日のセミナーは企業経営の内容なので、自分とは遠いと思って、知り合いからの連絡なので、自分の仕事をしながら、並行的に視聴しようと思っていた。聞いてみると、面白い。教育と企業経営は、基本は同じじゃないか、と思ったことが最大の収穫だった。キーワードを挙げてみると、SDGs、well-being、失敗、多様性、無意識の偏見(Unconscious bias)などである。SDGsは、学校でも取り上げらるテーマで、子供もよく知っているが、企業が真面目に、正面から取り組んでいるとは意外だった、ということ自身が、自分の不勉強で、文字通り、無意識の偏見だろう。企業は、利益を優先すること、という偏見を、自分が無意識的に持っているのか、と思った。このブログでも書いたが、ある企業の経営会議に参加して、同じ言葉に出会ったので、特に印象が強かった。学校では、このbiasが、いじめを生み出す原因になっていないか、と思っていて、多様性を認める教育に、注目しているからである。地球温暖化は、10月に入ってさえも、夏の暑さが続いていることを思えば、誰もが納得しているが、車の排気ガスを規制する、電気エネルギーに変える、となれば、企業がSDGsに取り組む必然性がある。貧困地域でも、アフガニスタンでも、男女に関わらず、誰でも教育を受けるチャンスを提供するとなれば、オンライン教育やMoocなどの遠隔教育が、役立つだろう、それは、企業の援助なしではできない。このように、企業もまた、希望の持てる社会を目指す目標を持ち、人々がwell-beingであることを目指し、とすれば、教育の目標と変わらない。しかし、現実のプロセスは、失敗しながら進んでいくのだが、アメリカの大企業の創設者の言葉、失敗こそ素晴らしい、そして楽しい、とは、教育にそのまま通用する。昨日は、専門外のセミナー、つまり多様性の素晴らしさを、学んだ。
楽しむほうが良い
昨日は月曜日、週始めなので、定例の事務局会議と、他に研究打ち合わせの2つのオンラインがあった。自分も歳をとったと感じるのは、自分は担当者ではなく、傍観者だということだ、と書くと誤解を生みやすいので、スタッフではなくマネージャだと書いた方が良いだろう。直接に仕事の中心にいるのではなく、周辺にいてアドバイスなどをする立場である。スタッフは、気を遣って自分を立ててくれているが、自分の方は、あまり前に出ないように、心掛けている、年相応に、やるべき仕事をこなせば良いと思っている。若い頃と違うのは、1つは時間である。直前に入るのが好きで、余裕を持ってというのは、性に合わなかった、ある時は、国内だが、この癖で、飛行機に乗り遅れた。今は、余裕のある仕事が好きになった、それだけ緊張感が薄くなったと言ってもよいが、時間に幅があるのは、時間だけでなく、気持ちに余裕が出てくるからである。2つは、同じようだが、スピードがゆっくりになった、じっくり文献などを調べる習慣ができた。昔は、高校の教師の時、他の先生から、いつも廊下を走っていますね、と皮肉を込めて言われていた。ゆっくりとは、他人の仕事を尊重する気持ちの表れと言っても良い。3つは、仕事以外の楽しみに、意味を見出したことである。例えば、温泉旅行、スポーツ、ガーデニング、買い物、読書などで、それぞれが、仕事とは別の楽しみをもたらしてくれる。これから先の時間が短いならば、大いに楽しめばいいではないか、と心境が変化したと言ってもよい。そして、最後が、健康維持である、つまりジョギングやスポーツジムや整体院などで、身体を丈夫にし、労わることである。仕事だけの人生ではつまらない、と思うようになったのは、実は最近である。人の生き方は、楽しむほうが良いのだ、価値観を変えることも大切なのだ。
苦しさとやりがいと楽しさ
昨日は日曜日、午後は買い物やスポーツジムなどがあるので、午前に仕事をする。休日は、自分の好きな仕事をしてよい、と許しているので、昨日は、11月初旬にある講演の資料を整理したが、すぐに時間が経ってしまう。次から次と疑問が出てきて、自分の知識の無さや、浅さに愕然とするからだ。講演とは、己の無知を知ることか、とソクラテスのようなことを思った。いつまでも調べていたいが、時間は限られているから、午後は頭を切り替える。車で家内と、ホームセンターにガーデニング用の道具や、野菜の種などを買いに行く。雑草取りと土の整備と木を伐採するのは、自分の係りなのだが、在宅勤務になって時間の余裕があるので、その仕事も面白い。一日中不要不急や草を取る(清水昇一)、の句が新聞に載っていたが、草を取ることで、作者も楽しんでいるのではないか。買い物の後は、スポーツジムに行った。コロナが終息し始めているのか、人が多い、これでは密になる、と思いながら、いつものように汗を流して、ジャグジーの横の椅子に座って街を眺めると、心が解放される。仕事があるということ、スポーツができるということ、すべてが、有難い。夕方、午後7時からは夕食の時間だが、高校の関東支部の同窓会、といっても、オンラインだが、があって、夕食を取りながら、視聴した。有名なサッカー選手を輩出している高校だが、昨日は、サッカーの国際審判員、画家、演劇家などで、その分野で活躍している人たちが登場して、仕事を説明していたが、今働き盛りの年齢である。苦しくもやりがいのある仕事だと言っていたが、その通りだ、ただ、歳をとっても、苦しさは薄れていくが、やりがいと楽しさは変わらずに残る、と言いたい、だから、心配ないのだ。
日常と非日常の切り替え
昨日は土曜日、箱根のホテルを出て、近くの仙石原ススキ台に行った。朝9時だが、もう一杯の人出で、誰も考えることは同じのようだ。ススキに囲まれて歩くことは、なんと清々しいことだろうか、皆笑顔だ。すぐに帰宅したが、高速道路で渋滞に巻き込まれたのは、週末に行楽に出かける人が多いからだが、その気持ちは分かる、絶好の晴天で、積もり積もった自粛の覆いを外したいからである。渋滞を我慢して、帰宅したのは、13時半過ぎだったので、上等である。いつも宿泊した時の帰宅時刻は、午後の時間が使えるように、13時までには着くようにしている。ホテルを出るのは、昨日も同じで9時前である。一昨日、車の中で電話を受け取ったので、それが気になって調べ物をして処理をし、昨日中にやる、と予定に書いている原稿を送った。こうして、夕方のジョギングもして、夕食後は眠くてどうしようもなく、夜中起きることもなく、今朝までぐっすりと眠った。諸事について、けじめをつける、区切りをつける、ことを自分に課しているので、帰宅すると、しばらく、旅の余韻に浸りたい気持ちもあるが、老夫婦で、少し休んだら、すぐにスーツケースの中を片付け、元の場所に戻し、普段の生活パターンに戻るのである。すると、頭が切り替わり、仕事がスムーズにできるのは、宿泊旅行の知恵である。ホテルの食事は、バイキングで好きなモノを好きなだけ食べれるので幸せなのだが、それはその時だけで、そのスタイルを自宅に持ち込んだら、肥満になり病気になるだろう、つまり切り替えが必要で、自宅に着いた途端から、世界が別になる。楽しむ時と生活する時を区別して、非日常と日常を区別して、とは当たり前だが、こうすると毎日が楽しい。昨日、予定通り原稿を送った、それだけで、満足感があるのは、楽しさや満足感などは、どこにもある証拠である。
庶民のしたたかさ
昨日は金曜日、週末だが、在宅勤務をしている人は、今や休日と平日の境がほとんど無くなっている。自分は形式的には引退の身なので、さらに境界は無いが、いつものように早朝にジョギングをして、午前10時まで仕事をして、その後、老夫婦で車で箱根に行った。コロナ禍が収まるだろうと見越して、温泉ホテルに1ヵ月前に予約を入れていた。2時間半くらいで芦ノ湖に着いて、軽食を取って、何年か、何十年かぶりに、遊覧船に乗った。静かな山並みを見ながらの船は、小学生の遠足のような気分になる。大涌谷に行ったら、奇怪な岩肌から硫黄が混じった湯気が出ている、そうか、前に来た時も同じだったか、富士山がきれいに見える。駐車場もかなり混んでいて、なるほど、庶民の考えることは、だいたい同じか、と思う。それにしても、天が味方したのか、真っ青な大空に、秋らしいすじ雲が、流れていく、絶好の観光日和だ。土産物店には、大勢の人がいて、家内も土産を買っている。その雑踏の中にいるのが、好きだ。ホテルに着いて、さすがに箱根の温泉かと思うのは、源泉から引いた湯舟に浸かっていると、本当に効用が高いような気がする。夕食の会場に行くと、意外にも若い人や中年の人が多く、前のブログで書いたように、ワーケーションの時代だから、平日にも観光や温泉を楽しむ感覚になったのだろう。それで、いいのだ。苦労を背負う時代から、楽しむ時代になったのだろうか、それにはお金が要る、と言われそうだが、ホテル代など本当に安く、こんな贅沢な食事をして、この価格かと思う。医者は専門家だから、自粛と叫び、政治家も、まだまだ油断はならないと戒めるが、その判断は、データや科学に基づいている。医者はもちろん、政治家も、根拠に基づく政策立案(EBPM)などと言うが、庶民は、それを横目で見ながら、したたかに、楽しむ術を知っているのではないか。選挙が近い、その結果は、庶民のしたたかさの反映でもある。
出会いと別れ
昨日は、いろいろなことがあった1日だった。1日という時間は、まるで人との出会いのように、いろいろな姿を見せてくれる。そして、素知らぬ顔をして去っていく、出会って別れという繰り返しが、毎日という連続である。昨日は、午後からの用事があるので、西方向へ早朝のジョギングをしたら、自分と同じように走っていく人、散歩する人、家の前を掃除する人、駅に向かう人、それぞれの生活の姿を見ることができる。帰宅して、汗びっしょりになったシャツを洗濯機に入れて、食卓に向かうと、味噌汁の香りがなんとも嬉しく、どんな豪華な食材よりも、ジョギングした後の朝食のほうが、よほど美味しい。2階の書斎に向かう。mustとwantの仕事があるが、mustを優先することは当然なので、SSHの資料を読みながら審査をしていると、アッと気付くことがあって、mustの中にwantが埋め込まれていることに、気が付いた。そんなことを見つけると、どこか楽しい。木曜日は、オンライン採点のmustの仕事がある。忙しい先生方のレポートなのだ、読ましてもらおう、と思えば、mustでなくなる。それで、午前中は終わる。午後は、11月の実験の準備をした、まだ実験などの研究をしているのか、と言われそうだが、それはwantだから、あれこれ考えるので、すぐに時間が経ってしまう。そして、3ヵ月に一度の眼科検査に行った、すぐ近所のクリニックで、結果は上々で、帰宅したら、まだ時間があったので、夏の名残の雑草が目についたので、庭で草取りをした。シャワーを浴びて、夕食までの隙間時間だが、楽しみにしている小説を読んだ。テレビ番組はNHKを見て、床に着いたら、夜遅く地震警報で飛び起きた。なるほど、1日は、いろいろな事があり、人は、その出来事に付き合い、喜んだり、悲しんだり、いつの間にか時が過ぎていくのだ。その出会いが、愛おしい。
