教育と効率

昨日は、午後に所沢市役所で教育委員会の会議があって、出かけた。教育関係の会議は、対面が多い、理由は明確ではないが、ビジネスライクにはいかないようで、どうしても教育の中身の議論になるからだろう。ただ時間がかかるので、効率的でない、教育と効率は、どうも相いれないような所があって、教育とデジタルやICTも同じような印象を受けるのは、どこか本質的に違うかもしれない。自分は、地元の教育に関わる仕事が好きなのは、少しはお役に立っているという感覚があるからだろう。会議の内容は、ブログでは書けないが、市役所の7階の会議室は眺めが良く、委員の皆さんも、本職の仕事も忙しいのに出席率が良いのは、教育の会議だからだろう。帰宅して、お風呂に入るまで時間があったので、書斎で仕事をしたが、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の生徒研究発表会のオンライン動画を視聴した、これも、SSH関係の書類を読んでチェックする仕事の一環である。さすがに、SSHの研究は素晴らしい、というか、研究の保守本流、王道を進んでいる。伝統的な研究スタイルで、説得力が高く、視聴者を魅了する、流行を追うのではなく、本質を追求することに、安心感と感銘を受ける。先に述べた、教育と、効率・デジタル・ICTなどは、どこか水と油のような違いが内在しているようで、それが、教育関係者の脳裏に去来するので、賛否が常に議論になる。それは、その通りなのだが、現実には、時間も限られている、家庭環境も多様である、教育は理想を求めるが、その通りにはいかない、手作りは温かみはあるが、道具を使わないと仕上がらない、など、現実との狭間で行き来しているように思う。自分の専門は教育工学なので、その矛盾のような、理想と現実の狭間でもがいてきたような気がする。ただ、教育に関われるだけで満足している。

取り越し苦労

昨日は、久し振りに都内で会議があって、午後に出かけた。アドバイザー会議のような内容で、自分には気楽なテーマなので、楽しい時を過ごした。帰宅したら、ちょうど夕方6時から岸田新総裁の記者会見の生放送があって、シャワーを浴びる前に見た。4人の総裁候補がいて、それぞれが政策を述べ、広く党員に信を問うた選挙だったので、国民の興味と関心を惹きつけたのではないか、と思う。その意味では、自民党は、絶好の宣伝となり、衆議院選挙にもプラスに作用するかもしれない、それが、ねらいだったのかもしれない。シャワーを浴びながら、ふと思う、出かけて、対面で会議に参加し、自分の主張を言い、他人の意見を聞き、そして帰宅する、平凡だが、これが人間らしい生活だ。オンラインに慣れてしまって、電車に乗って出かけるのは、どうもというのは、思い込みらしい。電車に乗ればそれも良し、対面であればそれも楽し、という具合に、場面に応じて、前もって不安に思うことは意味がないようだ。昨日、スマホで見たメールのタイトルが少し難しい状況だったので、今朝まで見ないようにしていたが、今朝見たら、なんだ、なんでもない、むしろ良い内容だった、と思って、人は、どうして事前に不安なことばかり考えるのだろう、と苦笑した。会話すれば対面も良し、慣れればオンラインも良し、電車もまた良し、そして昨日は夕方のジョギングができないので、早朝にジョギングしたが、その気持ちの良いこと、これも良し、というより絶品のジョギングであった。すべて取り越し苦労はしなくて良いのだ。

菅総理の記者会見

昨日は平穏な1日であった、平日のスポーツジムに行って、午後7時から夕食を取りながら、テレビ番組を見た。NHKニュースで、菅総理が記者会見を行う光景が、生中継されていて、聞き入った。このブログでも何度か紹介したが、自分は菅総理には好意的な印象を持っている。仕事を着実にこなしていく実務家タイプで、今回のコロナ対策でも、10月1日から緊急事態宣言も蔓延防止措置も解除することになったが、終わってみれば、菅総理は、なかなかやるではないか、という印象を持ったのではないだろうか。官房長なら実務家でよいが、総理大臣ならもっとパフォーマンスとか表現力とか華が必要だという声も聞こえてくるが、官房長だろうと首相だろうと、仕事師のほうが、国民は安心して任せることができる。花はあっても実がないのは、意味がなく、うわべだけのごまかしに過ぎない、政治家は政策を実行する人であり、テレビ受けするタレントではない。もう1ヵ月自民党総裁選挙が遅ければ、菅さんは再選されたと思うし、本人もそのつもりだったろう。世の中は思い通りに行かないのが常であるが、本当にご苦労様でした、と拍手を送りたい。台風の烈しき風雨に羽化をする蝉もいるのだ運命なのだ(高田孝子)、という句が新聞に載っていたが、その通りかもしれない。運命と言えば、あきらめることと、思いがちだが、そうではないかもしれない。自分も含めて、ほとんどの人は、自分ではどうにもならない状況の中で、まるで河の水に流されるかのように、仕事をし、生きてきたが、それで良かった場合も、往々にしてある。自分も、コロナ禍で在宅勤務になって、むしろ良かった、と言うと世の反感を受けるかもしれないが、先のブログで書いたように、ワーケーションのような仕事形態であり、昔の姿には戻れない。慣れれば、その状況に応じて、居心地が良くなるようで、結局、人は運命を受け入れ、努力するしかない、というより、その方が楽しいのではないか。菅総理もこれで満足で、昨日は一世一代の晴れ舞台だったのではないか。

晴時々小雨

昨日は月曜日、定例の事務局会議を含めて、4つのオンライン会議があって、忙しかったのだが、自分の年齢を考えると、有難いことである。会議に出ると、世の中は常に動いていて、こちらの思う通りにはいかないので、それぞれの苦労がある。と思いながら、今の自分の立場では、あまりお役に立てていないようだが、働き盛りの人のお蔭で、仲間に入れてもらっている、という感覚である。昨日の新聞に、こんな句が載っていた、秋風や名もなき草を輝かす(中野博夫)。昨日は、忙中閑ありで、オンライン会議の合間を見つけて、ジョギングをしたが、この句のように、秋風が、草をゆすっている、草はその風に揺られて、陽光を受けて、こちらに話しかけているように見える。自分も、名もなき草であり、もう枯草に近いのかもしれないが、若い人たちや、バリバリと仕事に挑戦している人たちの熱気にゆすぶられて、自分なりの存在感があるのか、と思う。つまり、自分の存在は、若い人たちの持つエネルギーで、支えられている。しかし、完全に満ち足りたというのではなく、どこか隙間風が吹いているような、ふとした寂寥感も漂うのは、秋風のような気配を感じるからかも知れない。もう自分は若くない、というより、既に引退をしている、が、まだいろいろなリクエストがあって、勉強したり、試行錯誤して取り組んでいるのだが、これは幸せなのだろうか、別の道もあるのだろうか、と思いつつ、毎日の仕事をこなしている。思えば、若い頃も、同じだったのかもしれない、雲一つない青空は年に数回でよいのだ、後は、雲がかかった晴天なら上等、時折、雨も降り雪もちらつくのが、自然である、と思えば、日本晴れのような完璧な天気を期待するほうが、不自然なのだ、これで良い、晴れ時々小雨、くらいの生き方で、十分幸せなのだ。悲観することも有頂天になることも要らない。

オンライン面接審査

昨日は、朝から夕方まで、オンライン面接で一日が過ぎた。台湾から日本の大学院に入学する学生の面接審査である。このために、送られてきた研究計画書を読み、査読し、疑問点などをチェックして、時間をかけて準備してきたので、昨日は言わば本番である。自分の担当は理工系だが、と言っても、数学、天文学のような科学系から、土木、情報工学などの工学系のすべてを含むので、幅が広い、さすがに、化学は系統が異なるので、医学薬学系の先生が審査する。2人で審査するので、相棒の先生のお蔭で、なんとか形になった、というのが、正直な気持ちである。修士や博士の希望なので、最先端の研究分野があって、極めて難しい内容もあり、そのために勉強して、面接審査に臨んでいると言っても良いが、この審査が無ければ、決して勉強はしないだろう、と思えば、有難い。毎年のように、今年は審査委員を辞退しようと思うのだが、国費留学生の選考なので、名誉な役目でもあると思って、なんとなく続いているのだが、本当の理由は、充実感とか自分が役立った、という感覚だろう。昨日のように面接が終わると、やって良かった、また続けよう、と思うから、人の気持ちなど、状況や結果によって変わるもので、絶対ということはない。もう絶対に無理だ、とか、絶対に成功する、とか、そんなことは無いのだ。仕事も、日々の生活も、教育もまた同じだろう。自分も多くの留学生を引き受けて指導してきたが、学位を取って母国に帰って教授になった学生もいれば、行方知らずの学生もいる。希望に燃える出発点は同じでも、その後の人生は、まったく別で、絶対と言うことはなく、誰も保障できない。これからの自分の人生もどうなるか分からない、と思えば、逆に気楽になって、楽しく自分ができること、やりたいことを続けようと思う。来年も、審査は続けよう。

都心でのイベント

昨日は土曜日、と言っても、丸の内に仕事で出かけた。久しぶりに電車に乗って出かけると、どこか疲れる。たぶん、大勢の人に出会う、行き交う、駅の階段の上り下りをするなどの身体的な疲れもあるだろうが、対面だと気を遣うなどの精神的な面もあるだろう。ある団体の表彰式でオンラインで行うのだが、映像配信は大勢のプロが来て、まるでテレビスタジオのような印象で、それだけで圧倒された。自分は、少しコメントを言う程度だが、他の登場する人たちは、世間的な言葉では、一流と言われる人たちで、その言葉の随所に、本質を鋭く見抜いたような知的な言葉で飾られ、しかも相手への気遣いがあって、素晴らしいとしか、言いようがない。それに比べ、自分のコメントは、どこか幼稚に思え、いつしか自己肯定感の逆の、自己否定感のような気持になったようで、それが疲れの原因だろう。学校で学ぶ子供も、同じかもしれない、クラスで積極的に手を挙げる子供もいれば、自信がなく、答えてみても、大した内容ではなく、頼りない反応しか返ってこなかった子供もいるだろう。自分が、そのような立場に立つと、自信のない子供の心境が分かる、元気な子供を見たり、先生から、そんな些細なことは心配するな、と言われれば、ますます自分に自信が無くなるのだ。帰りの電車の中で、小説を読みながら、作品の中に出てくる人物が、いづれも人生に疲れ、家族に疲れ、希望が持てないのだが、それでも頑張ろうか、という心情に、どこか共鳴する。自分も、どちらかと言うと、行け行けドンドン、のタイプだが、周りから見ると、迷惑だと思っていた人も多いのかもしれない。世の中は、元気だけが、自信のあるだけが、良いのではなく、逆もまた、良いのかもしれない、そうでなければ、相手を理解することができないからだ、と思えば、昨日のことも、良い経験である。

仕事と癒し

昨日は金曜日、3つのオンライン会議があって、忙しい1日だった。今週は前半に祝日が多く、オンライン会議が少なかったが、後半になると、コロナの収束と同じように、オンライン会議が増えるのだろう。ニュースを見ても、コロナ感染者数の報道は、ヘッドラインのトップから終わりの方に移っている、人の世の移り変わりは激しく、静止していることはない。どの会議でも、前向きと後ろ向き、楽しさと難しさ、ワクワクとドキドキの内容が混じっている、それで当たり前と思いながら、人は、プラスだけを求めている。昔、高齢者向けカルチャーセンターで調査したことがあった。パソコンを趣味で学んでいる人たちだが、アンケートをさせてもらった。その結果は、パソコンで生きがいや、元気に生活している健康なお年寄りは、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクの3つの気持ちを持っていることが分かった。パソコンの習得でも、緊張したり、心配したり、そして飛び上がるような喜びを感じたり、など、子供のように生き生きとしている人が、心身共に健康なのである。作品を見ると、とてもお年寄りとは思えない、素晴らしい出来ばえの自分史だった。もう20年以上前のことだが、自分がその年齢になると分かる、が、問題は、やってみようという意欲である。もう、気持ちがついていけません、と言って、野球や相撲から引退するアスリートがいるが、そうかも知れない。仕事をするには、どこか、どっこいしょ、という自分で自分を持ち上げる気持ちが必要だ、そのためには、励ましよりも、癒しが欲しくなるのではないか、身内でも自然でもいいので、どこかで心の休憩室を求めているのかも知れない。月曜の新聞に、こんな句があった。空港を発つに拡がり秋夕焼(藤ヶ谷国柱)。

ICTの操作スキル

昨日は木曜日、というより、秋分の日で祝日だったが、曜日の感覚が無くなっているので、平日と変わらない。台湾からオンラインの予備テストがあった。参加して良かった、始めは大丈夫、慣れていると思ったが、思わぬことが起きる、肝心のファイルがない、とか、小さな操作のことが気になる、言われてみれば、留学生にとっては大一番なので、決してミスできない審査である、それを軽く考えていた、と反省した。いくつになっても、心構えというか、気のゆるみというか、些細なことだが、大切なことを学ぶ。もう分かった、などは、自惚れに過ぎないこと、研究も実践も知らないことばかりかもしれない。GIGAスクール構想によって、日本全国の学校現場に端末が入った、文科省も教育委員会も、ちゃんと使っているか、と気にしているが、調査によると、アプリの使い方、ネットのトラブル、OSの違いによる操作ミスなどで困っており、教員研修を希望する声が高く、その次が、授業での活用法だと言う。理念などは、実はどうでも良い、実践の困りごとを早く解決してほしい、と叫んでいるように思える。自分も所属団体も、GIGAスクール構想を推進する立場だが、本当に現場に役立っているのだろうか、操作の1つ1つの戸惑いに答えられるのか、ネットトラブルをすぐに解決できるのか、1人1台端末を生かした授業デザインを提示できるのか、と思った時、自信もなく、どこか小さな罪悪感さえ覚えた。コンピュータの仕組みを理解していることと、実際のトラブルに対応できることは、まったく別だ。現場で欲しいのは、町のパソコンショップか電気専門店で働く技術に長けた店員さんかもしれない、と思った時、自分は無能だ、と感じたのである。ただ、自分も実際に使っている、クロムブックも買ってOSの違いは分かる、プログラミングの経験はある、などが、慰めである。これからでも遅くはない、現場で使うアプリやOSやネットに対応できるようなスキルと経験を、自宅ではあるが、身に付けていきたい。

目を通す

昨日は火曜日、2つのオンライン会議があって参加し、他に諸々の用事を済ませたが、通常の生活スタイルである。世の中は動いているので、いくつになろうと、それに対応していくこと、それが生きていることだが、できれば楽しく仕事をし、楽しく生活したいものである。オンライン会議で、始めと終わりに挨拶をしたり、コメントをしたりすることが多いが、始めが肝心なような気がする。昨日も、事前に資料が送られているので、それに軽く目を通す、以前は何もせず、何も準備しないで参加することが多かった。資料は、前と同じ内容ではなく、日々動いている、だから、目を通すだけで、脳の状態が違ってくる。なるほど、いろいろ動いている、と思っただけで、資料作成したスタッフに、ご苦労様さん、と言いたくなる、言葉に出さなくても、その気持ちが、会議を楽しくすることを、知った。準備すること、事前に目を通すこと、こんな簡単なことが、和やかな雰囲気にするとは、当たり前のことだが、自分には発見とでも呼びたいことだった。今度の日曜日に、終日、台湾からの留学生のオンライン面接があるが、資料や論文は事前に読んでいるが、期日が近づいてくると、どこか気になる、どうも不安になる。昨日の空き時間に、目を通した、じっくり読んだわけではないが、それでも、そうか、こんな内容だったか、これならなんとかなる、という気持ちが起きて、前向きになった。目を通すことは、気になっていることを、少しの時間であるが、そこに取り組むことだが、そんな簡単なことが、後の出来事の成否を左右するような気がする。線路に貨物があって、何もしないで、ぼーっと眺めていると、ずっとそのままだが、少し押してやると、後は摩擦が小さくなって、そのまま走行するような感じで、どうも初めの一押しが重要のようだ。人は誰でも、気になることがあるが、少しだけ取りかかる、目を通すだけで、後が楽になる、楽しくできる。

ワーケーション

昨日は連休明けで、珍しくオンライン会議が無かったので、午後は自由な時間になったが、今週は土日がすべて仕事で埋まっているので、スポーツジムに行けない、それで、手帳には、昨日ジムに行く予定になっている。平日にスポーツジムに行くのは、どこか気が引けるのだが、コロナ禍で在宅になって、薄らいできたようだ。昨日の新聞に、ワーケーションの記事が載っていたが、この用語は、ワークとバケーションの合成語で、どこかリゾート地で、温泉でも浸かりながら、良い景色でも眺めつつ、仕事をする、インターネットにつながっていれば、どこでも仕事ができるので、広がり始めている仕事の仕方である。気持ちは、よく分かる、誰でも、リラックスしながら、仕事ができれば、こんな有難いことはないので、理想の働き方かもしれないし、自分の知り合いも実行していて、どうも快適らしい。自分は、と言うと、感覚的にはワーケーションである。住んでいる地域が好きで、自宅が好きで、仕事場の書斎が好きで、ネット環境は最新にして、ネットでオンラインはもちろんだが、資料も本も入手でき、平日にはジョギングをし、その自然豊かな光景に心が癒され、朝は定番の味噌汁、納豆、ご飯に、ヨーグルト、ミルクなど、昼食はたまには外食だが、定番はパン食で、夕食は、毎晩楽しみな食事とお酒で、週に1回整体院に行って肩をほぐし、週に2回スポーツジムに行ってプールで汗を流し、通勤電車に乗らなくてよく、予定は手帳に書いているが、昨日のように入れ替えることもできる。都心への通勤電車は往復3時間だが、実際には4時間近く費やしているから、その分だけ余裕があるので、仕事がやりやすい。もう自分は元に戻れない、今は自宅型ワーケーションである。但し、これには条件が必要だが、大切なことは、好きな環境ということだろう。