昨日の午前中は、科学教育の学会に参加した。オンライン参加であるが、勉強になった。オンラインは、仕事やコミュニケーションでは課題はあるが、研究発表をするとか聞くとか、一方通行では、自分の都合でコントロールできるので、便利である。但し、発表の内容によるのは、対面でも同じなので、自分は時間が節約できる分だけオンラインの方が有難い。まだ自分も会員なので、参加申し込みをしていたが、参加して良かった。やはり、研究は進歩している、その目指す先に触れることで、自分の脳もリフレッシュされるからだ。特に、若い人たちの研究は、目の付け所も良く、こんな分野にも、凄い研究があるのか、と自分の専門外にも、目を開かせてくれる。視聴した内容は数学モデルと社会だが、面白かった。もう一つは、招待講演で、これは自分の弟子の発表だが、内容が素晴らしく、なるほど、このような目線なのか、このような分析なのか、だからインパクトがあるのか、など、多くのことを学んだ。老いてくると、自分の領域に閉じこもり、それ以外には興味も関心も無くなり、そして自己中心の考え方になる傾向がある、とも言われるが、自分はそうなりたくない。こんな分野にも、研究の炎を燃やして、切磋琢磨しているのか、だから、あれほど議論に夢中になるのか、その光景は、今熱戦を繰り広げている甲子園球場の野球と変わらない。自分は、そこに触れて、少しでもいいから、近づきたいのだ。数年前まで、対面で、この学会の大会に参加していた、夏の日差しが照り付ける、ヒグラシが鳴いている、久し振りに会う先生たちと挨拶を交わす、面白そうな研究に目をつけて、会場を回る、ポスターセッションで議論する、時々会場外に出る、あー夏真っ盛りか、今頃家内や子供たち孫たちは、何をしているのだろうかなど、とりとめのない思いが浮かんでくる、あれは、高松の会場だったか、オンラインでも、学会の大会はどこか郷愁に似た思いを誘う。
対面研修
昨日はブログでも書いた通り、岡山に出張した。対面での講義と演習なので、3時間の研修だが、参加された先生方のお蔭で、また担当指導主事のお蔭で、なんとか少しお役に立った。このように、お陰で、とか書くと、社交辞令のように思えるが、決してそうではなく、本心なのだ。演習はプログラミングであるが、自分も本を出版しているので、あまり気にしていなかった、長い間、プログラミングの経験もあるし、仕組みはよく理解しているのだが、実技は、また別の世界なのである。言語はスクラッチだが、バージョンが違って、オンラインになって、かつ、機種がGoogleOSなので、操作が違う。幸い、自宅にクロムブックを買っておいたので、少しは慣れているが、研修室では、別の機種やクラウド環境、特に外部者が利用する時の、セキュリティが厳しく、共有も難しいことが、行ってみて、操作してみて、始めて分かった。事前に慣れていないことは、誰でも焦る、困った、どうしたらいいだろうか、と思う場面が何回もあった。考えてみれば、それは仕方のないこと、事前の策として、共有フォルダーのアドレスをQRコードにして送信し、その印刷資料からアクセスできるようにしたが、これで救われた。一応、出来ることはやったのだ、後は出たこと勝負だと、丁か半かの博打うちのような気持になって、ここはどうしたらいいかな、とか、誰かこのブロックを知りませんかと、操作のデモ画面をスクリーンに映しながら、マイクで受講生に呼び掛けると、後ろの方から、ここだ、とか、聞こえてくる。そうか、ありがとう、確かにあったと、まるで掛け合い漫才のような光景になった。勉強不足なのだから、仕方がない、システムもOSも違うから、先生も生徒も関係ない、そう思っていたら、3時間の対面研修があっと言う間に過ぎていった。前列の先生方の隣同士で話し合うつぶやきが、聞こえてくる。それは、はしゃぐ子供のような嬉しそうな声だった。本当に、昨日は、先生方に救われたのだ、自分の力不足を、補ってくれたのだ。
忙しい1日
昨日19日は、忙しい1日だった。仕事であるが、朝6時から食事時間を除いて、夕方5時過ぎまで机に座りっぱなしだった、その理由は、今日の出張にある。今は、20日の朝8時10分ごろで、新幹線の中にいる。岡山市に研修セミナーで講演と実技指導のためだが、自宅を6時半に出て、夜11時頃帰宅の予定なので、かなり厳しい出張なのである。老いの身には少し堪えるが、研修の中身は準備しているので、あまり気にならないが、新幹線の過ごし方が、実は迷うのである。気楽に寝ればいいではないか、と思う人も多いだろうが、そうはいかない。3時間を超える乗車時間は、何もしないことは電気椅子に座っているような怖さがある。お前は仕事オタクか、と言われそうだが、この前に神戸に出張で新幹線に乗ったら、サラリーマンとおぼしき中年は、しきりにキーボードを打っていて、その打点の音さえ聞こえてくるようだった。新幹線の中は、フリーのWi-Fiサービスがあって、動く仕事場なのである。たぶん、自分と同じで、小説を読むよりも、パソコンを触っているほうが楽しいのではないか、他人には口外しないが、本心は似たような心情だろう。昨日、忙しかった理由の1つは、日本の大学、正確には大学院に留学する台湾の選抜審査の書類を調査していて、今日の新幹線の中で、その続きをやろうと思ったからで、その書類は膨大な紙なので、カバンに入らないからである。同時に、締め切りも気掛かりだった。それが、昨日、一応の整理ができて、内心ほっとしたのである。今朝早かったので、今お握りを食べながら、このブログを書いている。有難いのか、忙しいだけなのか、境目がなくなっているのが、現代社会なのだろう。
自己満足と自己不満足
昨日は18日、お盆が過ぎると、何か時間が早く過ぎるような気がする。大雨が降り続く九州地方の皆さんには申し訳ないが、所沢は朝から久しぶりの晴で、青空が見えた。すると、人間は単純なもので、今日は何か良いことがありそうな気がするが、現実はそんなことはない。ただ、昨日のブログで書いたように、雑用やジョギングなどで気が付くことがある。それは、海底から水面に浮かび上がってくるような感じで、無意識から意識化される状態、心理学では、暗黙知から形式知へ、の概念に近い。そのアイデアがあって、昨日の午前中は予定を変更して、その資料作成に取りかかった。そうか、やはり思った通りだ、構造がはっきりした、と自己満足した。それは、どうも気になっていることが潜在的にあって、ジョギングをしていても、駅の階段を上っていても、床に入っていても、脳のどこかが考えているようで、ふとそれが顔を出す様子に似ている。ただ、そんな大した内容ではなく、些細なことなので、誰でも経験しているだろう。そうか、確かに今日は良いことがあった、と思った、が、午後は予定にしたがって、メールをチェックし、用事を済ませたが、午前とは少しニュアンスが違う、メールでは小さな揉め事が書かれていて、なんとかしてほしい、とか、予定していたイベントがキャンセルになったとか、買い物では品物が少し気に入らなかったとか、夕方の床屋では、いつもと違う髪型になったとか、ほんの些細なことだが、自己不満足とでも言いたいことが起きた。たぶん、これが世の常なのだろう、17日の朝刊に、こんな句が載っていた。鮎のわた苦きがよしと食ひてをり苦きこそよし味ふかければ(井原茂明)。その通り、マスはすべてが平凡な味だが、鮎は、あの苦さが味を深くしているので、高級な川魚なのだ、とすれば、多少の苦さがあるほうが、生き方を豊かにしているのか、と思ったら、何か心が軽くなり嬉しくなった。
研究と雑用
昨日は午前にオンライン打ち合わせがあり、午後は都内で対面の打ち合わせがあった。両方とも、研究的な内容なので、脳が活性化する部位が、団体のマネージメントとは違うので、楽しい。マネージメントは、大学でも役職につけば、誰でもしなければならない仕事で、研究とは別の脳を働かせるので、これは雑用だと思うのだが、実際にはそれが本職になってしまい、多くの大学教員は、愚痴をこぼす。ただ、研究と講義だけで時間を使っている教員は、ほとんどなく、雑用の中で研究をしている。前にも書いたことがあるが、あえて、研究時間が足らないなど、そんな贅沢なことを、と言う感じで、雑用にまみれて、その中で、少しの時間を見つけて、研究をする、のではなく、させてもらっている、と、自分が懇意にしていた同僚が言ったことがある。大学院生も、1に雑用、2に雑用、3,4が無くて、5に研究などと言っていたが、その通りだ。だから、昨日のように研究の話が6割で、残りが雑用ならば、上等なのである。面白いもので、研究だけで良い成果が出ることは稀で、雑用の中で、よいアイデアが出てくるのは、自分の経験則である。都内に行って帰ってきたら、電車に乗る時間だけ余分な時間がかかるので、損をしたような気分になるが、在宅勤務の時は、その時間を有効に使っているかと言えば、そうではなく、家内が、コーヒーやお茶を飲んだり、つまみを食べたり、しょっちゅう口に何かを入れている、と言われて、なるほど、自分が考えているほど、書斎で仕事に集中しているわけではない、と気が付いた。雑用の中のほうが、気が付くことやアイデアが出ることが多いような気がする。電車に乗る、駅の階段を上る、電車の中で小説を読む、都内で仕事の打ち合わせをする、そんな些細な、研究とは関係ない活動の中に、書斎の机で、うーん、と、呻吟して研究や資料作成などをすることと、同じかそれ以上の実りがある、隠されているような気がする。
お盆明け
昨日は16日、お盆が終わったと思ったら、いろいろな用事があった。午前中は係りつけのクリニックで特定健診を受け、午後は3つのオンライン会議とジョギングをしたので、フル回転の1日だった。お盆が終わるのを待って、いろいろな用事が予定されているから仕方ない、というか、それで有難いのだ。休日脳から仕事脳に切り替わるからで、時間の進み方が違うし、思考回路が別なので、ハラハラ・ドキドキ・ワクワクする状態に戻る。それは、ストレスでもあるし、面白さでもある。昨日書いた、バンデューラの自己効力感と言っても良いが、仕事や活動によって、人は喜んだり落ち込んだりするが、願わくば、その振幅は小さな波であってほしい、自分で乗り越えられて、後で、やった、とか、やればできるじゃないか、と思える方が良い。それは、子供でも同じだろう、低い壁なら面白くないし、高すぎる壁だと自信を無くしてしまう、 バンデューラ の言うことはその通りだが、そのバランスが難しい。昨日は、なんとかなるレベルなので、ちょうど良かったのだろうか。クリニックでは、テレビ報道の通りで、ひっきりなしに電話がかかってきて、患者さんでフロアは一杯で、まさに密状態だが、この日を待っていたかのように、医院の外にも人の波が続いている。朝の少し早い時刻に行ったので、ラッキーにもほとんど待つことなく、1時間くらいで老夫婦のすべての検査は終わった。クリニックは、今はハラハラの状態で、このままだと、看護婦さんもイライラするかもしれない。午後のオンライン会議は、仕事だから、いろいろある、が、それで良い。自分は団体の代表なので、どこか担任教員のような気がする。やんちゃな子供、優秀な子供、いろいろな子供がいて、2学期が始まった初日のような授業かもしれない。いつまでも、教員意識が抜けないようだ。
憂鬱な日
昨日は8月15日、終戦記念日だが、テレビ画面は、線状降水帯による全国の洪水被害の報道で一杯である。コロナ感染者の急増も、どこか影が薄くなり、オリンピックはもう記憶の彼方に飛んで行った。連日の雨模様で気温が低くなり、肌寒く半袖から長袖のシャツにした。スポーツジムに行く時は、その上にジャンパーを羽織るが、梅雨に戻ったようだ。スポーツジムも、コロカ感染を警戒するせいか、運営方針が少し変わったせいか、人出が少なくなって、活気が無くなっている。こんな時は、人は元気を無くし、うつっぽくなるようだ。資料作成をしている時は、楽しく、どこか浮足立っているが、仕事とか雑用などは、雨降り天気に影響を受けるのか、曇天のような気持になる。昨日の夕方は、送り火を焚いて、ご先祖様に帰ってもらった。もう、お盆も終わったか、明日から通常の生活なのか、と、夏休みが終わる子供のような気持になる。短い休みだったな、と思うが、在宅勤務では、生活パターンは変わらないはずだが、気持ちは変化する。バンデューラの自己効力感を思い出す。小さな成功体験や、褒め言葉や、代理的体験や、ドーパミンなどのような生理的反応など、教科書のような内容である。自分で自分を認める、それは、自己教示とでも呼べばよいのだろうか、たまに、PCに保存している自己記録のファイルを見ることがある。そこには、良かった、成功した、うまくいった、などの記録があるが、それを見ることで、おっ、そうか、まだ大丈夫とか、心配ないではないかとか、たかが、小さなことではないかとか、文字通り自分に自信を取り戻す、確かに、バンデューラの言うことは、当たり前だが、その通りと納得することがある。昔は、手帳の裏側に記録していたが、今はパソコンにしているが、このブログも同じかもしれない。ただ、検索することが面倒なので、簡単なメモでよい、自分で自分の記録を見れば良い。人は意外に単純な動物なのかもしれない。
線状降水帯
昨日は14日、お盆の中日であるが、雨が一日中降っている。線状降水帯とやらが、日本に長逗留して、甚大な被害をもたらしている。このやっかいもの、早く消え失せろ、と言っても詮方ない、馬耳東風とはこのことで、素知らぬ顔をして、今日あたり関東にやってくるかもしれない。諸々の用事があって外出したが、午後は休日なので、スポーツジムに行ってランニングとプールで運動した。この肌寒い雨の天気では、と行く前は、どこか気が向かないのだが、終わる頃は、すっきりと晴模様の気持ちになる。帰宅して、今日は、手巻き寿司だと、と家内が言う。ホー、それは豪勢だな、と言うと、ご先祖様も食べるから、と言われ、なるほど、と頷いた。こうやって、昔の人は、ご馳走を作って、実家や本家に親戚が集まって楽しんだのか、日頃食べたいと思ってもなかなか口にできないご馳走を、ご先祖様にあやかって食したのか、お酒を飲んでご機嫌になったのか、昔の人の知恵である。マグロ、鮭、サバ、偽物だがカニ、とびっこ、キュウリなど、海苔にご飯と一緒に乗せて口に入れると、誰がこんな美味しい食べ物を考えたのか、と思い、幸せな気分になる。飲み物は、貰い物の上等のワインである。外は雨、テレビは、各地の大洪水で、川なのか道路なのか分からないような光景を映しだして、警戒を呼びかけている。何か、自分たちだけ贅沢をしているようで、庶民の苦しさを知らないで、素知らぬ顔をしている殿様のような、居たたまれないような気分になる。これでいいのだろうか、と思いつつも、明日は我が身か、数日中に関東も洪水に見舞われるかもしれない、うーん、なんとかならないのか、近代科学技術をもってしても、自然の脅威には、打つ手がない。少し申し訳なさを感じながらも、美味しい食事をした。スポーツジムとご馳走、人はなんと贅沢に生きているのだろうか。
お盆の迎え火
昨日は13日、お盆の初日である。我が家では、迎え火を玄関先で焚く、が、昨日は小雨が降っている。今年は、全国に雨雲が長逗留して、多くの地域に大雨の被害を起こしている。コロナ感染者数は、拡大の一歩を続け、既に病床数が限界に近づいていると、ニュースで報道している。異常な感染を続けるウイルスといい、観測史上最大と形容する大雨洪水といい、巨大な魔物が地球を襲っている、まるでSFの世界に入っているようだ。それは、地球規模であり、世界が人類の知恵を絞って協力して、戦うしかない、つまりSDGsである。SDGsが言われ始めの頃、パナソニックからいただいた、まだ珍しかったSDGsバッジを背広に着けていたが、在宅勤務になって、頭から離れてしまったが、戦争や自然災害のニュースを聞くたびに、思い出す。スーパーで家内が買ってきたオガラを、アルミの皿に置いて、お墓参りの時に使うライターで点火すると、2つの皿に炎が立ち上り、ご先祖様が家を見間違えないように、という目印であるが、帰ってきても、老夫婦2人だけでは、どこか寂しいだろう。今時、迎え火を焚く家も少なくなって、近所では、あまり見ない。夕食のおかずは唐揚げで、冷やしたビールに良く合う。家内が作る唐揚げは、孫たちに大人気で、お盆やお正月に来ると、作ってくれ、とよくせがむ。家内は張り切って、何時間も前から何やら味付けの液に浸しているようで、油で揚げていると、夕食を待ちきれない孫たちは、ちょうだい、と言って、口に放り込んでいる光景を思い出す。自分が小学生の頃、夏休みは瀬戸内海で泳ぎ、帰宅して、ちゃぶ台にあるラッキョウをよく食べたが、この上なく美味しかった。お盆の時期は、実家に集まって、いとこなどと遊んだが、スイカが大好きだった。当時はまだ蛍も飛び交っていて、夜を幻想の舞台に変えた。寝る時は、蚊取り線香を燃やして、蚊帳の中で寝た。そんな時代も、もはやコロナ禍では夢でしかない。昭和は遠くなりにけり、どこか寂しい13日のお盆であった。
蒸し暑い日
昨日は、午前はオンライン採点をして、午後にオンライン会議に参加して、その後はジョギングをして、という1日だった。少し気温が下がったのか、小雨が時折降ってくる天気で、じりじりと照り付ける太陽ではなく、蒸し暑い日であった。自分には、嫌な夏の天気なのである。こんな時、人の気持ちも晴れ晴れしないようで、どこかモヤモヤしている。それが、仕事に影響を与える時もある。オンライン採点も、いつもは喜んで、というか、飽きる、という感覚はなかったが、昨日は、何度も1階の居間に降りて、お茶やコーヒーを入れたり、つまみを食べたり、明らかに、頭が集中していない。採点が終わった時は、正直、ホッとした。オンライン会議は、所属する団体にとっては、ある新規事業の重要な会議であるが、どこか気持ちが散漫になって、幼児が駄々をこねるような、どこか気に入らないことがあって拗ねる幼稚園児のような、文字通り大人げない気持ちが起きて、苛立っている自分がいた。こんなことは珍しい、が、それも天気と関係するのだろうか、その苛立ちが尾を引いて、昨夜の寝る時まで続いたから、始末が悪い。いつまで経ってもコロナ感染者数は減らないのか、とニュースを見ながら、この世は、スカッとしないのだ、と当たり前のことを考え、ニュースの後、人気の俳句の番組を観て、少しは気が晴れるかと思ったが、そうでもなく、梅沢富美男さんの、火まみれの遠州男児筒花火、などは良い句だが、なんか芝居がかっている、と偉そうに批評したが、自分では句を作れないのに、人はなんと傲慢なのだ、と反省した。今朝起きたら、まあ、こんなこともあるさ、と水に流して、頑張ろうという気持ちになった。人生、いろいろある。
