質疑応答

昨日は木曜日、オンライン会議が3つあって、忙しい1日だった。忙しいと充実とは、異なるが、昨日は、充実した1日でもあった。充実とは、自分の意見を十分に披歴し、相手の考えも受け入れて、議論をして、意を尽くすような感じで、密度の濃い時間を過ごせた、という意味である。こんな日は、手帳の予定通りに事が進むようで、しばらく行っていなかった整体院に行き、その後ジョギングをして、夕食のビールが美味しかったのは、脳も体も使い切ったからであろう。午前中の会議の内容がまだ脳裏にあって、走っていても、思い出す。会議というか、30分は自分が講演して、30分は質疑応答だったが時間が足りない、多くの質問があったが答えきれない、もっと議論していたい、そんな感じだった。質疑応答というが、正確ではない、聞く人と答える人に分けているからで、実際はそうではなくて、答える人も聞かれて気付くことが多い。共に、議論の花を咲かせているような感じなので、相手も自分も、そこにいること自身が嬉しいのだ。走りながら、その場面が浮かんでくる、自分のような年老いた人間でも、まだ研究や動向を聞きたい人がいるのだ、と思うだけで、頬が緩んでくる。途中に、今の季節には、赤い曼殊沙華の花が目に入る、だが、コロナ禍で巾着田の曼殊沙華公園が閉鎖になっている、何もかも閉じてしまっているが、心の中は、暖かった。人は、やはり他人に役立って、自分もまだ大丈夫と思えるようだ。赤く咲き誇っても、誰にも見向きもされないとしたら、花も寂しいだろう。家々には、赤や青や白色の花が、名前は知らないが、咲いていて、慰めてくれる。寂しさの種を咲かせて白桔梗(藤田柾子)、の句が月曜の新聞にあったが、今の季節に似合う。

教員免許更新講習とは

昨日は、午前中は教員免許更新講習のオンライン採点をし、午後は埼玉県の交通センターに行き、夕方ジョギングをして、という1日だった。文部科学省の方針に基づいて、来年度を限りにして、教員免許更新講習制度の廃止が決まっているが、仕方のないことだろうと思う。夏休みが過ぎて、レポート提出者の数も減少してきたが、先生方は、本当によく勉強されていると思うのは、自分の講習科目では、75分を4回分で6時間をビデオオンデマンドで視聴し、多肢選択問題とレポートが課されるが、このような講習を30時間受講して、3万円の受講料を支払って、という制度なので、相当の時間が必要なのである。昨日の新聞に、この講習のことを解説した記事があったが、先生方は忙しい、忙しすぎる、ブラック企業だとも揶揄されている、しかも、時間のやりくりをして、ほとんどは大学の対面講義だが、参加したら、大した内容ではなく、少しも実践に役立たない、オンライン講習なら、それでも自分の空いている時間、例えば夜中であっても参加できるが、という不満が積もりに積もって、などが原因で、廃止の方向になったと言う。自分のことは棚に上げて、申せば、その通りで、役に立たない講義が多く、面白みのない話し方で、聞く方も飽きが来るだろう。話し方は、受講生の先生方の方が、はるかにうまいし、講義から得ることは皆無だろう。内容は、というと、本質的に難しいのである。教育は科学か経験かと問われれば、経験が優位であることは、どうも確からしい。科学でなければ、経験だけなら、何も研究することは要らず、退職した校長先生がベストになる、確かに教員養成大学では、その方向に移っている。教育が科学でなければ、何が真実なのか、と問われれば、信念かもしれない。信念だとすれば、個人的な教育論を開陳しても、ほとんど意味はないので、国の方向を伝えるだけ、となれば、既に教育委員会主催の研修会で、聞いた内容になる。では教科の内容はどうかと言えば、教科内容はその分野の学問や研究であり、学者になる訳ではないので、まったく意味がない。つまり、どう考えても、意味を見出すことが無理なのである。と言いつつも、自分も、何が教育なのか、と探している。まだ解はない。

原稿書き

昨日は火曜日、ようやく出版の原稿執筆に取りかかった。数枚の短い原稿は、隙間の時間で書けるが、まとまった原稿になると、時間の問題ではなく、気持ちの問題である。構想や目次の構成が自分の気持ちに添っているか、などで、よし書こう、と思うか、しばらく練るか、寝かしておくか、が決まってくる。気持ちとは、毎日のように変化していて、科学のように原理は不変という訳にはいかず、教育とか学習は、世の中の動きに、左右されやすいこともあって、自分の考えも基本は変わらずとも、揺らぎが生じる。夕方に、所属団体のセミナーに参加した、セキュリティガイドラインのセミナーだったが、この分野の変化は大きく、その動向を知っておきたいと思い、専門家の話を聞いた。自分があまり専門ではない分野では、細部に目が行って、全体を見落とすことがある。つまり、本質とそうでない部分の関係が、明確に見えないことがある。その関係を教えてくれるのは、むしろ質疑であろう、その応答によって、細部から本質に目を向けることができる。月曜の新聞に、割り算に癇癪おこす子へメロン(谷村康志)の句があった。たぶん、この子は、割り算の細部に目が行って、全体の仕組みが理解できないので、苛立ったのであろう、分かる気がする。なんで、こんな細かい計算をするのだろう、嫌だ、もうやりたくない、という子供の声が聞こえそうで、仕方がないので、その子の好きなメロンを与えて、ご機嫌をとろうとしたのだろうか、分かる気がする。先の原稿執筆でも、全体の構成に不安があると、書けない、書く気が起きない、それでも書こうとすると、イライラするのは同じである。部分より全体、木を見て森を見ず、の言葉通りで、セミナーで再確認した。ただし、昨日は、原稿がスムーズにリズムに乗って書けた、こんなことは珍しい。

夕方のジョギング

昨日は月曜日、定例のオンライン会議はあるが、日常業務の話題は、ブログに馴染まない。さて、昨日は何をしたのだろうか、良い天気で吹く風が心地よい、と思ったのは夕方のジョギングの時だった。秋立ちぬ青地に白のテロップで知らせるように流れゆく雲(冨見井高志)の句が、先週の新聞にあった。昨日は西方向へのジョギングで、自転車で颯爽と下校するのは、高校生か、保育園の前を通る時は、先生が大勢の幼児に囲まれて、話をしているようで、その後ろ姿を夕日が包んでいる、そこを過ぎると、コンビニがあって、焼き立てのパン、の看板が魅力的で、どこか暖かさを感じる、そして、畑と隣り合わせで小川があって、男の子が川で魚を取っているのか、遊んでいるのか、大人になったら、懐かしく思い出すだろう、やがて、大きな公園に出て、大勢の子供たちが、大方はキャッチボールかサッカーだが、走り廻っている、ほぼ小川に添って走っているが、カモをよく見かける、大きなカメラでカモの光景を写真に撮っている人がいる、やがて、神社の前を通ると、その前に小さな公園があって、そこは、幼児と赤ちゃんと母親の世界で、落ち葉が敷き詰めた茶色に彩られて、どこか心休まるのだろう、もう秋か、いつの間にか気温も下がり、秋の虫の音が聞こえてくる。自分は、ここが良い、ここが住処で、ここで生涯を終えたい、と思う。夜、録画していた、山田洋治監督の映画「息子」を、家内と見た、そして、二人とも、このストーリに共感した。岩手県の雪深い田舎に住む父親は、家内に先立たれて1人暮らし、2人の息子は東京で暮らしているが、長男は親子4人のマンション住まいだが、父親の1人暮らしを案じて、同居を進めるが、父親は岩手に帰っていく物語だが、自分も家内も、この父親と同じで、同居はあり得ない。1人暮らしになっても、ここで良い、住むということは、生きるすべてで、先の句のように、流れる雲も、秋を自分に知らせてくれるのか、と思えば、空も小川もカモも公園も、すべてが自分の身内だからだ。

カーナビ

昨日は日曜日、午後に買い物に行ったりスポーツジムに行ったりすること以外は、平日と変わらないが、オンライン会議はない。市内のホームセンターと100円ショップに、家内と車で出かけたが、市内の道路が新しくできたり無くなったり、街の顔も、人間の顔と同じように、年々変わるようで、それがカーナビには分からない。だから、新しい道路を通る時は、空中を飛んでいるかのように、カーナビも右往左往するのか、と苦笑したら、家内が、カーナビを新しくしたら、と言うので、どうせあまり長い年月をかけて車に乗る訳でもないし、この車も新車に近いのでカーナビも新しいだろうし、いずれ免許返上するから、このままでいいだろう、と言うと、家内が、だから新しくするのよ、と言うので、えっと驚いた。が、言われてみると、その通りかもしれない、どうせ残り短い車の運転なら、新しい機材で便利に使う方が良い、という考え方は、納得性がある。どうせ短いなら、適当で良いだろう、というよりも、だから、最上のものを、という方が、前向きである。そう言えば、職場と自宅のパソコンは、すべて新しいのでサクサクと早く、ソフトバンクのルータも新しいバージョンにしてネットトラブルがなく、スマホも5Gに変えたので快適で、日本間の障子も紙からガラス型にし、などと思えば、新しいもので便利に過ごしている。贅沢をしようと思うのではないが、お金は冥途への旅立ちには必要ない、としたら、この世で有効に使う方が、理屈に適っている。そうだとしたら、コロナが収まったら温泉旅行に行こう、などと小さなことを思ったが、残りの人生は、誰に遠慮もなく、やりたいことや好きなことを、何でもしようと思えば、それだけで気持ちが浮き立つ。

セミナーに学ぶ

昨日は土曜日、午後にオンラインセミナーに参加した。話し手としてではなく、視聴者として、勉強したくて参加したのだが、オンラインのお蔭で、自宅から参加することができる。このような同時の参加もあれば、一昨日のようビデオオンデマンドのようなスタイルもあるが、有難いことに、今はいつでも知識にアクセスできる。以前には不可能なことができるようになって、少し自分の考え方も変化してきた。世の中には、凄い人が大勢いて、それぞれの専門家が、それぞれの立場で専門を追求している、という事実だが、何を当たり前のことを、と言われるかもしれない。が、このことは、自分では、革新的なことに思える。以前の自分は、長くこの分野で仕事をし、研究をし、という経験が、いつの間にか、狭い空間に閉じ込めていたようで、視野も価値観も考え方もアイデアも、その空間から外に出れないような感じであった、ということに気が付いた。つまり、そのことすら気付かないのだ、自分のことは見えないから、その空間があることすら、意識できない。昨日は、教育のDX,学習分析など、教育とテクノロジーの分野、一昨日は、社会心理学、教育の実践、教育哲学のような分野、この世には、何と優れた専門家がいて、それぞれが何と豊饒な世界を創り上げているのか、それは驚嘆に値する。だが、そんなことは以前にも接していたはずで、何故感じなかったのだろうか、それは、自分の専門という色眼鏡をかけていたからではないか、専門とは、見方を規定する、それは良い面もあるが、透明ではない眼鏡をかけて、解釈しているからではないか。オンラインセミナーに参加するようになって、少しづつ、色眼鏡の色が薄くなってきたような気がする。何か、嬉しい。

プレゼンス

昨日の午前中は、審査のための論文読みと、調べたいことがあって、海外のサイトにアクセスしていたら、その中に動画が入っていた。なるほど動画はわかりやすい、発達障害の子供が言う、教科書は難しくて逃げ出したくなる、その通りだ。英語という言葉の壁があるだけで、テキストだけでは途端に難しくなって、途中で眠くなるから、子供の気持ちが分かる。物事は、自分がその身になってみないと、分からないのだ。いくつかの動画サイトを見たが、研究発表のようなスタイルと、聴衆を巻き込むスタイルとがあるようで、思わず惹き込まれるのは、もちろん後者なのだが、それは、発表者が自分事として捉え、その通りだと実感していることを話すからではないか。この理論ではとか、これまでの知見では、などの絵空事では、実感がないので、伝わってこないのだ。動画サイトの中で、話の内容ではなく、その人の雰囲気、態度、非言語、その人の存在そのものが伝わる、という考えがあって、賛同した。プレゼンス研究として、自分も長く関わってきたからだが、問題は、どうプレゼンスを高めるのかである。確かに生得的に持っている人がいるだろう、役者で言えば、華がある人とでも言おうか、そして努力して身に付けた人もいるだろう、その差によって、確かに受ける印象や説得力が大きく違うのである。自民党総裁選挙で、政局が騒がしい、テレビで巷の声も聞こえるが、確かに、プレゼンスの高い候補とそうでない候補では、人気度が違う。ただ、少し待てよ、プレゼンスとは、表面的な態度や印象と言うよりも、その人が、どれだけ自分事として、実感として、捉えているか、もっと言えば、その人がどう人生を生きているのか、その生き方そのものが、伝わるのではないだろうか、そうでないと、人を惹き付けることはできないのではないか、と思った。

コンサルテーション

昨日は、午前中はオンライン採点をし、文献の調査をし、午後はオンライン会議があった。午後のオンライン会議は、形式的な会議ではなく、久し振りに電話が掛かってきた知り合いの企業、というか組織からの相談事であった。コンサルテーションと言っても良いが、内容は個人情報に関することなので書かないが、自分はこのような議論が好きである。他にも、いくつか類似のコンサルテーションがあるが、どちらかというと、製品開発とか方針とか現状分析と課題のような内容で、自分の研究知見や経験が役立つことが嬉しい。歳をとってくると、今日、行くところがある、という教育、今日、用事がある、という教養の2つが大切だ、という言葉が、以前に流行った。在宅勤務なので、行く場所は無くてもよいが、用事の方は大切で、用事とは、仕事、どちらかというと、他の役に立つということだろう。他の役に立つとは、自己存在の理由とでも呼びたいほど重要で、自分のためだけの仕事なら、いずれ飽きてしまうし、仕事をする理由が見い出せなくなる。このブログでも研究は趣味だと書いているが、その先には、世の中の役に立つという暗黙のゴールがある。それが無ければ、個人の趣味のために、科研費のような国が助成金を出すはずはない。コンサルテーションをやっていると、相手が、それで前に進める、こうやってみよう、この方針で行こう、などのフィードバックがあって、自分が今ここで話している意味、自己存在理由を明確に感じるからであり、昨日は1時間半が、アッと言う間に過ぎた。以前に紹介した句、独りとは声なき暮し寒の月(黛衛和)、をふと思い出した。老いるとは、一人になり、話すことも無くなるのだろうか、いづれ自分もその境遇になるのか、と思うと、今はまだ一人ではなく、人との対話があるなら、思う存分、今を生きてみたい。

予定外のこと

昨日の午前中は、奨学金応募のための留学生の論文の審査をしていた。自分は、元々は理系と言ってよいが、研究分野は、そうとは言えない、文系でもないが、社会学系と言うか、学際的と言うか、教育工学の呼称で分かる通り、総合的な分野なのである。昔は、純粋な研究分野の人からは、何か捉えどころがない、一体何を研究しているのか、と疑いの眼差しで見られ、肩身の狭い思いをしたが、今は違う。現代社会を生き抜こうとすれば、教育も例外ではなく、教育学だけでは無理で、ICTの専門家だけでは不可能であることは、誰もが納得する、そんな時代になった。偉いのは、それを見越した先達で、多くの尊敬する先生方がおられて、この分野の花を咲かせていただいた。自分たちは、その先達の引いた道路を走っているだけで、今は、なんと有難いかと思う。振り返ってみれば、自分もいつの間にか、こんなにも長く教育工学で研究や仕事をしてきたようで、たぶん、昔の研究仲間では、あいつはまだやっているのか、と思っているかもしれない。メールを見ると、いろいろな情報が飛び込んでくる、アメリカの教育工学の研究団体から、何かのきっかけで情報を送ってくれるようになった。ふと、昨日見たら、面白い動画があった、思わず惹かれて見ていたが、メタ分析による面白い研究なのだが、国際会議に参加したような気分になった。コロナ禍で、海外に行けない、国際会議で研究動向を知ることができない、と思っていたら、行かなくても、手元に届けてくれる、凄いじゃないか、と思って、朝の時間が、この上なく貴重な時間になった。昨日のブログで書いた、手帳には入ってないが、価値あること、気が付いたこと、面白いことは、予定を変えることで、豊かな知的活動ができる。予定はあるが、いつでも変更できる、これは在宅だからでもあり、非常勤だからでもあり、大学を引退した身でもあるから、だとしたら、今の境遇も悪くはない。

毎日の過ごし方

昨日はオンライン会議も無かったので、手帳にしたがって、留学生の論文を読んで審査用の質問を書いていた、それが午前中で、午後は、久し振りの青空が雲の合間から見えて、秋空だな、と思って、雨続きでできなかった草取りをして、その後ジョギングをして過ごした。オンラインが無い日は、どこか休日に似た感覚があるのだが、定年退職したり引退した人には、それが寂しいと感じることがある。月曜日の新聞に、こんな句があった、蝉しぐれ予定なき日の始まりぬ(瀬古修治)、コロナ禍では自粛生活なので、所在ない日を恨めしく思うこともあるだろう。自分も引退した身なので同じ境遇だが、いろいろな役職をしているお蔭か、何らかの仕事が入ってくる。但し、すべて非常勤なので、あまり責任はないが、有難いのは、研究を継続しているからだろう、時間を持て余すとか退屈とかは、ほとんどない。今でも科研費をいただいているので、研究することがmustになっていて、何もしなければ、国民の税金を無駄にしていることになるので、許されない。文献調査をし、実験をし、データを分析し、学会発表をし、論文に書き、まとめて出版することは、責務なのである、ただ、やっている本人にとっては、義務ではなく、趣味のようなものなので、楽しんでいるだけである。ここが、一般の退職した人との違いだろうか、研究は、与えられてするものではなく、自分で作るものである、だから、面白い。午前中の論文読みも、どこかで自分の研究とつながっていて、そうか、と気付くこともある。こう考えると、すべての仕事や活動は、どこか自分の探求を支える素材のような気もする。手帳に従って仕事をするのは、その方が効率的だからだが、ふいに飛び込んでくる情報に惹かれることもあって、予定を変えて、そちらに時間を割くこともある。今日のメールがそうだったが、このブログでは、もうスペースがない、明日に気持ちが残っていたら、書くとしよう。手帳にしたがって、しかし、臨機応変に、が、今の自分の仕事の仕方である。