昨日の午前中は、審査のための論文読みと、調べたいことがあって、海外のサイトにアクセスしていたら、その中に動画が入っていた。なるほど動画はわかりやすい、発達障害の子供が言う、教科書は難しくて逃げ出したくなる、その通りだ。英語という言葉の壁があるだけで、テキストだけでは途端に難しくなって、途中で眠くなるから、子供の気持ちが分かる。物事は、自分がその身になってみないと、分からないのだ。いくつかの動画サイトを見たが、研究発表のようなスタイルと、聴衆を巻き込むスタイルとがあるようで、思わず惹き込まれるのは、もちろん後者なのだが、それは、発表者が自分事として捉え、その通りだと実感していることを話すからではないか。この理論ではとか、これまでの知見では、などの絵空事では、実感がないので、伝わってこないのだ。動画サイトの中で、話の内容ではなく、その人の雰囲気、態度、非言語、その人の存在そのものが伝わる、という考えがあって、賛同した。プレゼンス研究として、自分も長く関わってきたからだが、問題は、どうプレゼンスを高めるのかである。確かに生得的に持っている人がいるだろう、役者で言えば、華がある人とでも言おうか、そして努力して身に付けた人もいるだろう、その差によって、確かに受ける印象や説得力が大きく違うのである。自民党総裁選挙で、政局が騒がしい、テレビで巷の声も聞こえるが、確かに、プレゼンスの高い候補とそうでない候補では、人気度が違う。ただ、少し待てよ、プレゼンスとは、表面的な態度や印象と言うよりも、その人が、どれだけ自分事として、実感として、捉えているか、もっと言えば、その人がどう人生を生きているのか、その生き方そのものが、伝わるのではないだろうか、そうでないと、人を惹き付けることはできないのではないか、と思った。
コンサルテーション
昨日は、午前中はオンライン採点をし、文献の調査をし、午後はオンライン会議があった。午後のオンライン会議は、形式的な会議ではなく、久し振りに電話が掛かってきた知り合いの企業、というか組織からの相談事であった。コンサルテーションと言っても良いが、内容は個人情報に関することなので書かないが、自分はこのような議論が好きである。他にも、いくつか類似のコンサルテーションがあるが、どちらかというと、製品開発とか方針とか現状分析と課題のような内容で、自分の研究知見や経験が役立つことが嬉しい。歳をとってくると、今日、行くところがある、という教育、今日、用事がある、という教養の2つが大切だ、という言葉が、以前に流行った。在宅勤務なので、行く場所は無くてもよいが、用事の方は大切で、用事とは、仕事、どちらかというと、他の役に立つということだろう。他の役に立つとは、自己存在の理由とでも呼びたいほど重要で、自分のためだけの仕事なら、いずれ飽きてしまうし、仕事をする理由が見い出せなくなる。このブログでも研究は趣味だと書いているが、その先には、世の中の役に立つという暗黙のゴールがある。それが無ければ、個人の趣味のために、科研費のような国が助成金を出すはずはない。コンサルテーションをやっていると、相手が、それで前に進める、こうやってみよう、この方針で行こう、などのフィードバックがあって、自分が今ここで話している意味、自己存在理由を明確に感じるからであり、昨日は1時間半が、アッと言う間に過ぎた。以前に紹介した句、独りとは声なき暮し寒の月(黛衛和)、をふと思い出した。老いるとは、一人になり、話すことも無くなるのだろうか、いづれ自分もその境遇になるのか、と思うと、今はまだ一人ではなく、人との対話があるなら、思う存分、今を生きてみたい。
予定外のこと
昨日の午前中は、奨学金応募のための留学生の論文の審査をしていた。自分は、元々は理系と言ってよいが、研究分野は、そうとは言えない、文系でもないが、社会学系と言うか、学際的と言うか、教育工学の呼称で分かる通り、総合的な分野なのである。昔は、純粋な研究分野の人からは、何か捉えどころがない、一体何を研究しているのか、と疑いの眼差しで見られ、肩身の狭い思いをしたが、今は違う。現代社会を生き抜こうとすれば、教育も例外ではなく、教育学だけでは無理で、ICTの専門家だけでは不可能であることは、誰もが納得する、そんな時代になった。偉いのは、それを見越した先達で、多くの尊敬する先生方がおられて、この分野の花を咲かせていただいた。自分たちは、その先達の引いた道路を走っているだけで、今は、なんと有難いかと思う。振り返ってみれば、自分もいつの間にか、こんなにも長く教育工学で研究や仕事をしてきたようで、たぶん、昔の研究仲間では、あいつはまだやっているのか、と思っているかもしれない。メールを見ると、いろいろな情報が飛び込んでくる、アメリカの教育工学の研究団体から、何かのきっかけで情報を送ってくれるようになった。ふと、昨日見たら、面白い動画があった、思わず惹かれて見ていたが、メタ分析による面白い研究なのだが、国際会議に参加したような気分になった。コロナ禍で、海外に行けない、国際会議で研究動向を知ることができない、と思っていたら、行かなくても、手元に届けてくれる、凄いじゃないか、と思って、朝の時間が、この上なく貴重な時間になった。昨日のブログで書いた、手帳には入ってないが、価値あること、気が付いたこと、面白いことは、予定を変えることで、豊かな知的活動ができる。予定はあるが、いつでも変更できる、これは在宅だからでもあり、非常勤だからでもあり、大学を引退した身でもあるから、だとしたら、今の境遇も悪くはない。
毎日の過ごし方
昨日はオンライン会議も無かったので、手帳にしたがって、留学生の論文を読んで審査用の質問を書いていた、それが午前中で、午後は、久し振りの青空が雲の合間から見えて、秋空だな、と思って、雨続きでできなかった草取りをして、その後ジョギングをして過ごした。オンラインが無い日は、どこか休日に似た感覚があるのだが、定年退職したり引退した人には、それが寂しいと感じることがある。月曜日の新聞に、こんな句があった、蝉しぐれ予定なき日の始まりぬ(瀬古修治)、コロナ禍では自粛生活なので、所在ない日を恨めしく思うこともあるだろう。自分も引退した身なので同じ境遇だが、いろいろな役職をしているお蔭か、何らかの仕事が入ってくる。但し、すべて非常勤なので、あまり責任はないが、有難いのは、研究を継続しているからだろう、時間を持て余すとか退屈とかは、ほとんどない。今でも科研費をいただいているので、研究することがmustになっていて、何もしなければ、国民の税金を無駄にしていることになるので、許されない。文献調査をし、実験をし、データを分析し、学会発表をし、論文に書き、まとめて出版することは、責務なのである、ただ、やっている本人にとっては、義務ではなく、趣味のようなものなので、楽しんでいるだけである。ここが、一般の退職した人との違いだろうか、研究は、与えられてするものではなく、自分で作るものである、だから、面白い。午前中の論文読みも、どこかで自分の研究とつながっていて、そうか、と気付くこともある。こう考えると、すべての仕事や活動は、どこか自分の探求を支える素材のような気もする。手帳に従って仕事をするのは、その方が効率的だからだが、ふいに飛び込んでくる情報に惹かれることもあって、予定を変えて、そちらに時間を割くこともある。今日のメールがそうだったが、このブログでは、もうスペースがない、明日に気持ちが残っていたら、書くとしよう。手帳にしたがって、しかし、臨機応変に、が、今の自分の仕事の仕方である。
配慮すること
昨日は月曜日、週の始めなので、定例会議もあり、仕事が始まるという感覚がある。午前に、係りつけのクリニックに行って、先般受けた特定健診の結果を聞いた。結果は大きな変化もなく、まあまあだった、と言っても、コレステロールと体脂肪などが多く、アルコールと食事を減らさないと、と自戒した。数字で示されると、説得力があるので、意識が変わる、ということは、データに基づく政策決定は、やはり意味があるのか、と思い直した。午後は2つのオンライン会議だったが、2つ目の会議で、思い直したことがあった。自分は、どうも話過ぎ、前に出すぎ、自分の主張を言いすぎ、相手への配慮が欠ける、などと自省した。若い頃から研究については、上下の違い、身分の違い、男女や年齢の違いなど、すべて関係なく、優れているかどうか、正しいかどうか、だけで、議論してきたせいか、どうも、その性癖が抜けないようだ。会議のメンバーで、自分よりはるかに年下だが、尊敬する先生がいて、彼の発言を聞くと、一言でいうと、優しいのである。他人に対する優しさ、思いやり、心遣いが、隅々に感じられて、自分が、まだ精神的には、若造のような未熟さを、感じた。主張すべきは主張する、若いうちは、ただそれだけであるが、年齢を重ねると、それを超えて、相手への優しさが出てくる。自分は、まだ修行が足りない、意気込んで、相手を説得しようとし、論理的に説明して、という姿は、大人げない、と思ったのである。身体の健康も、心の健康も、意識して、改善に勤めなければいけない。スピードを上げすぎれば交通違反になって検挙されるように、ブレーキをかけて、自分を制御することも必要だ。自分は、行け行けドンドンが好きなようで、周りへの配慮が不足している。この世を生きていくには、進むと止まる、アクセルとブレーキ、自信と謙虚、表と裏、光と影のように、両方をうまく使いわけて、制限スピード内で運転することが必要なのか、でも、あまり深刻になることは、ない、努力すれば、相手も分かってくれるだろう、と気楽に考えるが、これは良いことなのか、反省すべきことなのか。
不満足とは
昨日は日曜日、だが、雨が降ったり止んだりで、はっきりしない天気だった。生活パターンはいつもの通りだが、午前に気になっている仕事をやらねば、と思いながら、出版予定の原稿を修正しているのは、この方が、ああでもない、と思いながら仕事をするので楽しいからである。ああでもこうでもない、と思うのは、工夫することでもあるし、逆に、このままでは満足していないことでもある、だとすれば、現状に満足していないことは、楽しいことに繋がるのか、そういえば、どこか頭の隅に隠れていて、あの図をこうすれば面白い、など、スポーツをしても歩いていても、時々顔を出してくる。昨日は、その気掛かりなことを、やっていて、時間を忘れた。午後は、家内の用事で、庭に植える花とか野菜とか土壌などを買いに、郊外のホームセンターに行った。ある団体から、携帯に電話が掛かってきたが、運転中は出ることができない、自宅の固定電話にも一昨日かかってきたが、携帯に掛けてほしいと、家内が伝言したようで、車を止めてから、電話をしたが、今度は相手が出ないし、留守番電話の設定になっていないようで、何度掛けてもつながらない。確かに、電話は不便である、最後はメールでようやく送ってもらい、事なきを得た。電話は時を同じにしないと通じない、メールは時を超える、ということは、電話に満足しないことが、メールに繋がったのか。物事は、なんとかしてくれ、などの不満足があって、それが新しいものを生み出す、のは、モノの世界だけでなく、先の原稿の修正も、否、すべてに通じることではないか、それならば、満足しないこと、なにかやってくれ、ということは、すべて面白いことに繋がる。昨日の電話の要件は、原稿依頼であった。これで、また楽しいことが増える。
小さな幸せと小さな不幸
昨日は土曜日、朝から雨が降り続け、書斎の窓から見えるマンションも、少しグレイがかっている。午前は原稿を書きながら、いろいろ雑念が浮かんでくる、台湾からの留学生の論文を早く読みこまないと、英語で質問ができない、時間は取れるだろうか、とか、今書いている原稿は、一般向きでも教員向きでもないので、売れないだろうな、とすれば出版社に済まないな、とか、人は先々のことを勝手に想像して不安になる。午後は、家内と月に一度のお墓参りと買い物に出かけ、最近は必需品になった運動靴を買い、その後スポーツジムに行った。新しい運動靴を買っただけで、子供がおもちゃを買ってもらったような気持になるのは、年齢に関係ないのだろうか。夕食は、テレビニュースを見ながらだったが、菅総理の退陣の余波が、政局に喧騒の渦を巻き起こしている。いつかのブログでも書いたが、自分は菅さんを応援している、実直で着実に仕事をこなしていくタイプに見えるからだが、家内の評価は、華がないから、どうも、という世間と同じだった。菅さんは、職人が技を磨くような仕事ぶりで、それが研究者の生き方に似ているから、どこか親近感を持つのかもしれない。尾身さんも凄い研究者だが、タイプが違うようで、人にはいろいろな仕事の仕方がある。どのような生き方にも、運動靴を買って嬉しい気持ちと、出版しても売れないだろうという不安の気持ちが混じって、小さな幸せと小さな不幸が、さざ波のように、やってくる。今週月曜の新聞に載っていた、ノートから付箋が落ちていくようにあの日のこともいつか忘れる(吉村おもち)の句を思い出した。若い女性の失恋の句のようにも思われるが、若い人も年配者も政治家もサラリーマンも自営業も教員も、そして子供さえも、小さな不幸を抱えている。菅総理の立場とは大きさは違っても、この句のように、誰も人生のノートから一枚一枚はがされていき、楽しい思い出だけが残っていくのではないだろうか。
変化の中で生きる
昨日は、午前中に出版のための原稿書きの時間がようやく取れた、午後はソフトバンクの新しいルータの設置をした。お昼を食べながら、テレビを見たら、政局が大きく動いて、菅総理が総裁選を辞退するニュースで持ち切りだった。昨日のブログで書いたが、常に世の中は動いている、変化している、留まっていることはない。だから、歳をとったからとか、もう気儘に生活したいからとか、理由はいくらでもつけられるが、その変化と共に、生きていくしか術はないようだ。原稿を書いていて、こんなことを書くのは、気恥ずかしいが、自分でも気に入った、庶民的な感覚で言えば、惚れ込んだ、という印象がないと、筆が進まない。昨日は、そんな感じで、文章が自分を惹き込んでくれて、そうだ、その通りだ、と言いながら、原稿の中の自分と対話していた。ビゴツキーの言う通りだ、と思いながら、自分の世界に入っていた。ただ、出版できても、売れるかどうかは別問題で、そこが世の中の厳しさである。午後は、ソフトバンクのBBユニットというルータの設置をしたが、恥ずかしながら、バージョンアップがあって、無料で機材を交換できることを、知らなかった。オンラインが日常化しているので、Wi-Fi が、たまに不調になることがある、なんとかしたいと思っていたら、この機材はレンタルだと知って、早速チャットで連絡して、昨日届いたので、スマホ、パソコン、プリンターなど、すべて設定を変えた。プロバイダーへの連絡は、今は電話ではつながることが稀で、チャットならすぐにつながることを知り、スマホの音声入力で、簡単にできた。確かに、世の中は動いている。原稿も、内容が古ければ、誰でも知っているとか、文字通り陳腐であれば、誰も見向きもしないし、プロバイダーへの連絡も、チャットならスムーズだし、失敗もするだろうが、それは変化に対応することの必需品であり、当たり前のことだ。と思いながら、凡人の自分では、失敗しないように、どこか丸く収めたいなどの気持ちが起きるが、どうもそれだけでは、この世の中は生きていけない。だが、コロナ禍の時代、変化があること自体が、有難いかもしれない。
世の中の変化
昨日は、午前中はオンライン採点が中心で、午後はオンライン講演があった。オンライン採点は、毎週木曜日に充てているが、教員免許更新講習の受講生のレポート採点だが、主催者からの要請で毎週木曜に採点して、報告することになっているが、既に決定されたように、来年度までで、この制度そのものが廃止になる。レポートを読んでいると、自分の意図と違う受け取り方に気付いたり、こんな工夫があるのか、と感心したり、受講生から学ぶことが多い。75分の講義ビデオを4本受講して、その後でレポートを書くので、かなり多くの時間がかかり、多忙な先生には負担だろう、と思い、夏休みのような自由な時間がないと、受講することも難しいことが分かるので、制度の解消も止むを得ない、と同情する。世の中は、常に動いている。午後はオンライン研修で講演をしたが、自分の準備したスライド枚数が多すぎて、時間のコントロールが難しく、正直に言えば、話しながら焦った。受講した先生方には、申し訳ないと思い、最後まで視聴していただくだけで、有難く思った、ただ、これは自己効力感や自己肯定感で言えば、マイナスなのだが、ふと思う。自分はどこか弱い、まだまだだ、と思うから、今度はなんとかしよう、とか、それに比べればあの人は凄い、と尊敬する気持ちも出てくる。もう一度、ここを勉強したい、など、自分がつまづく毎に思うことが、研究や仕事へのエンジンになっているから、有難いのだ。自分の団体を財政的に支援している会員はすべて企業だが、この前新規会員があったので、ネットで調べた。こんなに業務内容が変遷しているのか、カメラからデジタルへ、100人規模から数万人規模へ、ただ驚くことばかりで、明日は分からない、一寸先は誰も予見できない、と思って努力してきたのだろうか、企業だけでなく、政治も教育も動いていくのが世の常だと知った時、免許更新講習の制度もオンライン講演も、変わるのが当たり前で、生きている限り、変化についていくことが、すべてなのだろう。
所沢駅のお昼時
昨日は、用事があって、お昼時間に久し振りに所沢駅に行った。自宅に最寄りの西所沢駅と違って、都市開発をしているので、まるで都心並みで、ここは新宿か渋谷かと見紛うような賑わいであった。駅が2階で、そのまま直結で西武デパートに、デパートから直結でマンションに、というように、車の動きを気にせずに移動できる。駅ビルには、洒落たレストランや、ここは銀座か思うような目を引く店が並んでいて、改札口を出ると、広場があって、待ち合わせができる席が用意されている。お昼時なのか、若い人たちが大勢歩いていて、銀ブラのように店を覗いたり、レストランで食事をしている姿を見ると、緊急事態宣言地域のことなど忘れてしまう。高校生が目に付く、この時間にと思ったら、9月1日、そうか、今日から始まったのか、嬉しそうに談笑している、久し振りに友達に会ったのか、今日は始業式で早く終わったのか、駅ビルは楽しさで包まれている。駅でアナウンスがある、今日は防災訓練の日なので、電車が少し遅れます、ご了承ください、の声を聞いて、昔と変わっていない、どこかはしゃぐ自分に気が付いた。家内と待ち合わせて、お蕎麦屋さんに入った、コロナ禍以前は、よく行ったが、新宿のオフィスビルにあるチェーン店の蕎麦屋さんで、何か新宿に行って仕事をしてお昼時間になったような錯覚を覚えた。駅ビルの中の大きな本屋で、欲しかった小説を買い、隣接のデパートで、ご執心のボールペンの芯を買ったが、外は小雨が朝からずっと降りっぱなしである。人が集まること、それはなんと心が弾むことなのか、雨など関係ない、吹き飛ばしてくれる、人は人によって生きていけるのだ。自粛で狭い家で、子供も親も巣ごもりの生活を続けたら、うつ状態になるだろう、新聞では児童虐待が急増していると言う。高校生が嬉しそうに歩いている、老いも若きも行き交っている、早くワクチンを接種して、人は人らしい生活をする方が良い。山に何故登るのか、そこに山があるから、は名言であるが、同じように、学校は何故素晴らしいのか、そこに子供がいるから、も正解だろう。子供がいない学校は、建物だけで、むしろ怖い存在になる。子供たちよ、新学期の学校生活を精一杯生きよ。
