平凡

今は水曜日の夕方、パソコンの画面に向かっている。コロナ禍で在宅勤務になって、曜日の概念が無くなった、という人は自分だけでは無いだろう。境目が無くなった、曜日の境目、時間の境目、公用と私用の境目、これが良いことなのか、悪いことなのか、凡人には分からないが、時の流れのままに、生きるしかないだろう。土日も平日と変わらず、朝8時から12時までは書斎で仕事をしている、外出の用事が無ければ、年中同じパターンなので、書斎で往生できれば、無上の幸せである。だから、曜日の中辺りに、午後を自由な時間にして、日曜日と水曜日辺りに、スポーツジムに行く予定にして、その曜日にブログを書く、と、あくまでも予定だが、自分では決めている。平日の午後、ランニングマシーンで走ったり、プールで泳いだり、なんと贅沢な、と自分でも気が引けていたが、こんな非日常も、メンタルヘルスには良い効果を産むだろう、と思って、実践している。コロナ禍になって、生活苦、家庭内不和、不登校児童生徒の増加、など、厳しい生き方を強いられている人もいるだろう、うつ病の発症や精神が不安定な状態に置かれる人も多いようだ。どう考えればいいのだろうか。自分のような人間は、むしろ今の生活パターンの方が、快適と言うと叱られそうだが、もう慣れてしまって、コロナ禍以前のような毎日電車通勤など、あり得ないし、戻るのは不可能である。今のままで良い、と言うと、凡人の考えることは、そんなに凡庸か、生きている甲斐があるのか、と批判されそうだが、まあ、そんなものだ、と答えるしか能がない。毎日午前中は仕事をしています、と言っても、汗水たらしているわけでもない、苦労されている人には、すいませんと、どこか頭を下げるような気持になる。負けへんで子のためサンタ努めます(久保田洋二)と、新聞に句が掲載されていたが、このサンタ役は、選者も書いていたが、シングルマザーが似合っている。何をつまらぬことを、と自責しながら、頑張ってください、と応援した。もうクリスマスのシーズンか、平凡ながら、月日の経つのは矢のごとしで、いろいろな思いを込めて、年末を迎える。

極上の時間

今は日曜日の夕方、当たり前だが、このブログを書いている。さすがに日曜日はオンライン会議は入ってこないので、自分の時間が取れる。午前中は、出版のための原稿を書いていたのだが、その間に私的な用事も済ませるが、それでも原稿を書けるのは、最高に贅沢な時間である。昔読んだ英語の論文があって、その要旨は分かっているのだが、参考文献がどうしても思い出せない。勿論、学術データベースにアクセスするのだが、あの解釈は何か勘違いしていたのだろうか、どの論文のタイトルを見ても、これだという確信がない、もしそうだとしたら、原稿の方向を修正しなければならない、など悶悶としていたら、直ぐに時間が経った。ふと、あれは論文ではなく本だったのでないか、と思って、書棚を見たら思いがけず見つかった。ぶ厚い洋書なので、たぶん時間をかけて読んだのだろう、鉛筆の軌跡が残っている。そして趣旨通りの内容が、きちんと書かれている。記憶とは凄いものだ、と感心したのだが、それは専門のことだけで、日常のことは、ほとんど健忘症に近い。午後は買い物に家内に付き合って、その後スポーツジムに行って、ランニングをし、プールで泳いだ。帰宅時刻は午後5時くらいだが、近所の小川の橋の上から、夕暮れで薄暗くなった川にカモが5羽か6羽いて、寒くはないかと意味のないことを思った。先ほどシャワーを浴びて一息ついたら、今の時刻になった。メールをチェックする、そうか、ふむふむ、まあいいか、など独り言をつぶやいた。今日は、今週は、どうだった、と自分に聞いてみる、悪くはないともう一人の自分が答えた。この家に老夫婦でいると、寂しさはない、と書くのは、こんな句を新聞で読んだからだ。レジ譲に「袋2枚」と告げしのみ今日の1日(ひとひ)の人との会話(豊嶋雅明)、なるほど、独居とはこういう生活かもしれない。いづれ、自分もそうなるのか、そう思えば、原稿を書き、メールを読み、スポーツジムに行き、シャワーを浴びる、この何でもない1コマ1コマは、極上の時間である。

仕事も私用も結構

うっかりしていた。今は、金曜日の夕方である。週2回はブログを書くと宣言していたので、およそ水曜日か木曜日に書いて、さらに日曜日に書けばという計算がすっかり狂った。慌てて、今書いているところで、後は日曜日になる。遅れたのは、いろいろな用事が入って、その処理に追われていたので、すっかりブログのことは頭の隅になかった。今日のブログも今週の付録のような感じだが、自分では丁寧に書く心づもりでいるのだが、急ぎの仕事には勝てない。今朝の朝食の後、オンラインが始まるまでに少し時間があった。気になっていた雑草をふと刈った方がよいと思って、短い時間だが、小さな庭だがきれいにした。少しでもきれいになると、何故か、いろいろなことが目について、そろそろ大掃除の真似事でも準備しておいたほうがいいなどと、頭をかすめる。仕事は公用、私事は私用だが、この概念そのものが古くて、公用も私用もどちらも大切だと、この頃思うようになった。私用を犠牲にして、仕事だけに生きてきて、晩年になって後悔している人も世間には多いと、どこかで聞いた、というか、自分でもそう思っている。あれほど、すべての時間をつぎ込んで研究した結果、何も残らなかった、何の影響も与えなかった、あれは何だったのか、自己犠牲の上に成り立つ自己満足だったのか、だとしたら、日の当たらぬ影でそっと咲く花なのか、考えてみれば、ほとんどの人の仕事の成果とは、そのようなものかもしれない。残骸の山という表現がピッタリである。と思えば、私用で汗をかけば、家族のためになる、軽く考えてはいけないのだろう。仕事も結構、私用もそれ以上に結構である。けふ少し明日また少し冬支度(山口照男)の句を、新聞から引用する。世間では、誰でも家の中をきれいにしたり、年賀状の準備をしたり、何かと気ぜわしくなって、年末を向かえるのだろう。それで良いのだ。自分も世間並みに、冬支度に取りかかっている。

日常の一コマ

今は、土曜日の夕方だが、ブログを書くことにした。その理由は大したことではなく、明日は日曜日だが、夕方に時間が取れるかどうか不安なので、という場当たり主義の結果である。土曜の夕方は、どこか気が楽で、午前中は予定した通りの原稿を書いて、それは優雅な時間のようで嬉しい時間であった。原稿を書く、なんと贅沢なことを、と自分でも思うのは、原稿は依頼されて書くものであっても、自分の自由な意思であり、自分の作品であり、それは趣味の世界と同じだからである。お昼は、家内と所沢の駅ビルにある店に行って、買い物をした。駅ビルの中は、渋谷か新宿か銀座かと思うほどの賑やかさで、マスクをしている以外は、すべてコロナ禍以前に戻った感がある。駅ビルの一角に、ピアノが置いてあって、腕に覚えのある人は自由に弾ける、その光景に出会った。家内と聴き惚れた。自分たちの年代に分かる、若い頃を思い出せるメロディーが、しかも華麗な演奏ぶりで、プロではないかと思うほどの技量で、多くの人を魅了した。凄いじゃないか、こんなプロ級の人がいるのか、と思って、しばし恍惚とした時間を過ごした。ツタヤで家内が本を買って、自宅に戻ったら、日差しは西に傾いていても、まだ暖かく、その柔らかな温もりに浸りたいと思って、小さな庭にある、少しばかりの雑草を取った。もう冬に近いせいか、雑草と言っても、以前に抜き損ねたもので、弱弱しいのだが、年末前に少し庭をきれいにしようとした。それでも、晩秋の日差しは、花や木々に天の恵みのような慈愛を与えているようで、自分もそこにいることで、小さな喜びを感じる。そうか、今日は土曜日か、明日は日曜日で好きなことができる、と思えば、書斎に入っても、何も苦労を知らない子供のような気分になる。新聞の歌壇から句を引く。ただ今とお帰りの声秋の暮(瀬古修治)は、選者も、玄関でのただ今の声と、部屋からのお帰りの声が、小さな幸せを感じさせる、簡明ないい句だと誉めていたが、自分も素直に同感する。なにげない日常の一コマが、実はこの上ない有難いことなのだ。まるで作家気取りで、原稿を書けることだけで十分幸せで、買い物ができるだけで、ピアノの演奏を聞けるだけで、雑草を取るだけで、十分に生きる価値がある。

全開で生きる

今日は、正確には、今は12月3日金曜日の午前6時15分である。久しぶりに早朝にブログを書いている。理由はいくつかあるが、ともかく時間がない、それはいくつかの仕事が重なっているからだが、何故か11月と12月に入っても、途切れない。ブログは日曜と、水曜日辺りと、週2回書く予定にしているが、ふと今日は金曜日だと気が付き、このままだと、週1回になってしまうという危機感を覚えて、今日の早朝に書くしかないと思ったのである。最近は、重要な会議や審査会がある、講演で出張がある、その準備がある、調べなければならないことが山積している、健康のために、ジョギングとかスポーツジムに行く、私用だが大切な用事がある、所属団体の会議がある、審査系の書類が来るなどで、時間が厳しいのである。そうなのだが、有難いことは、そのために、仕事の質が落ちることはない、と思っている。昔、東工大の坂元先生や清水先生は、死ぬほど忙しい、とよく言われていたが、それだけの仕事量をこなし、そして高いレベルを維持し、新しい仕事に挑戦し、と、なるほど、全力で生きているとは、このことか、と思う。最近の審査系のオンライン会議で、似たような光景を見た、著名な教授が、もう時間がなくて、ぎりぎりの時間を使って、早口で、それでも伝えきれない、というプレゼンは、昔の東工大を思い出させた。仕事や研究に追われ、追われるから、さらにレベルを上げ、という循環になっている。かつて新聞に掲載された、自分の好きな短歌がある。走る子が回転させるかざぐるま回転をして子を走らせる(村上秀夫)、仕事や研究が人の活動を全開にさせ、夢中になって追いかけるから、質が向上して、また仕事や研究が広がる、という循環なのである。この循環に入ると、人はさらに仕事欲が出てきて、というように、止まることがない。だから、自分は、週2回のブログは維持したいと思うのだろう。今日も、全開で生きていける。

現実か幻想か

今日は土曜日、本当は、明日の日曜日にスポーツジムに行って、爽快な気分で、ドーパミンのような脳内ホルモンが分泌されて、ブログを書いた方が、自分も読む人にも、幸せ感のお裾分けができると思うのだが、気になるのは時間である。今日は、時間がある、昼間は、新居祝いを届けに都内に出かけたが、身内のことなので省略するが、外気に接すると、いつの間にか冬になったのか、と思うほど、身体が冷えた。ちょうど、お正月のような天気で、気持ちは、身体とは別で、ほんわかとして、昼間からお屠蘇を飲んだように、のんびりとしている。帰宅して、午前に仕事を済ませているから、特に急ぐこともなく、書斎で、好きな調べ物をした。そう言えば、数日前に、久し振りに友人と約束して、昼食を一緒に取った。友人の馴染みの寿司屋さんで、生ビールを飲みながら話したが、昼間からビールとは、お正月くらいのものだから、どこか心が弛緩して、のんびりと過ごしたことを思い出した。もう歳だから、いいではないか、健康に注意して、自分も労わりながら、生きていこうか、と同意した。話の中身は、一緒に温泉旅行に行ったこと、仕事で忙しく夢中になったこと、人間関係で悩んだことなど、誰にでもある、過去の出来事である。回想すれば、心は昔に戻る、こうすれば良かった、あれは、自分の過ちか、と思うこともあるが、いいではないか、その時は、精一杯だったから、許してくれるだろうと、お互いを労わりながら、時を過ごした。今日も、同じような気持ちで過ごしたが、それは人生のページをほぼめくり終える年齢で、ほんの少しだけ感じる幸せ感かもしれない。あの頃は、どうだったのか、現実だったのか、幻想ではなかったのか、と感じることもある。SLの汽笛の届く花野かな(浅見三葉)の句を新聞から引用する。花野とは、花が咲きみちた野で秋の季語らしいが、花いっぱいの野を、SLが汽笛を鳴らしながら通る様は、幻想に近く、どこか見覚えのあるテレビドラマのようである。今の自分は、そのような幻想の世界に浸っているのかもしれない。いいではないか、今年も後1ヵ月で終わる。

逆転するとは

11月は、何故か忙しい、とブログでも書いたが、それは、講演準備、原稿書き、仕事の打ち合わせなどだが、それ以外にもある。昨日と今日が、それに該当するのだが、玄関にある備え付けの靴収納箱があるが、その箱の下部は、空間になっている。つまり玄関から上がる廊下の段の高さに相当する分だけの空きがあるので、そこに適当に靴などを置いていたが、見栄えがよくない、そこで、家内が通販で、その空間に合う靴箱を注文して組み立てたのだが、これが、少しだけ大きくてその空間に入らない。これは、困った、昨日は、組み立てた大きな靴箱をホームセンターに持って行って、電動ノコギリがあるので、そこで削ろうと思って、相談したら、とても無理、そもそも加工することはできない、むしろ電動サンドペーパーがいいのだろう、と言われ、2泊3日の貸し出しで、借りた。昨日の夕方、玄関で表面を削っていたら、ものすごい削り粉が、玄関に舞い散った。それでも、サンドペーパ―で削ればなんとか入ると期待して、何度も試みたが、どうしても無理だった。なんだ、これは、と憤慨してみても、何の解決にもならないことは、当たり前である。昨夜は床の中でも気になって、考えていたが、こうするしか手がないと思って、今日それを実行しようとした。夢の中では、何でも描ける。午前中は自分の仕事があるので、と思ったが、気になったので、試みた。完全に失敗だった。しかし、手が自然に動いて、詳細は省くが、発想の転換とは、このことか、と思うような、凄いアイデアで、うまくいった。自分としては、上出来の靴箱ができて、無事に収まった。子どもが、工作がうまくできて、先生に褒められたような気分になった。あいにく、家内は用事で夕方にならないと戻ってこないのだが、そこで、どうだ、と見せつけたいと思ったのである。ここまで書いたら、ちょうど今帰ってきた。後は、書かなくても、想像できるだろう。いくつになっても、駄目だと思っていたことが、うまくいくと、土俵際の打っちゃりか、逆転ホームランか、のような気持になる。たまには、こんなことも起きるのか、この世はまだ捨てたものではない。

時のまにまに

今は、土曜の夕方、ジョギングを終えて、シャワーを浴びて一息ついたら、まだ夕食までに時間がある、今の内にブログを書いておこうと思って、書斎に入り、画面に向かっている。今日は、朝からお昼まで、オンライン研究会に参加して勉強した。文字通り、勉強なのである。教わることが多かった、しかも、心底から賛同する発表に出会った、オーバーに言えば、視聴しながら、胸がドキドキするような気がした。だから、ずいぶん、得をした研究会だったのだ。共鳴するとか、知的興奮とかは、年齢にはまったく関係ないのだ、歳を取ったから、は、言い訳の時に使うのだろう、物忘れはあっても、肝心のことは覚えていて、本質だけは輝きを失っていないで、周囲のことはぼやけているような印象で、オンラインで自分のビデオの背景をぼかすような印象である。些細なことはどうでもよくなり、肝心なことだけは、妙に気になるのだが、それで良い。昨日は、都心に出かけ、オンラインセミナーで講演をした。まるでテレビスタジオのような晴れがましいオンライン配信だったが、正直に面白かったし、知的に満足した。周囲の人に、多少のお世辞も交えてだが、良かった、と言ってもらえたが、何でも仕事がうまくいくと、嬉しい。その余韻が今日もあって、小さな幸せのような気分を味わった。小さいながら庭に出ると、バラや山茶花、野菊などが咲いていて、数羽の雀が木々に止まっている、それだけで、生きていることが有難いと思う。自然というのは、悠々として、コロナだの仕事だの人間関係だの、人の世のこととは別世界なので、そこに触れるだけで癒されるのだろう。そう言えば、昨夜は、ほぼ皆既月食だったので、家内と見た。見事に、東の空にオレンジ色をした光が月の下部に見えて、スマホで写真を撮った。下部だけ光った月は記憶にない、あれは地球の影なのか、と思うと、確かに宇宙は悠々として泰然としている。身体が冷えてきて、すぐに家に戻ったが、しばし、夢追い人のような気持になった。暦通りに、秋も深まり、足も冷えてくる。冷や冷やとズボンのあしをとほしけり(よしだ悠)の句を、新聞から引く。寝る時には、ズボン下をはいているが、それ以外は着けていないのだが、そろそろだと、思っている。寒い時には、それなりに対処すればよかろう、何も瘦せ我慢しなくてよいだろう。時のまにまに、生活する心地よさを、感じる年齢になってきた。

審査系に引きずられる

週2回ほどブログを書くことにして、手帳に入れている、時間があってもなくても、予定に入れたほうが、人は動きやすい。それでも、手帳を見ると、予定に書いていても、できないで、延期にしている。その時は、机の前に張り紙があって、ポストイットで書いておき、忘れないようにしているが、なかなか思うようにいかないのが、世の常である。午前中に、今日は必ずと思って、ある審査系の仕事をした、ようやく重い腰を上げたのだが、始めは、早くという気持ちだけが先行して、深く読めていない。だが、人の心は分からない、ちょと待てよ、このアプリはどうなっているのだろう、ネットで調べて、まさかダウンロードまではしないが、その内容を調べたくなった、アッと言う間に、時間が経ってしまう、こんな状態で審査をするので、いくら時間があっても、足りないのは当然だろう。今日のメールで、また別の審査が来た、この前、終わったばかりではないか、と思い、今度こそは、委員を辞退しようと思うのだが、そこが凡人の浅はかさ、というか、一応家内に相談してから、などと、主体性のないことを考える。審査でも、何でも、始めは敷居が高いのだが、それが突然に、向こうからこちらに飛び込んでくるので、そうか、と思って、付き合ってみると、どこか面白い所があって、つい引きずられている。それが、何かの拍子に、講演とか原稿などの内容に結びついてくる、それが、不思議なのである。いつかのブログで、見えない糸で結ばれている、と書いたが、これは、どうも真実らしい。なぜ直感のほうが上手くいくのか、の本は、その根拠を数々の科学論文で証明していたが、その通りである。人の目には、見えないだけであろう。知らぬ間に、秋も深まった、列なして下校する子ら一人となり走り始むる秋の夕暮れ(伊東一憲)の句が、新聞にあったが、夕方はすぐに辺りが暗くなる、そうか、もう11月も半ばを過ぎたのか、今日も喪中の葉書が来た。

オンライン研修旅行

昨日は土曜日、にもかかわらず、オンライン会議が2つあった。1つは、理事会なので、定例だが、他方は、virtual study tourだから、オンラインの研修旅行のようなもので、フィンランドの学校と繋いだイベントだった。素晴らしかった、掛け値なしの貴重な情報をもらい、多くの知的お土産をいただき、運営に関わった人たちに、心から感謝した。始めは、どうかと思ったのは、時差もあるから、夜7時から9時まで、という夕食タイムだったので、9時から夕食か、と思ったのだが、そんな小さなことは、吹き飛んでしまった。凡人の考えることは、時間帯とか、食事とか、晩酌とか、テレビ番組とか、まるで些細な事で、そんなことに躓いて、迷っているらしい。自分の料簡の狭さに嫌気がさしたが、優れた研究や実践は、どんなことも刃が立たないくらい、人を魅了するのである。画面に向かって、そうだそうだ、と頷いたり、小さな声を出したり、画面に顔を寄せて見たり、側に人がいれば、さぞおかしい姿であったろう。それだけ、知的興奮を経験した。最後に、お礼の挨拶をする役目だったので、自分の気持ちを率直に述べて、お礼を言ったが、たぶん、感謝の気持ちや誠意は、通じただろう。人は、本心からそうだと納得したものは、必ず相手に伝わり、共感することができる。午前中のオンライン会議は、多少のすれ違いがあって、どこか、自分も小さな責任があるような気がして反省した。喜んだり、萎れたり、興奮したり、人は、どうも小さな波にもまれながら、生きているらしい。今は、日曜日の夕方、スポーツジムで汗を流して、先ほどお風呂から上がって、ゆったりした気分で、このブログを書いている。新聞に、こんな句があった。張りつめた日もあり気弱な日もありて晩酌一合天下泰平(下谷海二)、何も説明は要らないが、今の自分の心境かもしれない。昨日の貴重な実践は、今自分が取り組んでいる資料作成に、間接的な応援のような気がして、嬉しくなったのである。仕事は、どこか見えない糸で結ばれているような気がする。