昨日は木曜日、オンライン会議が3つあって、忙しい1日だった。忙しいと充実とは、異なるが、昨日は、充実した1日でもあった。充実とは、自分の意見を十分に披歴し、相手の考えも受け入れて、議論をして、意を尽くすような感じで、密度の濃い時間を過ごせた、という意味である。こんな日は、手帳の予定通りに事が進むようで、しばらく行っていなかった整体院に行き、その後ジョギングをして、夕食のビールが美味しかったのは、脳も体も使い切ったからであろう。午前中の会議の内容がまだ脳裏にあって、走っていても、思い出す。会議というか、30分は自分が講演して、30分は質疑応答だったが時間が足りない、多くの質問があったが答えきれない、もっと議論していたい、そんな感じだった。質疑応答というが、正確ではない、聞く人と答える人に分けているからで、実際はそうではなくて、答える人も聞かれて気付くことが多い。共に、議論の花を咲かせているような感じなので、相手も自分も、そこにいること自身が嬉しいのだ。走りながら、その場面が浮かんでくる、自分のような年老いた人間でも、まだ研究や動向を聞きたい人がいるのだ、と思うだけで、頬が緩んでくる。途中に、今の季節には、赤い曼殊沙華の花が目に入る、だが、コロナ禍で巾着田の曼殊沙華公園が閉鎖になっている、何もかも閉じてしまっているが、心の中は、暖かった。人は、やはり他人に役立って、自分もまだ大丈夫と思えるようだ。赤く咲き誇っても、誰にも見向きもされないとしたら、花も寂しいだろう。家々には、赤や青や白色の花が、名前は知らないが、咲いていて、慰めてくれる。寂しさの種を咲かせて白桔梗(藤田柾子)、の句が月曜の新聞にあったが、今の季節に似合う。