ゆとりある生活

昨日は夕方にオンライン会議があって、ブログが書けなかった。昼間もオンライン会議だったので、時間が取れなかったので、お休みして、今日の夕方に書いている。このブログでもお断りしたように、時々休む、としているのは、大切なことである。早朝ブログを書いていた時は、ほとんど休んだことはなく、休むと罪悪感があったので、自分で自分を縛っていた。今は、違う、多少の義務感はあるが、むしろ自由な気持ちだ。振り返ってみれば、若い頃は、どうしても、とか、絶対に、とか、自分も他人も縛り付けていたように思う、直球しか知らない、それ以外は投球ではないような、まだまだ若い、としか言いようがない。歳を取って分かることは、世の中は、いろいろある、世間は広い、柔軟に、ゆとりを持って、その場に応じて、なるようになる、大変な困りごとはない、心配することのほとんどは自分で勝手に決めている、などである。今日は、そんな気持ちで1日を過ごしたが、それは勝手気儘に生きることではない、柔軟に対応することであるから、今日は昼間は忙しく、夕方まで余裕がなさそうだから、と思って、早朝にジョギングをした。これが柔軟な対応である。曇り空で小雨がちらつく天気だったが、その爽快感は忘れられない。お陰で、夕方の今、時間ができて、ブログを書いている。午前中に、審査系の仕事がようやく終わって、万歳を叫びたいような気持になり、昼間の用事も済んで、久し振りに夕食前に、小説を読めそうだ。余裕ができたので、こんな気持ちになるのか、柔軟な対応をしているので、余裕が出てくるのか、分からないが、いつもこんな気持ちでいたい。だが、世の常は難しく、いつ災難がやってくるかもしれないが、それまでは、ゆとりある生活をしよう。

部位が呼応する

今は、水曜日の夕方なので、今日の出来事を振り返ってみる。オンライン会議もあったが、いろいろ気になる仕事があって、締め切りを頭の片隅に置いて、作業をしていると、どうも人の脳は、いくつかの部位が活性化しているらしい、というのは、いろいろな内容が結びついてくるのである。それが、不思議なくらいで、何か、そのために、この仕事をやっていたのか、と思うような感じなのである。Aの仕事をして、これは締め切りも近いし、なんとか効率を上げて、と思いながら、その資料に出てきた表などが、妙に気になっていたら、午後のオンライン会議で、それがイメージとしてピッタリで、いかにも会議のために予習をしてきたのか、と、たぶん相手は思うくらいなのである。そして、さらに資料を読んでいくと、この考えはBの仕事に相応しい、と思って、Aの作業を中断して、Bの作業に入る、すると、Bの資料が息を吹き返したかのようで、知的レベルが上がるような、少し格調が高くなるような感じがして、眺めていると、いきなりCの仕事が浮かんできて、このアイデアは、Cの骨格ではないのか、と思うようになって、何か、すべてが数珠で繋がれた状態になるのである。Cの仕事は、自分にとっては重要で、どこか腑に落ちないところがあって、もやもやしていたので、なんだ、こういうことか、と納得した。脳にはいくつかの部位に、いくつかの仕事が対応していて、ある部位が活性化すると、別の部位がそれに呼応する、するとさらに別の部位が、というような共鳴状態になるのかもしれない。ただ、注意したいことは、それが気まぐれなのか、たんなる思い付きなのか、それとも本質的なのか、という区別だろう。世間的に言えば、それは直感だろう、その直感が的を得たものなのか、絵空事なのか、の違いは、どこから来るのだろうか。たぶん、それは、洞察力、推察力、などの、本質を見抜く力のようなものだろう。それには、脳が研ぎ澄まされていることが条件で、その意味では、早朝、つまり朝一番がいいかもしれない。

やり方を変える

今日は火曜日の夕方で、時間を節約しながら、ブログを書いている。昨日は、月曜日で、1日中、忙しかった。朝から、虎ノ門と溜池山王に行って、事務局会議や対面での打ち合わせなどがあり、帰宅後にジョギングをしてから、夕方のオンライン会議に出席して、プレゼンもした。考えてみれば、これが普通の生活で、コロナ禍以前なら、電車に乗って毎日都心に通うことが当たり前だが、在宅になると、なかなか元に戻れない。人は、いくつになっても、仕事から頭が離れないようで、それは、自分のような職業が特例なのかもしれないが、知的仕事は、年齢とはあまり関係がないようだ。もちろん、分野によるのだろうが、教育は、若いから優れている、というわけではなく、歳を取ると、別の意味での良さが出てくるようだ。毎日、書斎でパソコンに向かっているが、このブログでも書いたが、mustの仕事とwantの仕事がある。もちろん、wantだけやる訳にいかないので、mustに取りかかっているが、なかなかはかどらない。やり方を変えてみようと思って、些細なことだが、少し変えたら、何かスーッと頭に入ってくるような気がした。何故だろう、と考えていたら、すぐに文献を調べたくなって、ネット検索をして、どこかにメモしたら、それだけで時間をロスしてしまった。ただ、この場合、何か得した気分になるのだ。人は、知的作業と言っても同じことには耐えられないようで、何か変えたくなる、別のやり方を試してみたくなる。それでいいのだ、幼児と同じで、幼稚園や小学校低学年の先生は、15分毎に活動を変える、と言うから、まるで手品師のような技を持っている。家内に言わせると、仕事があるだけで有難い、ジョギングができるだけで有難いのだ。こうして、今日も日が暮れた。

動的平衡論

今日は日曜日、昨日、ブログは昼間に書いて、と言ったことを取り消すことになった。なんと朝令暮改なのか、恥を知れ、と叱咤される人がいるかもしれない。今は、日曜日の夕方である。確かに、今日の昼間にどうしようか、と考えたが、とても無理だと、分かった。そもそもブログは日記のようなものなので、朝1番なら、昨日のこと、夕方なら、その日のことを書くが、いづれも過去を振り返って書くのだが、昼間は、今何をしているか、を書かなければならない。矛盾であり、意味がない、という当たり前のことに気が付いた。それもそうだし、昼間は書く気が起きないのだ。ということで、また元に戻った。日曜なので、スポーツジムに行って、帰宅してシャワーを浴びて、夕食までの時間で書いている。読書の時間も計算に入れて、ジムで運動した。午前中と午後2時半までは、平日と変わらず、資料作りや審査系の仕事をしたが、スポーツをしている間に、どうしても気になる資料が頭をかすめる、そして、はっと気が付く。帰宅したら、修正しようと思うのだが、これは正常なのか、それとも何かに取り憑かれていて、どこかおかしいのか、とも思う。このブログでも書いたが、脳細胞は、新しい細胞が再生され、古い細胞は分解されて排出される、という動的平衡論に従って活動しているから、新しい細胞から見ると、古い細胞が考えた内容のおかしさを指摘することができるし、それが正常なのである。恋愛も同じだろう、その時は夢中になっているかもしれないが、その細胞が古くなって新しい細胞が生まれれば、あれはいったい何だったのか、と冷めた状態になるのは、正常なのである。ということは、資料のおかしさに気づくのも、書く時間を昼間から夕方に変えるのも、細胞の動的平衡論から考えれば、きわめて正常なのである。自分の脳は、まだ大丈夫だ。

昼間に書いて時々休む

今日は土曜日、今は夕方でお風呂上りで、ゆったりした気持ちで、このブログを書いている、と言いたい所だが、逆である。2日前のブログで、仕事が重なって午前中の貴重な時間を有効に使いたいので、朝1番にブログを書くのは止めて、夕方に移動した、と書いた。昨日の夕方は夜までオンライン会議があったので、当然ながらブログは休みにして、今日は土曜日なのでオンラインの予定はなかったが、予定は未定で、世の中は何が起きるかわからない、急なオンライン会議と私用の外出があって、その後ジョギングをしたら、もう時間がない、楽しみにしている小説を読む時間が無くなった。仕事の時間も確保し、自分の楽しみの時間も欲しい、人は欲張りな動物なので、こんな風にして、模索しながら、やっていくのだろう。ブログを書くために、2階の書斎に行くのもおっくうで、1階居間のパソコンの画面に向かって、キーボードをたたいている、テレビ番組も見ながら、だから、本当に欲張りなのだろう。このブログは、テレビ番組の音声も聞きながらなので、文章が論理的ではないだろう。さて、ブログを書く時間はどうするのか、朝は、メールのチェックから始まり、その後、朝餉に向かうが、その後、直ぐに原稿や書類審査などをすると、思考が直線的に入っていくので、仕事がはかどるような気がする。そこに、ブログを挟むと、直球ではなく、曲がって球が投げられていくようで、元に戻すのに、多少時間がかかる気がする。じゃ、どうすればいいのだ、と自問してみる、仕方がない、昼間に書いて、オンラインで時間が無くなれば、休みにする、表題のようなやり方でやってみよう。まあ、人生の重要なことでもないから、と思いつつ、朝でも夕方でも昼間でもいいだろう、時間がある時に、気の向いた時に、流れに添って、ゆったりと、温かい日差しに瞳がまどろむように、そんなやり方でいいだろう。歳をとると、その方が似合っている。

時々書いて時々休む

昨日は、1台のPCでオンラインにアクセスし、もう一台のPCで仕事をしていたら、聖徳太子と違って、オンラインの方は、ほとんど頭に入っていない、時々画面を眺める程度になって、やはり凡人には無理だと思った。何故こんなことをしているか、と言えば、時間が足らないからだ。このところ、仕事が重なって、締め切りが迫ってくると、焦りがでてくる。焦ると、若い頃と違って、質が落ちる、今は、余裕のある仕事、ゆったりとした生活の仕方を信条としているので、このような状態になると、どうも落ち着かない。審査、オンライン会議や採点、原稿書き、対面での会議、講演の準備など、10月から11月にかけて、いろいろ入ってきた。昔なら、うまく割り振って処理できたが、今は、処理速度が遅くなったのか、別の視点から考えるようになったのか、時間がかかる。ただ、自分の気持ちとすれば、今の方が、味のある、少し渋みのある、仕事のような気がする。鮎の旨さは、少し苦いからで、あの苦さで、味に深みが出るとブログでも書いた、ワサビがあるから刺身や蕎麦も旨い、ように、大人になって分かる味がある。自分では、そのような歳の取り方、仕事の仕方、生活の仕方を目指しているが、どうも、時間が足らなくなった。このブログは、朝の爽やかな時間に書いているが、午後はオンライン会議などがあるので、午前は自分の仕事の貴重な時間なので、この時間を仕事に充てたい、と思い、ブログを書く時間を夕方に変更しようと思う。ということは、夕方にオンラインなどの用事が入ってくるので、表題のように、時々書いて時々休むことになる。毎日読んでいただく読者には、お許しいただきたい。

目標と多様性

昨日は、ある大企業のセミナーがあって、参加した、というより視聴した。オンラインセミナーであれば、気軽に参加できるのが、有難い。しかも、知り合いから、メールで開催を知らせてくれるので、自宅に居ながらにして、勉強できる。ただ、昨日のセミナーは企業経営の内容なので、自分とは遠いと思って、知り合いからの連絡なので、自分の仕事をしながら、並行的に視聴しようと思っていた。聞いてみると、面白い。教育と企業経営は、基本は同じじゃないか、と思ったことが最大の収穫だった。キーワードを挙げてみると、SDGs、well-being、失敗、多様性、無意識の偏見(Unconscious bias)などである。SDGsは、学校でも取り上げらるテーマで、子供もよく知っているが、企業が真面目に、正面から取り組んでいるとは意外だった、ということ自身が、自分の不勉強で、文字通り、無意識の偏見だろう。企業は、利益を優先すること、という偏見を、自分が無意識的に持っているのか、と思った。このブログでも書いたが、ある企業の経営会議に参加して、同じ言葉に出会ったので、特に印象が強かった。学校では、このbiasが、いじめを生み出す原因になっていないか、と思っていて、多様性を認める教育に、注目しているからである。地球温暖化は、10月に入ってさえも、夏の暑さが続いていることを思えば、誰もが納得しているが、車の排気ガスを規制する、電気エネルギーに変える、となれば、企業がSDGsに取り組む必然性がある。貧困地域でも、アフガニスタンでも、男女に関わらず、誰でも教育を受けるチャンスを提供するとなれば、オンライン教育やMoocなどの遠隔教育が、役立つだろう、それは、企業の援助なしではできない。このように、企業もまた、希望の持てる社会を目指す目標を持ち、人々がwell-beingであることを目指し、とすれば、教育の目標と変わらない。しかし、現実のプロセスは、失敗しながら進んでいくのだが、アメリカの大企業の創設者の言葉、失敗こそ素晴らしい、そして楽しい、とは、教育にそのまま通用する。昨日は、専門外のセミナー、つまり多様性の素晴らしさを、学んだ。

楽しむほうが良い

昨日は月曜日、週始めなので、定例の事務局会議と、他に研究打ち合わせの2つのオンラインがあった。自分も歳をとったと感じるのは、自分は担当者ではなく、傍観者だということだ、と書くと誤解を生みやすいので、スタッフではなくマネージャだと書いた方が良いだろう。直接に仕事の中心にいるのではなく、周辺にいてアドバイスなどをする立場である。スタッフは、気を遣って自分を立ててくれているが、自分の方は、あまり前に出ないように、心掛けている、年相応に、やるべき仕事をこなせば良いと思っている。若い頃と違うのは、1つは時間である。直前に入るのが好きで、余裕を持ってというのは、性に合わなかった、ある時は、国内だが、この癖で、飛行機に乗り遅れた。今は、余裕のある仕事が好きになった、それだけ緊張感が薄くなったと言ってもよいが、時間に幅があるのは、時間だけでなく、気持ちに余裕が出てくるからである。2つは、同じようだが、スピードがゆっくりになった、じっくり文献などを調べる習慣ができた。昔は、高校の教師の時、他の先生から、いつも廊下を走っていますね、と皮肉を込めて言われていた。ゆっくりとは、他人の仕事を尊重する気持ちの表れと言っても良い。3つは、仕事以外の楽しみに、意味を見出したことである。例えば、温泉旅行、スポーツ、ガーデニング、買い物、読書などで、それぞれが、仕事とは別の楽しみをもたらしてくれる。これから先の時間が短いならば、大いに楽しめばいいではないか、と心境が変化したと言ってもよい。そして、最後が、健康維持である、つまりジョギングやスポーツジムや整体院などで、身体を丈夫にし、労わることである。仕事だけの人生ではつまらない、と思うようになったのは、実は最近である。人の生き方は、楽しむほうが良いのだ、価値観を変えることも大切なのだ。

苦しさとやりがいと楽しさ

昨日は日曜日、午後は買い物やスポーツジムなどがあるので、午前に仕事をする。休日は、自分の好きな仕事をしてよい、と許しているので、昨日は、11月初旬にある講演の資料を整理したが、すぐに時間が経ってしまう。次から次と疑問が出てきて、自分の知識の無さや、浅さに愕然とするからだ。講演とは、己の無知を知ることか、とソクラテスのようなことを思った。いつまでも調べていたいが、時間は限られているから、午後は頭を切り替える。車で家内と、ホームセンターにガーデニング用の道具や、野菜の種などを買いに行く。雑草取りと土の整備と木を伐採するのは、自分の係りなのだが、在宅勤務になって時間の余裕があるので、その仕事も面白い。一日中不要不急や草を取る(清水昇一)、の句が新聞に載っていたが、草を取ることで、作者も楽しんでいるのではないか。買い物の後は、スポーツジムに行った。コロナが終息し始めているのか、人が多い、これでは密になる、と思いながら、いつものように汗を流して、ジャグジーの横の椅子に座って街を眺めると、心が解放される。仕事があるということ、スポーツができるということ、すべてが、有難い。夕方、午後7時からは夕食の時間だが、高校の関東支部の同窓会、といっても、オンラインだが、があって、夕食を取りながら、視聴した。有名なサッカー選手を輩出している高校だが、昨日は、サッカーの国際審判員、画家、演劇家などで、その分野で活躍している人たちが登場して、仕事を説明していたが、今働き盛りの年齢である。苦しくもやりがいのある仕事だと言っていたが、その通りだ、ただ、歳をとっても、苦しさは薄れていくが、やりがいと楽しさは変わらずに残る、と言いたい、だから、心配ないのだ。

日常と非日常の切り替え

昨日は土曜日、箱根のホテルを出て、近くの仙石原ススキ台に行った。朝9時だが、もう一杯の人出で、誰も考えることは同じのようだ。ススキに囲まれて歩くことは、なんと清々しいことだろうか、皆笑顔だ。すぐに帰宅したが、高速道路で渋滞に巻き込まれたのは、週末に行楽に出かける人が多いからだが、その気持ちは分かる、絶好の晴天で、積もり積もった自粛の覆いを外したいからである。渋滞を我慢して、帰宅したのは、13時半過ぎだったので、上等である。いつも宿泊した時の帰宅時刻は、午後の時間が使えるように、13時までには着くようにしている。ホテルを出るのは、昨日も同じで9時前である。一昨日、車の中で電話を受け取ったので、それが気になって調べ物をして処理をし、昨日中にやる、と予定に書いている原稿を送った。こうして、夕方のジョギングもして、夕食後は眠くてどうしようもなく、夜中起きることもなく、今朝までぐっすりと眠った。諸事について、けじめをつける、区切りをつける、ことを自分に課しているので、帰宅すると、しばらく、旅の余韻に浸りたい気持ちもあるが、老夫婦で、少し休んだら、すぐにスーツケースの中を片付け、元の場所に戻し、普段の生活パターンに戻るのである。すると、頭が切り替わり、仕事がスムーズにできるのは、宿泊旅行の知恵である。ホテルの食事は、バイキングで好きなモノを好きなだけ食べれるので幸せなのだが、それはその時だけで、そのスタイルを自宅に持ち込んだら、肥満になり病気になるだろう、つまり切り替えが必要で、自宅に着いた途端から、世界が別になる。楽しむ時と生活する時を区別して、非日常と日常を区別して、とは当たり前だが、こうすると毎日が楽しい。昨日、予定通り原稿を送った、それだけで、満足感があるのは、楽しさや満足感などは、どこにもある証拠である。