懸命に努力する

今は、火曜日の夕方、昨日も今日も、仕事が始まれば、いろいろなことが起きる。自分は現役引退の身だから、あまり責任は感じなくてよいのだが、それでも、いろいろな役職を持っていると、いつも水戸黄門のような身分ではいられない。それなりのストレスもあるが、それで良いのだ。逆に、今働き盛りの人は、企業、官庁、学校、大学など、職種は違っても、もがいている、なんとかしようと思いながら、小さな失敗をしながら、それでも希望を捨てないで、頑張っている人が多い。自分の立場や役職上、いろいろな相談事や依頼などが、舞い込んでくる。そして、世の常として、すべて成功するとは限らない、というより、誰でも経験しているように、うまくいかないことのほうが多い。その度に、自分は、まだまだ力不足なのか、背伸びをしているだけか、と悲観したり、それでも、家族のためにと、自分を鼓舞している人も多いだろう。自分のような年齢になっても、自分の力量を嘆くことも多く、いつになったら、人間は自信が持てるようになるのだろうか、と思う。こんなことを言うと、息子や娘婿や教え子などが、うそでしょう、と言うが、本音なのだ。誰でも、同じではないだろうか、他人が、自分よりはるかに偉く見えるのは、石川啄木だけではないだろう。だから、何でもよい、うまくいってもいかなくても、懸命に努力している人を、応援したくなり、自分に近いものを感じて、その人の良さを認めたくなる。本当は、成功の確率は低くても、絶望的な状況であっても、その懸命さだけで、人とはなんと優れた生命体かと思う。昨日の新聞に、「風邪ですね」と同じトーンで「癌ですね」なんだただの癌かと思う(横浜暁子)、の句があって、この医者は名医かと思った。深刻に思いつめた表情で言われれば、それが患者に伝わる、それほど重い癌であったとしても、軽く言うところに、医者としての懸命さがあり、患者とすれば、そうか、今の技術では、助かる確率も高いし、なんとかなるかもしれない、この医者に任せるか、という気持ちになるだろう。どんな厳しい状況であっても、諦めてはいけない、逃げてはいけない、なんとかなる、その勇気をもらえば、患者は癌との闘いに、勝ったようなものだ。なんと、有難い言葉だろう、そして、なんと素晴らしい医者なのだろう、と教わった。どんな境遇にあっても、まだ死んだわけでもなく、生きる希望があり、食事ができて、お風呂に入り、暖かい布団で寝れる、そう思うだけで、人は明るく生きていけるのだ。

楽しむ

今は、日曜日の夕方、通常は土曜日が多いのだが、昨日は時間が取れなかったので、1日遅れのブログ書きである。今週はオンライン会議が多く、というより長時間続く会議で、疲れたが、充実感があった。それは、やって良かったという心地よい余韻があって、数日間満たされた気分であった。やはり、仕事はうまくいった方が良い、そして満足できる仕事をしたら、少しお役に立ったか、と自分を認めることができる。と言っても、世の常は、うまくいくことと悔やむことが入り混じって、子どもが遠足に行く時のような、喜色満面という訳ではない。ウクライナ情勢などは、火力に勝るロシアがいづれ制圧するだろうとは予測しながらも、不利な戦況を知るにつれ、面白くなく、そのような報道を見るたびに、どこか憂鬱になっていく。異国だろうに、と思いつつも、まるで贔屓の野球チームか、片思いのように、下降線のグラフを見るような心境になる。自分だけかと思っていたら、家内も、隣近所の人達も、似たような気持らしい。なんとか、奇跡的な逆転はできないか、とか、天災がロシアにやってこないかとか、この極悪非道のプーチンめ、と怒っても、どうにもならないことは分かっている。それなら、マイナス感情を持って生活することは、意味がないではないか、楽しいことだけを考えるか、とふと思った。似たような考えを持つ人も、世の中にはいる。新聞に、われに酒ありてうれしや呆(ほ)け妻をねかせて呑んで床に入りたり(太平丈一)、の句があった。認知症になった奥さんを、ようやく寝かせて、ほっと一息ついて、大好きなお酒を飲んで、布団に入った、好きなお酒が飲めて嬉しい、少し酔ったか、妻は静かに寝たのか、ゆっくりと心おきなく寝ることができて、有難い、と作者の声が聞こえそうである。傍目からは、少し気の毒な境遇と思うかもしれないが、本人には、そうではないのだ、人の幸不幸のものさしは、決して同じではない、と知れば、プーチンめ、と怒ったり、ウクライナの子どもをなんとか助けたい、と焦ったり、あのメールの内容はおかしい、と不平を言ってみたり、することは、馬鹿げている。若い頃は、否、つい数年前までは、仕事の事で、心配や不満や怒りで、眠れないこともあった、考えてみれば、つまらぬことだが、その時は、それで頭が一杯なのだ。傍から見れば、どんな辛い状況でも、有難いと思ったり、楽しむこともあるのだ、ウクライナの子どもが、避難している地下鉄の長い手すりを滑り台にして遊んでいたという報道があったが、なるほど、子どもは、今を生きている、今を楽しんでいる、と感銘を受けた、大人も、見習いたい。楽しいこと、嬉しいことだけ、見よう、どんな辛い時でも、楽しみはあるのだ、その瞬間の積み重ねが、生きることだとすれば、後で振り返ってみたとき、楽しい思い出で満たしたい。自分も家内も、残り少なくなってきた時間なら、辛いとか哀しいとか不平などで汚したくない、せっかくの時間を、喜びで埋め尽くして、歌いたい歌を歌い、すべてを出し切って、大往生したい。

動作化

4月も中旬になると、活動が始まり、自分のような立場でも、講演や原稿書きの依頼が入ってくる。それは、嬉しいことで、まだ忘れられていないのか、と安堵する気持ちがある。自分のような年齢になると、正直な気持ちである。今週にある講演のために、資料を準備していた。GIGAスクール構想で、1人1台のタブレットが配置されているので、ある県の委員会があって、昨年から何回かの会議に出席して、その会議毎に、コメントや総括や講演をする。時間もまちまちで、60分が多いが、中には90分という長時間もある。画面に資料を提示しながら、参加者に飽きさせないプレゼンは、誰であっても、かなり難しい、しかも、年に4回程度でも、毎回違う内容にするのは、かなり至難で、そして、2年目の年度がやってきた。そうか、これは良いチャンスだ、しっかり勉強しよう、と、正直に思っていて、なんとか県教委に見放されないように、もがいている。実際、素晴らしいチャンスなのだ、その度に、多くの気付きがある。昨日は、午前に都心に行って、3つの対面の会議や打ち合わせに出て、帰宅してからオンライン会議に参加したから、忙しかった。そんな中でも、電車の中で読んだ、ある報告書に心惹かれた内容があった。そうか、そうだったのか、と思わず膝をたたきたくなるような気付きであり、自分には、小さな発見とでも呼びたくなる。そんな瞬間に出会うと、世の中が明るく見えたり、脳が若返るような気がする。例えば、英語の苦手な中学生がいて、何かにつけて引っ込みがちであったが、ある時、ネイティブのALTが入ってきて、グループ毎に、演劇スタイルで、英会話をさせた。始めは、口ごもって、恥ずかしそうにしていたが、それは、この生徒だけではなく、全員が同じだったが、やがてそれなりに英語が出てきて、I’m sorryなどは、無意識的に手振りも添えて、自然に話せるようになったと言う。後で、あれは何だったろうか、と振り返り、その後は、何かにつけて、自信を持つようになったというエピソードがある。それをふと思い出して、タブレットの操作は、指で操作するのだが、それには、見ているだけ、聞いているだけではなく、操作するという動作化が伴っている。これは、動作化認知と呼ばれたりするが、物事を理解しやすくしたり、共感したりする上で、効果的なのである。身振り手振りという動作化が伴うことによって、脳がより活性化し、さらに、相手の気持ちを察することもできる。国語の読解では、この動作化の導入で、より深く感じ取ることができたという実践もある。昨日の新聞に、風車嬉しい時はよくまわる(高橋広子)の俳句があった。嬉しいという感情があると、よく回るのか、よく回るから嬉しいのか、2つの説があるが、それは、劇のように動作をすると、あまり恥ずかしくなくなって、英語を話せるのか、英語を話せるようになったから、身振り手振りの動作が出てくるようになったのか、それはどちらでも良いだろう。子供が自信を持ち、前向きになることが、学習効果を産みだしている。そのきっかけが、動作化なのだろう。などと考えていたら、あっという間に時間が経った。気付くとは、光輝く宝物である。

平凡

今は、土曜日の夕方、スポーツジムから帰って、一息ついて、書斎にいる。およそブログを書く曜日や時刻が決まっているので、書き出しの文章もどこか似てくる。この時間は、心が安らいで、2階の窓から見える夕空も、郷愁をさそうような優しさがある。今週はどんな週だったのか、と思っても、平凡な人間には、小波が押し寄せる浜辺のようなもので、小さな出来事がやってきて、それなりに気を揉んだり、嬉しがったりしながら、時が過ぎていく、というパターンの繰り返しである。それで、良いのだ。大きな出来事、それは不幸と隣り合わせだから、それほど有頂天になることでもなく、芸能人のように、大ブレークした後では、坂道を転がり落ちるように、世間から忘れられていく、とするなら、小さな仕事の継続のほうが、幸せだろう。庶民も同じで、平凡であること、それは幸福の代名詞で、そこそこの仕事があり、ジョギングやらスポーツジムで身体を動かし、夕食は少しのお酒を飲み、夜はテレビを楽しみ、疲れとアルコールで眠くなったら、やわらかな布団に身を包む、それで十分である。ブログを書く時は、少しだけ、その幸せ感に浸る。机の横にCDプレーヤーがあって、昔、新聞の広告にあった、日本の愛唱歌160選のCDを購入して、その曲をかけて、かすかに耳を傾けながら、少し物憂い感じで、時間を過ごしている。鐘の鳴る丘、里の秋などの曲は、日本人なら、誰でも郷愁に誘われるだろう、そして、あの文献は、とか、あのメールの対応は、とか、昼間の仕事が、頭をよぎっていく。時々、ウクライナのことを思い出すが、もう惨状を映像で見たくはない、ニュースでも、どこか心が塞ぐので、人は、どんな時でも、優しい出来事、心安らぐ音楽、明るい夕空、などを求めるのだろう。心地よい句はないかと新聞を探したら、てっぺんは春風の中すべり台(原山桂子)、の俳句があった。滑り台の上は、少し高いから、春の風がさっそーと吹いているのかもしれない、今日のような初夏っぽい天気には、ピッタリの句で、子供の喜ぶ顔が目に浮かぶ。新聞を探す、と書いたが、正しくは、気に入った句があると、スマホで写真を撮って保存しているから、パソコン画面から引き出している。こんな呑気なことを書きながら、人生、そんな楽しいことばかりでもなく、多少のことは、いろいろある。ウクライナのことでも、いろいろ腹立つこともある。しかし、すべて、この世で起きたことは、そのまま受け入れるしか手はないのだ。それは、気休めでも、逃げることでもなく、それが事実なら、そのまま受け止め、多少の不平や不満も言いながら、時を過ごしていく、それが平凡だが、賢い処世術だろう。平凡は、幸せと同義語だから。

平和な日

今は、火曜日の夕方、この時刻は、静かでほっとする和やかな時である。昼間の雑音、それは物理的な音というよりも、こうだ、ああだ、という議論もあり、意見の食い違いもあり、戦争のような命の奪い合いもあり、この世に起きてくる災いの出来事で、人は、できれば見たくも聞きたくもない雑音の中で、昼間を過ごして、夕方になって、やっと心を休める。自分には、朝もそのような時間がある。ここ1ヵ月ほど前から、小さな庭にやってくる小鳥たちに、餌をやっている。近所に、小川にいるカモにパンをちぎって餌をやる人がいて、その姿に世俗などを捨てた好々爺のような風情を感じて、自分も真似てみたい、と思ったのが、きっかけである。パンをちぎって、庭に置いておくと、小鳥たちがやってきて、突いて食べる、家内が、水を入れた容器を置いたら、水を飲むので、小さな家族のような気がしてきた。ただ、ヒヨドリがやってきて、始めに食べて、小さな雀たちは、後になって、遠慮がちに食べている。家内が言うに、ヒヨドリは、野菜の葉っぱを食べてしまうので、餌をやりたくない、できれば、雀だけにやりたい、どうしたらいいだろうか、いろいろ相談して、パンを部屋にほっておけば、乾燥するので固くなる、それを大根おろしで、こすれば、細かいパンの切れ端ができる、という珍案に気付いて、100均に行って、大根おろしを買ってきた。こすると、きれいで、しかも細かい粉ができて、庭に撒いたら、さすがにヒヨドリはクチバシが大きすぎて、摘まめない、すぐに逃げてしまう、という予想通りの結果で、雀たちは、自由に、長い時間をかけて、ついばんでいた。しかし、珍案というのは、どこか欠点がある。固いパンだから、こする時に力が必要で、しかも、パンが小さくなると、こすれない。仕方がないので、手でちぎったが、意味がないことに気が付いた。この話を、整体院で話したら、先生に、パン粉があるじゃないか、と言われて、そうだ、何故こんな簡単なことに気が付かなかったのだろう、と思い、パン粉を買って、ばらまくと、雀たちだけで、朝からお昼にかけて、パン粉を食べている。そして、その光景を、居間から見ている。なんと平穏な時だろう。ウクライナはどうだろうか、とふと思う。今朝の新聞に、青空とひまわり色の美しき国旗のままにウクライナあれ(榎本セツ)、の句があった。そう言えば、一面に黄色のヒマワリが咲き、真っ青な空が背景にある光景が目に浮かぶ。そんな平和な日がいつ来るのだろうか。ウクライナの人々に、日本にも多くの人が祈っていることを、伝えたい。世界が早く平和になると良い。

人間の学び

今日は土曜の夕方、ブログを書く時刻である。ただ、審査系の仕事があって、少し遅れてた。仕事があることは有難いことで、特に、原稿とか講演とか出版などは、自分の得意な分野だから、楽しみでもある。少し宣伝めくが、「AIと人間の学び― 壁の向こうで答えているのはAIか人か?」の単行本を、つい先日に出版した。264ページを執筆するには、時間がかかる、しかし、それは時間を忘れる、の言葉通りで、出来あがれば、それは自分の分身か、子供のようなもので、嬉しいのが人情だが、人間は薄情にできていて、amazonにアップされれば、店頭に並べば、それで興味が薄くなり、次の企画に目が移る。ウクライナの惨状が止まらない、隣国のポーランドに避難した人のインタビューがあった、本当に仕事がしたい、欲しい、と口々に言う。人は、どんな状況に置かれても、恵みを受けるだけでは生きていけないのだ、自分が何か他にすること、仕事と呼んでもいいし、要するに、何かをすること、である。何かをすることとは、結局、他からしてもらうのではなく、自分が他にすることである。それが、喜びにつながり、それが生きていること自身になる。恵みを受けるだけでは、認知症になって、施設に入って所在なく生きているだけと同じである。別の国に避難した人は、ウクライナに戻りたい、と言っていたが、あの惨状であっても、何かをしたい、という根源的な言葉のような気がした。コロナ禍が続いて、観光地、飲食店など、閑古鳥が鳴くような状態だったが、少し戻ってきたようで、先に伊豆の温泉に行ったとき、ホテルマンは、忙しそうに、そして満面の笑顔で、お客さんに対応していたが、それはまぶしいような、人間本来に戻ったような表情であった。新聞に、こんな句があった。芸人が地獄這い出る苦闘知り涙の我も苦労人なり(谷吉修一)、言葉は要さないだろう。大勢のお客さんの前で、笑いを取ったり、芸を披露したり、今は、その仕事がめっきり減った、というより、人が集まってはならない、というから、仕事にならない、さぞつらいだろう。自分のすることがない、奪われる、人は、パンだけでは生きていけないのだ、他にすることがあって、ようやく生きていける。上海の都市封鎖も、異常としか言いようがない、完全に密閉して、それで人が生きていけるのか、そこにあるのは、人間不在の、国の指導者の過信による独断でしかない。人間とは何か、人は、どうして生きていけるのか、先の新刊書のタイトルに、AIと人間の学び、という人間という言葉を使ったのは、自分の心に、この問いがあったからである。

過信する

今は、6日水曜の夕方、実は、昨日伊東の温泉に一泊して、今日のお昼に帰宅して、旅の片付けをして、郵送などの仕事を終えて、ジョギングをして、お風呂に入って、今机に向かっている。あまり公開のブログで書きたくないが、温泉ホテルで、飲み放題で格安になる、というホテルマンの言葉に乗せられて、飲みすぎた、そのため前後不覚になるくらい酔っ払って、同伴した家内に迷惑をかけた。飲み過ぎは、後味が悪く、良い酒の飲み方は、前後も幸せな気持ちになるが、その正反対の症状になるから、何でも度を超すと、物事は逆転する。それは、自信過剰か、高を括るか、自分を過信することから生じるのだろう、この程度なら、大丈夫とか、自分なら、へまはしないとか、などの根拠があいまいのままで、実行するからである。分かっちゃいるけど、とつぶやきながら、飲み過ぎたりするのは、まあ庶民のレベルなら許されるが、一国の責任者では、そう簡単には済まされない。プーチンのような独裁者であれば、なおさら自分を過信し、それを止める人がいない、また聞く耳を持たない、それが、こんなはずではなかった、と思っても、自信過剰という悪魔は、ますます事態を泥沼に引きずりこんで、どうにも制御できなくなる。ゼレンスキー大統領にしても、自分を過信したのかもしれない、もっとNATOが援助してくれるはずだ、と、思っても、事態は進んでいき、もう後には戻れない。犠牲者は、いつの時代も、武器を持たない、女性や子供たちである。月曜の新聞に、この老に春などいらぬ戦場の児等に届けん食べ物着物(星野省)、の句があったが、誰も同じ気持ちだろう。子供たちが可哀そうでならない、なんとかならないのか、ロシア発信の情報では、ウクライナの攻撃だと真逆の宣伝をしているが、自分たちの同胞を、まして国や地球の宝である子供の命をどうして奪うのか、宣伝にしても、嘘が大きすぎる、それで世界が信じると思うのか、自分たちを過信するにも、程がある。この頃、ニュースを見ると、指導者とは何なのか、正常な神経を持っているのか、どこか狂っていないのか、と思ってしまう。人間とは、過信すると、何も見えず、何も聞こえず、そして、何も判断できない、つまり、すべての思考回路が止まってしまうようだ。誰もが思ったことを言い合う、それでようやく正常に近づいていく。

春を楽しむ

今は、4月2日土曜の午後5時、スポーツジムから帰ってきたばかりで、ブログを書くには、最適の時間である。もし自分の生活時間割があるとすれば、ぴったり収まるコマで、ここしかない。昔、高校で教鞭を取っていた時、教務係だったので、時間割の先生方のコマを動かすのが好きだった、出張とか、イベントとか、時間割のコマを動かさなければならない時があって、大規模校なので、それなりの技が必要であり、自分が理系だったせいか、係りになった。まあ、将棋の駒を動かすことと、それほど大差はないのだが、自分なりのやり方、アルゴリズムを考えるのが、好きだったのだろう。今は、西向きの窓から、柔らかな日差しが入ってくる、静かな春の夕刻である。桜も満開で、スポーツジムの3階はゴルフ練習場、2階はプールで、1階は各種マシーンだが、最近は、主に3階と2階に行っている。2階には、屋内にプール、屋外にジャグジーバスがあって、泳いだ後は屋外に出る。2階といっても、高層ビルなので、普通の家屋の倍近い高さで、桜が満開で、その贅沢な光景を、上から見下ろしている。風に吹かれて、桜がちらほら舞い上がり、ジャグジーバスまで、たどり着くこともある。ここは、極上の温泉ホテルなのか、と見紛うような気持になって、身も心も癒される。今日は、風も弱く、暖かな気温で、ああ、春なのだ、と当たり前のことに、感心したりする。自宅からの行き帰りに、旧市役所の跡地である広場を通るが、そこでは、親子連れ、中学生や高校生も混じって、スケート、バトミントン、ダンスなどに興じている。春爛漫とは、このことか、と思う。いいだろう、楽しむ時は、子供のように、全身で楽しむが良かろう、苦しい時は、全身でもがけば良い、今は、老いも若きも、春を満喫する時期なのだ。卒業と入学の間に名札なき数週間の虹の架け橋(坂庭悦子)の句が、新聞にあった。広場で楽しんでいる子供たちの解放感で溢れている表情を見ると、この句の通りである。子供たちが渡る次の世界には、虹のような、明るい未来が待っている、その希望が、込められているようだ。次の世界に行けば、それなりの苦労もあるだろう、苦しいことも、思うようにならないこともあるだろう、ただ、今は、そんなことは考えなくて良い、希望だけを心に描けば良いのだ、そして、都合の悪いことが起きても、全身で取り組めば、きっとなんとなる、むしろ良かったと転じることが起きる。その理由は説明できない、ただ、自分の長い経験から言える教訓である。

慟哭

今は、29日火曜日の午前であるが、ブログを書く、それは、午後と夕方は時間が取れないからだが、この自由さが良い。仕事では、自分の意のままにならないが、趣味とか研究などは、今の自分には、気ままな旅を楽しんでいることと同じである。もう3月も終わりで、後数日で次年度が始まる。2022年度に備えて、書斎や隣部屋の本棚なども整理して、気持ちもすっきりした。ここ1週間くらいは、不要な書類の廃棄や、仕事や研究や活動に必要な文献調査をして、資料を整理している。その範囲は、いつの間にか広くなっていき、授業研究なども関連してきて、例えば、教師の見えの研究なども読むと面白い。ベテラン教師は、初心者とは、子供の見えが異なり、簡単に言えば、よく見る、子供の背景まで見通す、眼光紙背に徹すの言葉のように、的確に見えているので、子供理解ができる。これに対し、新人教師は、見えない、見ることを意識していない、認知心理で言う、選択的注意の現象で、子供の姿を意識していないので、物理的に見えてこないのである。いくつかの有名な実験もあるが、ふと、ウクライナの惨状が思い浮かんだ。昨日の新聞に、涙浮かべ「死ぬのは嫌だ」真摯なる少女の声よキエフ慟哭(岡本光夫)の句が載っていた。慟哭の言葉に打たれて、読者に同感した。キエフは泣いている、ウクライナも泣いている、世界中が泣いている、それは、大声をあげて泣き叫ぶ慟哭である。その声は、プーチンには聞こえぬか、その姿は、プーチンには見えぬか、と思う時、絶望的になった。認知心理学の言う通り、選択的なので、欲望と保身のことしか考えない独裁者には、いくら周囲が忠告しても、いくら映像を見せても、選択的に排除して、自分の意に添うものだけを、受け入れるのだろう。真実の姿は、見えもせず、聞こえもせず、哀れな裸の王様になっている。決して届かぬ、庶民の独り言を書いても無駄である、が、誰か、プーチンに、気付かせてくれないか。

生きる力

今日は土曜日、そして今は、夕方なので、ブログを書くにはもってこいの時刻である。今週は忙しかった、それは嬉しい響きでもあるが、人は、自分の力を精一杯出せる仕事では疲れは感じないし、充実感があることは、誰も経験しているだろう。今でも、その余韻がある、土曜日でも、午後2時間半、ほぼ3時間近く、休憩なしのオンラインイベントに参加した。高校生が研究発表するイベントだが、その発表に対して、専門家がコメントして、という高校生版の卒論発表会のようなものだが、ただ、新鮮味と初々しさが違う。その発表は義務ではなく、選ばれて発表するので、卒論とも違うし、大人でもない、だから、初々しいと書いた。若さとは、こういうことなのか、と思わせるのは、まだ世の中の厳しさも知らない、という危うさではなく、どんなことでも、前向きで、無鉄砲なことはあるが、がむしゃらで、それは甲子園で白球を追う球児と同じである。自分の年齢から見ると、光輝いて、眩しいくらい、生きている、その時には、何も思わないが、中年になり、老年になると、それは夢の世界と言ってもよい。これは、今の境遇を嘆いているのではなく、今は今でそれなりに生きているが、感じ方、活動の仕方の質が違う。軽やかなくつ音たててただいまと息まで見えそう幼らの声(田上蓉子)の句が、新聞にあった。我が子が外から帰ってくる、玄関で、ただいま、と言う声は、何か良いことでもあったのか、弾んでいる、その声を聞くと、明るいプレゼントをもらったような気がしたのだろう、母親の喜びの気持ちが伝わってくる。大人は、子供から元気をもらい、生きる力をもらっている。ウクライナの惨状は、気持ちが沈むので、あまり見たくはないのだが、地下鉄をシェルターにして多くの人々が生活している光景の中で、子供が遊ぶ姿をカメラが捉えた。地下鉄は深く,長い斜面になっている、その斜面が子供にとって、長い滑り台になって、格好の遊び場になって、弾んだ声を出し、一杯の笑顔だった。子供は、今がすべてであり、地下鉄が生活の場であり、そこで精一杯生きている。大人は、前途を悲観したり不安に思ったりするが、もう止めよう、子供を見よ、子供が大人を救ってくれる、そんな気がする。