今は火曜日の夕方、ブログを書く時間である。今日は久しぶりにジョギングをした。昨日ほどの寒さはなく、秋らしい良い天気で気温も肌に優しく、周りの景色を見ながら走るのも悪くないなと思って、西の方角の公園に行って戻ってくると、約一時間かかる。東の方角は航空公園だが、西の方角は自分は春の小川と呼んでいる。公園の近くに小川が流れていて、そこに小さな看板があって春の小川と書いてあるからだが、春になると童謡の世界にぴったりの風情になる。その公園では子供たちが大勢でドッジボールをしたりサッカーをしたり、まるで休日のような賑わいであった。そうか今日は埼玉県民の日で学校は休みなのである。秋の柔らかい日差しを浴びてボールを追い回す子供たちの姿を見ているだけで、心が和む。若い人から見ればまるで歩いているかのようなゆっくりした足取りであるが、ともかく一時間走って我が家に戻ると下着が汗でびっしょりになる。体内の老廃物がこれで外に出てすっきりするのかと思い、健康を維持するにはスポーツジムに行くかジョギングが一番だと思って続けている。すぐにシャワーを浴びて身も心も爽やかな気持ちで、和服に着替えて書斎に上がり、今ブログを書いている。学校が休みだと、なんとなく休日のような気がして、気楽に仕事ができる。とりたてて急ぐ用事もなく締め切り前に仕事を済ませメールで送信したので、学校の宿題を終えた子供のようにどこか嬉しさが湧き出てくる。こんな風にして日々を過ごすのかと思いつつ、お昼の食事をしながら家内と話している。月日の経つのは早いな、すぐ暮れが来てお正月が来る、そしてまた年を取る、これでいいのかな、などとたわいもない話をしてお昼が終わる。自分は手帳に書いた予定に従って行動しているので、一応締め切り日等遅れたことはないが、歳をとってくると、かなりの余裕がないと不安になる。時間が足らないと思うと、良い原稿も書けず良い資料も作れず良いプレゼンもできないので、最近では余裕を持って手帳に書き入れている。ちろんブログも手帳に書いているが、これだけはあまり計画的ではなく、その日の忙しさによって日時が変わってくる。若い頃のような振幅の大きい出来事はほとんどなく、小さなさざ波のような仕事や研究が多い。もちろんそれは素晴らしくて有難いことなのだが、何か心残りがあるような気がする。長い間の経験で、この仕事はたぶんこんなものかとか、このイベントはまあこの程度かなどと思うようになるので、感動が薄いのだろう。これではいけないと思いながらも、この道はいつか来た道のような過去の経験に照らし合わせて推測したりするので、心に響かないのかもしれない。それでも無難に過ごせれば有難いとか嬉しいとか思うので、それで充分である。新聞に、冬近し何か忘れて来たような(中村昌男)の句があった。今の自分の心境は、この俳句のようなものかもしれない。別に困ってるわけでもなく不安でもなく何かが不足しているわけでもないが、若い頃と違って全力疾走していないようで、不完全燃焼のような状態なのだろう。まあそれが年相応といってもよい。いつも全速力で走っていると息切れがして、どこかでパタリと倒れるかもしれないので、今日のジョギングのようにゆっくりと自分のペースで、そして仕事も余裕を持って準備をするのが、今の自分に合っている。それでもなんとなく満ち足りないというのは、凡人の常であろう。まあ今のままで、これからも進んでいきたい。
ブルームとマズロー
今は土曜日の夕方、外は漆喰の闇である。11月も10日を過ぎると冬至に近くなるせいか昼間の時間が短い。あっという間に暗くなって一日の時間が短くなったような気がする。しかも今日は急に寒くなって、外に出るにはジャンバーがなければ無理であった。テレビ報道では、木枯らし第一号が吹いたようで昨日との温度差が10度以上とも言われているので、体調がおかしくなるであろう。こんな日は暖かい部屋にこもってと思うのが人情だが、実際はそれは多分楽しくないだろう。面白いテレビ番組などほとんどない。もちろんそれは年齢にも依存するし人の特性にもよるのだろうが、自分は夕方7時以降でないとテレビは見ないし、それも9時までである。ただし日曜の小さな旅だけは例外だが、お笑い系の番組は無理に体をくすぐられて笑っているような気がして、つまり人工的に面白がらされているに過ぎない。ある文献を読んでいたら、ブルームの教育目標よりもマズローの五段階欲求の方が重要だと書いていた。実は自分もその通りだと思っている。ブルームの教育目標はグローバルスタンダードつまり世界標準であるが、自分はまだしっくりきていない。むしろマズローの自己実現の方が人間味らしい。学校を訪問して子供たちを見ていると、その通りだなあと、納得することが多い。特に1人1台端末のような道具を手にした場合、子供たちは生き生きとそして何の疑問もなく嬉々として自分の作品を作っている。自分がホストをしている月2回のオンラインセミナーがあるが、前回の先生は、学校教育では課題ではなく作品にすべきだと主張されていたが、まさに同感した。宿題とか課題とかと言うと先生から与えられたもの、やらなければならないもの、という義務感のニュアンスがあるが、作品といえば作ることの喜び楽しさそして人に見せたくなる自己効力感など、課題と作品では天と地ほどの差がある。自分などは仕事と趣味との垣根が低いようで、仕事は課題で趣味は作品だと対応づけることも可能だが、そうすると仕事がブルームで趣味がマズローだと言えなくもないが、自分はその差が小さい。あまり推測でブログを書くとブルームに申し訳ないので止めておく。今日の午前中は諸々の事情があって学校訪問をした。これも仕事なのか趣味なのか研究なのか境目がよく分からないが、このブログを書く前にその整理をしていたが、自分には楽しい時間であった。なかなかスポーツジムに行く暇がないので今日の午後出かけたら、やはり行って良かった。外気温が低いせいかプールが暖かく感じて、体全体が温まったような気がした。自分はありがたいことに、土日も何やかにやで、ほとんど退屈することはない。たぶん世間ではこうはいかないのかもしれない。新聞に、店先の「バイト求む」の片隅にシニアの文字をまずは探しぬ(今西佳子)の句があった。この読者はいろいろな事情でバイトを探しておられるのだろう。今のご時世ではなかなか良いバイトがないと嘆いておられるかもしれないが、その気持ちさえあれば必ず見つかるだろう。バイトであろうと本職であろうと、多分楽しいだろう。経済的な面で探しておられるのかもしれないが、人間には別の面があって、シニアであろうと若かろうと面白さを見つけると、仕事が趣味の世界になる。経済的な面をブルームとすれば面白さの面はマズローだろう。こんな研究的なことを書く予定ではなかったが、昨日は都心に出かける用事があって、そこで自分がある研究者と議論したので、脳のどこかにまだ残っているからだろう。現実には仕事と趣味や研究にはもちろん差はあるのだが、どの程度感じるかに依存するのだろう。ブルームもマズローも会えば、意気投合するかもしれない。
凡人の生活
今は火曜日の夕方、書斎の窓から見える空は真っ暗で、自然は規則正しく日の入り日の出を物理の法則通りに運行しているようだ。今日の昼間の暑さはテレビによれば27度だと報道していたが、真夏のようで日本の気候はどこかおかしくなったのか、いや地球規模で天候異変が起きている。それだけではない、ウクライナやイスラエルなどの戦争を見れば、人的な異変が信じられないような規模と速さと頻度で起きている。自分のような高年齢であれば、何か事が起きても異変に身を任せて死を覚悟するしかないが、若い人たちや子供たちはこれから先どうなるのだろうと不安になる。真夏のような天気だと言っても、夕方が来て夜になれば漆喰の空になり、急に涼しくなる。そして家の中にいればエアコンで程よい適温に保たれて心地よい生活をしている。大国中国と台湾の間に有事があれば日本も平穏で呑気な生活はできなくなるかもしれないが、ほとんどの日本人は戦争を知らない子供たちで育ったので、悲惨な生活は経験していない。暑いだの寒いだの食事がおいしいだのまずいだの、考えてみれば平和の中の駄々っ子のような存在かもしれない。テレビに映る悲惨な光景を見るたびに、こんなことが現実に起きるのかと思って、ただただ驚くばかりである。凡人は、何かしてあげようなどとは決して思わない。凡人は自分の能力がわかっているから身の丈に合ったことしかできず、日々の生活を無難に送りたいと思っている。それでも小さな出来事は誰にもやってきて、こうすれば良かったとかあれはうまくいったなどと、反省と自己満足と後悔と自己肯定感が混じりあって日々を過ごしている。今日もそれなりに忙しく、車で学校訪問したりオンラインで打ち合わせや会議があったり、あれやこれやと活動をしながら、いつの間にか時間が経っている。ブログを書けばこの後はお風呂に入り、15分程度だろうが小説を読み、夕食に向かうが、自分には平凡な楽しみの時間である。年をとっても多少の欲や煩悩があってなかなか悟りきれない。あれもやりたいこれもやりたい、まとまった時間を取って論文に仕上げたい、できれば来年春までには出版をしたい、職場の活動を拡張したいなど、他人が見れば年寄りの冷や水かと思われそうなことでも、ふと脳裏に浮かんでしまう。だから滅多には他人に言わず、夕食に酔った勢いで家内にそっと言うこともある。例外は我が家から1分足らずの場所にある小さな社の中にいるお地蔵様である。他人が聞けば笑われそうなことでも願い事は何でも言える。子供のことや孫のことは当然であるが、まだ自分のこともお願いしている。それに気づいて、ふと苦笑する場合がある。新聞に、深秋や人の願いに立つ地蔵(田土義則)の句があった。どの地域でも都会はともかくお地蔵様があって、人はなぜかその前に立つと手を合わせたくなる。そして願い事をするのだが、学校に行ってる子や孫がいれば、勉強ができますようにとかスポーツがうまくなりますようにとか、そんな願い事をして毎日を過ごしている。小さな願いごとができているのは平和な証拠で、幸せな生活なのである。日本が戦争に巻き込まれたら、お地蔵様に何をお願いするのだろうか、とすれば凡人は今の幸せを感謝するしかない。
自己制御
今は金曜日の夕方、といっても11月なので日の暮れるのは早く、書斎の窓から見える空はもう真っ暗で、高いマンションからの窓明かりが規則正しく光っている。そうか、もう今日も一日終わるのかと、多少の物思いをする。そういえば今日は三連休の初日で、あちこちの観光地や公園などは大勢の人で賑わっていると、テレビ報道している。ただ自分の今日の出来事は平日と変わらず、午前中は机に向かって仕事をし、午後はオンラインもないので床屋に行ったり買い物をしたり、そして久し振りに庭仕事をした。この三連休で少しでも良いので庭の手入れをする予定で、今日も30分間だけ鍬を持って草取りをした。草刈機で草を取る前に雑草を根本から取っておかないと、野菜用の土を耕すことができない。秋とは言えこの暑さで雑草が伸び放題、もう手をつけるのはおっくうになって逃げていたのだが、三連休ではなんとも言い訳が思いつかず、少しだけと自分に言い聞かせて雑草と向き合った。自分だけではなかなか重い腰を上げるのはしんどいので、手帳の助けを借りている。どうしてもという時は自分は手帳に赤字で書いてる。それは自分への励ましであり赤信号による警告を発している。学校現場や教育系学会では自己調整の考えが注目されているが、自分で自分を制御しながら学びを継続する力と言ってもよいだろうが、それはなかなか難しい。内発的動機づけと言われてもそんなに簡単ではなく、手帳という道具赤ペンと言うメッセージなどの外的な支援によって、仕方なく取り掛かるのである。多分ほとんどの人は自分と似たような思いをしているのではないか。ただそこからが面白い。鍬を持って草を掘り起こしていると、惰性で同じことを繰り返しているのではなく、頭の中で何か考えているらしく、ふとこんな風にしたらどうかという気づきがある。人は気付けば、それを試してみたくなり試してうまくいけばもっとやってみようという意欲が出てきて、うまくいかなければもっとこうした方が良いのかもしれないという、まるで独り言のような自問自答を繰り返している。そうするとあっという間に時間が経って、その間に自分が実行した仕事の足跡を見ると、意外と良いではないかなどと、小さな自己満足を覚える。それはすべて自分で行っていることであり、広い意味では自己調整と言っても良いだろう。子供でも大人でも自分に問いかけ自分がそれに回答し、できればもっと前に進みたいと思うのは、自分で自分を制御していると言える。そのプロセスは草取りを始める時から終わって振り返るまでのプロセスであり、そこに自己調整のいくつかの概念が含まれている。人は自分に何らかの価値を認めた時、その自分の脳が世界を見る目が違ってくるような気がする。新聞に、空仰ぐなんときれいなうろこ雲(高崎なほみ)の句があった。この作者も、心穏やかで現在を感謝して今日はきれいな秋空だなあと思っているかもしれない。そのような思いに包まれた脳が世界をそのように認識しているのだろう。自分は今日床屋に行ってさっぱりし、買い物に出かけて、そして午前中は面白い論文の査読をして、そこからの気づきがあって何か発見をしたような嬉しさがあって、その脳の状態を草取りという仕事で切り替えることが嫌だったのだろう。しかし人の思いは、別のことに取り掛かるという行動で簡単に変化する。つまり人の思い込みなどは実は大したことではなく、簡単に別の行動によってあるいは環境によって変わってしまうのである。これは絶対だという信念と言えども、変わるのである。だから自分は手帳の助けを借りて行動しているが、その方が楽な生き方なのである。
楽しむ
今は月曜日の夕方、と言うにはまだ明るく昼間と夕方の間の時刻であり、西向きの窓から見える空は夕焼けではなく、明るい茜色の空である。最近の天気は秋そのもので夏の猛暑や台風などの大水害を忘れるような気持ちの良い毎日である。今週は珍しく月曜日から水曜日まで都内に出かけなければならない、対面での仕事があるので仕方がないと思っていたのは朝だけで、久しぶりにジャケットを着て革靴を履いて駅に出かけて電車に乗ると、気持ちが通勤モードになる。オンラインに長く慣れてくると、電車に乗ることすら革靴を履くことすらジャケットを着ることすら面倒になる。しかし面白いもので人はそのような格好をすると、体全体がその雰囲気に包まれて通勤マンに変身するようだ。すると昔と同じように、なんとか席に座って本でも読みたいという欲が出てきて、するとタイミングよく席が空いてカバンの中の文献を取り出して読んでいた。通勤している時代は電車の中の時間がもったいなく、仕事に関係する本を取り出して読むのだが、今日はさらにボールペンを出してコメントを書いたり下線を引いたりして文字通り仕事をしていた。仕事が終わって帰宅する時は、サラリーマンが仕事帰りに居酒屋に寄る心境に似ている。もちろんまだ陽が高いのでそんなことはしないが、少しはお役に立ったのかという自己満足に似た気持ちをどこか維持したくて、今日の出来事を家内に報告した。まあまんざらでもなかったかと思いながら、今書斎に向かっている。実はこの後も夜7時から9時までオンラインの会議があって、そのために少し早めの時間にブログを書いて、夕食を済ませてから会議に向かおうと予定している。明日の夕方は都内で仕事をするのでブログを書く時間がなく今に至っている。ふと思うと、少しでも仕事ができたという小さな喜びがあって、それがまた次の仕事への動機付けとなり、その後もずっと続いていくのであろう。このブログでは内容は書かないが、ほとんどの仕事は小さな小さな行動の積み重ねであるが、それでもその楽しみは規模の大小に関わらず同じだと思う。新聞に、目標はJAXAに売りに行くことと部品会社に内定せし子は(江原冬莉)の句があった。我が子が希望の会社に就職してその部品を有名なJAXAに売りに行きたいと願っているようで、そのわくわくした我が子を見てこの読者が嬉しさのあまり投稿したのだろう。この子は理系出身だろうか、夢は宇宙を飛び交う人工衛星を作ることなのか、この子の就職した会社の製品をその人工衛星に組み込みたかったのか、その夢を持っている若者は多分目が輝いているのだろう。人工衛星の小さな小さな部品であるが、自分の作った製品が宇宙に飛び立つことがこの上なく嬉しいのだろう。それは事の大小に関わらず人に平等に与えられる喜びである。自分も都内に行って小さな小さな仕事をしてきたが、この若者の気持ちと同じである。明日もまた都内に出かけるが、それが楽しみになってきた。このように考えると、年齢とか規模とか予算などに関係なく仕事とは楽しむことではないか。それは仕事だけではなく、研究はもちろん学校で勉強することも本質は楽しいことなのではないか。
フェスティバル
今日は土曜の夕方、先ほどふと居眠りをして起きたところである。これには事情がある。今日は市内のイベントがあって午後参加した。別に隠す必要もないので、所沢市民フェスティバルと呼ばれる土日の祭りで、家内と2人で出かけた。午前中は自分が役員をしている学校の授業公開があって出かけ、大いに勉強になった。帰宅して12時半に自宅から歩いておよそ30分、航空公園に着いた。今日の午前中は雷が鳴るほどの荒れた天気だったが、午後は真っ青な空と心地よい秋風が吹く絶好のフェスティバル日和だった。広大な公園は老若男女でいっぱいで、特に幼児を連れた親子連れは、こんなイベント劇場の絵に描いたような役者になる。我々も定番の焼きそばと生ビールを買って、公園の大きな木陰で日差しを避けながら、久しぶりの野外での昼食をとった。緑の芝生の上で風に吹かれて、山車も出ていたが、お囃子や太鼓の音を聞きながら、童心に戻って、老夫婦2人で楽しんだ。そういえばコロナの前は4月の花見には毎年この公園に来て、お昼を過ごした。我が家に犬を飼っていた頃、犬も連れた2人と1匹の花見をなぜか思い出した。その時は駅構内の店で折詰の寿司とつまみとビールを買って、桜の木の下で花見をしていた。犬にも少しずつつまみを食べさせると、嬉しそうに大げさな尻尾を振って春を楽しんだ。あんなこともあったかと周りを見渡しても、花見と違って犬を連れて来ている家族はいない。昼間の生ビールはなぜか回りが早くそのまま横になって眠くなったが、そうもいかず2人で公園を探索したら、少しばかりの生ビールのほろ酔いも手伝って、映画の寅さんのような放浪者の気分になった。テント張りの店屋やイベントやパフォーマンスなどが一緒になって、今日は土曜日時間を経つのを楽しもうと思って、帰路についた。体がだるくなって駅前のタクシーを拾おうと思ったが、あいにくと拾えず、歩いて帰ったから、およそ3時間を過ごし、少なくとも2時間は歩いただろう。帰宅したら、知らぬ間に一階の居間で昼寝をしていたという次第である。新聞に、角打ちの酔いを醒まさむ堀端の風に吹かるる秋の夕暮れ(渡部芳郎)の句があった。今の自分にぴったりの短歌である。角打ちの意味はよく知らないが、居酒屋で飲んで、川のほとりの風に吹かれながら酔いどれ気分を楽しんでいる風情が、酒に弱い自分にも伝わってくる。人生にはこんな瞬間があってもよい。ほろ酔い気分でさわやかな秋の一時を楽しむのも良いだろう。人にはふわっとして我を忘れる時もある。
秋の1日
今は火曜日の夕方、いつの間にか外は真っ暗になってしまった。時間があると思っていたら、日が暮れるのが急に早くなった。もう10月も下旬で、知らぬ間に秋が去って年末になってしまうかもしれない。本当に時の経つこと矢のごとしだ。先ほどメールを見てちょっと返信をして、なぜこんなに時間が経ったのだと不思議に思ったのだが、単に返信をすれば良いわけではなく、その間にいくつかの資料を当たったり前のメールを見たり予定外の時間がとられる場合がある。自分はなかなか優柔不断で、先程のメールも約束の時間に対面で会ったほうがいいのか、オンラインで許してもらえるかなど、ほんのささいなことで気をもんでいる間に、時間が経ってしまう。そのうちに明日の予定のことを思い出して、この資料を印刷しておこうとか、あのメールにもう一度アクセスしようとか、文献に当たってみようなど、まるで妄想のような思考が飛び交っている。今朝はなぜか早くに目が覚めてなかなか寝つかれなかったが、ようやくいつもの時間まで寝られた。今日の天気は、秋そのもの青空そのもの太陽そのもの秋風そのもので、完璧な秋の気候である。それでも早朝に目が覚めたせいか、午前はエンジンがかかりにくく、もたもたしていたが、午前中は学校訪問がありオンラインもあって、まるでお尻をたたかれるようにして仕事をした。実は家内が日帰りで実家に用事があって早朝に出かけたので、雑用を自分一人でやらねばならず、それが少し億劫だったのかもしれない。お昼はきつねうどんのインスタントを作った。そんなたわいもない日常を過ごしながら、振り返ってみると、面白いこともあればそうでないこともある。午後もいろんな用事があるが、比較的今日は暇だったので、10分ぐらいの散歩を3回ほどした。パソコンの画面ばかり見ていると体を動かしたくなる。夕方家内が帰ってきたら、もうほとんど1日も終わりかけている。今日を振り返ってみても、特別に変わったことはない、それでも小さいけれどもいろんなことが起きるので、それを楽しいと言うならばそうだろう。砂をかむような仕事なら多分続けていくことはできない。生活できるということは、強いて言えば楽しいからだろう。新聞に、寝る前に不登校の児つぶやけり「あした学校行けたらいいな」(北泊あけみ)の句があった。そうか行きたくないのではなくて行けないのか、不登校の子どもの心中を見せてもらったような気がする。大人でも仕事に行きたくない人もいるだろう、しかし本音は職場に行きたいのか。1人でも多く嬉しそうな顔をして学校に行く子供が増えればと、心から思う。平凡ながら、子供はこの世の宝である。
変革の時代
今は土曜日の夕方、ブログを書く時刻になった。この前のブログのように、ずっと体の不調が続いていたが、ようやく回復した、とは言っても、実は今でも咳が続いている。このため対面で会うのはまずいので、オンラインに切り替えたり打合せをキャンセルしたりなどして、なんとか土日に辿り着いた。自分の都合とは関係なく、物事はプログラム通りに進んでいく。人は体調不良であったり精神的に落ち込んだり、まあいろいろ変化があって、それでも何とかこなしていると思えば、人の本質は努力かもしれない。努力していればどこか許されるような気持ちがして、無理をして体や心にストレスを与えることになるが、まあそんな浮き沈みのあるのが人の生き方であろう。学校では、子供達にそんな寄り道をしないように、まっすぐに目標に向かって進むように指導している。清く正しく美しくの校訓のように人を育てているが、世の中に出てみると、そんなきれいな直線のような人生を歩めないことは誰でも知っている。数日前から国際会議の研究発表を聞いているが、同じようなことを考える研究者もいる。ただアメリカは昼間であっても、こちらは真夜中なので、頭が朦朧として正しく理解しているかどうかは疑わしい。ある研究者は、学校教育ではゴールに向かってなるべく寄り道をしないで最適なコースになるように、教材を開発したり指導を工夫したりアドバイスを与えたりしているが、本当にそれでうまくいくのだろうか、世の中に出ればかなりの部分が失敗であり、その失敗を乗り越えて成功への道を見つけているのだから、学校にもそのような授業や指導法や教材があってもいいのではないかという発想の元で、授業をデザインし、失敗をする教材を作り、そこから失敗を乗り越える実践をした。その結果、生徒たちはこれは面白いと言って授業に意欲的になったという発表を聞いた。なるほど言われてみれば、学校は成功をモデルとして最短のコースを子供達に提供しているのかもしれない。それは世間の歩き方とはかなり違うことは誰でも知っているが、これまではその成功モデル以外のモデルを知らないので、昔からの方法を踏襲して来たのかしれない。なお、発表者は著名な認知科学者である。これからの変革の時代には、別のモデルが必要だと思う。デジタルの流れは急速でいろいろな仕組みが変わっていく。多分教育DXは、別のモデルを求めているだろう。ただ、教育DXのアセスメントの結果は、まだ誰も分かってはいない。新聞に、経験が生んだささやかな自尊心打ち崩しゆくITの波(川端真由子)の句があった。どんな変革にも光と影がありプラスとマイナスがある。この読者のように、長い間培ってきた技術なのか名人芸なのか内容はわからないが、デジタル化の進展によって、あっという間に消されていったという寂しさがあるのだろう。これから学校の成功モデルも、変わっていくかもしれない。
体の不調
今日は火曜日、時刻はもう夕方、今週前半のブログを書く時間になった。先週の木曜日に少し体がだるいとか頭が重いなどの風邪症状の不調を書いたが、実は先週の週末に、その症状がひどくなった。自分の年齢では38度などという体温は驚くほどの高熱で、土日にかけて38度から37度後半になった。といってもどうすることもできず静養するしかないかと思って静かにしていた。しかし人間は何もしないというわけにはいかず、本を読むとかネットで調べるとかメールでやり取りするなどのデスクワークはするしかない。日曜日はさすがに体が言うことを聞かず、気力も失せて1階の居間に毛布を引いて横になったら、そのままうとうとと夢の世界に引きずられるように眠った。不思議なもので食欲だけはあるらしく、夕ご飯も大変美味しかったのでこれならまだ大丈夫などと楽観的に考えていたが、咳や体のだるさ鼻水などなかなか止まらず、熱があるので、多少朦朧として体がいうことをきかない。人間はなかなか頑固で、すぐにかかりつけのクリニックに行けという家内の忠告も受け付けないで、月曜日はオンラインで忙しく、とてもそれどころではなく、朝の会議から夜8時から11時まで海外の学会のオンラインでの研究発表を聞く予定が入っていた。だるい体で咳と鼻水は出るが、どこか勉強したい気持ちがあって、先ほどの食事の美味しさと同じで研究の面白さは、健康とはあまり相関は高くないようだ。3時間があっという間に過ぎた、といっても研究には当たり外れがあって、すごいと感嘆の声を上げる研究が1つでもあれば、もうそれで参加して良かったと思える。昨日はそんな発表が1つはあって、今朝その資料と論文を検索していた。少し熱も下がったので今日こそはと思い、近所のかかりつけの医院に行って検診をしてもらった。医師によればインフルエンザかコロナかもしれないと言われたが、もう峠を越して治ってるので、簡単な風邪薬でも出しておきますと言われた。看護婦さんから体温計を渡され測定したら、ありがたいことに平熱であった。日曜日の昼間もうろうとして何もしたくない、ただうつろ状態で見知らぬ人に引かれるように眠っていたが、今日のように平熱に戻ると、看護婦さんのきびきびした動きを見て、仕事をするとはこういうことかと改めて感じた。新聞に、病床のカーテン越しに看護師のデータ入力の指のかげ踊る(古川睦子)の句があった。この作者は病院に入院されているのであろうか、カーテン越しに見える看護師さんの素早いキーボード入力は、いかにも活気があって健康な人は素晴らしいと感じたのか、自分も早く退院して仕事に復帰したいと思ったのだろうか。昨日は多少熱っぽいがオンラインでの会議や研究会参加ができないほどではなく、無事にこなせた。お医者さんにもう治っているからと言われると、安心する。しかし家内に、年齢のことを考えて仕事もほどほどに、そしてゆとりを持ってと、長い間言われ続けた言葉を聞かされた。何かをしているときは夢中だから何も感じないが、少し体調が良くなかったりすると、年齢のことやこれから先のことも考えたりする。しかし自分は多分後悔はしないだろう、多少の熱があっても、できることはやってきているので、心残りはない。生きていると確かにいろんなことが起きてくる、誰でも同じだが、自分は楽しいことやつらいことをいろいろ経験して、ここまで来ているので、病気であろうとなかろうと、何かをすること自身が幸せなのである。
和む秋
今は木曜日の夕方で、書斎の窓から見える空は美しく秋らしい空模様である。明日の金曜日、明後日の土曜日に書く方が良いのだが、いろいろな予定があって今の時間にブログを書くことにした。と言っても実は少し体がだるい。数日前から朝起きた時、喉が痛くて咳き込んだり鼻水も出たりして、体がだるかった。家内に症状を言ったら、まさかコロナではないでしょうねと言われたが、今日になってみると、熱はなく喉の痛みも少しやわらぎ鼻水は出るがそれほどでもなく、ただ体のだるさは続き眠くなってくるので、まあこれなら典型的な風邪の症状だろうと、自分も家内もそう判断して今に至っている。風邪ぐらいならと思うと、なぜか多少元気が出てきて、よせば良いのに運動したりいろんな仕事もした。午前中はオンラインがあって、普段どうりに会議で話をして時間が過ぎた。ただ午後になって体のだるさと頭が重いので、整体院に行って少し体をほぐしてもらおうと出かけたら、腰や肩がずいぶん凝っているらしく、これでは頭が痛くなったりしますよと、整体師の先生に言われた。確かにその通りかもしれない、自分の仕事はデスクワークで、しかもほとんどパソコン画面の見っぱなしで、そのような状態が長く続いてくると、目はかすみ足腰も固定したままなので硬くなって血液の循環も悪くなっているのだろう、とは言っても、これは仕事だから簡単には止めることはできない。いろいろな用事や仕事が重なると、どうも肩が凝る症状になるようだ。多分体がアラームを出しているのだろう、前のブログで自分は健康だと自信ありげに書いたが、少しずつ少しずつ体力も弱ってきている。自分の体はいたわらなくてはならないと思いつつも、ベッドに横になっているわけにもいかず、運動をしたり仕事をしたりという毎日の生活と変わらない時間を過ごした。ただ、仕事をしていると、どんな小さいことでも、小さなストレスがあって、それが積み重なると、風邪をひいたり肩が凝ったり腰が痛くなったりするのだろうが、仕方がない。それが自然である。書斎から空を見ると、ほぼ今日一日が終わるという安堵感があって、多少喉が痛くてもまあ良いかという気持ちになる。新聞に、それぞれの不調語りて和む秋(野畑明子)の句があった。この句の通り、誰でも一つや二つの不調を抱えながら生きている。近所の人たちと出会えば挨拶ぐらいはするが、多分腰が痛かったり肩が凝ったりするのだろうが、ニコニコしている姿を見ると、みんな偉いなと尊敬したくなる。世界を見れば信じられないような戦争で大勢の人が亡くなっているが、日本はまだ平和で有難いとしか言いようがない。喉が痛いぐらい咳が出るぐらい風邪ぐらい我慢するので、今の平穏無事な生活がずっと続きますようにと、心の中で祈らざるを得ない。こんなブログを書けるだけでも有難い。秋という季節は、この句のように心を和ませてくれるようだ。
