今は土曜日の夕方、いつもの通りの書き出しであるが、南側の窓から見える空はどんよりとして、天気予報ではもうじき雨が降るらしい。この頃の天候は寒暖の差が激しく、これでは体調がおかしくなる。今朝は肌寒かったが、昨日は初夏か真夏のような気温だった。そのせいか先ほどスポーツジムから帰宅したのだが、今日は会員も少なかったようだ。会員は老若男女だが、たぶん高齢者の方が多いと思うので、彼らが体調を崩したのかもしれない。ジムに行く前はちょっとだるいなとか思うが、たまには休むかなどは、悪魔のささやきだと自分に言い聞かせているので、休日は皆勤している。今日も土曜パターンで、午前中はデスクワークをして、午後はスポーツジムに行き、帰宅してブログを書いて、1日が終わる。お昼に少し時間があるので、大抵は家内と居間で雑談をしている。女性は人付き合いが多いが、自分はあまりいないので、もっぱら聞き役である。近所の家庭も同じような傾向らしい。私的なことなのでブログは書かないが、どの家庭も問題を抱えている。それが普通である。自分は特に問題がないので少し恐縮だが、高齢者になると、まず体の健康、脳の認知症、心のうつ病など少しずつ変化する。誰それさんが癌になって入院したとか、認知症が進んで引きこもりになったとか、いろいろな噂を聞く。他人の不幸を聞いて自分はありがたいと思うのは不謹慎なのだが、正直感謝している。さらには年金のことや家族のこと人間関係のことなど、さまざまな問題があるようだ。この点も自分は特に困ってはいないので、聞き流すしかない。今気になるのは、来週と再来週の市内の学校での講演内容だが、そんなことを家内に言っても、話がちぐはぐになるだけで、そっぽを向かれるだろう。もちろん問題が全くないわけではないのだが、ブログで書くような話ではない。仕事や研究の問題は、世の中の問題とは違う。飛躍した言い方をすれば、問題は面白いとも言える。年金や家族のこと人間関係などと書いたが、お金はそこそこでよい。子や孫は都内で暮らしているので、lineなどで情報交換をするが、便りがないのは良い便り、という言葉どうりで、問題があればそれぞれの家庭で解決すればよく、相談されれば話にのるぐらいでちょうどよい。日本社会は、親や祖父母が子や孫に必要以上に関わりすぎるような気がする。文脈は離れるが新聞に、一筋の糸に蓑虫(みのむし)ぶら下がる年金暮らしの吾に似てをり(根岸芳功)の句があった。失礼ながら、この作者は年金を頼りに生活されているのだろう。もちろん自分も同じだが、気持ちの持ち方次第で生き方も変わってくる。年金だけなのかと嘆くのか、まるで蓑虫のような生活だが、それでも贅沢をしなければ毎日を過ごせると思うかで、眉間にしわを寄せていくのか、笑顔で過ごすのか、の幸せの尺度が大幅に違ってくる。自分もいろいろな仕事にまだ関わっているが、常勤ではなくすべてオファーに応じているだけなので、フリーターである。時々自分はサンデー毎日ですなどと他人に言う時もあるが、心の中では今は夏休みだと思っている。このブログでも書いたことがあるが、夏休みの言葉を聞くと子供の頃を思い出す。かなり昔の新聞に、カレンダー1枚全部夏休み、の小学生の句があった。顔面すべてが笑っている。嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。フリーターで夏休みならば、自分の好きなことができる。ジムに行きたければ、蕎麦屋に行きたければ、ジョギングをしたければ、講演資料を作りたければ、専門書を読みたければ、と自分の願いは叶う。そう思えば、高齢者になっても楽しいことはいっぱいある。自分が幸せでなければ、家内も子供や孫も嬉しくはないだろう。それが自分の出来る家族へのプレゼントである。
今と昔
今は火曜日の夕方、いつものように書斎の机に向かって、パソコンの画面を開いている。南向きの窓から、雲ひとつない青空が広がって、西日がマンションや住宅などを照り付けている光景が見える。今日は特別の天気だろう。自分の住んでいる地域も30度を超えた。夏真っ盛りと間違う5月である。先ほど市内の中学校で3校合同の運営協議会があって、戻ってきたばかりで、久しぶりに書斎のエアコンを冷房にして、夏の下着と夏のズボン下をはいて、まるで夏休みのような格好で机に向かっている。子供の頃は誰でも夏休みが大好きで、家の中では子供も大人も、今と同じような格好をして暑さをしのいだ。当然ながら昔はエアコンもなく、窓を全開にして風を頼りに団扇で涼を取っていた。自分が子供の頃は、そういえば蚊帳を吊っていた。蚊取り線香も焚いていたので、寝苦しい夜をそうやって過ごしていたのだろう。自分が生まれ育った土地は海に近かったせいか、夏休みはよく海に行って友達と泳いだ。小学生でも先輩後輩は厳しく、先輩は我々を海に放り投げ、沖の方まで先輩が先を泳ぎ、我々はアップアップしながらついていった。そしていつの間にか泳げるようになった。自宅から海まではそれなりに距離があったので、泳ぎの疲れと往復の歩きでヘトヘトだった。その時の自分の大好物は、らっきょうだった。甘酸っぱい食感は、腹ぺこぺこの子供にとっては極上のおいしさだった。あまりにも食べ過ぎて、よく母親に叱られた。今日のような夏の暑さに出会うと昔を思い出す。それは映画の三丁目の夕日と同じ昭和の時代であった。みんな貧しかった。そういえば下駄を履いて登校していた時もある。パソコンやタブレットが1人1台の学校風景とは、全く違っている。自分がまさかGIGA端末を活用する授業について、学校訪問したり研修したり学生に講義をしたりするとは、夢にも思わなかった。今日の運営協議会の内容は、どんな子供を育てるか、どんな能力を身につけさせるか、地域や家庭でどう見守っていけばよいか、など基本的には昭和の時代と変わっていない。デジタル環境の変化は急速であるが、教育の本質は変わらないのかもしれない。今日の協議会の会場は中学校で、短い時間だったが授業参観があった。3年生の授業は京都への修学旅行の計画作りであった。もちろんタブレットを活用しながら計画を作っていたが、遠い昔の宿での枕投げを思い出した。まだ世の中のことを何も知らずに過ごしていたのだろうが、どんな時代でも、子供は子供なりに、小さな喜びと小さな不幸がやってきて、嬉しかったり悲しかったりしていただろう。文脈は離れるが新聞に、廃校に燕少女は母となり(山口誠)の句があった。少女が昔通っていた学校は廃校になってしまった。その学校にはツバメが巣を作ってよく飛んでいて、親ツバメが子に餌をやっていただろう。その学校の子供たちは、そんな情景を何度も目にしていた。そしてその情景は、廃校になった今でも同じなのである。何十年か後、少女は母となった。あの頃の同級生は今何をしているのだろうか。もちろん父や母になり、爺と婆になり、やがて往生していくのだろう。学校や人間は時代と共に変わっていくが、生物や自然は緩やかで昔と変わらぬ情景を見せてくれる。
車の免許
今は土曜日の夕方、いつものように書斎でパソコン画面に向かっている。今日はほぼ1日中小雨が降り、お昼頃は少し激しかったが、予定通りスポーツジムに行ってきた。家内が午前に出かけて戻りが遅かったので聞いてみたら、雨がひどくて電車が遅れたという。最近の天候は変化が激しく、体調が崩れる時もある。今日はいつもの通りのことなので、昨日の出来事について少し触れる。午前中は、運転免許のための高齢者講習に行ってきた。この講習では、動体視力検査や車の運転の実地指導などがある。確かに年齢と共に、動体視力も衰えるし、車の運転でも反射神経が鈍ってくるようだ。自分はスポーツジムに通っているせいか、判断力や操作では特に問題はなかった。とりあえずは合格したので、後は通知をもらって警察署で免許証を更新するだけで、3年間は有効になる。講習会では待ち時間があって、その間はビデオを視聴することになっている。興味もなく、机の上にある講習会用のテキストでも読むかと思っていたが、ついビデオに引きずられた。内容は、たいてい、こうしてはいけませんという禁止を促すビデオで、上から押さえつけられているようで嫌だったが、今回のビデオは違っていた。交通事故に遭った家族の気持ちを語った内容だった。奥さんと2歳ぐらいの娘さんの2人が、車ではねられて亡くなった。そのご主人の語りであった。容易に想像できるように、幸せの絶頂から、絶望としか言いようのない悲惨な境遇に落とされた。どうもがいても、奥さんと娘さんは戻ってはこない。そのことを、何度も何度も行きつ戻りつしながら、ようやくあれはやはり事実なのだ、という当たり前のことが認知できるようになった。その事故を起こした人は高齢者であった。この高齢者は別にお酒を飲んでいたわけでもなく、特に気を抜いていたわけでもなく、ごく普通の状態でありながら、ブレーキとアクセルを踏み間違えたことが原因であった。ふと自分を振り返ってみた。車の運転でなければ、そんなことは頻繁に経験している。この前もメールで会議の約束をして、どうもつじつまが合わないと思っていたら、自分の方が6月と7月を間違えていた。それは全く違和感がなかったのだ。後で気づいて、ふと怖いと我ながら思った。そのような勘違いが大変な事故を起こすとすれば、高齢者は真面目に考えなければならない。仮りに赤信号を見て、それを青信号の意味と勘違いしたら、大事故になる。それは認知レベルであるが、脳が手足に指示を出すのは行動レベルである。行動レベルの動作が遅かったら、逆の動作をしたらなどと考えれば、交通事故を起こす。ニュースで報じられるように、最近では特に高齢者の運転事故が多発している。日常生活ではそのような勘違いもよくある。だから自分も3年間は免許が継続されるが、少し考えてみようと思った。自分の住んでいる地域や駅からの距離など考えると、車はほとんど不要なのだ。維持費を考えればタクシーを使う方がよほど経済的である。それよりも危ない橋を渡りながら生活しているようなもので、1歩間違えたら大変なことになる。もし通学している子供に怪我をさせたら、自分の人生はこれで終わりになる。待ち時間のビデオが、そのことを自分に教えてくれた。文脈は離れるが新聞に、譲りてもぶれずに生きむ花辛夷(こぶし)(川高郷乃助)の句があった。車の免許を返上しても、あるいは持っていたとしても、事故を起こさない気持ちを大切にするなら、車は運転しないと決意すれば良いことである。車の免許も仕事も、ある時期で他に渡すことも大切なのだ。そんなことを思いながら、まだ決意できずにいる。しかし近い内に廃車しようと思う。それは他人を決して不幸にしないという自分への戒めなのである。
古びたパソコン
今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南側の窓から外を見ると、雲一つない晴天で初夏のような風情である。最近の天候の変化は急激で、小雨が1日中降っているかと思えば、今日はどうなっているのか、真夏かとでも言いたいような天気に変わる。昨日は都内に出かけた。今日は市内で仕事をした。事情は少し込み入っているのでブログでは書かないが、都内の事務所に置いてある自分のパソコンを、自宅に持ってきた。少し愛着があるのだが、表面が青色のLetsNoteである。この機種は誠に優れもの、操作はしやすく、頑健で可愛らしさもあり、キーボードも扱いやすい。多分大学関係者には最も使われているのではないかと思う。自分も大学に勤務している時は、ずっと愛用していた。ところが大学が終わって団体役員になると、組織からパソコンを提供される。それは嬉しいような嬉しくないような、ありがたいような傍迷惑のような微妙な気持ちであった。ただ使わないわけにはいかないので、LetsNoteとはそこから縁が切れた。それでも未練があったので、LetsNoteを自宅から職場に持っていった。だがパソコンのスペックも次々に進化していくので、いくら優れているとは言え、古いスペックでは演算速度が遅く、アプリの起動も時間がかかり、老兵はやはりだめかと思って、事務所の自分のボックスに放置したままになっていた。自宅では3台のパソコンがあり、これ以上持って帰っても起き場所がない。正確には5台なのだが、2台はほとんど使っていないので、かわいそうだが放置したままである。そこに古びたLetsNoteを持ってきてどうするのだ、意味があるのかと自問しても、理由は定かでない。ただ自宅で綺麗に磨いてアプリやらファイルやらをすべて削除し、出荷状態の状態に戻したいと思ったのだ。そうすれば少し元気になるかもしれない。古くてもバッテリーの持続時間は素晴らしく、スピードが速ければ今でも使いたい気持ちである。だがそれは老人のノスタルジアにすぎない。結局、本箱のどこかに飾っておくしかないだろう。それは自分が大学で仕事をしていた時の相棒だからである。バージョンは違っても、歴代この機種で研究をし、仕事をし、学生を指導してきた。なぜこの時期なのだと言われても、なんとなくとしか言いようがない。歳を取ってきて、古びていくモノへの愛おしさなのかもしれない。今日は午前中は市内の中学校の評議員会があり参加したが、そこで国語の授業で枕草子の「春はあけぼの」から始まる文章を、生徒たちが読んでいた。その時千年以上も昔、春夏秋冬をこのように詠んだのかと思うと、清少納言の気持ちに触れたような気持ちになった。たぶんそれは今の年齢だからだろう。文脈は離れるが新聞に、オーブンの中拭き上げて桜時(夏野あゆね)の句があった。久しくオーブンの中などきれいにすることはなかっただろう。ただ汚れてしまったオーブンを、この作者は無性に拭いて磨いてみたかったのか。外が桜で美しく咲き誇っている時、それがこの作者の気持ちを揺り動かしたのか。そうかもしれない。自分もなぜ古びたパソコンを持って帰って、磨いてみたくなったのか。季節の変わり目の時期だからなのか、あるいはそこに老いていく自分の姿を見たからだろうか。歳を重ねるということは、別の見え方や感じ方をするものなのか。
しじみ
今は土曜日の夕方、いつものように書斎の南向きの窓から外を見る。西日がマンションや近所の住宅の屋根を照らして、夕方とは思えないような明るい光景である。昨夜から午前中にかけてずっと小雨が降って、先ほどまで肌寒かった。いつものように土曜日の午後はスポーツジムに行って、健康の維持と気持ちの発散をして、元気を貰って帰ってくる。今日の天候の変化は対照的で、ジムに行く時は小雨交じりの曇り空で、ジムからの帰りは西日に顔面を照らされていたので、気持ちまで違ってくる。山本周五郎の原作で「雨あがる」の映画を思い出した。たしか浪人で仕官の道を探す夫婦の物語で最後は題名のようにハッピーエンドであった。小説や映画はともかく、ジムから帰ってきて、夏みかんのビタミンCを補給して、2階の書斎に上がってきたところである。夏みかんを食べながら、家内に夕食はと聞いたら、生姜焼きとカツオの刺身と野菜と味噌汁などと言う。カツオは旬のものなので美味しそうだ。自分は自宅で食事をするのが好きで、特に夕食は風呂上りなので子供のように楽しみにしている。老夫婦でたわいもない話をよくするが、家内は献立が自慢らしい。残っている食材を活用して、ネットで調べて料理を工夫しているらしい。自分は朝食も大好きで、もちろん味噌汁と納豆に加えて、南高梅の梅干し、青汁、白菜の漬け物、ヨーグルトとミルクなどを食している。梅干しは通販で買ってるせいかハチミツが入っていて、ことのほか美味しい。味噌汁は今が旬の浅利やしじみが入っており、磯の香りがしてこれも大好物である。時々ふりかけなども使ったり、炊き立ての時は卵かけご飯なども食べる。全体的に発酵食品が多く健康的である。昨日金曜日の新聞のローカル版に、背を丸め引き寄せ繋(つな)ぐ蜆(しじみ)舟(大橋松枝)の句があった。このようにしてあの小さなしじみを取っているのか、それが味噌汁の中に入っていると思うと、当たり前だがありがたいと思う。しじみを取る光景は、実は何年か前に島根県の宍道湖で見たことがある。自分の専門の学会が松江市であって、宍道湖の前のホテルに泊まった。正確にはホテルではなく旅館であった。この市ではホテルの数は限られており、自分は予約できなかったので、昔ながらの旅館に泊まった。小さな畳の部屋だったので旅館と呼ぶほうがふさわしい。2泊したが1日目は1人で夕食を取り、2日目は懇親会だった。1人の夕食はその旅館が経営している食堂だったが、確か自分1人だけだったような気がする。その時の味噌汁にしじみが入っていて美味であった。そして新鮮な魚で夕食をいただいて贅沢な食事だと思った。食堂の主人と話をしながらだったので、まるで映画の寅さんのような雰囲気だった。そして翌朝、2階の自分の部屋から窓を開けると、目の前が宍道湖だった。そこに小船が何艘か浮かんでいて、シジミを取っていた。それが朝靄の向こうに見えていて、まるで淡い色で描いた日本画のようだった。しじみの味噌汁を食べると、この時のことを思い出す。まるで幻想のような景色だった。自分は毎日健康的な朝食をいただき、ほろ酔い加減の一杯と旬の食材で幸せ感を味わう夕食で、食事は満足している。自分は手術の経験はなく、検査のために1日入院をしたことはあるが、大病もしたことはない。多分食事とスポーツジムのおかげだと思う。歳を取って思うことは、当たり前だが最も大切なのは健康である。美味しくいただき、体を動かし、そして適度な仕事があれば、それに勝るものはない。
連休明け
今は火曜日の夕方、というより4連休最後の休日の夕方である。長い間学校を休んでいると、子供たちは明日からの登校に少し壁を感じるだろう。子供でも大人でも同じである。土曜日曜と祝日はなるべく健康を維持するためにスポーツジムに行くが、今日も出かける時少し億劫だった。今日は朝から1日中雨が降っていたからである。天気予報は3月並みの気温で寒いと言うので、あのプールに入るのかと思うだけで、今日はどうしようかなどと思案するのだ。実際はプールは寒くもなくちょうどよい水温にしてあるので問題はないのだが、肌寒の雨降りだと、脳がそのように考えないようだ。ゴルフ練習場は屋外なので、雨が打席に入ってくるのではないかなどと考えるが、実際は練習場の軒下がかなり広いので、足元が雨に濡れることはない。どうも人間は今の状態で、いろいろ推測する、要するに取り越し苦労なのである。実際にジムに行ったら、会員の数が少ない。なるほど自分と同じような考えをして、休む人が多かったのか。プールも比較的空いていて、これはありがたい、来て良かったと思ったのである。人は行動する前に色々考えるが、とりあえず一歩踏み出すことの方が重要だ。行動すれば結果が出てくる。その結果が自分の予想通りか予想と外れるのかわからないが、どちらにしても行動した方がすっきりするのだ。なぜなら行動しなければ、推測の域を出ないからである。モヤモヤした状態のまま、時間が過ぎていくからだ。午前中はいつものように書斎で仕事をし、お昼に週1回の整体院に行って体をほぐしてもらい、午後はスポーツジムに行き、帰宅してグレープフルーツで喉を潤し、ブログを書いて、お風呂に入り夕食となる。特別なスケジュールではなく、休日の予定通りで今日も1日つつがなく終わっていく。ゴールデンウィークが終われば、明日から自分も平日のスケジュールになる。市内の学校訪問などが手帳に入っているが、明日は夕方に仕事の関係で人と会うことになっている。都内に出るのは億劫なので、市内の駅で待ち合わせると約束した。これで楽になったと思っていたら、夕方にしてほしいとメールが来たので、夕食を共にすることにした。ということは、懇親会になる。別に込み入った話でもなく、一応前向きの話らしいので、自分も気楽に出かけようと思う。連休だからというわけでもなく、毎日が休日のようなものなので、自分の生活パターンは、書斎と市内の学校とオンラインによる会議などで埋められているので、対面の打ち合わせや懇親会などは少し壁がある。子供も連休明けだと、明日から登校するんだよと自分に言い聞かせないと、なかなか腰があがらないのと同じである。夕方にしたいというのは相手の心遣いであることは分かっているので、自分もそれに合わせた。多分アルコールでも入れば、楽しい打ち合わせになるだろう。若い頃や都内の事務所に通っていた時には、夕方の懇親会などは何の心遣いもなく、むしろ楽しい時を過ごすので、今とは気持ちが違う。新聞に、巣燕を仰ぎくぐるや縄暖簾(可知豊親)の句があった。自分はこんな経験はないが、その光景が目に浮かぶようである。居酒屋の軒下にツバメが巣を作っていて、入り口に入る時その巣を見上げるのだろう。自分も昔、親ツバメが子ツバメに口移しで餌をやっている光景を何回も見た。親子の情は人間でも鳥でも同じだと思うと、どこか心が温まる。この句の作者は、1人で入ったのか何人かで話をするのか分からないが、行きつけの何の気兼ねもない居酒屋だろう。ホッとするような1時を過ごすのかもしれない。明日の自分はどうなのだろうか。場所はどこがいいだろうか。男2人なら串カツなどの居酒屋か、赤ワイン付きのパスタの専門店か、活きのいい刺身を食べさせる海鮮の酒場か、など本人に聞いてみよう。若い頃は二次会など喜んでいたが、今は自宅でお風呂上がりの一杯と夕食が嬉しい。何でも美味しくいただけるのは、スポーツジムのおかげだろう。明日からは少し仕事モードになって動きたい。
生成AI
今は土曜日の夕方、南向きの窓から見る空はまだ明るく、しかも雲ひとつない快晴である。しかし昨日は午後から夜にかけて途切れることなく雨が降って、外に出ることができなかった。昨日の午前中は学校訪問があって、曇り空なので助かったが、午後は家に引きこもるしかなかった。しかし自分にはそれはちょうどよい原稿書きの時間になった。どんな原稿だと言われそうなので、このブログでは書かないが、自分の密かな楽しみである。昨日の午後は、時折1階に降りて庭から空を見たり、玄関から道路を見たりしながら、頭をリフレッシュした。今日は大型連休の初日なので、この天の恵みのような快晴で、行楽に出かけた人にとっては嬉しかっただろう。自分たちは連休中はどこにも行かないと予定を組んでいるのは、毎年のことである。どこに行っても人で混雑するので、書斎かスポーツジムか庭の草取りか雑用や市内での買い物かなど、することは決まっている。自分が楽しいのは、書斎で好きな仕事をしている時だろう。といっても、仕事にもいろいろあるので、自分の気に入った内容だけで、残りは雑用の分類に入る。今日も縦書き原稿で文章を作成していたら、どうしてもわからないことが出てきた。もう長い間オフィス系のアプリは使ってきた。それは誰でも同じだろうが、あまり慣れていない体裁については、素人同然でどうしてもうまくいかない。困ったどうしようかと思って、Google検索で調べたが、何か自分の質問が検索サーバーに伝わってないような気がして、何度も何度もやり直した。最後は腹が立ってきたのだが、ふと思いついた。そうだ生成AIを使えばいいではないかと思って、geminiとcopilotを使って質問してみたら、見事な答えが返ってきてすぐに解決した。なるほどこういうことなのかと納得した。Google検索も膨大なデータを蓄えていて、そのデーターから適切な回答を検索して提示するので、生成AIとそんなに違わないのではないかと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。その一つは、多分まるで人間に話しかけるように自然言語で質問をして、そしてまるで人間のような回答する、その自然言語のインターフェースが優れているのではないかと思った。検索は基本的には単語レベルなので、質問者の微妙な問いとはギャップがある。検索は外国人と片言の言葉の並びで会話しているようなもので、生成AIの方はネイティブの同じ国籍の人たちの会話のようだ。それで縦書き原稿のいくつかの修正ができた。今日は、学校で勉強する中学生のように、これを教わった、これはたぶんこれからも役立つだろう、と思って得をした気分になった。単純なことだが、わからないことが続くと、好きな仕事でもどこかで飽きがくる。1階の居間に行って気分を晴らしたとしても、解決できない。生成AIは、優秀な家庭教師か万能の知識を持っている専門家なのだろう、教えてくれれば人間の先生であろうと人工知能であろうと何でもよいのだ。前に進めていけない自分を手助けしてくれる人は、優れた先生であり優れた医者であり頼れる博学者である。新聞に、歌づくりを始めて知りし風の名に東風(こち)吹きたれば春のたのしき(武井緋彩)の句があった。この作者は曖昧な言葉や意味の分かりにくい言葉は、ネット検索か、いや生成AIか、で調べるのかもしれない。そして新しい知識が増えていく、それは何にもまして嬉しく、自分が成長したかのような気持ちになるのだ。今日の自分のように、学校で勉強する中学生のような気持ちだろう。大人になると誰でも、学校でもっと勉強すればよかった、もったいないことをした、学校は桃源郷で、静かで平和で、そして知識を授けてくれるこの上ない理想郷だったと述懐する。いや物理的な学校に行けなくても、この作者のように新しい知識を得ることの楽しさは、いつでもどこでも誰でも体験できることなのだ。そう思えば、インターネットや生成AIなどの知識の宝庫に囲まれている現代人は、幸せなのである。ただし使い方によっては光にもなり影にもなることは、指摘されている通りである。
気づき
今日は手帳を見ると、昭和の日と書いてあって祝日である。ゴールデンウィークなのであまり祝日のことは気にしなかったが、今年は飛石連休のようだが、明日からの平日を休む人も多いかもしれない。昨日月曜日は平常通り仕事をしたので、かなり忙しかった。今日は仕事は入っていないが、自分のスケジュールに従って動いているので、それなりに仕事がこなせる。自分のような仕事は制限がなく、続けようと思えばずっとできるが、精度が落ちるので別の活動を入れる必要がある。今日は祝日なのでスポーツジムに行って体を動かしてきた。このことは大変重要で、脳ばかり使っていると切れ味が悪くなり、刺身で言えば鮮度が落ちる。歳を取ってくると、集中できる時間も短くなるので、予定を工夫しなければならない。自分は紙の手帳とパソコンのデジタルカレンダーの両方使っているが、愛着があるのは紙の手帳の方で、間違えても消せるようにフリクションボールペンを使っている。書き物や調べ物をしている仕事は、デスクワークのせいか分からないが、雑念が浮かんでくる。雑念といってもほとんどが仕事に関連したもので、メモするかすぐにやらないと忘れてしまうことが多い。好意的に書けば、それは気づきである。自分はすぐに対応するようにしている。これはメールしようとか、これはすぐに書類を作ろうとか、これは工作をすぐにやろうとかで、本来の書き物などが中断されるのだが、その方が忘れなくてよいのだ。忘れると関係者に迷惑をかけるので、その方が自分は怖い。今日の午前中は、メールと書類作りと工作もできたので、少し安心している。そうでないといつまでも頭のどっかに引っかかっているので、能率が悪くなるのだ。今ブログを書いているが、スポーツジムのプールで泳いでいる時に、ふと気づいたことがあって、帰宅してすぐに処理をした。それもまだ途中だが、時間が来たのでブログ書きに切り替えた。こんな風に気づきのままに、自分は動いている。実はこのブログも気づきのままに書いているだけで、どこに着地するのか自分でもわからない。ただ読んでいただく人がいるので、誤字脱字や内容を間違えると、さすがに恥ずかしいので、一応読み返している。たまには内容をネットで調べることもある。ただ書き始めて公開するまで1時間から1時間半くらいなので、どうしても推敲する時間がない。しかもストーリーを設定していないので、不安なのだが仕方がない。自分でも出来が良いと思うブログもあるが、ほとんどは凡庸な内容である。ただ自分の気持ちをうまく表現できた時は、単純に嬉しい。スポーツジムの帰り道、子供たちがスケートボードに乗って、旧市役所の広場で遊んでいた。うまく乗れると心から嬉しそうだった。年寄りでも子供でも、どんな小さなことでも、気に入ったものがあれば嬉しいのだ。文脈は遠く離れるが新聞に、串のもの買うてうれしき桜かな(石原美枝子)の句があった。団子なのかわからないが、作者の好きな食べ物なのだろう。それを買っただけで嬉しいのだ。それはまるでスケートボードに乗って喜ぶ子供と同じである。自分はどうだったろうと振り返ってみると、今日のブログはどうも合格点に達していないような気がする。読んでいただく皆さんにはお許し願おう。
受け入れる
今は土曜日の夕方、書斎の窓から見る空は青く、しかも西日に照らされてまるで輝いているかのような明るい空である。いつものようにスポーツジムから帰って、グレープフルーツを美味しくいただいて、2階の書斎に登ってきた。スポーツジムに行く時、天気予報では一時小雨が降るとスマホに書かれていたので、傘を持って行こうかと家内に言ったら、スポーツリュックの中に折り畳み傘が入っているのでそれで充分だよと言われて、まるで子どものように素直に聞いて出かけた。ジムでは、いつものメニューに従って、最後は2階の屋外にあるお湯のジャグジーに浸かるのだが、今日は小雨ではなくそれなりの雨が降っていて、体は暖かいが頭や顔は雨で濡れた。頭を冷やし足を温めることは健康に良いという言い伝えを思い出し、ネットで調べたら頭寒足熱と言うらしい。なるほどこれも粋なものだと喜んでいたが、周りを見たら誰一人もいない。屋外と屋内を仕切る窓ガラスからプールやサウナの方を見ると、それなりの運動をしているので、多分年寄りの冷や水だろうと思っていたのかもしれない。そのジャグジーから上がって15分はかからないと思うが、すべてを着替えてスポーツジムから表に出た。自分の格好は、スポーツリュックを背負い練習用ゴルフバッグを肩に担いでいるので、あの小さな折り畳み傘では濡れるだろうと覚悟して、リュックから折り畳み傘を取り出した。ジムのドアから表通りまではビルの中の通路になっていて、10mほどの先にビルの入り口が見える。その入り口は半円形でその空間だけ輝いていた。自分は我が目を疑った。確かによく見ると傘をささない人が通っている。道路が眩しいような明るさで、車も往来していた。折り畳み傘を手に持ったまま外に出てみると、道路は先ほどまで雨が降っていた痕跡を残して、太陽の光を反射して、まさに輝いていたという形容がふさわしかった。あの15分の間に、雨が止み太陽がさんさんと照らしたのか、その急激な変化に驚いた。なるほど自然とはこういうものなのかと思ったが、どこか自分の気持ちはワクワクした。確かに大きな傘を持って来なくてよかった、家内の言う通りだ、素直に聞けばよいのだと、この時は思った。人は学校で勉強して、それなりの知識を身につける。天気予報で、その時間は雨が降るとスマホで読めば、それは証拠なのでその情報に従って、大抵の人は行動をする。それは間違いではない。天気予報は、スーパーコンピューターで計算をして報道しているはずだから、その原因と結果の因果関係はまさに科学であり、家内の言うことよりも正しいはずである。話は飛躍するが、小学校の音楽の時間で、先生は子供たちにカントリーロードの歌を何回も何回も歌わせていた。参観していた自分は、そのうちに田園風景が広がって、その中に真っ直ぐな道があって、その道を歩いていって、なぜかわからないが心が穏やかになって、人に優しくしようという気持ちになったことを思い出した。それは原因と結果の因果関係でもなく、論理的な思考でもなく、子供たちが何回も歌う歌声を聞くだけで、自分の心の中に入ってきたのである。この小学校の先生は、子供たちに、分析するのではなく、すべてを受け入れることで、その世界を知ることを伝えたかったのかもしれない。世の中には、分析でもなく因果関係でもなく、ただ受け入れることだけで世界を理解する方法がある。多分家内は直感で自分にそう言ったのだろうと思うが、確かにその通りだった。新聞に、しばらくは検索せずに<ふしぎ>って気持ちを抱いたまま暮らしたい(関根裕治)の句があった。どんな現象かは分からないが、これは不思議だと思ったのだろう、検索すればそれが何か、どういう原因かも知ることができるだろう。しかしその現象が不思議だという全てを受け止めて、何も分析をしないで味わいたいと思ったのだろうか。確かにカントリーロードを何回も繰り返して歌えば、何も検索しなくても、この歌のメッセージを受け止めることができる。それは分析してわかったという認知レベルよりも、より深い理解の仕方なのかもしれない。
これでよし
今は火曜日の夕方、先ほど市役所で教育委員会の会議に参加して帰ってきて、その後書斎でメールなどをチェックしていたら、すぐに1時間ぐらい経ってブログを書く時間になった。午前中は市の教育センターに協力して、学校訪問が始まりコメントを書いていたので午前中はこれで終わった。今週から出かけることが多くなり、あっという間に時間が経ってしまう。4月からは自分の時間が取れると思っていても、現実はそんなに甘くはなく、サボってはいないのに予定通りに事は進まない。などと誰でも似たような言葉を吐くだろう。それは年度初めの仕事が始まった証拠である。そういえば若い頃からずっとそんなことを言いながら毎日を過ごしてきたのか、あまり振り返る余裕もなかった。振り返る方が良いのか進んでいく方が良いのかよくわからないが、目の前にあるものをとにかくこなしていくことは、時間はとりあえず横に置いているので、気づいた時には時間が経っている。だからあまり悩む暇もないのかもしれない。今週は忙しいが、講演等では準備不足なので不安である。自分は紙の手帳を愛用していて、やるべきことをメモしているが、なかなか予定通りにいかず、この仕事を次の日になどと変更する時には、矢印をつけているので、ごちゃごちゃの手帳になっている。しかし自分には愛着があって相棒と呼んでも良いだろう。年が改まっても自分の足跡が残っている手帳を捨てるには忍びず、本箱に多分40冊以上並んでいる。過去の年度を振り返って手帳を見返すことは一度もないが、確かにこれは自分史の記録である。多分読めばいろいろな思い出が蘇ってくるだろう。当たり前だが思い出は過去である。いくら手帳を見ても過去は過去、誰でも今しか生きることはできない。すると今を充実させるしか方法はない。午前中の学校訪問した後の授業のコメントは、自分では精いっぱいの内容で、それ以上のことは自分の能力を超えている。教育委員会の市役所での会議でも、自分が納得できる発言をして自分の役割を果たしたと思っている。だから結果は分からないのだ。授業のコメントがどのようなインパクトがあるのか、会議での発言が全体にとってプラスだったのかマイナスだったのか、わからない。ただ書いたり発言したりしている内容は、自分で出来るすべてなので、自分にごまかしがないので、自分にこれでよしと言い聞かせている。文脈は遠く離れるが新聞に、ブルー・ライト・ヨコハマ春を惜しむかな(杉山太郎)の句があった。何の脈絡も無いのだが、そういえばこんな歌が流行ったなあとか、横浜の「みなとみらい」でいろんなイベントがあって出かけたとか、あの時は夢中だったなあとか、色んな思い出が湧いてくる。亡くなった歌手のいしだあゆみさんも精一杯頑張ったのだろう。この歌のタイトルを聞くだけで、洒落た街並みを思い出し、ワクワクしたイベントで講演したり、お昼にパスタを食べたり、そんなちょっとしたことを思い出す。春真っ盛りの今の季節は、横浜とか港とかイベントとか異国情緒のある洒落たレストランとか、若者が好む時なのかもしれない。自分は別にその時に戻りたいと思っているわけではなく、相変わらず何をあくせくと思いながらも、今週もいろいろなイベントで、年寄りなりに頑張っていこうと思っている。
