ふと気づくこと

昨日は月曜日、週の仕事初めだが、コロナ禍以降、あまりその感覚はない。定例のオンライン会議や夕方の研究会にも参加して、つつがなく過ごした。こうして一週間、一か月、一年が過ぎていくのだろうか。午前中は原稿や自分の仕事のために確保したい時間なので、なるべく会議などの仕事を入れないようにしているが、その理由は、誰でも実感するように、使う脳の部位が違うからである。ルーチンワークでは浅い部位で、原稿などでは深い部位で、というのは、感じ方であって、もちろん正確ではない。それ以外に、ふと感じることがある。その、ふとという感じ方が大切で、どこからか飛んできて、脳のどこかに、先の浅いとか深いとかとは別の部位に入ってくるようだ。先のブログでもかいたが、人が高等動物に進化していく途上で、その部位の感受性が弱くなっているような気がして、また論理的な思考ばかり発達して、相対的に直観力の発達が減衰していくような気がする。12月に入って、枕元にメモ用紙とペンを置いて、気付いたことをメモすることにした。誰でもやっているかもしれないが、眠気眼で、メモはできないだろうと思うかもしれないが、そうではない。灯りを点けなくても、メモは走り書きでできるし、朝起きたときに十分読める。それで助かったことが、何回かあった。思い違いや勘違いがあって、ビデオ収録の資料の中で、これでは誤って伝わる、と夢の中で気づいたが、何か命綱で救われたような気がした。3年間も同じ映像が流れると思うと、本当に冷や汗が出る思いだった。ふと気付くこと、それは天からの贈り物、大切にしたいし、救ってくれることもある。

浅いプロと深いプロ

昨日は日曜日だったが、オンラインでかなり長い会議があった。通常朝6時に書斎に入るが、昨日は、午後4時半まで、食事の時間を除いて、閉じこもりであった。これでは、引きこもりと同じだと苦笑したが、夕方に体を動かしたいと思って、スポーツジムに行って、運動をしたら、すっきりと気分が変わった。始めは日曜日も仕事か、と思ったが、参加して良かった。固有名詞は書けないが、専門家の集まりで、その発言には重みがあって、なるほどと人を納得させる知識を持っている。この日は、研究者の集まりだったので、その分野のプロである。スポーツジムでも、昨日はやっていなかったが、インストラクターは凄く、受講生は顔だけでなく汗をスポーツウェアににじませて、体いっぱいに動いているが、その指導は並大抵ではない。さすがプロだと思わせる。前のブログでも書いたが、芸人のプロ、教師のプロ、そして昨日は、研究者のプロと出会った。夕食に、お歳暮でいただいた白ワインを夫婦で飲んだが、これが絶品で、ほのかな酔いが廻って、桃源郷とはこのことか、のような気分だったので、ワインのプロが作ったのだろう。考えてみると、この世の中は、プロで満ちている。前のブロブでも書いたが、尊敬する坂元昴先生は、病棟のベットで亡くなる直前まで原稿に目を通しておられたという。亡くなられた翌日が、ちょうど所属する団体の理事会で、自分が坂元先生の後を引き継いで、会長に承認された。運命のような気がするが、坂元先生は、研究者のプロ中のプロである。同じプロでも、浅いプロと深いプロがあるようで、その深さには限りがない。自分も、生涯をかけて、深いプロを目指したい、と思う。

楽しい審査

昨日は土曜日なので、オンライン会議は無かったが、午前は審査で、午後は、お墓詣りとスポーツジムに行って、買い物をして、などで1日が終わったが、もう12月も半ばになった。ふと思うと、年中審査をしているような気がする。昨日は、締め切りが近いので、ソニーが主催するKOOVコンテストの審査をした。さすが、ソニーだと感心するのは、その発想と自由さである。KOOVとは、積み木のようなブロックで、動いたり、音を出したり、LEDが点灯したり、数字を表示したり、などのロボット作りで、その制御をパソコンでプログラムするキットである。自分は、毎年のように審査をさせてもらっているが、昨年は、いかに多くのブロックを運ぶか、というロボットコンテストだったが、今年は違った。KOOVで、音楽を創れ、という課題で、その映像をオンラインで視聴して、審査基準によって得点化する方式だった。日本と中国とアメリカの主に小学生の作品を審査するのだが、自分は、小学3年生以下が対象だった。初めての、素晴らしい経験をさせてもらった。KOOVなので、ロボットなのだが、それが太鼓を叩いたり、鈴をふったり、LEDを光らせたり、見事に音と光と音楽がマッチして、子供の描く世界を表現していた。楽しいとは、このことか、と思ったほどで、審査中に何度も笑い声を上げたので、書斎の隣部屋でミシンでマスクを作っていた家内は、遊んでいるのか、と仕事とは思っていなかったようだ。課題曲は、上を向いて歩こう、で、世界共通の音楽だったが、その曲の合間に、手拍子や太鼓や鈴などの合いの手が、よくマッチする。他の審査員は、音楽の専門家なので、自分のような素人はどうかと躊躇していたが、面白さとか楽しさに、専門分野の国境はないのかもしれない。ソニーさんに指名していただいて、本当に嬉しく、そして思った。なんと自由なのか、青空のようにすっぽりと抜けた解放感は、なんと楽しいことなのか。楽しいことは、いいことだ。

流れに対応する

昨日は、都内の研究指定校の成果発表会があって、珍しく対面での講演をした。今時、特に東京は感染者数が増加している昨今、教育委員会もよく了解したと思うが、さすがに、授業参観は許可されなかったが、研究指定を受けた学校は、本当に丁寧に、詳細に、水も漏らさぬような努力をしていることが、よく分かる。昨日より以前に、研究紀要のゲラ原稿を、自宅に送っていただいたが、そのゲラには修正箇所が手書きで書きこまれていたので、貴重な原稿なのにと思って恐縮したが、事前に目をお通しください、との添え書きがあった。学校とは、信じられないような、丁寧さと誠実さで満たされているのか、と、思う。昨日も、教育長や教育委員会などのお歴々も参列して、体育館が密にならないように参加者を配置して、予定通り発表会が進行した。が、やはり、挨拶や講評など長引くのが通例だが、自分の講演時間になったとき、15分程度遅れていたので、自分が調整するしかないと思い、スライドの半分くらいで話して、10分間を短縮した。予定の変更であるが、この前のビデオ収録のことを思い出して、苦笑した。収録の時は、ルールによって時間厳守であるが、このリアルな対面の講演では、自由自在に調整できるのか、と思って、苦笑したのである。しかし、司会者やその後のパネル討論会では、自分もそのパネルにも参加したが、始めの予定通りの進行で、また遅れたようだ。時間を守る、という感覚は、自分と世の中はどうも違うようだ。予定通りなど、この世の中にはない、とすれば、予定を捨てて、流れにそって応じるしかないのではないか、学校は丁寧で誠実で素晴らしい文化を持っているが、その場面の事態に応じることは、苦手のようだ。それは、守る、という文化が強いせいかもしれない。時の流れに身を任せ、ではなく、流れに応じる、ことであるが、瞬間瞬間に対応することの大切さを説いたのは、反省的実践家の著書の哲学者、ドナルド・ショーンであった。

直観力が劣る

昨日は、珍しくオンライン会議などがない日であった。自宅に来客があって、これは私用の打ち合わせであるが、午後の時間をそれに当てたが、のんびりとした気持ちになって、老夫婦で今後のことを話した。外は良い天気で、明るい日差しが居間に入ってきて、サザエさんの家のような、平穏無事な日常の感覚があって、老後の生活とはこのようなものか、と思った。が、12月に入っても、土日にオンラインでの仕事があって、今週もあるが、コロナ禍以降は、平日との区別がなくなった。それで、いいのだ。休日と決めたのは人間であって、コロナは細菌なので、人間の都合は考えないで、感染を広げるという仕事をするのだろう。コロナといえども生物なので、どこか生命を維持する作用が働くが、本能なのか、どう表現したらいいかわからないが、人間で言えば、脳幹のような部位があって、生命維持だけは持っているのではないか、と、まったくの素人の考えであるが。ただ、人間のように脳が発達すると、いろいろな事を脳に閉まって、外に出さないようになる。例えば、顔で笑って心で泣いて、ならいいが、心で怒って、などは、大人のコミュニケーションの難しさを表現している。子供の発達段階によって、外言から内言へと移行する、とビゴツキーが言っている通りであるが、あまり脳に閉まってばかりいると、気付きが劣ってしまうような気がする。気付きは、直感と言ってもよいが、大人は論理的思考の部位だけ発達して、直観力、それはどの部位なのかよく知らないが、まだ発達段階にある幼児や子供の方が、高いような気がする。年齢を経るごとに、忘れることが多くなるのだが、それは、気付きを、ないがしろにしている罰ではないかとも思う。もう紙面が尽きた、また書こう。

場所や形式に意味はあるか

昨日は、都内でビデオオンデマンド用の収録があった。以前のブログにも書いたが、残りのビデオ撮りであるが、六本木ヒルズ近くのスタジオで、場所柄か、コロナ禍であっても、人通りが多く、どこか洒落た街並みで、都会に来たという感じがする。自分の事務所は溜池山王なので、距離は近い。ただ、つまらぬ話だが、この近くは昼食代が高い。だから事務所に通っていた頃は、なか卯の、うどんかそば、か、ローソンなどでパンかインスタントを買って事務所で食べる、という質素な食事だった。たまに、カレーライスやカツ丼やスパゲティなどの昼食もあるが、あまりボリュームがあると、午後の仕事で眠くなってしまう。75分の1本だけの収録だったのだが、10時から午後1時まで続いたが、早く帰らないと予定がずれるので、事務所にも寄らず、直行で帰宅した。六本木ヒルズの、確か27階あたりには、Google の日本支社があって、かつては行き来していたが、今は在宅勤務のようで、戸締りをしている、という。自分の事務所も、事務担当の女性は事務所に来ているが、近くまで来ても寄らないのは、もはや場所には愛着もなくなっているからだろう。事務所でも、パソコンがあれば十分に仕事ができるので、机は要らない。今は、大手の企業でも同じようだが、学校などでは、校長室などは大きな部屋であり、大学の教授室も、大きな机に応接セットなどが置いてある。自分は、応接セットは邪魔で嫌いなので、学生と一緒に資料を広げて議論できる大きなテーブルを置いていた。六本木あたりは、地価も家賃も高いが、そのような場所とか、机とか応接セットだとか、形だけの体裁は、意味を持たない時代になったのではないか。それにしがみついているのは、教育だけではないのか。

教育は心か論理か

昨日は、終日密だった、というより密度の濃い1日だった。オンライン会議が続いたが、それぞれが重い課題だった。面白い話題もあれば、眉を寄せて考え込む話題もあれば、できれば避けたい話題もあるが、仕事だから、当然である。固有名詞は書かないが、オンライン審査をした。その観点が、実践なのか論文なのかで、意見が分かれて時間がかかった。一昨日のブログとまったく同じである。どうも、人は優れた実践には心を動かされ、優れた論文には論理で納得し、どちらも面白い、と思う。自分も永い間、教育研究に関わってきたが、まだ心の部分と論理の部分の関連が分からない。どうしても、実践だけでは、素晴らしいのだが、背景が見えないので、頭のどこかが納得できないので、どうしてそのようになるのか、という問いが出る。だから、自分の出版では、ハウツーは書けない、それは実際に現場に立つ教師のほうが、どう考えてもプロだからである。プロに対して、素人が説教するようなことは、真逆である。若い保母さんに、お母さんが言ったという。赤ちゃんを産んだことがない人が、どうして分かるのよ、あなたの言っていることは、単なる本の受け売りでしょ、という話を家内から聞いたことがある。同じセリフは、教育研究者と現場の教師に当てはまるだろう、そこで、研究者の方は、学習指導要領などの権威付けられた文献を持ってきて、説得するスタイルが多いような気がするが、それって、教育関係者が話し合って文章化しただけでしょ、と言いたくなる。10年経ったら、また変わるでしょ、とも言いたくなる。実際には、このセリフは、小中学校の先生方はあまり言わないだろう、法的な拘束力があるからだが、そのセリフは、自分の気持ちである。心と論理と両方を合わせもつ、これが今の正直な研究の仕方であり、学習指導要領は、自分には参考文献の1つでしか過ぎない。と書くと、関係者に叱られそうだが。

教育実践と研究論文と

昨日は週始めなので、定例の会議があったが、12月もなにかとせわしなく忙しい。11月まではいろいろな仕事やイベントがあって、忙しいのは覚悟して段取りを整えて乗り越えてきた、文字通り、峠を越えてきた、という印象だが、12月になっても、なかなか余裕ができない。オンラインになって、移動時間が無くなった分、仕事を手帳に書きやすいこともあるが、やはり師走の時期なのだろうか。土日も、オンライン研修が入ってきたが、まだ実践者の語りや実践風景の余韻が残っていて、なかなか頭から離れない。1週間くらい前に、海外論文誌に投稿された論文を査読した。英語なので、自分は苦手なのだが、編集委員の立場で仕事でもあるので、査読結果をWebに書いて終了した、が、今回は2回目の修正論文なので、1回目よりは肩の荷は軽い。内容は、デザイン基盤研究( Design Based Research, DBR )で、しっかりとした参考文献と、2年間にわたるオンラインコースの観察やビッグデータを用いて、いくつかの知見を出していたが、参考文献の書き方、結論への導き方、など、著者は日本人ではないと推測された。確かに、論文なのである。しかし、先週の土日の実践と比べたら、どこかワクワク感がないのは、どうしてだろうか。しっかりした先行文献と書いたが、書斎にこもって、資料だけ読んで考察するような論文ではなく、きちんとフィールドを持った、どこからも隙が見つからないような書き方である。だから、springer出版という国際的な論文誌として、権威づけられている、が、どこかこれで良いのか、という思いもある。果たして、現場の何に役立つのか、と言えば、どこかまだぎこちない。しかし、そう書くと、身も蓋もなくなるが、どう研究知見と現場をつなげばいいのか、その解が見つけにくい。実は、DBRの研究方法は、質的研究から来たもので、実践に還元することを目指している。これまでが、実験をベースにして知見を得るという、科学や医学や薬学や心理学のような研究方法論に対して、実践をベースにしたアプローチなのだが、まだ本物の実践家の持つ魅力とは距離がある、と書けば、教育研究者は何をするのだ、という問いになるが、紙面が尽きた。というよりも、分からない、のだが、研究の方向は、確実にそちらに向かっているようだ。

プロの教師とは

昨日は日曜日だったが、午前にオンライン研究会があった。オンライン研究会が土日と続いているのは、教員向け研修会だからで、平日では授業の関係で参加しにくいからだろう。この日も、自分の所属する一般社団法人ICT CONNECT 21と他団体の合同主催だったが、得るものが多かった。オンライン授業をどのように実現したのか、それが休校措置が出て数日後に実施した、というから、驚異の早さであった。その秘訣は何か、という実践に基づく研修セミナーで、多くの教育関係者が参加した。福岡県の高校で、その取り組みは視聴に値するが、何よりも校長と担当の先生の熱意に揺さぶられた。熱く語る、という言葉があるが、その言葉通りである。どうして、このように話が自分の胸に飛びこんでくるのだろうか、それは、話し方なのか、熱意なのか、ふと考えた。土日の夕方は、好きな本を読んでいる。本屋大賞を受賞した、そしてバトンは渡された、の題名の本だが、始めはあまり面白くなかった。3人の父親がいる女子高校生の物語だが、主人公の高校生が語る文章がほとんどなので、自分には、何か浮ついたような今時の若者言葉が馴染まなかった。が、最後で良かったのは、3人目の父親が、子どもを育てる、ことは、自分のこと以外に夢中になれる、素晴らしいことなのだ、と述懐する場面である。自分のために努力する、それは当たり前だが、自分ではない子供のために役立つことが、いかに楽しくワクワクすることなのか、の本音を語る場面だった。先の高校も同じなのだ。この高校にいる生徒たちの未来のために、幸せのために、今自分たちはやっているのだ、と、熱く語っていた。自分ではない、他のため、が、熱いメッセージになったのだろう。前のブログで、プロの芸人を書いたが、教師にも、プロの教師がいる。

未来の教室のオンライン研究会

昨日は土曜だったが、午後からオンライン研究会に参加した。経産省の、未来の教室、事業の一環として、自分の所属する一般社団法人ICT CONNECT 21の活動の1つで、教科横断型、STEAM教育の実践研究であり、その授業がオンラインで配信されて、自分がコメントする活動だった。委託研究の一環なので、公開はしておらず、限定した関係者だけの授業参観であり、研究協議であったが、極めて面白かった。面白かった、という意味は、授業の指導技術としてではなく、研究として、である。指導法は、実践者が専門であって、自分の専門ではないので、コメントはなるべくしないようにしている。この事業では、テーマが、未来の教室なので、今ではなく将来を見ているので、そこが面白い。事業の性格上、学校の固有名詞は書かないが、ワクワクして参観した。指導法は、自分は素人と書いたが、実践研究、という言葉が示すように、実践が見えなければ、研究にならない。このことが自分の長い間の劣等感で、以前のブログでも書いたが、その実践が見える、正しくは、実践が観える、ようになりたい、と思って、科学研究費に応募して、幸いに採択された。が、コロナ禍の影響で、学校訪問ができないので、研究活動が停滞していた。このような研究者は、他にも多いと思われるが、幸いなるかな、オンラインという方法で、手に取るように、授業の様子が分かる。しかも、学校側が3台のタブレットを用意してあったので、いろいろな目線で見ることができた。しかも、研究活動の一環なので、写真も画面キャプチャーで自由に撮れる、気付いたことは、自分のもう一台のPCに音声で保存する、というテクノロジーを使って、夢中になって2時間を過ごして、その後の研究協議は、予定があって30分で退室したが、楽しく贅沢な時を過ごした。研究は、仕事ではなく、ただ面白いだけである。