人は変わる

昨日は、1つのオンラインの会議があったが、その他の時間は自由だった。この連休中は、2つの原稿と1つの論文を出したいと思っているが、他にもやることがあるので、予定通りにはいかないだろう。審査系が入るからだが、この連休を使って、実はもっと本を読みたい。昨日読んだ本では、学習によって人は変わる、という当たり前のことが分かった。しかし、当たり前かどうか、読む前までは疑問があった。IQなどは遺伝によるもので変わらないし、人の性格など変わりようがないし、思想や価値観など、そう簡単に変わらないし、と思っていたからである。IQも、最近ではどうも変わるらしい、社会環境が変わると脳が影響を受けるので、確かに変わるだろう。性格も価値観も変わるようで、長く生きて歳が来れば、丸くなったと言われるし、コロナ禍の今、住む家があり食事ができれば、有難いと思うようになるので、我が身を振り返っても、そうだろうと思う。ただ、教育は、変わるのではなく、変えるのだから、それが可能かどうかだが、それも可能のようだ。最後は、自分で自分を変えることが可能かどうかだが、これも可能だろう。明示的に文献には書いてないが、どうもそうらしい。ともかく、人は変わるのだが、その原動力は、新しさにあると思う。振り返ってみると、新しい文献や新しい知識に触れ、新しい事業に関わると、胸がワクワクして、嬉しくて、いかにも脳細胞がリフレッシュされたように思うので、たぶん変わるのだろう。昨日のオンライン会議も新しいカリキュラム構想だったので、身を乗り出すような気持で参加した。昨日読んだ本にも、新しい発見があったので、得をした気分になった。クロムブックの操作で、これはパソコンではなくてタブレットだと気付いて、その当たり前のことが自分にとっては新しい発見だったので、嬉しくなった。人は、常に新しさを求め続けるとすれば、たぶん、一生退屈することはないだろう。

本を読む

昨日は祝日だが、平日と変わらない。緊急事態宣言が東京に発令されているから、当然ながら都心に出かけることはないので、オンラインとメールでのやり取りになる。メールの数も、休日は少ないので、久し振りに購入しておいた本を読んだ。学習科学に関する学術的で実用的な本だったが、良かった。良かったとか面白かったということは、昨日のブログでも書いたように、読み手は映画評論家なので、物語を鑑賞して評価している。名作ならば、何度鑑賞しても面白いが、それ以外の作品は、新しさが面白さの基準になるのではないか。既に知っている内容であれば、時間を損したと思うし、感動がない。映画を見るように、本も論文も、読みながら自分なりの物語を作っているが、ロシアの学者バフチンの言う通り、自己対話の世界なのである。昨日の本は、最新の脳科学の知見が盛り込まれていて、なるほど、と納得することが多かった。それは、自分の知識に枝葉を追加しているようなイメージで、全体が膨らんできて、自分のモノになっているので、得したという気持ちになるのだろう。さらに、自分のモノにするために、昨日はキーワードだけを抜き出して、資料としてまとめておいた。これで、かなり自分に近くなった。自分も、たぶん他の研究者と同じように、いろいろ本や論文や文献も読んだと思うが、あまり身についていないと思うのは、まとめていないからかもしれない。自分の木とは別の木があるだけで、他人の木なのである。講演などで思うのは、なんとか自分の木と実践を枝葉として結びつけたい、それで花が咲く、その方法を探求しているのだが、まだ道は遠い。この連休で、本や文献などを読んで、探ってみたい。

論文査読とは

昨日は、何事もなく平穏無事に過ぎた。手帳には仕事の予定を書いているので、その予定に従って、行動している。昨日は、海外論文誌の査読である。海外の論文査読は、英語だけに時間がかかる、だけでなく、英語が苦手だから意味を理解するのに、頭を使う。それはいいとして、どうも海外論文は、査読しても面白みを感じない。著者はヨーロッパ系の学者のようだが、欧米の研究者の論文は、文字通り型にハマっていて、隙がない。隙がないから面白くない、とも言えるが、型通りで、目的、方法、データ、結果、考察、参考文献と、その通りで、特に参考文献などは6ページにわたり引用している。人工知能の父と言われるアランチューリングの有名な論文、機械は知性を持つか、では、参考文献は1つもない。この論文は、確か数十ページにもわたるような長い論文だが、独創性に溢れていて、名著である。これは例外としても、型通りなのか、型破りなのか、どちらがいいかは分からないが、面白いことが、論文の良さを測る尺度ではないか。意外性があって、そうだったのか、と膝を打つような論文や本や資料に出会うと、宝物を探し当てたような喜びがある。という訳で、昨日は早々と、Webサイトから査読結果を送った。後は、GoogleOSのパソコンを操作していた。使い慣れたwindowsと違うので、戸惑うことも多いが、触っていると、少しずつ分かってきて、そうか、こんな考え方なのか、とか、こんな設計なのか、とGoogle の開発者の考えを知ることができる。とすれば、これも論文査読と同じではないか。論文は紙で、パソコンはデジタル機器だが、論文を読むのも機器の操作をするのも、同じではないか。論文の著者の考えや、機器の開発者の設計思想を、理解しようとして、査読したり、操作しているのである。新聞に掲載されていた小学生の文章、本を読むと自分だけの映画館が始まる、を思い出した。そうなのだ、本でも論文でもパソコンでも、そこに自分の物語を作って、楽しんでいるのではないか。それが、面白いのかどうかは、映画の評価であるから、論文や作品の審査員や機器の利用者は、映画評論家である。

講演をするには

昨日は、朝10時前から夕方4時過ぎまで、オンラインの協議会に参加した。1日中、お昼時間を除いて、オンラインでパソコンの前に座り続けるのは、疲れる。脳が疲れるのだが、仕事となれば仕方がない。企業の人は、もっと厳しい仕事の仕方をしているので、文句は言えないだろう。午後にオンライン講演があったが、昨日のブログでも書いたように、寝不足があって内心不安だった。だから、朝食後に講演の練習をした。およそのことは分かっているので、目を通して修正などをする程度だが、昨日はどこか不安だったので、実際の講演と同じように、声を出して練習をした。黙読から音読への切り替えであるが、そこで気付いたことで助かった。なにしろ、時間が足りない、急遽、話す内容を削った、順番を変えた、など10時寸前まで時間がかかったが、やって良かった。そして、午後になって講演をするまでの間、胸がドキドキして、どうしてこんなに緊張するのだろうか、と不安になった。一昨日の寝不足がまだ尾を引いているのか、と思いつつ、緊張のまま、オンライン講演をした。あっという間に終わって、始めてホッとしている自分に気が付いた。こんなことは、あまり経験したことが無かったが、学ぶことがあった。音読することの大切さである。慣れとは恐ろしいもので、眺めるだけで安心するが、実際は違うのだ。声を出してみて、始めて、時間が足りないとか、冗長だとか、追加すべきだとか、思いつくのである。それは、本番のシミュレーションだからかもしれない。パソコンの操作も、やってみなければ分からないし、そこで気付くことが多い、審査でも書類だけでは見方が狭いし、対面での質疑で初めて分かることが多い、頭で分かっただけではまだまだ不足している、認知だけではなく行動で分かるのが、現実である。音読のお陰で、失敗しなくて済んだ、恥をかかなくて良かった、実際に行動することで、助けられた。評判も良かったようだが、結果よりも、この気付きが自分にとっては、宝物のように思える。

浅いメディア

昨日は月曜日、諸々の仕事や人に会う用事があって、都内に出かけた。定例のオンライン会議に、溜池山王の事務所で参加した。事務職員は事務所に来ているので、書類の手渡しなど、何かと都合は良い。他にも用事があって、帰宅した時に、平日にやっているジョギングをしようと思ったが、できなかった。書斎でメールのチェックや返信などをして、夕食に後に録画番組を見た。西部劇だったが、つい最後まで視聴したので、普段よりかなり遅く床に着いた。珍しく、寝つきが悪く、夜中に目が覚め、早朝にも目が覚めて、そのまま床の中にいたが、そんな時は、いろいろ考える。どうしてだろう、と思ったら、ジョギングをしなかった、録画番組を長時間見た、という原因で、寝つきが悪かったのだろう、という結論だが、ただ今日はオンラインの講演があるので、これはまずいと反省した。ジョギングをすればできたが、心のどこかに止めたい、という思いがあったからで、録画番組も途中で止めて早く寝なければ、と思いつつ、そのまま引きずられて、という結果だった。昨日のブログで書いたように、今を楽したい、気ままにしたい、と誰でも思うだろうが、自分も同じで、朝起きると、どこか少し昨夜の気まずさが残っていて、脳が鈍感になっているような気がする。西部劇は面白い、が、それはエンターテインメントであって、娯楽でしか過ぎない、しかもプロが作る映像は、頭に強く印象付けられるので、寝ていてもシーンが浮かんでくる。メディア論に弾丸理論があって、弾丸のように強烈に印象付ける、つまり洗脳のような機能を持つという説だが、確かにそうだが、寝ながら考えたのは、しかし浅いのではないか、と思う。表面だけ面白いのであって、脳の深い部位に届かない、くすぐられて笑う漫才や落語のようなもので、やはり名人芸だ、と感じるような深みがない。自分は、浅いメディアと深いメディアがあるように思う。そんなことを考えていたので、さらに寝不足になったのだろう。小市民のすることは、分かっていながら止められない、という意志の弱さと言うことか。今朝、講演の予習をしなければ、と思う。

小市民の生活

昨日は日曜日、4月25日であるが、東京を始め4都道府県に緊急事態宣言が発令された。ただ慣れてきたせいか、あまり意識が高くないのは、誰も同じだろう。自分も、そうか、と言う程度だが、テレビ報道では切迫感が伝わってくるのは、担当大臣や医療関係の責任者の発言だからである。いつも庶民は、目の前のことしか眼中にないような気がする。それがいいことなのか、いけないことなのか、正直分からない。海外報道でも、例えば韓国の反日報道などは、怒り心頭に達したように感情的で、本当に庶民はそんな気持ちでいるのか、と思ったり、ミャンマーなどの軍部政権と庶民の衝突は、信じられないような光景が報道されるが、一般庶民はどうなのかなど、この世は、分からないことだらけである。今は、コロナ禍で在宅勤務になっているので、特に世の中の動きに鈍感になっているかもしれないが、今目の前にあることだけしか、自分は関心がないのかもしれない。昨日は午前中にやっと廃棄する本や雑誌などを片付けた、というのは、自分の年末の大掃除は12月末ではなく、3月末か4月末だからである。午後は、土日はスポーツジムに行くが、出かける前は、ランニングマシンで走るのかと少し気が重く、30分間を終えるとびっしょり汗をかいて、ああ、良かったと思い、その後、プールに行く時は、このままシャワーを浴びて帰ろうかと思うが、水に入った瞬間、これは爽快だと思い、屋外にあるジャグジーに浸かって空を眺めていると、今日も良い天気で、幸せだと思う。西日に照らされた白い雲と灰色の雲が、青空をバックにして、悠々と浮かんでいるのを見ると、なんと贅沢な、と思う。自分は、ただ、目の前のことしか考えていないのか、今を楽したいとか思っていないようだ。これでいいのかどうか分からないが、今が良ければ良しとしたい。今の自分は、典型的な小市民らしい。

他人の言葉

昨日は土曜日だが、生活や仕事は平日と変わらないのは、誰も同じだろう。プリンターが壊れて、新品なものを購入したので、その設定をした。今週は3日間都心に出かけて時間が取れなかったので、隙間時間を使って設定をしたのだが、購入した量販店のレジ係りの人が、USBケーブルはどうですか、と言った言葉を思い出した。その時は、何をとぼけたことを言っているのだろうか、と思って、いいえ、Wi-Fiで接続するので、と答えたのだが、ふとその言葉を思い出した。そういえば、電波状況が時折不調のことがある、その時にはオンラインの会議も、プリンターの出力もうまくいかない、すぐ近くにパソコンとプリンターがあるのに、どうして無線接続なのだ、と当たり前のことに気が付いて、USBケーブルを買いに行って、接続し直した。快適になった。これでまったく心配ない。メインのパソコンの隣に、学校に導入されているクロムブックがあるので、これはWi-Fi接続にしたので、プリンターはどちらも活用できる。ふと思い出した。どこの先生だったか、クロムブックのタッチペンは100均で売っている、子供たちには、これを使わせている、という言葉が浮かんできて、家内と一緒に100均に行って、2本買ってきた。帰宅して試してみると、操作が楽なのだ、そうか、クロムブックはタブレットなので、スマホと同じなのだ、ペンでも指でも操作できる、だから、子供向きで良いのだ、と当たり前なことに納得した。古いプリンターを廃棄しようと思ったが、インクがもったいないので、家内に聞いたら、コピー機に使いたいと言うので、そのまま新旧の2台を置いた。使ってみると、これも便利だ。実は、ここ1週間くらい、他人の言葉で、事なきを得た、うまく行った、失敗しなくてよかった、ということが連続して起きた。他人の言葉は、実は優れた知恵を含んでいる。

議員連盟の議論

昨日は朝8時からのオンライン会議であった。と言っても,傍聴程度なので、気が楽だった。超党派議連の会議で、主に国会議員と官僚の会議に、アドバイザーとしての参加だが、時間が限られているため、ほとんど発言の時間はない。ただ、議論は面白い。内容はここでは書かないが、いつも感心するのは、官僚、つまり文科省、経産省、総務省の課長クラスの説明と、国会議員からの質問に対する答弁の、そつのなさ、鋭さ、その論理的な発言である。頭が切れると言えば、その通りである。さらに凄いと思うのは、精神的なタフさである。早朝8時に始まるということは、その前に、議員会館に来ていること、そのためにかなり多くの資料を準備していること、その説明する時間も、文字通り秒単位と言っても良いくらいで、よくここまで対応できると、感心する。それが、いつも同じで、決してミスはしない。城に勤める武士と同じだろうと推測するが、日本はいろいろな問題があっても、優秀な官僚で保っていると言われるが、その通りだろう。官僚は一流、政治家は三流、学者も三流などと揶揄されるが、当たっている。欧米の政治家は、官僚と同じように、舌鋒も鋭く、先鋭的な言葉を発し、日本の官僚と似ているようだが、日本の政治家は、人間関係が難しく、忖度の世界のようで、鋭く見えて、白黒が混じった灰色の議論になって、結論が見えにくい。コロナ禍においては、なおさら政策決定が難しく、その影響が大きいので、舵取りが難しいのだろう。有識者と言われて会議に参加しているが、なんとなく発言するのが憚られるような気がして、何もお役に立てていないが、これも相手を忖度しているからかもしれない。ということは、コロナ禍における政策、それは医療だけでなく、教育もまた難しい選択を迫られるのは、科学のようなyesかnoなのかの決定論でいくのか、周囲の状況も勘案しながら、というぼかした墨絵の世界、つまり日本的な決定の仕方なのか、どちらかが問われているからだろう。日本人は、なかなか日本流を脱することは難しい。ただ、官僚のような責任感は、武士道を想起させるようで、この日本人らしさは、続けていただきたい。

失敗とは

昨日も都心に、審査系の会議で出かけた。今朝も朝8時からオンライン会議に参加したので、ブログを書く時間が遅れた。今週は3日も都心に出かけたので、時間が厳しく、郵送書類の整理ができないで、机の上に書類が溜まっている。しかし出かけると、いろいろな刺激があって、脳が活性化する。ただ帰宅してから忙しくなるが、これも世の常である。刺激とは他人との対話のことであり、そこから人が学ぶのは、当たり前のようで当たり前でない。対話の中に知が埋め込まれているのは、すでにブログで書いた通りで、審査前に書類を読むことと、審査中に対話することの差は大きい。書類を読むのは個の認知であり、対話は状況における認知だからである。対話の中で、失敗は確率であることを、昨日知った。失敗すると、どんな小さなことでも気持ちが塞いで、あれは自分の知識が無かったから、判断が鈍ったから、場の雰囲気を掴めなかったから、見通せなかったら、視点の方向が間違っていたから、思い違いをしていたから、などいろいろ原因を考えて、自分の欠点を探したり、相手のせいにしたりして、あまり生産的でないことに、心の無駄遣いをする。自分も帰宅してから、小さな失敗をして反省するのが常だが、もっと楽に生きたいと思うことがある。しかし、失敗は確率なのだと言われれば、確率的に生じる現象とすれば、葉っぱが落ちるのも確率で、ある頻度で生じる現象であり、それは葉っぱの弱さのせいや、風のせいにすることもできるが、多くの葉っぱの中で落ちる葉っぱは、確率だと考えたほうが、気が楽だ。物理学は決定論で片づけるので、何が原因かと探すが、人はそれほどきれいな因果関係はなく、ぼんやりとした関係なので、いっそ確率的に生じると悟ったほうが、分かりやすい。とすれば、失敗をしたことにこだわる必要はなく、そこから先のほうが大切なことは、頭では分かる。分かっていても、つい自分を責めるほうが多いが、確率なら自分にあまり責任がないので、気楽になれる。昨日は、対話の中で、そのことを学んだ。

レジリエンス

昨日は、都内に出かけたが、東京駅前の丸の内なので、都心に来たという感じがする。今日も出かけるので2日連続だが、審査系の仕事なので内容は書かない。審査の合間にスクリーンに広告のような映像が映し出されて、ふと目に留まった。レジリエンスの言葉があったからである。この言葉は、ある雑誌から、2030年における教育、のテーマで原稿依頼があって、自分の原稿に引用した。つい最近のことなので、アッと思ったのだが、実は、この言葉自身は、ある学会のパネル討論の中で知って引用したもの、つまり借り物であるが、妙に気に入っているので、昨日のスクリーンに引き付けられたのだろう。レジリエンスとは、反発力、元に戻る力などと訳されるが、折れない心が気に入っている。コロナ禍の中で、分厚い雲に覆われたような気持や、見通しのないトンネルの中にいるような思いや、いつ大地震や大水害が起きるかもしれない、という不安を、誰もが感じている。コロナ禍では、Kの文字のように、斜め上向きの企業もあれば斜め下向きの企業もあると聞いているが、下向きの企業の人は、ストレスにさらされているが、どうしょうもない。そういえば、ハラスメントの言葉がよく使われるが、これもストレスの1種だから、ついに鉛筆がポキンと折れるように、心が折れてしまうのだろう、と考えれば、ほとんどの人は、折れる心を潜在的に持っている。とすれば、折れない心、釣り竿のように、しなやかに弾力性のある心を持つこと、それは教育においても、教員にも子供にも求められる心の持ち方である。毎日のように、小さな心配ごとや小さな問題が起きてくるが、しかし折れてはいけない、しなやかに釣り竿のように受け止めながら、やがて回復すれば良いのだ、その戻す力は、小さな喜びや小さな幸せであり、自分に自信を持つ、という気持ちだろう。レジリエンスは元来が物理学の用語であるが、モノの世界と人の世界も、共通する大切な考えがある。