昨日のブログで外的、内的動機付けと書いたが、正しくは外発的、内発的である。他からお叱りを受けないように書いておくが、これは内発的な修正であると同時に、叱られるという外発的な要因も関与しているので、両方が寄与している。まあ、どちらでもよいのだが。昨日と今日の2日間は、行事があって出かける予定だったが、新型コロナの関係で、延期になった。だから、2日間がぽっかり空いた。いろいろな行事や講演などが中止または延期になるが、オリパラの開催などと違って、庶民のことは、どうにでもなる。研修会で話す資料請求のメールが来た、既に準備している資料を画面に出して、およそ分かっているし、連休前に他県でもオンライン講演したので、添付して送信しようとした、が、ちょっと待てよ、と思った。どうも、ピンと来ないのである。何故、しっくりこないのだろうか、釈然としないまま、ああでもない、こうでもない、と資料の追加や削除を繰り返している内に、午前中が過ぎた。しかし、時間を惜しむ気持ちは起きなかった、頭から離れない、幸い小雨の降る天気で、午後も継続して、書斎にこもって、ほとんどの資料を入れ替えて、今日継続することで、ようやく納得した。以前に放映していたNHK朝ドラの窯焼きの光景を思い出した。納得いかなければ、壊してしまうのである。焼き物も、美術も、音楽も、納得いかなければ、ボツになるのが当たり前である。そういえば、昨日はプレバトの番組があって、名人の句がボツか掲載かで、視聴率を上げている。昨日は、ケーキがお題で、IKKOさんの句、住み込みの夜のケーキの苺かな、が第1位になった。芸能人として生きていくのは、並大抵ではなく、相当の苦労をしてきたのだろう、住み込みの時代があって、夜に食べたケーキの味は、美味しかったのか、侘しかったのか、不安だったのか、その気持ちを苺に託して、という作者の思いは、視聴者に伝わってくる。自分の講演資料も、相手の心にどう届くかで、ボツか掲載かが決まるようなものであり、時間をかけるのは、当たり前である。今日、もう一度見直して、送信しよう。
外的動機付け
昨日は何があったのだろうか、ふと思う。小雨が降って、少し肌寒い日中で、三寒四温と言う通りだが、手帳にしたがって、夕方は散髪に行った。自分以外のお客はなく、どことなく寂しげな様子だが、聞けば、新型コロナの影響で、年配者の客が少ないと言う。外出しないと、身綺麗にする気持ちが起きず、家に巣ごもり状態になるので、そのまま惰性で過ごしてしまい、テレビの番人になっているらしい。床屋は、江戸の昔から、市井の人の溜まり場であり、井戸端会議の場所である。心理学では、外的動機付けより内的動機付けのほうが、大切だと、多くのデータで証明しているが、日常生活感覚としては、外的のほうが優先する。外出しなくてよい、自粛せよ、と言われて、身だしなみも髭剃りも面倒になってくるのが人情であって、年配者を責めることはできない。多くの人々が、蔓延防止区域や緊急事態宣言の自治体では、人としてのあるべき姿を否定されているが、この後遺症は、その後の人生に大きく残るのではないか。しかし、一昨日の学校評議委員会で参観したように、学校でも、密を避け、マスクをしたまま合唱をし、マスクをしたまま運動をし、黙って給食を食べ、という異常な生活が続いている。学校は素晴らしいと思ったのは、その異常さに負けず、前に進んでいこうとする姿であり、惰性に流されない、という姿勢にある。廊下の張り紙に、後数日で、中間試験があり、県の学力調査試験があり、と掲示されている。これなのだ、外的な要請によって、頑張ろう、という気持ちが起きて、努力し、やっていく内に、何か面白くなってくる、外的から内的な動機付けに転換するのが、現実の姿である。自分もまったく同じで、研究指定校での研修がある、資料を用意しなければならない、資料を集めている内に、脳が刺激されて、他の資料を見る、面白そうだ、と思っていると、アッと言う間に時間が過ぎてしまう。惰性で生きることはない、だから月に1度は、散髪に行って、研修会でも見苦しくならないように、と内的な動機付けが出てくる。外的動機付けも素晴らしい。自分を高めるきっかけなのだ。
教育のプロ
昨日は、珍しく所沢市内で2つの対面の会合があった。1つは、地元の中学校の評議員会で、他方は、1人1台端末の研究指定校の小学校である。評議員会は、年に数回の会議であるが、その他にいくつかの行事に招待されるが、新型コロナの関係で、卒業式、入学式、文化祭など、ほとんどが来賓なし、なので、少し疎遠になっているが、自宅前の通りを、中学生が通学する姿を見るので、愛着がある。会では、授業参観や意見交換会などがあるが、給食には少し戸惑った。高齢者の口に合わない、量も多い、こともあるが、食べ残しができないのである。子供たちの手前、最後まで食べて好き嫌いを無くしましょう、と言っているので、最後までしっかり食べたが、昨日のお風呂上りの計測では、体重も体脂肪もきっちり増えていたから、効果はてきめんだ。しかも、黙食なので、あまり美味しく感じない、観察していると、校長や教頭先生は、もちろんキレイに完食し、しかも、時間が早い。驚いて、どうしてそんなに早いのですか、と聞いたら、職業柄、早く食べないと、給食指導ができないから、と返事が返ってきた。校長は、子供たちが食べる前に、校長室で食べるのだが、これは検食と言って、事前チェックなので、お毒見係りのようなもので、法律で決められている。意見交換会で、今年から学校経験者である元校長先生が評議員に加わったが、この先生の発言に、さすがと思った。コロナ禍の中、それぞれの生徒は元気で楽しそうだが、部活や試合や野外活動や合唱コンクールなど、あらゆる活動が制限されている、たぶん、それは子供たちにメンタルの面で、影響を与えているのではないか、そのメッセージやSOSをキャッチして、言葉にならない言葉や、見えない訴えを聞く耳を持ってほしい、とさらっと話したが、さすが長年教育に関わってきた人の言葉は、重く、中心軸がぶれていない。教育のプロとは何か、を学んだ。もう一つの研究指定校でも、同じような感想をもったが、所沢市内でも、全国の至る所でも、教育のプロが、子供たちを支えている。自分は、その先生方の見守り隊であり、応援団でありたい。
失敗を生かす
昨日は、3つのオンライン会議があって、内容もそれぞれ面白い。所属団体の事務局会議が、いつも楽しいのは、あまり他ではないかもしれない。学校でいえば職員会議が楽しいとか、大学では教授会が楽しいとか言っているようなものだが、自分に合っているのだろう。ふと、数日前の日曜朝刊で、堂場瞬一さんのインタビュー記事を思い出した。堂場氏は、新聞記者だったが、その頃から小説を書いていたが、胃潰瘍に苦しまされた。その痛みや医者通いのために、新聞記者生活を送ることが困難になって、退社した。始めは、スポーツ小説で売り出すが、想像するに、小説で生を営むのは並大抵ではなく、かなりの苦労をされたと思うが、徐々に小説家として地位を固めていく。やがて、警察小説のジャンルで、不動の地位を確立する。自分は、夕方お風呂から上がって夕食までの間、実際は15分程度だが小説を読んでいるが、今は、堂場さんの警察小説である。警察小説と言っても、その数が膨大で、よくこんなに多彩に小説が書けるものだと感心するが、それほど多作で知られている。氏は、振り返って言う。新聞記者を続けていれば、そろそろ退職の年齢に近い、その後どうするのか、自分の好きな小説を書きたいが、今の年齢でデビューするのは不可能だろう、とすれば、あの時胃潰瘍になったお陰で、今の作家生活ができる、すっかり胃潰瘍は治ったので、有難く、世の中が巣ごもり生活になったが、その生活も、作家にとっては当たり前なので、嬉しい、という趣旨だった。なるほど、病気をしたくない、苦しいことから逃れたい、失敗から逃げたい、と思うのは人情だが、自分の都合の悪いことが、むしろ今になってみれば、都合の良いことになると語っている。机の横に、失敗の科学の本がある、まだ読んでいないが、題名に惹かれて買った。自分も多くの失敗をしたが、今になってみれば、だから良かった、日常生活でも都合の悪いことも起きるが、だから良かったと思うことが、ほとんどである。あの時、失敗したので、今はみじめだ、不幸だ、と思うのは、どこかやり方を間違えている。失敗は、幸せに導く教師である。
芝生の手入れ
昨日は日曜日、と言っても、平日と変わらないが、終日曇り空で時折小雨が降って、そろそろ関東も梅雨入りが近いというから、今年は天気も例年と違うようだ。小さな庭だが、少しばかりの芝生があって、雑草が生えている。その雑草を取るのも、なかなか手間がかかる。芝生というような洒落たものではない。というのは、およそ家を新築すると庭に芝生を植えたがる、それは人情で、自分も一家の城主になったのか、という感慨があるので、その城主の気分を味わいたくて、緑の庭を見たくなるのだが、日本芝は素人では無理で、職人さんに入ってもらわないと、すぐに刈れてしまう。こんな失敗を何回かした。犬を飼っていた頃、もう随分と昔の話だが、当時、庭に犬小屋を建てて、そこで飼っていたが、自分は仕事が忙しくて、家内に任せていた。当然、庭の芝生は枯草になり、雑草やらで埋まっていたので、芝生にするという概念は薄れていた。余談だが、当時、この犬が、家内が朝散歩に連れていった時、草むらに財布を見つけ、それがかなりの額で、交番に届けた結果、これがテレビや新聞で報道されて、一時、貯金犬、と呼ばれて、その年のペットのテレビ放映の第3位になった。当時は、なにかとペットブームだった。近所の子供たちが、犬を見るために、庭を道路からよく覗いていた。しかし、犬の世話は老後が大変で、犬も病気をしたり、介護しなくてはならないので、亡くなってから、ペットを飼うのは止めた。その代わり、野菜や花、そして芝生に目が移った。ある時、川に捨てられていた、川芝があって、それをもらってきた。少しばかりの川芝だが、この芝はめっきり強い、踏まれても、いや、踏まれれば踏まれるほど、上に伸びず横に伸びて、生き延びようとする、その根性があって、広がるのを防ぐ仕事が増えたが、同時に、雑草も増える。川芝自身が雑草のような性格で、他の草も同僚のようなもので、まあ、いいか、共存させるか、と思って、適当に雑草を取っている。雑草を取ると、どこで見ているのだろうか、ヒヨドリやハトがやってきて、たぶん、小さな虫でも取っているのだろうか、小さな庭を歩いている。今日は、こんなブログを書くつもりではなかったが、筆が滑った。
チェックする
昨日は土曜日、平日と少し違うのは、スポーツジムに行く、お昼は外食にする、などであるが、車検の車を引き取りにも行った。午前中は、有難いことに原稿が提出できた。原稿を提出する時は、車検で言えば点検が終わって、これでお客さんに渡せます、安心です、という保証を付けるようなものなので、点検作業が必要なのである。昔は、そこが適当だったという反省があって、最近では、必ず何回か紙に印刷して読み返す、ことを義務化している。紙のほうが、誤字脱字を見つけやすい、参考文献は、文中での引用に漏れがないか、何よりも、論理の流れがおかしくないか、をチェックする。このような確認は、例えば、車検の点検では、お客にもチェックリストを渡して、間違いないことを保証している。つい最近も、オンラインで助成式をするので、自分のPCのチェックリストが届いたが、その中身は、最新のアプリをインストールしたか、確かにバージョンが変わると機能が違う、有線にできるか、確かに安心だが無線で勘弁してほしい、インターネット速度を測って記入せよ、確かに不安定なことがあるので了解、などを記入して送り、さらに予備のテスト日まで決めている。なるほど、プロは細心の注意をするのだと、感心した。論文や原稿でも同じで、学会によっては、論文提出のチェックリストが付いている。先般も、自分の原稿で、教科においても課題を探求し、と書いたら、事務担当者から、課題を探究し、ですか、とメールが届いた。教科の中だから、研究まで考えなくてよい、と思って、学習指導要領を調べたら、探求の文字は1語もなく、すべて探究であった。なるほど、教育関係者は、事務担当者であっても、知っているのだ、もちろん、文科省では、どの文字を使用するかは、すべて詳細に決めている。自分のいい加減さが、恥ずかしくなった。最後に、自分では、これで良い、というレベルになったので投稿しようとした時、題名の英文を追加した時、どうしても、この直訳では伝わらない、と感じて、日本語の題名も英文も修正した。すべて、最後の最後まで、気を抜いてはいけないと、自省した。
元気をもらう
昨日はオンライン会議があったが、自分はホストではないので気が楽だが、ホスト側がうまく接続できず、zoomからteamsに変えて、つながった。どうも、まだオンラインは不安定なところがあるようで、この時も、携帯電話が鳴って、同時にメールでも知らせが届いた。大事な会議では、どうも不安があるが、これも危機管理の意識が必要なのかもしれない。学校の先生方も、GIGAスクール構想ですべての子供達に端末が配備されるが、クラスの子供すべてが利用するとすれば、いつ回線が切れるか、どこで遅延が起きるか、どこで故障するか、担任の先生方が不安になるのは当然である。所沢市内の小中学校にも、GIGAの大波がやってきて、多少でもお役に立てればと思うが、早速に研究指定校を訪問することになった。本音は、すべての学校を訪問したい、どこに課題があるか聞きたい、不安になっている先生に元気を与えたい、問題があればすぐに解決するお手伝いをしたい、と思っている。昨日は、車検のため、車をホンダのディーラーに届けた。担当の営業マンは忙しそうで、女性が対応したが、いづれも丁寧で、さすがだと思った。営業マンは、元気が良く、大きな声でテキパキと仕事を進める、家内と、活気があるね、と笑いながら話をした。どんな時でも、人は元気のある人から、笑顔のある人から、エネルギーをもらうのだろうか、自宅への帰りは、徒歩だったが、20分以上かかるので、ちょっとしたハイキング気分だった。昨日は夏のような日差しで、晴天の下で、帰り道の畑で栽培されている野菜と色とりどりの花が、きらきら光っていて、元気だよ、と主張しているようだ。人は、人からも野菜からも花からも天気からも、すべてからエネルギーをもらって、生きている。自分も、せめて所沢市内の学校のGIGAスクールでは、元気を与える人になりたい。幸い、自分もそのような役を教育委員会からいただいた。1人1台端末を有効活用するアドバイザーであり、助っ人であり、元気をプレゼントする見守り隊でありたい。
不安になった日
昨日はいろいろトラブル続きだった。午後に所属する団体の理事会がオンラインであったが、どういうわけか、相手の音声は聞こえても、自分の音声が相手に届いていないことを、始めの挨拶で知った。少し焦った、こんなことは初めてで、昨日までオンラインでやり取りしているし、パソコンは新しいし、理由がわからない。こんな時、人は焦る。理事会で自分が仕切っていて、30名ほどの参加者がいて、議題を可決しなければならず、定款で議長は代表者と決められていて、どうしようかと思ったが、たぶん頭が働かないのだろう、仕方がないので、一旦切って再度立ち上げようと思ったら、携帯に事務局から電話が掛かってきた。こんな時は、電話が代用になると、つまらぬことに感心したが、司会を事務局長に任せるから、しばらく待ってくれ、と言って、再立ち上げをしても駄目なので、隣のパソコンを立ち上げて、接続しようと思ったら、アプリをインストールしなければならないので実行したら、英文しか出てこない、ルータの電源を入れ直そうか、とあまり意味のないことを考えていたが、もう一度音声のテストボタンを押してもまったくレベルが上がらない、これはハードの故障かと思った時、マイクはどうかと気付いて、録音用の小さなマイクをUSBに差し込んだ時、画面の向こうから、聞こえました、と言う声が届いた。こんな当たり前のことがどうして気付かないのだろう、と自分が情けなくなった。第1号議案の採決はまだだったので、間に合った。第6号議案までと3つの報告事項と意見交換を終えて、予定通りの時間で終わった。忙しい人たちばかりが集まっているので、遅れると失礼になると思ったが、オンラインは機械ものなので、トラブルが起こる。後で調べたら、外付けマイクは良いが、内臓マイクは作動しない、故障であった、こんなことが本番で起きるのか、と恨めしく思ったのだが、仕方がない。午前も、オンライン採点をして、かなり反省することがあって、少し気持ちが沈んだ。自分はもう力もなく駄目なのかと、思うことがある。夜、録画していた名作おしん、を見た。けなげにも幼い子が苦労しながら生きていく姿に、涙が出た。まだまだ自分は、頑張らねばと、励まされた。
世の中は動く
昨日は、いろいろなことがあって、忙しく過ごしたが、さすがに連休が終わって、世の中が動き始めたのだと実感する。科研の報告は、専門家に聞いて完成して送ったが、何でも知らないことは恥ではなく、聞けばよいのだ、と素直に思う、こんな簡単な事でも、嬉しい。寝枕に置いた電波時計の電波の受信が弱いせいか、時計の時刻が数秒ずれている、こんなことでも気になるのか、電池を変えて自分の書斎に持ってきたら、すぐに受信して、また戻したら、スッとした。オンラインでセミナーなどがあると、スライドだけ映していると、スライドに集中するが、講師には目が行かない、セミナー内容によるが、対面のように、画面の端に居て説明するスタイルが良いと思って、調べると簡単にできる。これだけでも、面白い。昨日は、午後は所沢市の教育センターに行って、市内のすべての小中学校約50校にGIGAスクール構想の実現で、端末が整備されて、その活用に向けての打ち合わせがあった。ふと思い付いて、数日前に、これは良いと思った資料を持参して説明したが、これもタイミングが良く、会議が充実した。これも楽しい。帰宅して、気になることがあって、書斎に上がり、パソコンでメールなどのチェックをしたら、いろいろ面白い内容があった。所属団体の新企画、というか、委託事業があって、ワクワクする。事業家とは、このような面白さを感じているだろう、と思ったが、自分は研究や教育の分野と、団体の運営という2足の草鞋を履いているせいか、2倍の喜びがある。それは、同時に、2倍の苦しみもあるかもしれないが、昨日のブログで書いたように、ワクワクする方が先で、失敗とか大変さはすぐに忘れてしまうようだ。ともかくも、昨日は、わさわさと、活動的な1日だった。資料を作成していたが、これも、時間があればいつまでもと思いながらやっているので、それは、仕事ではなく、趣味の世界である。ワクワクすることは、良いことだ。
K文字
昨日は予定の講演が中止になって、オンライン会議が1つだけで後は自分の仕事ができるので、有難い。講演とか会議も、対面でなければ、という形式も多い。どうも昼食を含む会議の時に、対面になる。今時、夕食を含む会議はないが、昨日の予定の講演は、少々形式ばった講演だったが、これで2回延期になったので、どこか相性が悪いのだろう。起きてくることは、それで良い。世の中は面白いもので、中止や延期になるものもあれば、新しいものも生まれる、オリパラもどうなるかというご時世だから、世の流れに添うしかないだろう。前にも書いたが、今の企業は、K文字だと、ビジネスの世界では、言うらしい。右肩上がりもあれば、右肩下がりもある、という意味だが、それは、中止や延期もあれば、新しく生まれるものもある、と同じである。昨日は科研費の報告で手間取った、前年度の決算で研究費が余って、コロナ禍で学校訪問や海外出張などができない状況なので、仕方がないのだが、それで経理に戸惑っている。世の中は、自分にとって都合の良いこと悪いこと、終わってしまうこと新しく生まれること、楽しいこと嫌なこと、が常にやってくる、たいていは、小さな波で、やがてすべてが消えていく。昨日、携帯に電話がかかってきて、新しいことを依頼されて、引き受けた。仕事の中身なので書かないが、長年の経験からすると、すべてなんとかなるので心配ない。メールを読めば、これをオンラインでするのかとか、何で連絡してくれなかったのかとか、多少腹立たしいこともあるし、面白い、是非やってみよう、と思う意欲が起きることもある。歳をとってくると、少しそこが丸みを帯びて、だいたいはうまく行くので、いいだろうと、すべて受ける心境になる、テレビドラマの水戸黄門のような気楽な心境になる。しかし、それは気休めで言っているのではない。このブログでも紹介したが、嫌なことも腹立たしいことも、やがて古い細胞になって分解されて外に排出され、新しい細胞が生まれるという、脳科学の動的平衡論が実証されているからである。嫌なことは軽く考えよう、たぶん明日には古い細胞になって排出されるから、面白いことは大いに取り組もう、新しい細胞が生まれるからだ。
