オンラインセミナー

昨日は、忙しかったが、勉強になった1日だった。市ヶ谷にでかけて、オンラインセミナーに参加した、というより、コメンテーターとして仕事をしたのだが、午後1時半から別のオンライン会議があったので、モバイルルータを借りて、その仕事を済ませ、午後3時からのセミナーに参加したが、市ヶ谷の会場に出かけて良かった。セミナーの参加者全員が集まっていて、自分が自宅から参加、というのは、自分のいい加減さであった。そして、講演者の内容に得るところが多く、なるほど、そういう方法か、それなら、自分もやってみようと、霧が晴れたような気がした。一昨日の事前のオンライン打ち合わせで、ネットが不調で、市ヶ谷に来てほしい、というスタッフの要請を断らなくて、本当に良かった。ネットがトラブルになったこと、スタッフが遠慮がちに自分に要請したこと、すべてがまるで予定したかのように、つながっていて、もし昨日、自分が行かなかったら、心底から後悔していただろう、と思うと、何か見えない糸で、すべてはつながっているような、何か奇跡のようなオンラインセミナーであった。セミナー会場では、プロのカメラマンが数人いて、講演や対談やコメントの様子を撮影して、オンラインで送っている。こんなに労力をかけていたのか、と思うと、自分の軽い気持ちが恥ずかしくなったのである。いつもいつも思うのは、いくつになっても、生きていくことや仕事をすることは、自分を知ることであり、他人から学び続けることなのだ。今日は、朝から、自分にとって大切な実験の日である。ここは大一番なので、ブログは簡単にして、直ぐに準備に取り掛かりたい。ネットのトラブルがないように戦々恐々として緊張はするが、成功を祈りたい。

予定外のこと

昨日は、小さな行き違いと小さな満足感の両方が混じった、忙しい1日だった。午前、オンライン打ち合わせがあったのだが、どこを探してもメールに連絡が入っていなかった、しかも、オンラインが不調で、時々フリーズしてしまう。何か、不安になって、今日オンラインセミナーで話すのだが、自宅からではなく、都内の会場に行くことにした。担当者に要請されたからである。ネットは、原因は分からず、駄々をこねる幼子のように、時々言うことを聞かない。午後は、市内の教育センターで、研究員の先生方を対象に、講演をした。それ以外にも、研究員の先生方の中間発表を聞いて、コメントをした。実は、そのコメントの資料を午前中に探していた時、携帯に電話が入って、急なオンライン打ち合わせになったので、焦ったのである。市内の教育センターでは、今年は3回講演をすることになっていて、昨日は2回目であった。もちろん、すべて違う内容であるが、今回は、特に担当指導主事から、別の要請があったのだが、今思うと、それが有難かった。その時は、準備した資料と別の資料か、と思ったのだが、それで、いろいろ脳を活性化することができる。学生なら試験があるから、選手なら大会があるから、教員なら公開授業があるから、大学教員なら学会で発表するから、努力するのは、ごく普通のことで、幸せなことなのである。いや、忙しくて、という不満は、よくあることだが、今の自分には、在宅勤務で通勤時間がないだけ、その仕事に集中することができる。いろいろな気付きがあって、受講の先生方が、ほぼ90分熱心に聞いてもらい、メモを一生懸命取られていたので、自分も少しは役立ったのか、という満足感があった。今思えば、テーマの変更という依頼が、新しい思考回路を作り出して、自分も納得する講演になった。予定外のこと、それは、今の自分には、チャンスであり、決して邪魔ではない。帰宅してジョギングをし、夕方もオンライン会議があって、忙しい1日が終わった。

五輪とコロナと

昨日は、目だった活動はないが、思う所がいろいろあった。夜は雷が激しく、北の方角では、映像のように稲妻が光っていて、何か自然も荒れ狂っているようだ。コロナ感染者数は、東京では3000人を超え、埼玉県を含む3県では、緊急事態宣言が近日中に発令されると、テレビで報道している。コロナという生命体も、人間に戦いを挑んでいるかのようで、どこか不気味でさえある。台風は東北地方を横断したようだが、これも東北地方では、初めてだと言うのも、どこか自然の気まぐれとは言い難い、何か隠された意図があるかのようだ。熱海の盛り土による土砂災害は、人災とは言え、人間のいい加減さを、自然が暴いたような感じがする。自然は、何か人間の隙を狙っているのか、自然に意図はないと思うが、そんな感じさえする。日本は10年前の3.11を経験して、自然の脅威や猛威に驚愕したが、それでも、立ち上がってきて、オリンピックを開催している、のは、人間は素晴らしい生物だ、と思わざるを得ない。テレビで観る、アスリート達の活躍は、私たちを勇気づけてくれる。驚くべき粘り、信じられない逆転、なるほど、五輪に出るほどの選手は、精神的にも鍛えられているのか、もう駄目だ、と思っても、まだ勝つ手がある、と、自分を鼓舞しながら戦っているのだろうか。コロナとの戦い、それは戦争と言ってもよいが、これまで経験したことのない悪環境の中で、なお全力を尽くす選手たち、政治家たち、陰となって仕事をしている大勢の支援者たち、を知っただけで、TOKYO2020は意味があったのだ、と思う。小さいことだが、昨日は、資料を見ながら、考え抜いて、自分にとって価値ある知見を得た。人は、他人を見ることで、いつも学んでいる。

ジレンマの中で

昨日は、オンラインの打ち合わせがあったが、後は平穏であった。久しぶりに朝から、正確には真夜中から雨が降り、少し気温も下がって過ごしやすい、と思ったら、お昼から夕方には、雲一つない快晴になった。台風の影響だと思うが、雨が降ったり止んだりで、変化のある1日だった。夕方は、書斎で疲れた頭を切り替えるべく、ジョギングをした。頭と体の両方を適宜に使ってバランスをとるのが、健康に良いことは当たり前である。夜はテレビ番組を観るが、東京のコロナ感染者数が3000名近くになり、厳しい状況になってきた、政府関係者の苦渋の表情が見える、なるほど、専門家の予想通りではないか、科学は嘘はつかない、と簡単には言えるが、現実の諸相は、それで決まるわけではない。満身創痍のような状態であっても、前に進むこともある、捨てて投げるわけにはいかない、そんな経験を、誰でもしているだろう。五輪の金メダルラッシュで、日本中が湧き、新聞の番組欄は生中継で埋め尽くされて、百花繚乱の様を見せているが、一方では、コロナ感染者数の急増で、病床が満席近くになって、危険と隣り合わせの状態が続いている。どちらも大切で、逃げるわけにいかず、前に進むしかない、そんな時、どうすれば良いのだろうか。小さくても、人それぞれに、そんなジレンマを持っているのではないだろうか。あー、やっぱり難しいのか、自分の力は、このレベルか、と落胆したことが、数日前にあった、家内が聞けば、笑われそうな些細なことだが、自分には自信がなくなる出来事だった、一方昨日は、あることで、そうか、大丈夫だ、自分も含めて、まだまだ十分に伸びる、と輝くような気持になった。家内が、男はいくつになっても仕事に生きる、と言うが、喜びも悲しみも、すべてそこにあるようだ。日常とは、そんな毎日の重なりである。それは、幼児も子供も若者も、そしてアスリート達も政治家も、大きさと深さは違っても、同じではないだろうか。

新しさ

昨日は月曜日で、久し振りに溜池山王の事務所で、会議と打ち合わせをした。いくつかの案件があって、事務所も仕事が多く、忙殺されている。帰宅して、夕方に、オンラインで研究打ち合わせをした。どちらも前向きな内容なので、どこか張り切っている自分を感じる。東京オリンピックも、日本勢は頑張っているようで、そのニュースを聞くと、心が弾む。人は何でも、新規事業を立ち上げる、新しい実験をする、新種目でメダルを取る、など新しいことに、ワクワクする。老いも若きも、男も女も、人種や国や宗教や言語や文化にも関係なく、新しいことに興味を持ち、目を輝かせる。特に、子供は新しがり屋で、GIGAスクール構想で、1人1台端末では、すぐに操作を覚える。大人は、始めに、どうしてだろう、と理屈から入るので、諦めてしまう。若い人、特に女性は、流行に敏感で、都内の至る所で、モバイル扇風機を持った高校生などに会ったが、何か不便ではないか、と思うが、流行が好きなのだろう。歳をとるにつれて、昔のほうが良かった、などと言うが、本音はどうだろう、家内から聞いたが、スマホもLINEもオンラインもやってみたいと思う年配者は多い。自分は、まだ車で日本一周の夢を捨て切れないでいるが、若い頃の憧れが、まだ眠っていないようだ。発達心理学では、身体も認知も情緒も社会性も、年齢と共に発達していくので、子供の時には、新しいことに興味を持ち、若い人は流行を追い求めることも、自然である。社会性や情緒などの発達は特に重要で、コロナ禍で自粛生活や巣ごもりだけを続けると、うつ状態になったり、情緒不安定になったりすることが、心配だ。昨日の朝刊に、こんな句があった。「きょうのあさごめんね」って3歳に先を越されてゆうやけこやけ(小金森まき)。3歳でも親を思いかばう優しい感情が育っていることに、母親は安心したのだろう。我が子への限りない愛情と愛おしさと、夕焼けの茜色の空で、包まれた母親の幸せ感が、伝わってくる。人は、どの年齢でも、新しい日々に生きている。

復活

昨日は日曜日、連休最後の日だったが、連休とか休日という概念が薄くなったせいか、生活パターンは変わらない。午前に、原稿を書いていて、理由と詳細は省くが、原稿をすべて白紙にして、上書きしてしまった。アッと声を上げたが、もう遅い。デジタルの怖さは、手放せない便利さの反面である。削除した場合は、ハードディスクのどこかにファイル自身は存在しているはずで、コードは何かに変換されていても、復元はできるはずだが、白紙にして上書き保存した場合は、どうだろうか。前のファイルが履歴に残っていなけばならないはずだが、ネットで復元の仕方が書いてあったが、どうもうまくいかない、ディスク容量の制限があるから、しかも、定期的に容量を効率的に使うようにシステムが圧縮しているから、と、つまらぬ理屈を考えながら、ふと思った。もう永い間dropboxの利用者だから、ファイルはクラウドで保存されている、ネットからアクセスしてみたら、1分毎に保存されていて復元のボタンがあった、助かった。昨日までの努力が水の泡になってしまうところが、再び水面に浮かんできた。よく帰ってきた、有難い。1分毎とは、さすが大容量のクラウドだと感心したが、人は技術の力を借りながら、とっさのところで救われる。テレビ番組は、五輪で埋め尽くされている。まさか、という期待の選手が敗退し、さすが、と思う選手が活躍し、悲喜こもごものドラマがある。敗退しても、次の競技で復活すれば良いのだ、とテレビ解説者が言っている。夜は、女子バレーを観た、ケニア相手では楽勝と思ったが、怪我で途中退場した選手が出てから、流れが変わり接戦になったところで、監督がタイムを入れて、気持ちを持ち直して、ストレートで勝った。復元、復活、持ち直す、引き締める、レジリエンスなどを思えば、競技は、どこか人生に似ている。

金メダル

昨日は土曜日、連休の後半でもあるが、平日と変わらない過ごし方をしている。午前中は、自分のやりたい仕事に充てているが、書斎は、小さいながらも自分の城である。ここで死ねたら本望だと思っているが、それは、仕事をしながら、眠るように往生する光景を想像するからである。尊敬する坂元先生や偉人と呼ばれる人は、死ぬ間際までペンを離さなかったと聞くが、自分のやりたい仕事を最後までやり通せたという、幸せな大往生とも言える。お昼時間は、家内と買い物に出かけ、中華店でラーメンを食べ、自分はスポーツジムに行った。何気ない一コマ一コマが、夏休みを過ごす少年の気持ちに似て、どこか解放感と嬉しさを感じる。夕食は、冷えたビールを飲みながら、テレビ観戦である。昨夜は、女子と男子の柔道を見た。女子では、日本は銀メダルで、コソボの選手が金メダルに輝いた。どちらの選手も泣いている。男子柔道は日本が金で、柔道のような猛者が、と思ったが、泣いていた。嬉しさなのか、口惜しさなのか、そんなことはどちらでもよい、終わって感極まって泣く姿に、自分も共感した。自分の仕事を、精一杯やって、その最後に見せる涙は、人を惹き付ける。浅学のせいで、コソボの国を知らなかった、ネットで調べたら、ヨーロッパの小さな国で、最近になって独立国家として承認されているが、まだ認めていない国連加盟国が半数近くあるという、政治的に不安定な国である。その国から、はるばる極東の東京に来たのか、発祥の地の日本のお家芸である柔道で、金メダルを取ったのか、凄いじゃないか、その姿は、日本人である自分にも、惜しみない拍手を送らせた。平和の祭典と、昨日のブログで書いたが、政治も人種も大国も小国も関係ない、すべてが平等の世界で、全力で戦う姿が感動を呼ぶのだ。もし自分も書斎で死ねたら、彼らと同じ気持ちになるのかもしれない。

オリンピック開会式

昨日は連休中だが、オンラインでの研究打ち合わせがあり、予定にしたがって資料作成をして日中を過ごし、夕方5時ごろになると日が西に傾き、ジョギングをした。公園の木陰に入ると、汗が気化するせいか、体温が下がるような涼しさがある。老いも若きも、親子連れも、若者同士も、サッカーチームも、緑一杯の芝生の上で、それぞれの連休を楽しんでいる。幸せの感じ方は、それぞれで違うだろう、それを見て走っている自分も、そのお裾分けをもらっている。帰り道で、近所の小川を見ると、親ガモの周りに、可愛い子ガモが5羽いて、餌をつついている、しかも、橋の上流側と下流側の両方にいた、つまり2家族のカモ集団だった。自分の周りに子ガモが無事でいると、親ガモは安心しているのだろう、それぞれが楽しい団らんの一時のようだ。帰宅してお風呂上りに、居間の窓を見ると、うっすら赤くなっている、玄関から外に出ると、きれいな夕焼けで、雲が茜色に染まって、空の青とのコントラストが、美しい。そして、昨晩は、東京オリンピック開会式のテレビ中継があった。コロナ禍の中、無観客の中、重なる不祥事の中、それでも、世界一流のアスリート達が、東京に集まり、全力をかけて競技をするのは、素晴らしく、応援したいと思う。開会式のパフォーマンスも、その分野の一流のアーチスト達を呼んだのであろう、感嘆の声を上げた。そして名も知らぬ国も含めて200を超す国から選りすぐった選手達を派遣して、国立競技場に集まるだけでも、凄いではないか。入場行進をする選手団の、肌の色もユニフォームもマスクさえも、すべて違っていることも、感動だった。昨日は、公園での光景、小川でのカモの光景、夕焼けの光景、オリンピックの光景、それぞれが違っていて、それぞれの幸せがあって、それを自分は頂いている幸せを感じた。平和の祭典とは、このような意味だったのか。

オリンピック

昨日は4連休の初日、オリンピックも競技が始まり、夜はサッカーの試合があった。高速道路も大渋滞のようで、例年のような光景になってきた。しかし、コロナ感染者数は、増える一方で、大会組織委員会の人事では、海外からのクレームで退任騒ぎがあり、日本全国35度などの猛暑日が続き、沖縄では、なかなか動かない台風で大雨と大風に叩かれ、自然も日本に味方してくれないようで、日本バッシングが続いている。こんな時もあるのか、オリンピックを心待ちにして、当選した切符を恨めしく思う人も多いだろう。ついてない、と思う人も多いだろうが、否、物事には、表と裏がある。昨日は、ほぼ毎月1回の散髪の日で、床屋で主人と世間話をしたが、無観客で良かった、かもしれない。この猛暑の中、直射日光を観客席で浴びたら、熱射病で倒れる人が続出するかもしれない、女子ソフトも男子サッカーも、選手たちは頑張っている、その光景を、エアコンの効いた涼しい自宅でテレビ観戦できるのは、贅沢な一時としか言いようがない。選手には、観客も目に入らないだろう、テレビカメラも関係ないだろう、それは、周りが気にすることだけだ、と思うと、オリンピックの見方も違ってくる。感染者数の増大は、残念ではあるが、重症者数や死亡数は少なく、海外に比べたら、桁が違うくらい低い数字である、日本は安全な国であることは、世界が認めていることである。組織委員会の人事の揉め事も、日本人だから素直に退任して事なきを得ているが、諸外国では、異議申し立てをして、さらに騒ぎが大きくなるだろう、日本人の潔さと美学が生きている、と思えば、そんなに深刻に悲観することではない。小さな庭だが、百日紅のピンクの花が咲いている、今年も忘れずに来たのか、夏の季節を華やかに飾っている。有難いではないか。

心弾む

昨日は、オンライン会議が2つあった。いづれも、講演やセミナーに関する打ち合わせだったから、心弾んだ。いくつになっても、自分が何かにお役に立てると思うと、少年のように、嬉しくて、顔の表情まで違ってくる。というのは、家内が、そう言うからである。コロナの関係で、家族には会っていないが、幼い孫たちは、何か嬉しいことがあると、全身で喜びを表現する。世界で一番好きなママといるだけで、これ以上の幸せはないような、満ち足りた顔をする。子供は、すべてを現わす、つまり外化するが、大人になると内に込める、つまり内化する、顔で笑って心で泣いて、という世界になるから複雑だが、大人であっても、好きなことは素直に喜べばよい。テレビで見るタレントは、どんな仕事でも、どんな役でも、必ず引き受けると聞いた。それは、競争相手が多く、いつ仕事が来なくなるか、明日が見えない世界だから、と言うが、それは、私たちでも同じかもしれない。いつ仕事が無くなるかもしれない、いつお呼びが来なくなるかもしれない、一寸先は分からない、と思えば、タレントと同じように、緊張感をもって仕事をし、絶えず先端研究を勉強し、という気持ちになるだろう。池上彰さんは、超多忙の中、いつ勉強するのだろう、と感心するが、たぶん、信じられないような努力を重ねているだろう、と、それほど勤勉でない自分は、自省している。ただ、人は、その立場に立つと、誰でも、猛烈に頑張っています、と言わなくても、自然に努力をし、脳が研ぎ澄まされるような気がする。自分がまだお役に立てる、と思うだけで、人は、自然に活力が出てくる。梅雨明けから、連日猛暑が続いているが、その暑ささえも、心地よく感じるのは、少年のように、今は夏休みだ、好きなことができて嬉しい、と思うことと同じである。今日も朝から上天気である。