庶民のしたたかさ

昨日は金曜日、週末だが、在宅勤務をしている人は、今や休日と平日の境がほとんど無くなっている。自分は形式的には引退の身なので、さらに境界は無いが、いつものように早朝にジョギングをして、午前10時まで仕事をして、その後、老夫婦で車で箱根に行った。コロナ禍が収まるだろうと見越して、温泉ホテルに1ヵ月前に予約を入れていた。2時間半くらいで芦ノ湖に着いて、軽食を取って、何年か、何十年かぶりに、遊覧船に乗った。静かな山並みを見ながらの船は、小学生の遠足のような気分になる。大涌谷に行ったら、奇怪な岩肌から硫黄が混じった湯気が出ている、そうか、前に来た時も同じだったか、富士山がきれいに見える。駐車場もかなり混んでいて、なるほど、庶民の考えることは、だいたい同じか、と思う。それにしても、天が味方したのか、真っ青な大空に、秋らしいすじ雲が、流れていく、絶好の観光日和だ。土産物店には、大勢の人がいて、家内も土産を買っている。その雑踏の中にいるのが、好きだ。ホテルに着いて、さすがに箱根の温泉かと思うのは、源泉から引いた湯舟に浸かっていると、本当に効用が高いような気がする。夕食の会場に行くと、意外にも若い人や中年の人が多く、前のブログで書いたように、ワーケーションの時代だから、平日にも観光や温泉を楽しむ感覚になったのだろう。それで、いいのだ。苦労を背負う時代から、楽しむ時代になったのだろうか、それにはお金が要る、と言われそうだが、ホテル代など本当に安く、こんな贅沢な食事をして、この価格かと思う。医者は専門家だから、自粛と叫び、政治家も、まだまだ油断はならないと戒めるが、その判断は、データや科学に基づいている。医者はもちろん、政治家も、根拠に基づく政策立案(EBPM)などと言うが、庶民は、それを横目で見ながら、したたかに、楽しむ術を知っているのではないか。選挙が近い、その結果は、庶民のしたたかさの反映でもある。

出会いと別れ

昨日は、いろいろなことがあった1日だった。1日という時間は、まるで人との出会いのように、いろいろな姿を見せてくれる。そして、素知らぬ顔をして去っていく、出会って別れという繰り返しが、毎日という連続である。昨日は、午後からの用事があるので、西方向へ早朝のジョギングをしたら、自分と同じように走っていく人、散歩する人、家の前を掃除する人、駅に向かう人、それぞれの生活の姿を見ることができる。帰宅して、汗びっしょりになったシャツを洗濯機に入れて、食卓に向かうと、味噌汁の香りがなんとも嬉しく、どんな豪華な食材よりも、ジョギングした後の朝食のほうが、よほど美味しい。2階の書斎に向かう。mustとwantの仕事があるが、mustを優先することは当然なので、SSHの資料を読みながら審査をしていると、アッと気付くことがあって、mustの中にwantが埋め込まれていることに、気が付いた。そんなことを見つけると、どこか楽しい。木曜日は、オンライン採点のmustの仕事がある。忙しい先生方のレポートなのだ、読ましてもらおう、と思えば、mustでなくなる。それで、午前中は終わる。午後は、11月の実験の準備をした、まだ実験などの研究をしているのか、と言われそうだが、それはwantだから、あれこれ考えるので、すぐに時間が経ってしまう。そして、3ヵ月に一度の眼科検査に行った、すぐ近所のクリニックで、結果は上々で、帰宅したら、まだ時間があったので、夏の名残の雑草が目についたので、庭で草取りをした。シャワーを浴びて、夕食までの隙間時間だが、楽しみにしている小説を読んだ。テレビ番組はNHKを見て、床に着いたら、夜遅く地震警報で飛び起きた。なるほど、1日は、いろいろな事があり、人は、その出来事に付き合い、喜んだり、悲しんだり、いつの間にか時が過ぎていくのだ。その出会いが、愛おしい。

文化の違い

昨日は、評議員を務める地元の中学校の体育祭に来賓として招待されていたが、所用があって欠席した。今のご時世なので、開催は難しいだろうと思うが、中学生は、そんな大人の心配をよそに、精一杯頑張っただろう、学校には丁寧な文化があって、数日前教頭先生から電話で参加するかどうか、問い合わせがあった。自分は、招待状はいただいたが、返信の用紙もなく、欠席の予定だったので、そのままにしていたので、電話をいただいたのだと思う、どうも、思いのすれ違いで、申し訳なく思った。実は、こんなことは、よくある。出版社から原稿依頼があって、原稿を送っても、受領通知の返信がない。原稿はメールの添付で送るので、送り先のアドレスが正確かどうかも心配で、当然ながら返信が来るはずなので、催促メールを出したことがあった。その時は、編集者から、PDFにして校正をお願いする時に返信しようと思っていました、と、返信をもらったが、これも思い込みのすれ違いである。こんな些細なことで、相手との信頼関係が壊れていくのかもしれない。先の学校からの問い合わせでは、学校は、まだ紙文化と対面文化で、企業やIT系の団体は、メール文化とオンライン文化なので、やりとりのすれ違いが起きやすい。昨日も、IT系ではない企業との打ち合わせの予定があって、当然ながらオンラインだと思っていたら、電話だというので、意外だった。企業でも、電話文化があるのか、自分の感覚では、携帯電話は緊急以外には使わないので、どうも違和感がある。しかも、約束の時間にかかってこなかったので、失礼なと思って、メールを出したら、お詫びのメールが来て、今日に持ち越したのだが、世の中には、すれ違いが多い。その多くは、所属組織の文化の違いかもしれない。

仕事・生活・遊び

昨日は、夕方にオンライン打ち合わせがあったが、後は自由に仕事や用事を済ませた。午後に私用があって、ジョギングができないので、早朝ジョギングをした。これが爽快で、こんなに多くの人が走っているのか、朝6時台は、航空公園内は、ジョギング銀座であった。前のブログでも書いたことがあるが、ロンドンの広い公園を思い出す、単に仕事で数日間過ごしただけだが、ホテルの近くの公園が気に入って、旅人である自分には、何か楽園のように見えた。午後は、駅中にできたショッピング街で、家内と待ち合わせて、蕎麦屋で昼食を取り、買い物をして帰宅したのだが、所沢駅構内は、都心のようにお洒落な装いになって、平日なのに、人で溢れている。蕎麦が好きなので、久し振りに、そじ坊、という新宿のオフィスではよく通っていたチェーン店に入ったが、午後1時過ぎても満席だった、この界隈には、コロナは無かったのか、と勘違いするほどだ。ふと思う、考えたこともなかった、在宅勤務、まして、ワーケーション、オンライン会議など、仕事の仕方が、まるで変った。ワーケーションなどは、リゾート地で温泉でも浸かって仕事をしよう、と言うのだから、一昔前の人からは、叱られそうな用語である。仕事の仕方が変われば、生活の仕方も変わる、倫理観も変わる、以前なら、平日の昼間に用事を済ませるなどは、罪悪感でできなかったが、最近では、その感覚が薄れてきたし、逆に土日でも、平日と同じように仕事や研究をしている。仕事と生活や遊びの境界線が、無くなりつつある。逆に、それは、そのように固定化して考えていただけではないのか、そこから離れてみることも、大切なのであろう。帰らないと決めれば町はふるさとのような横顔を見せてくる(toron)、という句が月曜の新聞に載っていた。帰らない、という目で、つまり外から見るとか、旅人として見てみるとか、離れて見ると、故郷のような優しい面があったのか、という句だと解釈すれば、今のスタイルは、人に優しい仕事や生活の仕方ではないか、と思う。

専門性・多様性・人間性

昨日は月曜日なので、定例の事務局会議と夕方に研究会があった、もちろんオンラインである。世の中は常に動いているので、事務局会議も、岸田内閣発足にも関連して、いろいろな情報が飛び交う会議であった。ふと、先週にあった対面の会議、ある企業の経営会議のようなもので、アドバイザーの立場で話したが、全般的な経営の在り方、人材の育て方、前向きな社風、ハラスメントのない企業など、必須であるが、これと言って、正解がない内容の議論の中で、自分は、専門性・多様性・人間性のキーワードを出したことを、思い出した。企業でも大学でも団体でも、その比重は違っても、同じはないか、と昨日の会議でも思った。昨日のお昼の民放番組で、盛んに政治の話題で議論しているのが面白く、13時過ぎでも、まだ見ていることもあるが、入閣の条件などでは、たいてい派閥、経歴、人柄などが挙げられる。その意味では、専門性の比重はあまり高くない、むしろ人柄、つまり人間性、さらに、意見の違う派や野党などとどう協調し、どう競争するか、つまり多様性が、重要だと分かる。内閣ほどではなくても、どんなに小さな組織でも同じで、リーダーの元で、スタッフが協力しながら競争していくには、多様性と人間性が不可欠のようだが、その育成は難しい。今の自分の対場は、役職とは別で、実質的には顧問のようなもので、昨日の2つの会議も、事務局長やゼミ長のような優れた人材、内閣では、幹事長とか官房長のような立場だが、むしろ、首相を兼ねているような人が仕切っていて、さすがだと感心している。昔は、学会や大学では、名誉と名前がつく先生は、長老などと呼んでいたが、今の自分は、たぶん長老だろう。但し、政治の世界では、あまり好意的ではなく、影で操る人のイメージがあるが、一般社会では、毒にも薬にもならない、文字通り名誉職だろう。今の自分は、それでもつながっているだけで、感謝している。

在ることと無いこと

昨日は、良く晴れた日曜日、午前中は出版原稿を書き、午後は、月に1度のお墓参りに行った。これは、老夫婦の気晴らしのようなもので、墓苑が新しく、まるで植物園かバラ園かと見紛うほどの施設で、小さなピクニック気分なのである。1ヵ月の報告を両親にして、墓苑を散歩するのが、我々の楽しみである。土日は、リラックスしているので、お昼を外食にしたいが、土曜にカレー屋さんに行ったので、昨日は、車で少しドライブをして帰宅した。日曜日は、スポーツジムの日なので、リックをしょって歩いていくが、このコースも好きで、途中に広場があって、そこで子供や親子連れや若者が、自転車、バトミントン、ダンスなどに興じている姿を見るのが、楽しみだ。ジムは、土曜は混んでいるので、平日と日曜の週2回にしているが、ランニングマシーンの後は、2階のプールで泳ぎ、屋外にあるジャグジーに浸かった後、椅子に腰かけて足を台の上に投げ出し、街の風景を眺めるのが、一番のリラックスタイムである。夕刻なので、茜色の夕焼けが雲を照らし、街が陽光に包まれている光景を見ると、いろいろな事が脳裏に浮かんでくる。思い出すのは、ほとんど仕事のことだが、メールを見ると、誰でも同じだが、都合の良いことと悪いことが、混じっている。仕事だけでなく、生活や家庭や地域のことなども同じだろう、そして亡くなった父親が、晩年認知症になって、ありがとう、と口癖のように言っていたことを思い出した。どうしたら父親のようになれるのだろうか、と思ったら、在ることに目を向ければ、感謝と好々爺になり、無いことに目を向ければ、不満と頑固爺になるのだ、と気が付いた。今、夕日を眺め、プールで泳げるということは、健康であるからだ、こんなに有難いことはない、そう思えば、何も恐くないし、不満も起きないのだ。お墓参りのお蔭である。

好きな仕事

昨日は台風一過のような抜けるような青空で、しかも土曜日、書斎で仕事をするのが、勿体ないような日だった。緊急事態宣言が解除された土曜日、どこか心がウキウキするのは人情だが、午前中はいつものように書斎で過ごし、お昼は家内と外食、と言っても、此処一番カレーという馴染みの店で、我々には絶品の味である。その後、100均に行って、細々とした日常品を買った。帰宅して、まだ時間があるので、自分が一番やりたい仕事をしようと思って、出版の原稿を書いた。いろいろな仕事がある、審査資料、会議資料、データ分析、編集のチェック、講演準備、採点、文献調査など、確かに多様だが、一番好きなのは、出版原稿書きである。本当は、SSHの審査資料に目を通しておきたいのだが、mustとwantの違いで、休日くらい、一番好きなことをやりたいと思って、久し振りに取り掛かった。感覚や脈絡を取り戻すには、時間がかかる、前の文章を読んで、前後の関係から、どう展開するか、およその目次はあるが、詳細は、その時の状況によることが多い。それでも少し書けたので、日曜はこの続きを書こうと決めた。まとまった時間がないと、無理なのである。単著だと半年以上かかるので、頭の整理もアイデアも必要で、資料も思いついたらその場で探してなどで、どうしても時間が掛かる、が、それ自体が楽しく、自由な旅のような気がする。昨日の夕方、ジョギングをした。航空公園駅の前に居酒屋があって、これまでは、店の前に弁当を並べて売っていたが、昨日は、店頭にお客さんの長い行列ができていた。午後5時の開店を待っているのだ。店のスタッフは、心待ちにしているに違いない。久しぶりの店内での仕事に、張り切っている姿が、目に浮かぶようだ。自分の最も好きな仕事をすることは、たぶん一番幸せなのだろう。その気持ちはよく分かる。

ギャップの大きさ

昨日は、2つのオンライン会議があったが、平穏な1日だった。書斎の窓から、台風の影響で、木が大きく振れて、雨がしきりに降っている光景が見える。今日は、外は荒れ模様だと思いつつ、書斎で机に向かっていると、その有難さを改めて感じる。昨日は、ほぼ終日雨が降り風が吹き、という天気なので、こんな日は、ホームレスの人はどう過ごすのだろうと、とりとめのないことを、思ったりする。オンラインで議論をしている時は、会議の人だが、終われば、別の人になって、いろいろな思いが浮かんでくる、緊急事態宣言も解除されたか、どこか温泉でも行こう、昔の研究仲間は、今どうしているだろうか、実家のあった藤枝に帰ってみようかなど、パソコン画面は、そのような空想の世界でも探索できる。現実と空想と行き来するようで、それだけ、昨日は緊張感が無かったとも言える。それは、外の世界が荒れて、内の世界が静かで、そのギャップが、いろいろな思いを引き出すのだろうか。昨日は、オンライン会議の他は、SSHの書類のチェックをしたが、この書類に目を通すだけでも、膨大な時間がかかる、読むだけでも、こんなに大変なのに、内容を吟味しながらミスのないように作成するには、信じられないような労力をかけているのだろう、と思って、これも、そのギャップの大きさに驚いて、きちんと読まなければと、身が引き締まる。メールを読んだら、文科省のSSH担当の事務官が異動すると言う、SSH会議では、こんなに丁寧に、文字通り報告書の隅々まで、しかもすべてを関連づけて、いつどのように読むのだろうかと、信じられないような仕事をして、しかも人事の指令があれば、直ちに部署を離れるとは、とても自分にはできない。この世には、自分のような、気ままに仕事をしている人もいれば、懸命にこなしている人もいる、そのギャップを知った1日だった。

教育と効率

昨日は、午後に所沢市役所で教育委員会の会議があって、出かけた。教育関係の会議は、対面が多い、理由は明確ではないが、ビジネスライクにはいかないようで、どうしても教育の中身の議論になるからだろう。ただ時間がかかるので、効率的でない、教育と効率は、どうも相いれないような所があって、教育とデジタルやICTも同じような印象を受けるのは、どこか本質的に違うかもしれない。自分は、地元の教育に関わる仕事が好きなのは、少しはお役に立っているという感覚があるからだろう。会議の内容は、ブログでは書けないが、市役所の7階の会議室は眺めが良く、委員の皆さんも、本職の仕事も忙しいのに出席率が良いのは、教育の会議だからだろう。帰宅して、お風呂に入るまで時間があったので、書斎で仕事をしたが、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の生徒研究発表会のオンライン動画を視聴した、これも、SSH関係の書類を読んでチェックする仕事の一環である。さすがに、SSHの研究は素晴らしい、というか、研究の保守本流、王道を進んでいる。伝統的な研究スタイルで、説得力が高く、視聴者を魅了する、流行を追うのではなく、本質を追求することに、安心感と感銘を受ける。先に述べた、教育と、効率・デジタル・ICTなどは、どこか水と油のような違いが内在しているようで、それが、教育関係者の脳裏に去来するので、賛否が常に議論になる。それは、その通りなのだが、現実には、時間も限られている、家庭環境も多様である、教育は理想を求めるが、その通りにはいかない、手作りは温かみはあるが、道具を使わないと仕上がらない、など、現実との狭間で行き来しているように思う。自分の専門は教育工学なので、その矛盾のような、理想と現実の狭間でもがいてきたような気がする。ただ、教育に関われるだけで満足している。

取り越し苦労

昨日は、久し振りに都内で会議があって、午後に出かけた。アドバイザー会議のような内容で、自分には気楽なテーマなので、楽しい時を過ごした。帰宅したら、ちょうど夕方6時から岸田新総裁の記者会見の生放送があって、シャワーを浴びる前に見た。4人の総裁候補がいて、それぞれが政策を述べ、広く党員に信を問うた選挙だったので、国民の興味と関心を惹きつけたのではないか、と思う。その意味では、自民党は、絶好の宣伝となり、衆議院選挙にもプラスに作用するかもしれない、それが、ねらいだったのかもしれない。シャワーを浴びながら、ふと思う、出かけて、対面で会議に参加し、自分の主張を言い、他人の意見を聞き、そして帰宅する、平凡だが、これが人間らしい生活だ。オンラインに慣れてしまって、電車に乗って出かけるのは、どうもというのは、思い込みらしい。電車に乗ればそれも良し、対面であればそれも楽し、という具合に、場面に応じて、前もって不安に思うことは意味がないようだ。昨日、スマホで見たメールのタイトルが少し難しい状況だったので、今朝まで見ないようにしていたが、今朝見たら、なんだ、なんでもない、むしろ良い内容だった、と思って、人は、どうして事前に不安なことばかり考えるのだろう、と苦笑した。会話すれば対面も良し、慣れればオンラインも良し、電車もまた良し、そして昨日は夕方のジョギングができないので、早朝にジョギングしたが、その気持ちの良いこと、これも良し、というより絶品のジョギングであった。すべて取り越し苦労はしなくて良いのだ。