審査系に引きずられる

週2回ほどブログを書くことにして、手帳に入れている、時間があってもなくても、予定に入れたほうが、人は動きやすい。それでも、手帳を見ると、予定に書いていても、できないで、延期にしている。その時は、机の前に張り紙があって、ポストイットで書いておき、忘れないようにしているが、なかなか思うようにいかないのが、世の常である。午前中に、今日は必ずと思って、ある審査系の仕事をした、ようやく重い腰を上げたのだが、始めは、早くという気持ちだけが先行して、深く読めていない。だが、人の心は分からない、ちょと待てよ、このアプリはどうなっているのだろう、ネットで調べて、まさかダウンロードまではしないが、その内容を調べたくなった、アッと言う間に、時間が経ってしまう、こんな状態で審査をするので、いくら時間があっても、足りないのは当然だろう。今日のメールで、また別の審査が来た、この前、終わったばかりではないか、と思い、今度こそは、委員を辞退しようと思うのだが、そこが凡人の浅はかさ、というか、一応家内に相談してから、などと、主体性のないことを考える。審査でも、何でも、始めは敷居が高いのだが、それが突然に、向こうからこちらに飛び込んでくるので、そうか、と思って、付き合ってみると、どこか面白い所があって、つい引きずられている。それが、何かの拍子に、講演とか原稿などの内容に結びついてくる、それが、不思議なのである。いつかのブログで、見えない糸で結ばれている、と書いたが、これは、どうも真実らしい。なぜ直感のほうが上手くいくのか、の本は、その根拠を数々の科学論文で証明していたが、その通りである。人の目には、見えないだけであろう。知らぬ間に、秋も深まった、列なして下校する子ら一人となり走り始むる秋の夕暮れ(伊東一憲)の句が、新聞にあったが、夕方はすぐに辺りが暗くなる、そうか、もう11月も半ばを過ぎたのか、今日も喪中の葉書が来た。

オンライン研修旅行

昨日は土曜日、にもかかわらず、オンライン会議が2つあった。1つは、理事会なので、定例だが、他方は、virtual study tourだから、オンラインの研修旅行のようなもので、フィンランドの学校と繋いだイベントだった。素晴らしかった、掛け値なしの貴重な情報をもらい、多くの知的お土産をいただき、運営に関わった人たちに、心から感謝した。始めは、どうかと思ったのは、時差もあるから、夜7時から9時まで、という夕食タイムだったので、9時から夕食か、と思ったのだが、そんな小さなことは、吹き飛んでしまった。凡人の考えることは、時間帯とか、食事とか、晩酌とか、テレビ番組とか、まるで些細な事で、そんなことに躓いて、迷っているらしい。自分の料簡の狭さに嫌気がさしたが、優れた研究や実践は、どんなことも刃が立たないくらい、人を魅了するのである。画面に向かって、そうだそうだ、と頷いたり、小さな声を出したり、画面に顔を寄せて見たり、側に人がいれば、さぞおかしい姿であったろう。それだけ、知的興奮を経験した。最後に、お礼の挨拶をする役目だったので、自分の気持ちを率直に述べて、お礼を言ったが、たぶん、感謝の気持ちや誠意は、通じただろう。人は、本心からそうだと納得したものは、必ず相手に伝わり、共感することができる。午前中のオンライン会議は、多少のすれ違いがあって、どこか、自分も小さな責任があるような気がして反省した。喜んだり、萎れたり、興奮したり、人は、どうも小さな波にもまれながら、生きているらしい。今は、日曜日の夕方、スポーツジムで汗を流して、先ほどお風呂から上がって、ゆったりした気分で、このブログを書いている。新聞に、こんな句があった。張りつめた日もあり気弱な日もありて晩酌一合天下泰平(下谷海二)、何も説明は要らないが、今の自分の心境かもしれない。昨日の貴重な実践は、今自分が取り組んでいる資料作成に、間接的な応援のような気がして、嬉しくなったのである。仕事は、どこか見えない糸で結ばれているような気がする。

人から学び本から学ぶ

今は11月11日木曜日の夕方、ブログを書いている。今日書かないと、週2回と言う約束が守れない。頭で分かっていても、人間は、ほとんど怠惰な心が勝つので、週1回になってしまうことを恐れて、手帳に記入することにした。先ほど、市内の教育センターの会議から戻ってきたばかりである。今週は外に出かけることが多く、昨日は栃木県の小山にある白鷗大学に出かけ、今日の午前は、都内のお茶の水に出かけ、午後は書いた通りで、電車に乗り、車で出かけ、という生活だったが、コロナ禍以前は、これが日常だったから、慣れとは恐ろしい。対面で話をすることは、やはり、オンラインと違う。お茶の水では、久し振りに会った人達と、話をしたが、会話が途切れない、次々と人に出会って、なつかしさと同時に、人生も変わっていることに驚いた。ある先生とは、ロビーでセレモニーをさぼって、話に夢中、と言っても、研究の話なので、次から次と果てしがない、研究者とは、歳を超えて、まるで少年のような表情をして、時間を忘れる人種のようだ。昨日の白鴎大学の役員会に出て、やはり大学は素晴らしいと感じた、それは、そこに学生がいるから、の一言に尽きる。そこに山があるから、と同じで、学生に、教員は救われている。電車の中では、専門書を読んだが、これが面白い、これまでは距離が遠い本だった、というより、自分好みの専門書ではなかったのだが、最近は、そのような自分と研究方法や価値観などが違う文献から、学ぶことが多い。正直に書けば、それは自分の浅学の証拠である、謙遜ではなく、ようやく、その事に気が付いた。ここにこんな宝があるじゃないか、見えなかったのは、実は自分の狭量な考えだった、と感じた時、本の裏にある筆者の声が聞こえてくるのである。本当に、嬉しい気付きなのである。そろそろ筆を降ろさねば、と思う。続きは、また書こう。

秋深し

今は日曜日の午後4時過ぎくらいで、久し振りにブログを書いている。およそ、1週間に2回くらいになっているが、その内訳は、1日が日曜日、他方は週の中日くらいで、近況報告をしている。このくらいが、今の自分にはちょうど良い。今週は、オンライン会議も頻繁だったが、木曜日に福島市で対面講演をし、土曜日は、自分のテーマでオンライン実験をしたので、大一番が続いた。実は、今もオンライン実験が続いているのだが、今日は見守っている程度なので、気楽である。隣のパソコンで、オンライン実験の様子を提示し、自分のパソコンで、仕事をしている。日曜日の夕方、庭に出ると、西日が草や花を照らしていて、それが優しく、自分を出来事があった日々に連れ戻す。久しぶりの新幹線だった、昼食後に担当の先生と、福島市の会場の横を流れている阿武隈川の河原に降りたら、すべてが秋一色で、黄色と緑と朱色が混じった木々が、きれいな青空を映した川の流れとマッチして、旅人のような心情を味わった。昨日のオンライン実験も、無難に終わって、毎年のことながら、実験には気を遣い、そして緊張する。過ぎてみると、何事もなく、今書斎の窓から見える空やマンションは、いつもと変わらない光景で、大一番だと緊張したことが、まるで嘘のような気がする。もうこれで精一杯、と思いながら、まだ自分は研究や仕事を続けているが、それは、限界の先が見えるような気がするからだ。今日も、オンライン実験を横目で見ながら、資料作成をしていると、もうこれ以上は、能力を超えていて無理だと感じるのだが、画面に向かっていると、そこからまだ先にある何かが、語りかけてくる。そうか、と思いながら続けるのは、画面の向こうとの自己対話であり、パソコンは良き相棒なのかもしれない。そうか、自分は、相棒がいるから仕事ができるのか、そして移り行く季節に癒されて生きているのか、と思う。秋深む今日より明日明後日(山内健治)の句が、新聞に掲載されていたが、自然や画面の相棒と一緒に今日も過ごしている。

価値の因果関係

このブログで何度も書いているが、何故か10月も11月も忙しい。ただ、今日3日は文化の日で、オンライン会議は入っていない。昨日は、都心に出かけて、3か所で会議や打ち合わせをして、最後は、1時間と予想していたら、2時間もかかった。内心、なんだ、この忙しい時期に、時間を損したと嘆息したのだが、それが脳に残っていたのか、寝ても気になっていたのか、夢の中でとは言わないが、早朝に目が覚めたまま寝床で、いろいろ思考が飛び交っていた。ただ、形になっていないので、もつれた糸のような感じで、すっきりしないのだ。今朝起きて、祝日の今日は、午前中がすっかり空いているので、籠から離れて自由の身になった鳥のような気分で、仕事をした。寝床では、もやもやしていたが、画面に向かうと、可視化というか見える化というか、それが脳を活性化させて、うまくいった。しかも、効率が極めて良く、ずいぶん得をした気持になった。何故だろうと考えたら、あの2時間の打ち合わせではないのか、あれは、無駄ではなかったのだ、宝のような貴重な時間だったのだ、と思い直した。あのお蔭で、すべてが繋がった、なんと有難いと感謝さえした。人は、表面でしか評価しない、否、出来ないのである。ただ、後になってみると、そうか、そういう因果関係になっていたのか、と合点が行く。そんな経験を何度もすると、人間の知恵などたかが知れていて、表面だけを見て、喜んだり悲しんだり、怒ったり有頂天になったりしているが、後になると、本当の価値が出てくる。それが、感謝するような価値なのか、失敗で意味のない価値なのか、それは分からない。しかし、それさえも、後になってみると、逆転することもある。とすれば、仕方がない、本当の価値は後だと思って、真面目に対応するしかない、凡人のできることは、その程度で十分である。

有難さが分かる年齢

今は、土曜日の夕方、今書かないと、たぶんずっと書けなくなるだろうと思って、画面に向かっている。今週も忙しかった、ようやくSSHの審査が昨日で終わって、終わった時は、万歳を叫びたいような気持になるが、何故か、11月のスケジュールも厳しく、メールを見るたびに、嬉しいような、そして心配なような、いろいろな仕事が舞い込んでくる。メールの添付資料を見ると、どこか惹かれるものがあって、パソコンに覚書としてメモをして、記憶しておく。タレントは、どんな仕事であっても、時間をやりくりしながら、引き受けると言う、それは仕事が来なくなる時の怖さを知っているからだと言うが、その通りだろう。凡人は、そのような境遇ではないから、忙しいとか、不満を言うが、それは恵まれた環境にいるからだろう、明日、ひょっとしてすべてキャンセルなど、絶対にないと思い込んでいるから、文句を言うのだが、芸能系の仕事は、そのあり得ないようなことが、現実に起きるので、怖さを知っているのだ。そう思えば、凡人の生活は、なんと呑気で気楽で穏やかな生活をしているのかと思う。政治家も同じで、国会議員の話を聞いたことがあるが、自分もようやく4勝4敗になって有難い、と冒頭の挨拶で言うので、何かと思ったら、選挙のことだった。落ちれば、ただの人、と言うより、借金だけが残るので、文字通り、天と地のギャップがある。数字に容赦はないから、無情な世界なのである。決してなりたくない、もちろん、なれるわけもないが、たぶん、心が折れるだろう。最近になって、歳を取ってきて、単純に、メールなどでお呼びがかかると、有難く、どこか心が弾む、若い頃はそうではなかった、まるで、男芸者のようなものか、思うが、それで充分である。それ以上、何を偉そうにしているのか、と心の底から思っている。どんなことでも、有難い、少しタレントや国会議員の気持ちが分かる年齢になったのかもしれない。

失敗と成功の間

今は、水曜日の夕方、ブログを書いている。土曜日まで、たぶん書く時間がないだろうと思うので、今書いている。このブログでも繰り返し弁解しているが、今、仕事が重なって、やりくりしている。審査系が多いのも、理由の1つだが、歳を取ってくると、この種類の仕事が増えるのは、世の常だろう。実は、つい先ほどまで、審査書類を見ていたのだが、今日ブログを書かないと、土曜日まで無理だから、と思って、切り上げたのだが、この審査書類が郵送で今日届いた時、失敗した、と悔やんだ。こんなに審査が重なるとは思わなかったからで、審査の他に、11月は何故か講演が重なっていて、しかも内容はすべて別なので、新たなスライドを作らなければならない、まったく時間がないではないか、と思慮の浅さを自省した。それでも、なるべく早く審査しなければならない、と思うと、焦ってくるので、机の横に置いているCDプレーヤーで音楽をかけて、安らかな気持ちにさせている。これは時間の無駄かと思いながら、嘆息していたら、ふと資料の図に目が留まった。あっ、これは使えるではないか、講演資料にそのままとはいかないが、発想のヒントになる、と思うと、どこか心が弾む。この写真もいいアイデアではないか、と思いつつ、そうか、やはりこの審査は、無駄ではないのか、と思ったら、急に嬉しくなった。本音は、今日はブログを書くのを止めようと思ったのだが、審査がうまく行ったので、欲が出てきて、今しか時間が無い、林先生の今でしょう、なのである。早朝にジョギングをした。本当は、今日のSSHのオンライン審査が終わった後で、と思っていたのだが、何が起きるか分からないから、と思って、早朝に走ったのだが、それで救われた。この世の中は、うまくできていて、失敗と思うことがが、成功になる、その逆もあるが、最後は、うまく行くのだ。

人を見る目

今日は火曜日、今は夕方で、このブログを書いている、ということは、ゆとりの時間があるということなので、有難い。昨日は、相当に忙しくオンライン会議で1日が埋まった、今日も同じだが、SSHの審査が始まったので、緊張もする時間だった。週末までずっとSSHで忙しくなりそうだ。この2日間で感じることは、世の中には、優れた人が多くいる、という、平凡なことである。アメリカのカーネギーが、自分より賢き者を近づける術知りたる者、ここに眠る、の言葉を、墓碑に刻んだのは有名だが、凡人にはなかなかできない。自分より偉いとか、優れているとか、賢いとか、口に出すのも、心の中でも、なかなか言えないが、この2日間、その通りだと実感した。偽りでも謙遜でもなく、ほとんどの人は、自分より優れている、正確には、会議で話す相手は、凄い人が多い。それが、たぶん、自分の表情とか、ふとした言葉に滲んでいるようで、どこか相手の表情が柔らかいような気がした。カーネギーほどの大実業家ならば、経営の基本として知っている、身についているだろう。大阪の門真市のパナソニック本社にある、松下幸之助館だったと思うが、その展示品に、似たような逸話が書いてあったような気がする。審査も同じで、審査する方が偉いのではなく、する方もされる方も、丁々発止のやり取りの中に、人それぞれの凄さを感じた。昨日も同じだったが、歳をとって、他人が優れて見えることは、嬉しいことなのである。卑下するのでも謙遜するのでもない、他人を真正に評価することであり、それは、若い頃は難しいのではないか、自分のことを前面に出したくなるので、それは、若者の特権でもあるが、それが、他人を、そのままではなく、色眼鏡をかけて見ているようなものなので、そこにバイアスがかかるからである。人を見るのも、年期が必要である。

well-being

今は、日曜日の夕方、夕食前のくつろぐ時間である。コロナ感染者数が急減している、有難いことで、このままでいてほしい。ただ、自分の生活を振り返ると、コロナとは関係なく快適に過ごしている、と書くと、コロナ禍で人生の災いを受けた人には、申し訳ないと思うが、そんな生活である。今日は日曜だから、週に1度のお昼を外食にした、回転すし屋さんに家内と行って、寿司を食べたが、これが絶品、どうしてこんなに美味しいのか、といつも思う。ココ壱番屋のカレー、日高屋のキムチチャーハン、安楽亭の焼肉、そじ坊の蕎麦、カプリチョーザの渡り蟹パスタ、など、庶民的な店だが、思うだけで、口の中が湿ってくる。今日は先ほどスポーツジムから帰ってきたが、ランニングや水泳をした後の爽快感は、何とも言えないほど、心が解放される。気持ちの在り方、心とは、何かと結びついてアクティブになるらしい。午前中は、平日と変わらず、資料作成をしていたが、イメージしたような資料、それは自分の作品と呼んでもよいが、その出来栄えが気に入った。その時の心は、満足感とか充実感とでも呼ぶ状態である。何も感じないこともあるだろうが、たいていは、悲しんだり、喜んだり、さまざまな心の動きがある。脳、身体、心が、すべて良い状態にある時、健康と呼び、今、流行っている言葉で言えば、well-beingになるのだろう。歳をとってくると、自分は、ますます食事が美味しくなり、ジョギングが好きになり、資料作成や原稿書きに充実感を感じ、というように、うまく連携しているように感じる。弁当の蓋を開ければ栗ご飯(久保田洋二)の句が、月曜の新聞にあった。作者の嬉しそうな顔が目に浮かぶようで、その瞬間が幸せなのである。歳をとること、コロナで自粛すること、などはマイナスと思いがちだが、そうでもない。自分の意志とは関係ない事情で、世の中は動いていくが、自分のことは、自分の在り方で決まるかもしれない。

資料作り

今日は土曜日、今夕方で、ブログを書いている。今朝起きて、庭からまだ薄暗い空を見たら、雲一つない天気で、もう身体がうずうずして、早朝ジョギングをした。この爽快さを覚えると、中毒になりそうな魅力がある。まして、その後の朝食の美味しさは、もう表現ができないほどで、単純だが、幸せ感まで感じる。午前中は、資料作りだ、最近は、長い時間をかけて取り組んでいるが、どうもピンと来ない、努力しているのだが、資料と自分の思いが一致していない、すれ違うのだ。これまでの努力は何だったのか、と思いながら、ふと気付くことがあった。発想を変えようと思ったら、何か、憑き物が落ちたような気がした、ちょうど、これまで掛けていた眼鏡を変えたような気がしたのである。長い間かかって、こんな簡単なことを、と思いながら、しかし、良く見えるのだ。役者が演技をしながら、どこかで思いが飛躍する瞬間がある、という言葉を岸恵子自伝で読んだが、そんな感じである。こんなことか、自分は、何を考えていたのか、と自責した。午後は、ある教育系学会のオンライン発表会があって、最後のシンポジウムに、圧倒された。さすが、役者が揃っている、午前中の気付き、オーバーに言えば、心眼を開いたような興奮は、どこに行ったのか、と思うような、そのはるか上を行っているような内容で、すべて納得すると同時に、自分の考えていることは、なんと小さく頼りないのだろう、と思った。もう一度、資料を取り出して、先ほどのシンポジウムから感じた意味を、重ねてみたら、ほっとした。無駄ではなかったからだ。資料一つでも、奥はこれほど深いのか、勉強になった。