今は、火曜日の夕方だが、外は雨降りで、先ほどまで、かなりの雨量で、昨日から関東は梅雨入りになった。午前中は明るい青空だったが、お昼頃から小雨がぽつりぽつりと降ってきた。ただ、今日の午後は、運転免許の更新講習だったので、車で約30分位の自動車教習所で、講習会に出かけ、今、無事に帰宅した。明日は時間がないので、この時間をブログに充てている。講習は試験ではないので、気は楽だが、車の実地指導があって、何事もなく、一時停止で注意をするようにと言われた程度で、2時間の講習は無事に終わった。帰宅して、家内と話をしたら、ブログなので詳細は書けないが、良い話ではなく、少し頭を抱えるような内容だった。ここが肝心な所で、人の世は、自分に都合の良い話題ばかりではなく、気に入らないこと、避けたいことは、必ず起きる、むしろ、その方が多いことが、普通だろう。そこを、どう生きるか、である。自分は、もう高齢だから、歯ぎしりするようなことは起きないが、若い人はこれからだから、人生の試練もやってくるだろう。仕方がないのだ、というより、その方が、後になってみると、良かった、と思えることが多いのだ。小さなことだが、今、自分が取り組んでいる研究などは、その通りで、これは完全に失敗だった、と思うことが、その向こう側に、きらりと光る宝石が見えてきて、本当は、ここに気付かせるために、あちこちと周り道をしたのか、と思うくらいである。だから、本当の姿は、その時は見えないのだ。研究では、その通りで、悲観することはないのだが、世の中で起きることは、様々で、ウーンと唸るようなことも起きる。その向こうに、光はあるのか、と思うだろうが、今、ベストセラーになっている老いの福袋を書いた樋口恵子さんも、同じような経験しているようで、あの時、落選したから、あの時、叩かれたから、と感謝している。人は、何事もない、平穏な日々を追い求め続けながらも、決してその通りに行かないことは、皇族の人達でも同じである。人の値打ちは、その対応の仕方で決まる。自分にも、なんとかしてしてやりたい、同僚や後輩や身内もいるが、どうにもならない、ただ、精一杯できることをするだけで、その向こうに、必ず光はある、と研究だけなら、自信を持って言える。自分を振り返ってみれば、レベルは低いが、樋口さんのような経験もしているので、後になってみれば、あれは奇跡か、と思うようなことが必ず起きる。ままならぬ世を嘆いている人も多いだろうが、決して気休めではなく、それがベストになる時がやってくる、と、自分にも言い聞かせながら、納得している。
温泉とプール
今は、6月4日土曜の夕方、夏至に近くなったせいか、昼間の時間が長く、西窓に面してパソコンに向かっていると、西日が眩しい。いつものブログに書くように、スポーツジムに行って汗をかき、汗を流して、さっぱりした気持ちで、キーボードを叩いている。大した理由ではないが、明日は日曜日で、どこか解放感があるから、ブログも明るい話題になるだろう、という微かなフォロワーへの気配りである。と言っても、今日は、少し違う。昨日の正午に自宅を出て、伊香保温泉に一泊して、今日のお昼に帰宅した。もちろん、かなり前から宿を予約しているが、天気予報が見事に外れた、老夫婦にとって好都合の天気になるように、天は采配を振るった。昨日の午前は、所沢は晴天で、午後は雨だったらしい、伊香保は午前は雨で、午後は晴、今日は、どちらも終日晴天だったから、快適なドライブ日和で、水沢観音などの休憩地点では、文字通り観光気分になった。宿では、特に露天風呂などは、夏のような陽光に光り輝く木々や山の緑が、目に優しく、じっと身体を湯に沈めているだけで、自然に溶け込むような気持になった。そうか、日本人は、こうして自然に寄り添い、自然と調和するから、俳句や短歌を味わうことができるのか、と思ったりする。現実に戻ると、今の時期は、自治体から観光地へのサービス金が出ているようで、ずいぶん割安になったから、これも庶民にとっては嬉しい。という訳で、久し振りに、温泉に料理に自然に癒されて、帰宅した。どこの宿でも、Wi-Fiは整備されているから、メールなどの連絡や仕事に支障はない。メールでも、温泉宿に居ると書かない限り、ばれないが、ワーケーションの今日、別に隠すこともなく、金曜日であったが、老いも若きもかなりの宿泊客がいた。帰宅して、片付け、メールなどのチェック、そして、スポーツジムに行って、下手なゴルフクラブを振って、噴き出した汗を、プールで泳いで、きれいに流す。もちろん、シャワーで洗い流した後に、プールに入るのだが、ふと思う。今日は、朝は大浴場と露天風呂のお湯に浸かり、昼間はプールの水に浸かって、1日中、水と親しんだが、温泉は癒しで、プールは泳ぎだから、まるっきり正反対である。癒しは、自然に溶け込む、泳ぎは、うまくなろうとか早く泳ごうとか、人の意志が働く、癒しは静で、泳ぎは動だが、何故だろう、と思った。温泉のお湯はゆったりとして波が立たないが、プールは水しぶきが起きる、その違いではないか、と、他人が聞けば、一笑に付されるようなことを考えた。新聞に、こんな句があった。噴水の天辺(てっぺん)水が水洗う(菅沼葉二)の句を読んで、さすがに掲載される句だと感心した。言うまでもなく、水が水を洗うように、天辺で競い合っている。この光景を見ると、夏を思い出す、眩しいような太陽の季節である。スポーツジムのプールでは、老いも若きも、人と水が競い合い、水が飛び、人が動く、それは躍動する夏の季節を思い出させる。温泉は、むしろ秋が似合う。歳を取ってくると、温泉の癒しに傾き始めるが、それも良し、しかしそれだけでは、生きている甲斐がない。プールで泳ぐ水しぶきも、必要だろう。
腰痛
今は、5月31日火曜日の夕方だが、外は曇り空で、少し小雨がかっていて、夕日が入ってこないので、スタンドの電気をつけている。ここ1週間くらい、朝寝床から起き上がる時、書斎の椅子から立ち上がる時、腰痛を感じて、そろりと階段を下りている。寝室も書斎も2階にあるので、居間に行く時は、階段の手すりを使わないと、どうも痛みに負けて、文字通り、よろよろ老人の様になっている。但し、すぐに慣れるので、見た目には、数分の出来事だが、あまり気にしないで放置していたが、家内から病院に行った方が良い、という、平凡ながら説得力のある言葉を素直に受けて、早朝に一駅離れた病院に電車で行った。自分も足の親指骨折で、お世話になった、駅前の評判の高い病院だが、受付に行って事情を話したら、今日は初診者は無理です、と言う。理由は、予約の患者で一杯で、とても初診者を診察する時間はありませんと、にべもなく断られた。特に、整形外科は、患者さんで満杯だから、という。せっかく時間を作って、と思ったが、どうもがいても、どうにもならない、午後ならなんとかなるかもしれないが、と言うが、よほど待たされることを覚悟しなければならない。今日の午前しか時間がない、などの個人的な愚痴を聞いてくれる雰囲気ではなく、仕方なく、電車に乗って帰宅したら、家内が、それなら、別の病院がいいだろう、と言う。その言葉にしたがって、車で出かけた。駐車場も広く、これは有難い、と思って、診察を受けたら、レントゲンからCTスキャンから、さすがに病院だ、と当たり前のことを感心したが、なにしろ患者が多い。だから時間がかかる、が、仕方がない、今日のこの時間しかないから、と思って、無事に診察を受けて車で帰宅したが、なんとか午後の学校訪問に間に合った。しかし、腰痛とは、歳を取れば、誰でもかかる病気だから、病棟には、お年寄りが一杯で、まるで老人天国か銀座通りのようで、華やかさすらある。診察が終わったら、電気治療を受けますか、と聞かれたので、いいえ、と答えて、薬局で薬をもらって、即座に帰宅した。2週間後に、と言われたが、病院通いをする気持ちは、まったく無い。電気治療だの、マッサージだの、整体院で十分だから、と思いつつ、整形外科は、今や花盛り、不景気知らずのようで、これが今の日本の姿なのか、と自分の無知を知った。自分も歳を取ったのだ、新聞に、超高齢となりて日々の身の動き春風にさえふわりと揺らぐ(小島美貴子)の句があったが、まさか、と思いつつ、老人は、病院通いも苦にならないようだ。
歳を感じる頃
今は、土曜日の夕方、スポーツジムを終えて、帰宅して一息ついて、西空を見ている、と書くと、いつも同じようなブログになる。が、この静かな時間が好きで、今日は特に昼間は夏のように暑く、今はちょうど気温が下がって、夕涼みで家の外にいるような感じである。それは、自分が子供だった昔に呼び戻す。何もかもが、薄ぼんやりとして、セピア色に染まった白黒写真のような光景が目に浮かぶ。こんなことを書くのも、自分が歳をとったからなのか、ウクライナの悲惨さや、コロナ禍とか、物騒な出来事が最近は多く、どこか平穏な昔とは真逆の世界に振り回されて、それだけノスタルジアを感じて昔を恋しがっているのかもしれない。そう言えば、最近は、歳を感じることも多く、物忘れや人の名前忘れは当然ながら、ここ1週間くらい、腰が痛くて、歩きにくいというか走りにくい、そして、どうも気力が衰え始めているような気がする。脳が弱れば認知症、心がおかしくなればうつ病、身体が衰えば病気だから、医者に行かなければならないが、それほどでもなく、年齢と共に、すべての機能が下降してきているのは、自然現象だろう。ただ、自然だと認めることが、現実にはなかなか難しく、まだ大丈夫と思うのだが、現実と自分の意識のギャップはあるのかもしれない。歳のことも考えたほうがいいよ、と、時々、家内に指摘されることもある。自分が所属する団体のスタッフに、自分が同じことを繰り返すようになったら、役職を務めるのはまずいから、すぐに教えてほしい、と言ってある。ただ、まだそのような兆候もなく、何の変化もないように思うのだが、どうなのだろう。が、最近、自分の専門の知識や思考力が衰えているような気がして、自分が思っているような自分ではなく、昭和の古い時代の研究者か教員で、最新の知識を知らない、勉強不足の、とても役に立たない、一介の老人なのか、と落ち込むことがあった。自分のことは誰でもわからない、いったい自分は何者か、錆びついた知識しか持っていない役立たずか、と卑下することもあった。が、それでもいいのだ、努力だけはしよう、勝たなくても良い、場合によって、いぶし銀のような存在になることもある、世の中は、そのような人も必要なのだ、と思ったら、少し元気が出てきた、そう言えば、腰の痛みも、プールで泳いだせいか、気のせいか、あまり感じなくなっている。昨日の夕方、整骨院で腰を揉んでもらったら、筋肉痛だよ、と言われたから、時間が経てば治るだろう。新聞に、昭和の日体温計を振りし頃(薄井逸走)の句があった、今はデジタル体温計だからか、振らなくてもいいが、昔の道具も、どこか愛嬌があって、いぶし銀とは言わないが、しぶい味を醸し出している。自分も、そんな風になりたい。
忙しさ
今は、5月24日火曜日の午前8時半なのだが、ブログを書いている。今週は、何とも忙しく、夕方に書く時間がないのだ。いつものブログのように、スポーツジムでも行って、心身共に爽快な気分で書くのが良いのだが、今週はすべて塞がって、身動きがとれない。今日も午前は、学校評議員を勤めている関係で、近隣の中学校を訪問して、会議や授業参観や、そして給食もいただく。が、この歳になると、食べ盛りの若い中学生の量と同じでは酷であるが、仕方がない、これも仕事である。そして、帰宅してすぐに、都内、しかも永田町の自民党本部で、議員や官僚の皆さんとの会議に出席すなければならない、対面だから、時間もさることながら、今日は、日米豪印によるクアッドの会議があるから、永田町、特に国会議事堂、首相官邸、自分党本部辺りは、警備で大変だろう。駅から党本部までの間、そして正門玄関で、警察官や警備員に、尋問されるだろう。遅れてはいけない会合なので、少し早めに自宅を出る予定にしている。明日と明後日も、自分にとっては、ここ大一番の講演があって、気を抜けない。講演、原稿、出版などは、会合などの仕事とは別の活動であって、自分が生きている証拠、自分が自分であることの証明、アイデンティティ、であるから、最も大切なのである。他人には知られたくないが、講演でも、かなり気を遣って、決して同じ内容ではなく、新しい情報や知見、気付きを盛り込むようにしているが、そこは、まだ素人のレベルで、優れた人の講演を聴くと、これは天性のものか、と感じることがある。というような訳で、土曜日まで緊張が続き、時間に追われているが、思えば、若い頃から、ずっとこのような生活だった。むしろ、この歳になっても、忙しさや仕事が続いていることが例外であり、人とは別なのかもしれない。夕方、お風呂前に、よく家内と、そんな話をするが、自分でもそうだと感謝している。だが、いづれ、仕事やお呼びの来ない生活がやってくるだろう。終電の音に抱かれて息をする金がなくとも家族なくとも(壱羽鳥有)、の句が昨日の新聞にあった。これほど、何もない、ということはないだろうが、人は誰でも、何もなくなっていくのが、自然である。だから、毎日を息をするだけでは、詰まらないのだ、楽しいことを見つけ、面白いことに挑戦して、自分の足跡を残していく、それなら、息をしている間、笑顔で過ごしていける。
ミスへの対応
この前の水曜日にブログを書いて、間違いに気づいて、木曜日の早朝に修正した。トルコをイランと書いてしまい、木曜の朝の寝床で、変だと気付き、すぐに確認してトルコに書き直した。規模は極小ながら、公開なので、自分の無知をさらけ出してしまったのだが、修正した時、すぐにブログを書いて、この修正文を出そうと思ったくらいだから、少し恥じたのだろう。たかが、ブログではないか、と思う反面、確認することの大切さを肝に銘じたが、論文では、当然ながら、念には念を入れるから、このようなミスはないが、もしあれば、始末書ものか、研究者として失格の烙印を押される。今は、土曜の夕方、西日を書斎から眺めていると、もう何事もなく、ミスのことはまったく気にならない。スポーツジムから帰宅して、柔らかい日差しを浴びていれば、心が安らかになるが、木曜の早朝にミスを修正をした時に、すでに問題は解決しているのだ。こんな些細なことなら、直ちに自分のミスを認めるが、それが大きなミスとか事故になると、人はなかなか対応が難しい。昨今の、遊覧船事故における管理体制のミス、公金の振り込みミスなど、すぐに対応しないことで、ますます世間の非難を浴びることになる。人の噂も75日というように、いずれ忘れられてしまう。それは、古い細胞は、体外に排出され、新しい細胞が生産されるからだという、脳科学の専門家である福岡先生の動的平衡論で、証明されている。このブログでも以前に紹介したが、熱烈な恋愛もいづれ飽きが来る、我が子の死という非情の悲しみも、いづれ忘れる日が来ると、言う。それは、ある面で、ほっとする理論である。いつまでも忘れなかったら、誰も生き延びることはできないだろう。研究は、何故か忘れることは稀のような気がするのは、絶えず新しい知識を求める営みだからかもしれない。新聞に、鍬一筋田圃一筋燕来る(中山道春)の句があった。この農家は、畑仕事やお米作り一筋に仕事をやって来られたのであろう、今年も燕がやってきて、この仕事ができる喜びを感じている。農業も研究も同じで、長い間やっていても、毎年同じということはなく、新しい気付きがあって、その道に自分が立っているだけで、有難いと思う心境になる。一筋の言葉が尊い、そして燕を見るだけで、感謝するのだろう。その長い年月に、喜びも悲しみも成功も失敗もあっただろうが、悲しみや失敗はなるべく早く忘れ、毎年新しい気持ちで、農業一筋に取り組むことが大切なことは、言うまでもない。動的平衡論では、人は絶えず新しい細胞に生まれ変わってるのだから、古い思いに囚われて悔やむのは、愚の骨頂であり、心配することは何もないのだ。
世の中の表と裏
今は水曜日の夕方、週の中日で、ブログを書く日と決めている。今日も、昨日も、平凡ながらいろいろなことがあった。ニュースでは、マウリポリがロシアに占領されたと報道していて、悔しく、悲しい思いをする。しかし、フィンランドやスウェーデンがNATOに加盟すると表明して、強い味方ができたと笑みがこぼれてくる。が、トルコが加盟に反対していると聞くと、何を考えているのだ、と憤慨する気持ちになり、北の方では、ウクライナ軍が善戦して、ロシア軍から領土を奪い返している、と聞くと、まだ大丈夫と、元気が出てくる。なるほど、一喜一憂とはこのことか、人間の単純さに、改めて納得した。考えてみれば、マウリポリの製鉄所に立てこもった兵士たちの命が救われたのだ、喜んでいいのだ、どう見るかで、正反対の解釈ができる。テレビドラマや漫画の世界では、半沢直樹の倍返しのような、大逆転が起きて、聴衆者の拍手喝采を浴びるのが通例で、それがドラマの面白さであり、溜飲が下がる、のだが、現実世界は、そうはいかない。最後はどうなるのか、誰も予測はできないが、現実の動きは、劇作家でも筋書きを描けないだろう、とすれば、当事者には申し訳ないが、ウクライナよ頑張ってくれ、としか言えず、このブログを書き終わると、美味しい夕食やビールが待っていると思って、しばしの時間を過ごしている。庶民とは、なんと有難く、舞台の演劇を見ているような気持になって、事の成り行きを見守っている。ただ、どの立場から見るのか、それで世界の見え方が違うのは、その通りなのだ。今年も去年も風邪を引かなかった、コロナのせいで、うがいをよくし、マスクをしたからである。統計では、日本のインフルエンザの感染者数は、激減していると言う。何でも、表と裏がある、と思えば、このブログでも書いたように、良い面を見ていけば、人の心は、楽しい思いで満たされるのだから、幸せな生き方ができる。今日も、オンライン会議が2つあり、終わってからジョギングをして、初夏のような日差しを浴びて、汗びっしょりになって帰宅して、冷えたグレープフルーツを頬張ると、ああ、快感、と叫びたくなる。それでいいのだ、プラスの面を見ていこう。新聞に、ていねいに手を洗いをり花疲れ(加藤賢)、の句があった。作者も、コロナ禍で手を丁寧に洗う習慣が身に付いた、と思っているとしたら、コロナ禍も、それなりに意味があるではないか。確かに、この世の中は、腹が立つこと、面白くないこともあるが、楽しいこと、面白いことも、逆の面から見ると、そう見える。ということは、絶対ということはないのだろう。
明るい世界
今は、5月14日土曜の夕方、ブログを書く時間である。いつもと同じように、スポーツジムに行って、帰宅して一息つく時間で、このブログ書きが終わると、お風呂と夕食が待っている。ブログで同じような内容を書いているが、日々の過ごし方に、大きな変化はなく、楽しいこともあれば、面白くないこともある、そんなことは、誰でも経験しているだろう。それは、ほんのちょとしたこと、書斎の机に接している棚に紙ファイルを置いて、書類を整理しているが、その整理の仕方を工夫したら、ファイルするのが随分楽になった、とか、今日は携帯の電池が何故か急に下がって、そろそろ充電しなければならない、とか、詰まらないようなことが、起きてくる。そうして毎日を過ごしているのか、スポーツジムに行く前のちょっとした時間に、家内と話をした。歳を取ってくると、身体も脳も心も、だんだん機能が低下してくるのが、やはり寂しい、とか、何か面白いことはないのか、と言っても、旅行会社に申し込んでいた、ツアーが応募人数が規定に達しなくてキャンセルになった、などで、元気の出るような話題が少しづつ減ってくるが、どうしてかと聞いても、歳だから仕方がないと、言う。たぶん、当たり前だろう、どの家庭でも、似たような話をしたり、愚痴を言ったり、物忘れが多くなったとか、病気の話とか、およそ老夫婦の話題は決まっているだろう。だが、待てよ、面白くない話ばかりではないのではないか、小さな庭だが、雀がやってきて、水の入った容器で水浴びをしている光景を今日見たが、可愛らしく、童謡の世界のようだ、とか、午前中は雨だったが、午後は晴れて、初夏のような気候になって、草や花が空に向かって背伸びしているようだ、とか、午前に資料を作っていたが、少し面白い内容もあった、とか、暑くなってきたから、夕食にはワインではなくビールがいい、とか、いっぱいあるじゃないか、そう思うだけで、嬉しくなった。どうせ、これから先の人生は限られた時間なら、楽しいこと、面白いことだけを、思うようにしたら、幸せな生き方ができるだろう、と誰でも考えることを、思いついた。人の生き方は、こんなに単純なものなのか、と思いつつ、昔やった弟子の研究でも、同じ知見を得たことを思い出した。新聞に、こんな句があった、夏近し風にも色のついており(坂本和夫)。作者の心は、どこか弾んでいて、風に吹かれていると、その気持ちが風に映ったようで、おそらく明るい色だろう、と推測した。窓から外を見ると、深紅やピンクや白色のバラの花が、濃い緑の葉によくマッチして、自然は人間世界のことは知らぬ顔で、季節を謳歌しているようだ。今日のブログは、前にも似たような趣旨を書いた記憶があるが、仕方がない、日々の生活とは、このようなものだから、と思って、夕暮れの静かな外を窓越しに見ている。良いことだけに目を向ければ、世界は明るく見える。
留学生の思い出
今は、5月10日火曜日の夕方、ではなく、昼間である。今日も明日も夕方に時間がとれず、この時間しかブログが書けない。ちょうど1時間空いていて、これだ、と思ってパソコン画面に向かっているが、夕方であれば、今日の出来事を振り返るので、どこかブログらしくなるが、この時間では、ほとんどの人は仕事の最中である。つまり自分も、どこか気がひける、仕事もしないで、というか、仕事の都合がつかなくて、という言い訳になる。外は初夏のような日差しで、小さな庭では、気持ち良い風が吹いている。先のブログでも書いたように、競争とか言い争いではなく、春風に吹かれて、なでしこのような小さな花を愛でながら、夕方の一時を過ごしたいと思うようになるのは、たぶん年齢のせいだろう。とは言っても、この世の中は、思うようにはいかず、神のいたずらか、どこからか横槍が入って、うーんと力んでみたり、嘆いてみたり、そんな出来事と出会いながら、夕食時に、家内と話したりする日常である。どこも同じような光景ではないだろうか、人は人と話をして、救われるのかもしれない。時折、ロシアやウクライナのこと、例えば、子どもや女性たちが、とりあえずマリウポリの製鉄所から避難できたというニュースだけで、心が休まる。それは、政治ではなく、人としての根源的な感性であろう。自分も、振り返れば、ロシアからの留学生がいて、いろいろな思い出がある。一人一人は、何も問題はなく、愛すべき特性を持っていて、楽しい思い出ばかりだが、政治や思想が介在すると、どうして、このように悲惨な状況になるのだろうか。素朴で優しい人達浮かべつつロシア民謡歌いしあの頃(岩本房子)の句が、今日の朝刊にあった。誰も同感するだろう、振り返れば、中国から、台湾から、韓国から、ロシアから、オーストラリアから、インドから、インドネシアから、多くの留学生がやってきて、思い出を作って帰国していった。楽しいことも、悲しいこともあったかもしれないが、どの顔も、笑っている、としか思い出せない。そう言えば、インドからやってきた研究者の小さな娘、当時小学校1年生だった女の子が、今は大学の教員で、最近、子どもが生まれたというメールを、今朝もらった。まるで、曽孫が生まれたような気持で、なんともいえない気持ちになった。当時、小学校1年生のこの子は、毎日学校からの帰りに、自分の研究室にやってきて、学生や院生らと一緒に過ごしたから、学生たちのマスコットだった。もちろん、大の日本贔屓だったから、大学も日本だった。人間の運命は分からない、今頃、あの留学生は何をしているのか、優しい笑顔ばかりが浮かんでくる、政治とは、大切な人のつながりを、無残に切り落としてしまうものなのか。
人の言葉
今は、5月7日土曜日の夕方で、スポーツジムから帰宅して、いつものように、書斎で週2回のブログを書いている。大型連休も明日で終わりというから、平凡ながら時間の早さに驚くが、この連休は、いろいろなことで埋まった。明日は、珍しく対面での仕事の会合があり、昨日の午前中は仕事のオンラインがあり、午後は、日帰り温泉に行ったが、この連休に2日を日帰り温泉で過ごした。駐車場も満席で、誰も考えることは同じようだ。今日は、初夏のような日差しで、ジムの2階にある屋外のジャグジーに浸かって、街を眺めていると、もう夏休みでリゾートに来ているような錯覚に襲われる。午前中は、計画した仕事というか自分の好きな活動をしていたが、専門書を数冊買って読み、論文も読み、データ分析もしたが、これは、趣味のようなものである。ブログに書くほどのものではないが、自分の専門と少し離れた文献から、アッと思うような示唆を得ることがある、こんな凄いことを考えているのか、と圧倒された2冊があった。研究と言っても、自分でオリジナルだと言えるのは、たぶん5%か10%程度だろう、ほとんどが他人の論文か、専門書か、引用文献なので、他人から学んでいるのが実情である。つまり、人のお陰で、研究が成立している。が、この世には、その逆もある。この連休中に、NHKのドキュメンタリを見た。競泳の萩野公介さん、バレーボールの大山加奈さんなど、超一流の選手たちが、SNSなどで、結果が思わしくなかった時のバッシング、過剰な期待などで、精神的に追い詰められて、死にたいと思うことが何度もあったという事実を知って、思わず、アッと声を挙げた。今は、他分野の一流のアスリート達による、心の開放を支援する活動が、広がっているという。研究のように、文献に綴られた言葉、内容、それは光り輝く珠玉のような存在感を持って、自分に語りかけてくれる。しかし、SNSのような不特定多数の、心ない人たちの言葉は、時に凶器となり、一流のアスリート達の心に傷をつけて、生きる勇気さえも奪うという。言葉とは、なんと、恐ろしくも驚異的な働きをするものなのか。新聞に、こんな句があった。変異するたびに毒性強めつつ広がりゆけりヒトのうはさは(原田浩生)、読んでいるとコロナのことかと思いつつ、そうではなく、人のうわさだという展開も面白いが、人の言葉は、まるでウイルスと同じという作者の思いに同感した。人は、他人の言葉によって、励まされたり、落ちこんだりする、勇気をもらう時もあれば、失意で生きる気も無くしてしまうこともある、言うまでもなく、教育に関わる人の言葉は、励まし、元気を与え、良薬であり、明るく輝いていなければならない。自戒したい。
