小さな幸せ

今は、火曜日の朝、ブログを書くには、変則的な時刻だが、今日は久し振りに所属団体のある溜池山王に行き、諸々の用事を済ませて、帰宅するのは夕方になるので、書く時間がないからで、明日も夕方までオンラインの委員会があって、という事情なので、隙間時間を使うことが賢明だからである。昨日も一昨日も、台風の影響で、雨風が時々猛烈な勢いで襲ってきて、書斎の窓ガラスを叩きつける様子に、連休中だが、スポーツジムに行くのは無理だな、と思って、ある資料作りに夢中になっていたが、午後3時ごろになると、急に空が明るくなって、少し陽光がさしてきたではないか、不思議な気がしたが、これは有難い、すぐにスポーツジムに出かけようと思って、支度をしたら、有難いことに、帰りは雨も降らず、健康的な汗をかいて、爽快な気持ちで帰宅した。これも、隙間時間の活用である。手帳に、諸々の仕事や用事やオンライン会議などを記入しているが、googleカレンダーにも忘れないように書き込んでいる。オンラインだと、オンラインURLが必要で、それは紙の手帳では無理なので、デジタルのカレンダーを利用している。手帳やカレンダーを見ると、都内に通勤している時代と違って、書斎のパソコンで用事が処理できるので、隙間時間がよく分かる。この時間は、ジョギングでもしようか、この時間は、ネットで調べたいことがあるから、この時間は、近所のスーパに行こうか、そう言えば、洗面所のタオル入れが故障している、直してみようか、ロボット掃除機のルンバが仕事を終えて、電気口に戻るのだが、うまく戻れない、調べて修理してみようか、など、思いつくことが多いのだが、その思い付きを、電話帳の横にあるメモ用紙に書き込んでいる。それが、極めて効果的で、実際、洗面所のタオル入れも修理できて、ガタガタ音がなくなった、ルンバも1回で電源口に戻ることができた、自分もまんざらでもない、少しは役立つではないか、と嬉しくなった。すると不思議なもので、洗面所もルンバも、使う度に、しげしげと眺め、どこか愛着を感じる。こんな小さなことでも、人は、喜びを感じて、今日もスポーツジムに行けて良かった、洗面所で朝がスタートできる、ルンバがいて助かる、夕食も運動した後だから美味しくいただける、と、小さな幸せ感が体中を包み込むような気がする。文脈は違うが、新聞にこんな句があった。おかずを移すフライ返しの音さえも快い夕べ母が居るから(金沢潤子)に、同感した。読者の母は、久し振りなのだろうか、何か事情があったのだろうか、母親がそこにいるだけで、すべてが心地よく感じるのだろう。人の幸せとは、このような些細なことかもしれない。

学会シーズン

今は、17日土曜日の朝8時なので、ブログを書くには、変則的な時刻だが、今は学会シーズンなので、今日も1日中パソコンの画面に向かっていなければならない。終わりが午後6時近くなるので、朝しか時間がない。学会にもいろいろな行事があるが、自分の役柄、今日の午後にある総会を仕切らなければならない、が、長い間似たようなセレモニーをしていると、あまり気にならなくなくなるのは、世の常である。昨日も、自分の所属団体の理事会があって、無事に、というか、活発に意見交換ができて、盛り上がった。どんな人も、必ず人は意見を持っている、言いたいことを秘めている、それを出して、なるほど、と同意したり、そうではない、と反論したりする、その雰囲気作りが、司会者の役目である。司会者というより、流行りの言葉で言えば、MCだろう。すべてを出し切ると、参加して良かった、という満足感がある。昨日は、しばらく、その余韻があって、体中が快い芳香で包まれたような気持になった。先に書いたように、今は学会シーズンで、先週、今日、明日、来週と4つの学会に参加し、その間に、団体の理事会や委員会などの理事会シーズンでもあるので、忙しい。先週の学会のシンポジウムも、さすが、よく考えている、捉えどころが、凄い、など、まるで、演劇を観ているような感じで、オーバに言えば感動が湧いてくる。学会発表も、すべて自分を出し切るのだ、演劇の役者もすべて、これ以上は無理だという限界まで出し切る、それを、観客は受け止めて、心や脳が揺さぶられて、共鳴するのだ。それは、学会でも、音楽会でも、演劇でも、いや、学校の運動会でも、演奏会でも、幼稚園の学芸会でも、すべて同じである。昔、保育園の学芸会に参加して、孫が一生懸命に踊る姿に、思わず涙がこぼれた。すべてを出し切る、そこに接するだけで、人は心を揺さぶられ、瞼が湿ってくる、何故だろうか。たぶん、純粋さや健気さに、日常生活とは別の世界を見るからだろうか。新聞にこんな句があった。学生のブラスバンドの熱演が胸を揺さぶり声出して泣く(河野樹美)、誰でもこんな経験があるだろう、演奏会でも甲子園野球でもサッカー競技でも、そして学会でさえも、人は、人から感動をもらい、生きる勇気をもらい、自分も頑張ろう、という気持ちになる。平凡ながら、有難きかな。

秋の一時

今は、火曜の夕方、もう18時になろうとして、日が影る時刻になった。明日は、自分の所属する団体で、定例で行っている水曜サロンというセミナーが18時からあるので、どうしても、今しか書けない。ただ、今日はミスが多く、市の教育センターの関係で、市内の学校訪問をする予定日だったが、すっかり忘れてしまい、先ほど、メールを見たら、校長先生からのメールが届いていて、恐縮した。日本人の素晴らしさは、この文面にもあるようで、決して相手が傷つかないように、忖度、というより優しい配慮がある。教育関係者は、日本人を背負って生きているようで、自分も、その通りで、良きにつけ悪しきにつけ、日本人という枠からは、出れない、そして出たくないのだが、なんとか詫びて、対応を考えた。午前中は、手帳に締め切りと書いてある原稿を書くために、文献や関連データなどの調べものをして、その分析に、はまってしまい、時間が過ぎてしまった。あれやこれや、などを雑用とは言わないが、諸々の用事で、今に至っている。しなければならないことは、ある、現に、先ほど、文科省からどさっと書類の束が届いた、審査系の仕事が始まるのだ。それは、手帳に書き入れないと、見落として、午前中の学校訪問のような、後の祭りになってしまう。そして、先ほど、気が付いた。今朝の新聞を半ばくらいしか読んでいなかった、何故なのか、よく分からない、何か気になることがあって、そう言えば、午後のオンラインの内容かもしれない、そうして、脳の容量が一杯になると、こぼれてしまう。このブログを書く時に、引用するのは、新聞の短歌や俳句なのである。だから、今、気が付いた。我が家は、7時のニュースを見ながらの夕食なので、その前にお風呂に入るので、6時半には入りたい、もうブログを書く時間が、30分もない。いつもなら、お風呂上りに、肩の凝らない小説などを読んで、20分程度だが、身も心も、平穏無事な世界に浸るのだが、今日はできない。時間の歯車がずれてしまった。それでいいのだ、先ほどの原稿の内容が気になったのは、ある活動の成果と課題についてだったが、分析をしていく内に、成果と課題は行き来するのではないか、と考えたからで、気になる関連資料を探し始めたからである。この話題になると、袋小路に入るので、止めておこう。さて、今日の新聞から、この句を引く。三ページすすむ栞(しおり)や今日の秋(谷村康志)、自分は、今日は読めなかったが、読書の秋か、物思いの秋か、窓からマンションの灯りが碁盤の目のように見える、書斎で、部屋の灯りとスタンドの灯りの元で、ブログを書きながら、秋の一時を過ごしている。それも、悪くはない。

秋の優しさ

今は、金曜日の夕方、もう外は薄暗くなったきたが、西窓から、茜色の夕焼けが見える。今日は、久し振りにスポーツジムに行った。もう、2週間ぶりくらいか、運動する、身体を動かす、汗をかく、プールで水をかく、泳ぐ、この単純な動作が、人間にとっては、不可欠なのだ、それを禁じられていたので、自由に身体を動かせることに、幸せを感じた。身体を動かすと、筋力が付くだけでなく、心も脳も弾んできて、胆力や脳力も強くなってくるだろうか、気になっていたことが、なんだ、そんなことかと、スポーツジムの帰り道に、ふと思うので、やはり効果はあるのだ。ブログを書く曜日は、明日なのだが、明日はオンラインで夕方までパソコンに張り付いて、という状態なので、今日に変更した。もう6時過ぎなのだが、もっと早く書きたかったが、時間はすぐに経つ、待ってくれない、という世の常なので、仕方がない。今日も、それなりのことがあって、それなりに頭をひねって、それなりに対応して、今日は、スポーツジムに行こうと決めて、今の時刻に至っている。人の生き様は、このような連続で、少しハラハラドキドキしながら、時折、ご褒美のように、ワクワクする瞬間があり、夕方になると、振り返って、静かな時を過ごし、平穏だった1日に、感謝するのだろう。午前は、市内の学校を訪問し、午後はオンラインがあって、その後、スポーツジムに行って、帰りに、ガリガリ君を、ミカン入りの少し高級なガリガリ君だが、スーパーで買って、書斎に入って、メールをチェックすると、もう時間が無くなって、今に至っている。ジムで汗をかき、プールで流し、アイスを食べる、もう子供の世界と同じか、歳を取ると、だんだん、子供に戻っていくのか、が、それもいいだろう。プールもアイスも、2週間前と変わっちゃいない、今日の空も、1年前の秋空と同じだろう、窓から見えるマンションも、木々も、空も、秋の優しさに包まれている、変わらぬことは、優しいことなのか。新聞から句を一つ、先生も我らも若き合宿の白樺湖だけあの頃のまま(喜島成幸)に、自分のことかと、思わず膝を打ちたくなった。自然だけは、変わらぬままで、人がどんなに変わろうと、待ってくれている。合宿か、あの頃は、夢中で走っていた、今思えば、幸せの真っ只中か、だが、待てよ、それは老人の独り言だろう、若い頃も、今の自分も、実は、あまり変わっちゃいない、同じように感じているような気がする。

秋の季節

今は、水曜日の夕方、午前中は快晴で、秋日和の良い天気だったが、夕方から雨が降り始めた。南側の窓に、雨粒が繋がって筋が何本もできて、向こうのマンションが薄く見える。いつの間に、秋が来たのだろうか、コロナ感染という経験をして、外出禁止の刑に服した10日間だったが、仕事はできたのだから不満はないが、運動不足のために、筋力が落ちた。昨日は、都内に出かけて延期した仕事をこなして、さっそうと帰宅し、今日は、午前から市内の学校訪問に出かけ、午後は2つのオンラインの打ち合わせを済ませ、今、落ち着いた時刻になった。オンラインは、珍しく高校生たちから質問を受けたのだが、高校には、新課程で総合的な探究の時間があって、生徒たちが、探究する、調べる、インタビューするなどの活動をするようで、担任の先生からメールをもらって、今日の午後にインタビューを受けた。確かに、世の中は変わりつつある。高校生も大いに羽ばたいて、探究をしてほしい、ネットで調べて、自分の本を読んだらしいが、高校生の質問や良し、そして、その前の研究打ち合わせは、さらに良し、午前中の学校訪問は、どこか感動するような内容だったので、今日は、充実した1日だった。仕事の秋なのか、研究の秋なのか、勉学の秋なのか、スポーツの秋なのか、ぼっとしてはおられない、コロナ感染もさることながら、生活をしなければならない、景気も良くならないと未来がない、そんな現実にようやく気が付いたのか、社会の歯車が回り始めて、快適な音が聞こえ始めた。一杯のコーヒーに秋立ちにけり(久保栞)の句が、新聞にあった。挽きたてのコーヒーの香りとは、よく言ったもので、その芳香は、気持ちをリラックスさせ、黙って飲む美味しさは、香りも手伝っているからだろう。その香りと味は、秋によく似合う。自分は、毎朝、居間で、通販で買っているコーヒーをマシーンで作り、書斎に持ってきて飲んでいるが、コーヒー通という訳ではないが、その一杯を飲む時間が好きだ。そして、書斎に上る前に、雀に、パン粉を餌の台に置くことを日課にしているが、これも心休まる一時である。最近は、親雀が小雀に餌をやる光景を見るようになった。居間の窓越しに見るのだが、殺伐とした事件の多い中で、雀たちは、催促でもするかのようにピーピーと鳴いて、庭から居間に戻ると、雀たちが餌台に乗って、井戸端会議でもするかのように、近所挨拶でもするかのように、そして家庭団らんの食事の時間でもあるかのように、台の上でパン粉をつつき、時折、側にある水を飲みに行く。何でもない、平凡な秋の季節である。

外出禁止

今は、日曜日の夕方、変則的な時刻にブログを書いている。土曜日の夕方に書くのを、定例としているが、別のことに集中していて、忘れてしまった。何しろ、コロナ感染中で、厚労省からスマホにインストールしたアプリに、毎日健康状態を記入して送ること、昨日は、主治医から電話があったが、外に出ていなくて良かった、まるでいたずら小僧が見つからないように、きょろきょろする姿に似ている。と言っても、いたって真面目で、医師の指示通りに、自宅で机に向かっている。保健所からの書面には、厳しいことが書いてあって、外出禁止はもちろん、禁酒禁煙、その他、普通の人には、とても守れそうもない。この方法は、自宅に監禁状態にして、巣ごもりというが、強制的引きこもり状態なのだから、健康な人を精神的な病気にしてしまう、やり方なのだ。これを経験すると、かつて報道された中国上海のロックダウンとは、なんと理不尽な、と思うが、強権国中国では、逃げることはできないのだろう。日本では、なんとかいいながら、状況に対応して生活するのではないか。と言っても、自分はずっと自宅にいて、外出していない、それには、理由がある。このコロナ感染中の外出禁止を利用して、あるまとまった原稿を書く、そして仕上げる、と決めたから、普通の人とは、少し状況が違う。だから、今日まで1週間、服を着ないで浴衣で過ごしてきた、家の中にいるのなら、浴衣で十分、すぐに羽織って、すぐに脱げる、気楽な気分になると、まるで作家気取りになって、机に向かう時間が多くなった。といっても、まったく外出しないわけではなく、数分程度、浴衣のまま、ぶらりと近所を回る。そして、今日のお昼、脱稿した。まだ出版は決まっていない、だが、なんとかやり遂げたい、という思いが強かった。出口の見えない道を、さ迷っている感じだったが、峠は越えた。そんな感じだったので、お昼過ぎに、ズボンとシャツを着て、先ほど散歩をして、帰宅したのだ。だから、昨日はブログを書く気持ちではなかった。今は、何か、けだるさがあって、明日から何をするのか、オンライン会議やいろいろな事はあるが、どこか抜け殻のような自分だが、まあいいか、まるで夢遊病者のような感じで、今は何もしたくない。文脈は違うが、ビニールに似しをかなしみ水母(くらげ)ゆれ(小川健治)の句が、新聞にあった。クラゲも可哀そうに、ビニールは海の保全や生態系を壊すやっかい物だが、似ているというだけで、どこか嫌われるのか、コロナ感染症も同じか、外出禁止とは、何か世間の嫌われもののようだ。家内は既に明けているので、今日もルンルン気分で、外出から帰宅して、夕食の準備をしている。まあ、生きて食事ができるだけ、原稿が書けるだけ、オンラインの仕事があるだけ、有難いのだろう。自分も、後2日で明ける。

コロナ感染

今は、火曜日の夕方、静かな夕暮れ時で、暑くもなく、涼やかな気温である。昨日、月曜日だったので、掛かり付けのクリニックに行って、コロナ感染を報告し、薬をもらってきた。保健所に連絡が行くそうで、感染者として登録される。老夫婦のコロナ感染であるが、1人が感染すれば、当然に2人感染するだろう、が、自分だけは例外だ、というのは思い上がりで、見事に感染してしまった。10日間の外出禁止だそうだが、仕方がない、腹をくくるしかない、と思って、クリニックで体温を測ったら、平熱だった、今日も平熱で、あの初めての高温38度はどこに行ったのか、有難い。平熱ならば、何も問題はない、頭痛もしない、身体もだるくない、よし、それならば、今週は、やるべきことをすべてやってみようと、心に決めた。自分の悪い癖は、ルールを守らず、自分で都合の良いことだけをする、つまり我儘なことだが、今回は家内と一緒なので、自分勝手なことはできない。外出できないなら、庭の草取りでもやる、とか、短い距離ならジョギングもいいだろう、と言ったら、家内に叱られた。運動すると、コロナ感染の症状がひどくなって、重症化する、じっと我慢だと言うので、分かった、今週中にやらねばならない、というか、仕上げておきたい原稿、それは自分で決めた締め切りなのだが、を仕上げることと決めた。早速、今日は実行した。いつもと同じ5時に起床して、朝と昼の食事時間を除いて、ずっと書斎に籠りっぱなしだった。いつもの午後は、スポーツかオンラインで時間が過ぎていくが、今日も明日も出かけることをキャンセルしたので、自宅にいるしか他に何もない。そして、有難いことに、木曜と金曜の2つの対面での仕事が、相手の都合でキャンセルになった、これで迷惑をかけないで済む、と安心した。1日中、書斎にいて、原稿を書けるものか、実験しようと、決めた。作家はそうして毎日を過ごしているではないか、自分にできないことも無いだろう、と思い、結果は、思った通り、できるのだ。今回の原稿は、筋が出来ていないので、あちこちと迷いながら進んでいるような内容なので、内心自信はなかったが、何か、女神の手に結ばれている糸の先を持っていて、道を間違えないように、という感じがある。まさかと思われるかもしれないが、見えない糸に引かれて、という実感がある。家内から夕食は何か、と聞かれ、普段は何でもいいよ、という所を、今日は焼き肉と言った。運動もしないのに、食欲はあるらしい。浅漬け茄子の紺が好ききゆつと噛む(星野暁)の句が新聞にあった。美味しそうで、あの感触が夏の風情にピッタリで、季節ごとに、日本人は食を楽しんできたのか、と思う。食べ物の句をもう一つ、焼き茄子の皮剝ぐ母と立ち話(鮫島しょうん)、仲のよい親子なのだろう、立ち話が長くなりそうだ。今夜は焼き肉、コロナ感染は、もう治ったようなものか。

身体のけだるさ

今は、日曜日の午後、変則的な時刻にパソコンに向かっているが、それには当然ながら理由がある。昨日、急に体がほてって、熱っぽくなり、体温を測ったら、37度8分もあった。もう身体が完全にだるい、これはまずい、コロナに感染したらしい、4回もワクチン接種をしたのに、と恨めしい気持ちだったが、すぐに対応したほうがよい、と思い、PCR検査会場が、車で数分の場所にあるので、すぐにネットで予約したら、うまく昼食時間に取れた。車で行って、検査場で、数分で終わる検査をした、と言っても、唾液を入れ物に入れるだけだが、それで帰宅した。午後1時からオンラインセミナーがあって、間に合った。1時間で、オンラインは失礼したが、もう身体が熱っぽく、完全に検査結果は陽性だろうと思うが、いつの間にか、居間に横たわって居眠りをしていたらしい。検査の明日、つまり今日の夜までに、結果をメールで知らせると聞いて、なんとか安心した。しかし時間の貧乏性なのか、居眠りをするのは、罪悪感があって、書斎に行って、原稿を書いたり、諸々の仕事をした。家内からもらった解熱剤を飲んで、なんとか体温が戻ったので、仕事を続けたが、寝てればいいものを、と思いながら、強情にも、書斎で仕事を続けたが、思えば、昨日は土曜日だった。それでも微かに、風邪かもしれない、と淡い期待をして、床に入ったのだが、昼寝をしたせいか、真夜中に目が覚める、が、仕方なく横になって、いろいろな事を思っていた。どうも、原稿のことが気になって、あれこれと思いを巡らせていたが、今朝の明け方、家内が体温計を出したので、測ってみたら、38度もあった。もう完全にコロナに感染したのだろう、仕方ない、月曜日には都内に出かける用事があったが、キャンセルするしかない、人生には、こういうこともあるのだ。実を言うと、数日前に家内に陽性反応が出て、医者から外出禁止と言われているので、老夫婦が感染したのだが、家の中では、マスクもしないで、話をしているので、もう疑いようもない。おかしなもので、自分だけは、決してコロナに感染しないと、決めていたらしい。当たり前のことだが、自分も例外ではないことが、初めて分かった。それにしても、所在ないことは、これ以上苦痛なことはない。机の前に座って、諸々の仕事や調査や原稿の整理などをしていると、身体がだるいことも忘れてしまう、仕事は、ありがたきことかな、と本心で思う。それでも、どこか自分の意志ではどうにもならない気だるさがあって、物憂い気持ちになるのは、仕方がないのだろうか。文脈はないが、方蔭(かたかげ)や昔のポスト似合う町(あらいひとし)の句が、なんとなく、気持ちに添っている。夏の日差しの強い日、誰も通らないような田舎の町で、軒下の日陰を歩いていくと、昔ながらの赤いポストがある、晴れやかさもなく、住んでいるのは、お年寄りばかりで、眠たそうな午後の時間の風情を詠んだ句としたら、そんな感じである。頭が重く、身体がだるく、典型的なコロナ感染の症状だが、これも経験すると良いのかもしれない。何事もない平凡な日々が、どんなに有難いことか、身に沁みる。

季節の変わり目

今は、火曜日の夕方。天気予報だと、曇りだったが、午後はすっかり晴れて、空一面が青色で染められていて、ところどころに白い雲が浮かんでいる。もう夏のギラギラした青空ではなく、優しい色で、近所の家屋を包み込んでいる。先ほど、スポーツジムから帰ってきたばかりで、土曜日に一泊していった孫が冷蔵庫に残していったアイスを食べて、2階の書斎に上がってきたばかりである。帰宅途中で、旧市役所の広場で、いくつかのテントがあって、アイスやお菓子や団子や、子ども相手の出店が出ていて、夏祭りのような、そうでないような、このブログでも紹介した、近所と同じ夏祭りもどきと、同じスタイルだった。山車もないし、お囃子もなく、ただテントがあって、出店をしているのだが、何の意味があるのか、と不思議だった。やるなら、レコード音楽でもいいから、景気よくしないと、侘しいだけだ。ただ、面白いのは、子供たちだ。浴衣を着た女の子らが、親も一緒に、広場で楽しんでいる。そうか、子供にとっては、お囃子がなくても、夏祭りなのか、その場の状況にすぐに順応できるのか、そして、精一杯、夏を楽しむのだろうか、大人は、子供の生き方を見習ったほうがよいかもしれない。大人は、いろいろな理屈をつけて、決して楽しんではいないのだ、まあ、日頃の疲れもあるだろうから、仕方がないとしても、子供は、すべてを楽しみ、大人は、ほとんどの事柄に、眉間に皺を寄せて何やら浮かぬ顔をしている、とすれば、生涯を子どものように過ごしたい、と誰でも思うだろう。帰宅途中では、風が爽やかで、雲もさらりとしてゆったりとしている、蝉は行く夏を惜しむかのように、精一杯の声で、別れを惜しんでいるようで、甲子園の高校野球も終わり、少しずつ秋に向かっている。こうして、歳を取っていき、生涯を終えていくのだろうか、と思うと、どこか、爽やかな風も、蝉の鳴き声も、子供の浴衣姿も、哀愁を感じる。それは、昔と変わらぬ風景だからかもしれない。文脈はないが、甘酒や峠の茶屋は雨の中(安部泰夫)の句が、新聞にあった。どこかで見たような光景で、昔から、峠で甘酒を売っているのだろう、変わらぬことは、心を癒すのか、子供の浴衣姿も、夏祭りも、蝉の鳴き声も、ずっと昔から変わらない、だから、通り過ぎていった過去と、永らえてきた我が身をふと振り返るが、今は、そういう季節の変わり目の時期なのだろう。

夏の終わり

今は、土曜日の夕方、まだまだ暑く、西日が眩しい、と書きたいところだが、今日は、曇り時々小雨で、蒸し暑いが、35度越えのような異常な暑さではなく、最高温度30度以下のようなので、平年並みで、窓から聞こえる蝉の声も、心なしか大人しい。近所に弘法大師の社、と言っても、ごく小さいのだが、この時期に夏祭りがあって、近所の役員さんがいろいろ準備をするが、今年は、祭りの山車はなく、小さな屋台で、焼きそばと綿菓子の2テントだけ、申し訳なさそうに店番をしている人がいる。家内が、町内会なので、奉納金を、社の側にある大型テントにいる役員さんに、渡した。これでとりあえず、義理は果たせた。自分は、午前中は諸々の仕事に追われ時間が過ぎたが、午後はオンラインでの講演があって、夕方に終わり、今日も、なんとか役目を果たせた。この年寄りでもまだお役に立てるのか、と思うだけで、生きる自信が湧いてくる。夕方は、例年では、娘と息子の2家族が、集まって、ワイワイガヤガヤと、孫を交えた人生ゲームなどで、盛り上がるのだが、今年は、どうも無理で、息子家族だけ、後30分ほどでやってくる。リクエストは、カレーライスと唐揚げというから、安上がりだが、家内は、嬉しそうに料理を作っているようだ。窓を開けているが、お囃子が聞こえてこない、そうだ、今年は密を避けて、山車もお囃子もないのだ、景気のよい音楽が聞こえてくると、どこかそわそわするのだが、今年は、孫を連れていけない、行っても、面白くないだろう。まるで通夜のような、夏祭りもどき、で、蝉も、ツクツクボウシか、ヒグラシか、もう夏の終わりを告げているようで、寂しげだ。家内と話合って、庭の畑を整理する予定になっている。ブログで、小さい庭と書いているが、実は、多少大きい庭で、畑で菜園をしていて、玉ねぎ、ジャガイモ、キュウリ、トマトなど作っているが、今年は雑草の伸びが早くて、しかも背が高くなって、草刈りに苦労した。この暑い8月に、連日草取りをしたので、もうすっかり音を上げた。今年を最後に、菜園をほとんど縮小して、その地に、梨とか梅などの果物の木を植え直すことにした。9月になったら、その作業に取りかかろう、と話し合っているが、ちょうど似たような計画をした人の句が、新聞にあった。力尽き土に別れを告げたのに最後の種を選ぶは淋し(住谷佳萬)、と本格的な農業を営む人だが、寄る年波には勝てず、という所か。自分も、そろそろ、そのような時期に来ているらしい。一組だけの遅い帰省、お囃子抜きの夏祭り、畑の菜園との別れ、どこか、寂しげな夏の終わりが近づいてきたようだ。が、それで良し、ほとんどの日本人が、何かを中止したり、縮小したり、自粛している時代なら、それが最も優れた選択肢である。