仕事は辛いか

今は、火曜日の夕方、実は、遅い夕方である。外は、どんよりと曇っているので、よけいに時刻が遅い、という実感がある。午前は、都内で会議に対面で参加して、帰宅して、すぐにオンラインで会議に参加し、1時間の講演をして、さらに、さきほど終わったオンライン会議に参加し、その間に、メールを見て、という時間が小刻みで、今に至った。もう疲れたから、お風呂に入って、夕食を、と思いたいが、そうもいかない。今を外せば、明日の朝のブログ書き、それはきつい、今しかない。家内に、今日の夕飯は、少し遅い時間で、と言って、今パソコンに向かっている。昼ごはんも10分もなかったので、パンを少々、本当に少々で済ませた。しかし、時間に追われるのは、何でもない、むしろ快感でさえある。明日も大学の役員会なので、栃木県まで行き、夕方はセミナーがあって、夕食が遅れる。午後7時のニュースを見ながら、という優雅な時間は、なかなかないが、それは構わない。仕事に追われるのは有難いことで、誰も、そのことで嫌な顔をする人はいないだろう。歳に関係なく、どこか生気が身体の中を流れるような気がして、充実感を覚えるだろう。人が、優雅な生活、安らかな気持ち、優しさを求める心は、仕事の量ではなく、人間関係のような精神的なストレスだろう。昨日と今日は、すこし厳しい言葉で、メールを書いた、返信が来た、そして、また自分も書いた、済まなかった、とも書いた。それで、お互いが心を痛めないように、というつもりで、送った。本心が伝わるのか、嫌な思いをさせたのか、分からない。矛盾するようだが、厳しい言葉と、許してほしい、という言葉は、両方共、自分の本心である。人間関係は、ここが難しい。そこがAIのように、論理で割り切れる世界ではないのだ。そう言えば、昨日、月曜日は、生成GPTについて、数人の研究者と対談した、小規模のオンラインセミナーがあった。面白かったが、連日、このようなイベントがあると、どこか麻痺するのだろうか、メールで厳しい言葉を書いたのは、そのせいだろうか、と反省した。うーん、この世は難しい、忙しくても暇でも、オファーが来ても来なくても、対面でもメールでも、何があっても、すべて万歳ということはない。そう思うと、すべて良しとは、幻想なのだろうか。新聞に、新聞は配達よりも集金が超辛いよと犬を抱く甥(植沢悦子)の句があった。朝早くても、新聞を配るのは、何でもない、が、集金は、相手が人だから、留守もあるし、嫌な顔をされる時もあるし、文字通り、超辛いのだ。モノよりも、はるかに人のほうが、難しい。しかし、モノを相手にする職種は、職人か技術者かもしれないが、プログラムにバグがあって、成功しないと、帰宅できない、夜中であっても、離れられない、どうやっても、バグが見つからない辛さは、相手がコンピュータだけに、決して許してくれないから、これが人間だったら、と思うだろう。本当は、どれも、楽な仕事はないのだ、楽な仕事なら楽しいかと言えば、決してそうではなく、こんな辛いことはない、ことは、ガードマンのような仕事を見れば、すぐ分かる。結局、すべての仕事を、楽しくする知恵や心構えが必要だ、ということになる。そんな秘策はあるのか、という問いには、今日は答えない。

習慣とは

今は、土曜日の夕方、今日はほぼ一日中雨が降っていたから、空がどんよりしている。こんな天気だと、どこか晴れがましいことは避けて、なんとなく暗いニュースが似合うようで、何か面白い話題はないのか、と探ってみるが、特段とブログに書くような出来事は起こっていない。今月は、週1回程度しか、スポーツジムに行けなくて、今日は久しぶりに、汗をかき、汗を流して、今帰宅したところである。今月は、いろいろな仕事で忙しかった、来月も続くだろう、コロナが明けると、人の移動も頻繁になって、そのため、電車に乗る時間が増えて、その移動時間は、かなりの時間になっている。忙しいと言いながら、そのような余計な時間に消費されているので、実質的な忙しさではないが、どこか、そわそわして、時間が過ぎていく。久しぶりにオンラインが無い日で、ジムから帰ってくると、ブログを書きつつも、睡魔が襲ってくる。今朝、早朝に目が覚めて、明け方に、気になる資料があって、その資料が頭の中をめぐって、その後寝付かれなかったせいか、目がしょぼしょぼしている。いつも、こんな調子だが、書き始めると、頭が少ししゃんとするのか、眠気が薄らいでくる。先ほど、1階の居間で、グレープフルーツジュースを飲んで、汗を流した後の疲労感を、和らげたが、なんと美味しいのだろう、と単純に思う。どんなに高級な飲み物よりも、100円程度の冷たいジュースに敵わない。ジムから帰った時、ジョギングから帰った時、誰でも同じように、冷たい飲み物が極上の癒しになって、ああ、生きていて良かった、などと、オーバーなことを言ったりして、傍にいる家内が苦笑したりする。人によっては、冷たいビールを飲んで、ああ、極楽などと、言っているだろう。夕食時の晩酌、ワインやビール、ウイスキー、日本酒など様々だろうが、飲み慣れたものが、一番のご馳走である。自分はアルコールに弱いくせに、晩酌は欠かせない、それは、習慣である。飲みながら、テレビ番組を見る、これも習慣で、7時のニュースから始まって、9時くらいには飽きてきて、9時半くらい、10時前にはベッドに入るのだから、幼児並みの睡眠だと、苦笑する。朝は、およそ5時起きで、枕元には、気が付いたことを書く習慣があるので、はがき大の用紙とボールペンが置いてあって、今朝も、ある気付きがあって、メモをしたが、意外にこのメモが、役立つ。朝食前の時間に、そのメモにしたがって、講演資料を追加できたので、自分では満足だった。この頃、そんな生活をしている。この生活を維持したい、今のままで、と思いつつ、いずれは、気力も体力も落ちていくのだろう。新聞に、亡き妻をスーパーの前で待つ夫認知症とぞ聞けば涙す(道下美智子)の句があった。うーん、なんと切ない、だが、それでも生きて、認知症でもいいから、待っている間の幸せを味わってほしい、とも思う。このご主人も、待つことが習慣だったのだろう、些細なことでも、習慣を続けられることは、幸せなことなのだ。自分もこれから、お風呂に入って、少しばかり小説を読み、ウイスキーの晩酌をしながらテレビニュースを見て、夕食はカレーライスだと言うから、他につまみくらいはあるだろう、美味しいと言いながら、時が過ぎていく、9時半を過ぎれば、もう歯磨きをして、床に入るのか、平凡ながら、この習慣が維持できるなら、自分は十分に生きているのだ。人の世とは、このようなものだ、それでいいのだ。

ブログの遅刻

今は、水曜日の朝である。ブログが変則的な時刻になったのは、昨日が仕事に忙殺されて、どうしても書く時間がなくなった、しかたなく、今朝書いているが、こんなことは珍しい。この頃、何故か、仕事が重なって、なかなか手帳の空白が見えにくい。手帳の空白は、実際は空白ではなく、その準備のための資料作成であったり、調査であったり、分析をしたりという、自分本来の仕事なのだが、その時間が削られて、中身の薄い仕事しかできないようで、心細い。忙しいことは、それだけオファーがあることなので、内心は嬉しいこともあるが、反面、どう対応しようか、と考える。昨日の夕方、ちょうどブログを書こうとした時、メールを見た。通常、メールは朝はもちろん、時間の合間にチェックするのだが、朝から夕方まで、パソコンの前に座っていると、もう疲れて、お昼くらいは、近所を散歩して、頭を空にしたくなる。すると、仕事のことは忘れて、頭が、優しさに包まれるような気がする、癒しと言うか、レフレッシュと言うか、そうしないと、人は機械やロボットではないから、無理なのであり、大切なことである。但し、昨日の午前中は、学校の訪問があって、その処理や、午後は3つのオンライン会議があって、もうこれで締め切りだと思って、夕方にメールを見たら、すぐに対応しなければならないオファーがあって、ウーン、と考え込んで、ブログは止めて、その準備をした。2時間くらい、あれやこれや、思いを巡らして、それらしき風景が見えてきて、これなら、なんとかなるだろう、と思って、返信を書いた。このような時には、うん、と気持ちを引き締め、できるかどうか、自分に自信のようなものがないと、うかつに返信できない。しかし、それは決して断ることもできない内容で、分かっているが、想定外の早急に仕上げなければならない内容だった。大丈夫と、心に光明がさしてきたとき、これで明日の朝、ブログを書こうと思った次第である。たかが、ブログと思うなかれ、これも自分の仕事であり、どこか、近所の散歩のような、庭に雀が来て、餌をつつく光景を見るような、癒しやレフレッシュの作用がある。どんな些細なことでも、長く続けていると、愛着が出てくる。人は、世の浮き沈み、小さな波を乗り越え、努力を続けながら、過ごしているが、時に、癒しがほしくなる、時に、温泉でも行きたくなる、時に、スポーツもしたくなる、それでちょうど良いのだ、それで、身体も心も正常に保たれるようだ。新聞に、抽斗(ひきだし)に詩集隠しぬ新社員(はやし央)の句があった。新社員だから、まだ周囲に慣れていないのかもしれない、繊細な神経の持ち主かもしれない、自分の好きな詩集を机の抽斗に入れて、疲れた時、人間関係でもつれた時、もう逃げ出したいと思う時、あるいは、意外に物事がうまくいった時、嬉しくて、その思いを共有したい時、そっと詩集を取り出して、読むのかもしれない。どんな人も、そうやって、心のバランスを計っているのだろうか、人の生き方とは、けなげである。

幸せ度

今は土曜日の夕方、だが、雨降りで、窓の外に、小雨が降っている。今日から数日間は天気は曇り時々小雨らしい、しかも、気温が急に低くなった。つい数日前、冬物と夏物を入れ替えて、1階の下着置き場と服の衣文掛けを、夏向きにしたばかりと言うのに、世の中はままならぬ。今朝は、冬向けの下着に着替えて、午前は書斎で仕事をし、お昼に畑仕事をして、さきほどスポーツジムから帰ってきたばかりだ。今週は、外に出る仕事が多く、電車の移動時間の分だけ、1日の時間が少なく、というか、本来の仕事ができないので、やるべき仕事が溜まってしまう。すると、締め切りがある場合は、気持ちが急かされて、心臓によくない。特に、歳を取ってくると、余裕のある生活をしないと、せこせこと、若い頃と変わらなくなるので、眉間に皺がよるような顔つきになる。どうも、物事を急ぐ癖は、往生するまで、つきまとっているようだが、さすがに、この頃は、時間的な幅を持ちたいと思う。だから、今週のように、出かけてばかりだと、大勢の人に会っているので、華やかな気分にはなるが、あまり生産性はよくないのだ。まして、展示会のような大きなイベントでは、いろいろな人に出会うので、名刺交換だけで疲れてしまう。コロナ禍が過ぎて、ようやく人が戻ってきたようで、誰もが、挨拶や話に夢中になっている。まあ、お祭りは終わって、来週からは、いろいろな用事が待っている。現役の頃と同じように、手帳が黒字や青字で埋まってくると、何か仕事をしたような気持になるのだが、最近、感じることは、質のレベルである。どうも、まだ質が低い、だから、もっと時間がほしい、調べたいことがいっぱいある、仕事ではなく、出かけたい学校がいっぱいある、議論したいこともいっぱいある、のだが、誰も同じかもしれない。怖いので、手帳に締め切りに余裕を持って、記入しているが、土日には、優先的にスポーツジムを入れている。仕事や家庭と同じくらい、健康が重要だから、否、それ以上なのだ。倒れたら、それですべては終わってしまう、幸いに、健康なので、実は、いろいろな面で、若い頃と何も変わってないのだ、人の名前が出てこない、という苦笑するような小さな不幸はあっても、研究や講演などは、むしろ若い頃より、自分では満足しているくらいなので、年齢とは、あまり相関はないのかもしれない。ブログで書くのは気が引けるが、いろいろな面で、面白いことが多い。学校訪問、高校情報の内容、実践研究、講演、原稿などの自分の好きな分野の他にも、いろいろなオファーが来て、やってみると、それが面白くなるので、世の中は、どうなっているのか、と思う時がある。何を偉そうに、と叱られそうなので、もう止めるが、新聞を見ると、世の中は、様々だな、と思う。麻痺の妻の瞳に映る無精ひげ皺も深まる老々介護(若松吉弘)を読むと、うーん、と言うしかない。ただ、家内がスマホでSNSを読んで、老夫婦で暮らしていたが、奥さんが亡くなったら、ご主人が、もう何もする気力が失せて、ただ霞のように生きていると、言った。なるほど、この人から見れば、介護する人がいるだけ、幸せではないか、と言うかもしれない。世の中は、本当に分からないことばかりで、人間の幸不幸は、誰が決めるのか、先天的に決まっているのか、と思いつつも、いつかのブログでも書いたような気がするが、相対的なものかもしれない。介護ができる人がいるだけ幸せなのか、短歌を作って投稿するだけ元気なのか、と言われると、そうかもしれない、歳を取ってくると、そんな心境が分かってくる。ちょっとしたことでも、有難いと思うようになる。もう自分は若くないから、という思いがあるからか、こんな自分でも役立つことがあるのか、と思うだけで、オーバーに言えば、小さな幸せを感じる。幸せ度は、間違いなく相対的な尺度で、決して絶対的な尺度ではない。お風呂上りの夕食前に、読みたい小説がある、10分位しかないが、それでもワクワクする、夕食が焼肉か、と思うだけで、頬が緩む。まるで子供のようだと思うが、それでいいのだ、その方が楽しいのだ。歳を取ることは、子供のような心境になることなのか、生まれた時に戻るのだろうか。

感性

今は、火曜日の夕方、いつものブログなら、スポーツジムから帰って、と書くところだが、今日は、先ほどオンライン会議が終わったばかりなので、パソコンの画面から離れていない。1階にお茶を飲みに行って、もう時間がない、などと言いながら、戻ってきた。本当に時間がないから、このブログは短いかもしれない。さて何を書くのか、何を報告するのか、公開日記とは言え、何か感じたことを書かないと、読んでいただける人に、何も響かないから、今日は何だったか、と振り返る。出来事ではなく、感じたこと、気付いたことで、ある。今日は素晴らしい晴天で、心もウキウキするが、日曜と月曜の午前中は雨が降った、北陸では、大地震に重なって、大雨で土砂災害になったから、この世の中は、どこか、恵みと災害の両方があるらしい。恵みと書いたのは、理由がある。小さな庭だが、芝を植えた、歳を取ってくると、菜園もままならず、土を耕す、雑草取り、肥料をまくなど、いろいろな仕事があって、収穫を楽しみにしていたら、今年は玉ねぎが全滅で、1つも実らなかった。野菜作りは、家内の役割で、自分はもっぱら雑草係なのだが、それも一苦労なので、面倒だから、畑を止めて芝にしようと決めた、それが昨年の暮れだった。芝の植え時期ではないから、春まで待った、が、日本芝ではなく、西洋芝にした。種芝で、昔、それで失敗した苦い経験があるが、仕方がない、素人には、きれいな日本芝を維持するのは、並大抵ではない、職人さんに入ってもらわないと、無理なのである。ただ、今生えている芝は、目の細かい自然の芝で、いつの間にか繁殖したので、気に入っているが、この品種はない。仕方なく、西洋芝を蒔いたのが2週間前で、早く芽がでないか、と心待ちにしていたが、2日間の雨降りで、元気が出たのか、若草色の細い葉っぱが、出てきた。優しい、みずみずしい赤ちゃんのようで、見るだけで、可愛くなる。北陸で大地震と大雨で、我が家を失った人もいるのに、申し訳ないと思いながら、雨の恵みと感謝し、昨日の午後と今日の快晴の天気に感謝し、ただ、それは自分だけの勝手な、独りよがりな喜びでしか過ぎない。だが待てよ、独りよがりなのか、テレビが、我が家が壊れてしまった老人を映し出している、老人は言う、ボランティアの人達のお陰で、また住めるようになった、と嬉しそうな表情をした。長年住み慣れた我が家は、これ以上に住みやすい家はないのだ、ということは、住みやすいとか、満足するとは、どういうことなのだろう。近所に出たら、スーパーに買い物に行く、親子連れ、まだ幼児だが、しっかりと母親の手を握っている。その子にとって、これ以上の素晴らしい手はないのだ。子供は、どんな時でも、物事を幸せにする天才的な知恵を持っている。あのウクライナの地下で生活していた、大勢の人々が苦渋を噛みしめていた中で、子供が嬉しそうに、地下につながる長い斜面を滑り台にして、遊んでいた。それは、哲学者でも思いつかないような、素晴らしい処世術だろう。新聞に、クラッカーを放つ仕草で傘をさす子らに拍手で雨が応える(あきやま)の句があった。何も説明は要しないだろう、ワンタッチ傘で、パッと開いた傘に、雨粒が、まるで拍手をするように、パチパチと鳴っている、なるほど、そういう見方もあるのか、素晴らしいではないか、子供の嬉しそうな顔が見えるようだ。それを感じ取った作者の感性にも、拍手を送りたい。自分も子供のような感性を持ちたい。

順調

今は、5月6日土曜日の夕方、まだ西空は明るく、その陽射しが窓から入ってきて眩しく、ブログ書きに邪魔になるので、白いカーテンに青いカーテンを重ねて、遮った。書斎の南向きの窓を開けて、網戸だけにすると風が入ってくる。前のブログでも書いたように、風薫る、の季節で、風がこの上なく人に優しい。網戸越しに、青空とマンションが見えて、今日も何事もなく、平穏無事な1日に感謝した。もうゴールデンウイークも明日で終わりか、と思うと、時間の経つ早さに驚く。今日は、午前中に審査系の仕事をこなし、明後日からの週が忙しく、できればこの審査は、明日で終了したいと思っているので、予定通りに進むと、頬が緩む。まあ、順調だな、この調子、と歳を取っても、事がスムーズにいくと嬉しい。連休中の天気が、予想以上に暑く、冬物の衣服を1階に置いていたが、これを夏物に変える必要が出てきて、昼食後に、2階のクローゼットと1階の衣文掛けの間を行ったり来たりした。もちろん、家内の指令によって、自分は階段を上り下りしているだけだが、きれいに入れ替わると、ああ、順調だなと思って、何か良いことがありそうな気分になる。それから、スポーツジムに行って、汗をかき、プールで汗を流し、という、これも、予定通りの行動である。そう言えば、昨日と一昨日は、娘家族と息子家族の8名が我が家にやってきて、合計10名が寝たり、食事をしたり、ゲームなどをしたから、わんさかわんさかと大賑わいで、大型台風に見舞われたようなもので、昨日の夕方と今日は、台風一過の快晴のようだった。例年なら、お正月に集まる行事だが、今年は、孫達の中学受験や高校受験があるので来れず、5月の連休まで延期したのだ。いつのまにか、娘も受験ママになったようで、偏差値がどうの、校風がどうの、といろんな情報を仕入れてきて、2家族のママたちが、情報交換している。まあ、それも一段落して、4月の入学式を終えれば、新しい生活が始まっている。一昨日は、3台の車を連ねて、近場、車で30分か40分位の、サイボク、というテーマパークに行ったが、道路の渋滞はまったくなかったが、第7駐車場まで満席になったので、そのパーク内の混雑さは、予想されよう。だが、野外で食べた、ハンバーグやソーセージの味は絶品で、さすが本場か、と感嘆し、その後に自然温泉に身を委ねると、もう疲れが飛んで眠くなるが、運転に注意しながら、帰宅した。ビールやワイン、ウイスキーが入ると、我が家の夕餉は、仕事の話、愚痴や人間関係、そして子供のこと、将来のこと、もう話は尽きない。年寄りは、夜は早めに就寝し、若い者は、人生ゲームなどに興じ、いつもと変わらぬ光景だった。もう娘も息子も、人生の厳しさを知り、思い通りにならないことも経験し、そして、家族で助け合いながら、ここまで来たのか、たまに嬉しい知らせや、子供の成長を楽しみながら、なんとか生きてきたのだろう。新聞に、叱られて部屋に籠って出てこない子の夕飯のラップが曇る(友常甘酢)の句があった。分かる、どこの家庭でも同じだろう、親子でも考え方は違う、いさかいもあるだろう、子供も親に向かって暴言を吐くこともあるだろう、それでも、夕飯が冷めないようにという親の愛情がラップに籠められている。それでいいのだ、思春期を迎える子どもは、それが順調な成長なのだ。誰でも通る道を、子供も大人も、そして、人生の終わりのページが近づいている高齢者さえも、歩み続けているのだ。それが順調ということで、途中で諦めて止めてしまうことが、破局なのだから、10名全員が順調に進んでいるのだ。なんと有難いことなのだろう。

良き日

今日は、抜けるような青空で、学校は休みではないが、大型連休の中日だから、誰でもが、どこか心が弾むだろう。昨日も、もうこれ以上の晴天はないような天気で、しかし、学校は休みではないから、誰しも、どこか恨むような気持だったかもしれない。その前日の日曜日は、確か雨が降ったので、天の裁きは、人の思うようにはいかない。今日のような天気なら、ジョギングとかスポーツジムとか公園などで自然に親しむのも、悪くない、車で出かけるのは、渋滞という苦渋の罠にはまるので、決して実行しない。まあ、強いて言うなら、近場に出かけて、高速道路には決して乗らないように、心掛けている。ただ、この2日間、ずっと書斎に籠り切りで、パソコンから離れなかった。仕事が重なって、昨日は、朝8時半から夕方6時過ぎまで、文字通り、ずっと座りっぱなしで、昼食時間はあるものの、それ以外には、10分間の休憩時間が、何回かあるだけだった。オンラインの審査で、緊張感が抜けないので、終わった時は、さすがにほっとした、と思いきや、爽快感だけが残った。一言で言えば、充実していたので、時間を忘れた、時計を見ながら、あと何時間か、などと嘆息することは皆無で、どこか楽しむ余裕があった。だから、時間の長さと疲れや充実感とは無関係で、中身なのである。次は、どんな質問をしようかなど、メモしながら、オンラインの向こうの顔を見ていると、自然に質問が浮かび上がってきて、質問の仕方のヒントを会得したような気がした。そして審査中、ずっとその方法を試していたようで、それは一種の実験でもあった。だから、面白かった、そして採択結果も、審査員が一致して、十分満足できたのである。今日は今日で、午前中は、どうしてもやっておきたい仕事があって、それも昨日の夢に出てきた、正確には昨日の明け方にベット上で考えていたら、ふと思いついた方法だったので、それに夢中になった。別に皆様に公開するほどの内容ではなく、自分でも、こんなことでも人は面白がるのか、と苦笑したほどなので、大したことではない。午後は、オンライン講演があって、これは前から準備していたので、それほどの苦労ではない。1時間なので、それなりに資料を用意する必要はあったが、それをこなして、終わってみれば、はや夕方、今日もずっと書斎のパソコンに向き合っていたのか、と思って、快晴の空の元で、濃い緑や若草が見える公園や道端を散歩しないと、なんだか先行きのない入院患者のような気がして、15分程度の散歩に出かけた。風薫る、とはよく言い当てたと思うくらいで、春爛漫の薫風に身を委ね、夕方の日差しとはこんなにも優しいのかと思うような温かさに包まれて、さきほど帰宅した。ブログを書く時間だった。ここらで、新聞を、と思って見たら、ちょうど良い句があった。道端の花を縫い合わせるように歩いて春の仕立て屋になる(小金森まき)と、女性らしい句である。句評に、右側の花、左側の花、のように見ている光景を、縫い合わせる、と表現したことを褒めていたが、その通りで、この作者は、今日は良き日かなと思っていただろう。素直に、自分も、今日は良き日かなと思う。明日から、いよいよ5連休が始まる。生きていることは、良きことである。

呑気に気楽に

今日は土曜日、そして今は夕方、ほっとする時刻である。土曜日よりも、大型連休の初日と言った方が、心が弾む。だだ、我々のような現役を退いた人間は、サンデー毎日と揶揄するように、休日なのだから、改めての喜びはない。ただ、自分は若干違うと思っているが、毎日が、むしろ忙しい。オンラインだから仕事がはかどっている、のが本音で、コロナ禍以前のように、毎日通勤していたら、とても仕事はこなせない。有難いのは、電車に乗らなくてよい、通勤時間がない分だけ、スポーツジムに行ったり、家庭の用事を済ませたり、市内の学校を訪問したり、会議に出席したり、自由に動けるのである。とは言っても、昨日は、仕事で新幹線に乗って三島市まで出かけたが、なるほど、オンラインであれば、1時間もかからない仕事も、対面となれば、午後はすべて潰れるのだから、時間の効率は、比べようもない。そんなことをしながら、毎日を過ごしているが、自分は、今の生活が本心から気に入っている。現役の頃から憧れの生活様式であり、常勤の職種ではなく、自由業、流行の言葉ではフリーランスなのだろうか、オファーが来れば、それをこなす仕事なので、まあ、自分にはぴったりの職種なのだ。タレント系の人も、同じだろう。ただ、彼らは、オファーが来ると、決して断らないと言う、いつ来なくなるか、それが怖いからで、どんなに危険な仕事でも、どんなに嫌な仕事でも引き受けると、聞いた。さもありなん、オファーが無ければ、谷に落ちる、その怖さを嫌と言う程、知っているからだろう。自分は、そうではない、気楽な稼業で、時間を自分でコントロールできる、ただ、オファーが無ければ、自分も、毎日が日曜日となって、所在ない日々を過ごすことになるだろう。贅沢なことを書けば、今は、過剰な仕事を抱えて、どう処理しようか、どうスケジュールを立てようか、と迷っている。今朝、あることを思いついて、こうすれば、効率的な対応ができ、自分も充実感も味わい、成果も期待できる、ではないか、と思って、その準備をした。この方法で、連休を過ごして、仕事をさばこうか、と計画している。とは言っても、そんな都合の良い方法はないだろう、と思いつつも、計画し、準備するだけで、年甲斐もなくワクワクする。否、仕事や面白いアイデアは、年齢には関係ないのだ。研究もその通りで、講演も、原稿も、出版も、審査も、事務処理でさえ、年齢に関係ないと思っている。極論すれば、健康さえも、年齢には関係がないのだ。若くても、病気になる人、うつ病になる人、人生をはかなんでいる人など、世の中には、大勢いるだろう。とすれば、自由業という職種ではなく、自由な気持ち、囚われない気持ちが、人を楽しくさせるのではないだろうか。それは、常勤で毎日通勤している人には、そんな呑気なことを、と軽蔑されそうだが、今の自分には、そんな風に思える。新聞に、鶏も雀も家族長閑なり(毘舎利道弘)の句があった。長閑(のどか)とは、まあ、こんな光景なのだろう、今の自宅には、家内と2人だが、毎朝、雀に餌を与えているが、その句の通りで、雀は小さいので、そのしぐさも可愛く、家族のような気持なのだ。なんだ、呑気に気楽に暮らしているではないか、世間の厳しさを知らないで、と言われそうだが、まあ、世の中とはそのようなものなのだ、その時は、これ以上の苦しさ、厳しさはない、経験した人でないと分からないよ、と非難されても、後になってみれば、分かるよ、としか言えない。

木漏れ日

今日は、4月下旬にしては、肌寒い日で、まだ夕方なので、窓から見える空は、明るい。先程、外から帰ってきたばかりだが、なにか冬のような気配がして、道行く人も、どこか背を丸めて行き交う。近所に大きなスーパーがあって、徒歩1分程度だから、もう大きな台所のような親近感がある。買い溜めなどは、死語に近く、よほどの天変地異でも起きない限り、あり得ない。スーパーの前に小さな社があって、自分も含めて、年配者は、よく手を合わせている。願い事もあれば、すがることもあれば、感謝の報告もあるだろう、いくつになっても、これで卒業ということはなく、この世の中は何かしらの出来事が襲ってきて、人を苦しめたり、ごく稀に、喜ばせたりする。その社の前に、昔からの井戸があって、弘法大師の井戸らしく、教育委員会の石碑が立っている。その横に、大きな石があって、その石に座って、総白髪のお爺さんが、杖を持って、長い時間じっと通りを眺めていた。総白髪のお爺さんとは、まるで自分のことのようだが、もちろん自分ではない。長い時間、外が明るい間は、数時間以上、じっと眺めていたので、たぶん近所の人は誰でも知っている。スーパーの前だから、大勢の人が出入りするので、その光景や、道路を行き交う人々や車などを、よく飽きもしないで、眺めているな、と思っていたが、最近見かけなくなった。何か、あったのだろうか、と他人事ながら、少し気になる。家内に話したら、たぶん外に出られないのだろう、と言うが、元気がなくなったのか。その老人の目には、何が映っていたのだろうか、言葉は良くないが、みすぼらしいとは言わないが、洗濯したての服ではないことは確かなので、侘しい生活だろうと思う。思えば、そんな老人は、市内でも大勢いるのだから、珍しくもないが、どこかで、誰かが、見かけなくなった、という近所の噂話もよく聞く。しかし、それは、明日は我が身とは言えないだろうか、絶対に避けることはできないが、もしそのような、哀れな人生が待っているとすれば、歳を取ることは、なんと侘しいものだろうか。このことは、先のブログでも書いたような気がするが、何か救いの手はないのか、など、他愛もないことを考えていたら、新聞に、こもれびは日かげで生きるものにしか与えられないやさしいひかり(関根裕治)の句を読んで、惹かれた。そうなのか、スポットライトを浴びた若い頃とは違って、老人になるにつれて、だんだん人が去り、日影のような生活になるが、それは、木漏れ日のようなもので、その光は、まるで光の芸術のようで、そして人に優しい。木漏れ日の光に包まれると、誰でも、ほっとして、心が優しくなる。木漏れ日のような老人とは、なんと素晴らしい存在なのか、枯れてきて、この世に疲れた人に、安らぎを与え、生きる勇気を与えるとは言わないが、そっとでもよいから、生きていたい、と思わせる不思議な力を持っている。自分はとうてい無理だが、人々が社の前で、手を合わせるのは、願い事だけでなく、木漏れ日のような優しさで、そっと生きたいという気持が、あるからかもしれない。

良いことありそうな

今は、土曜日の夕方、いつものように、2階の書斎でブログを書くのだが、机の正面が西窓で、必然的に左側が南窓になる。日中は、南窓から陽射しが容赦なく入るので、白いカーテンをして遮るが、西窓は、常に白いカーテンをしているが、夕方の日差しは柔らかく、顔の真正面に陽射しが当たっても、眩しくはない。自分の背中にも東窓があって、これも、白いカーテンをしているが、書斎は日だまりのような場所で、今日と昨日は、さすがに暑さに敵わず、4月というのにクーラーをかけた。確かに、異常気象である。土日は、オンラインがないので、気が楽で、贅沢な時間を過ごしている。といっても、午前中は、講演の資料作りで、午後は、庭の雑草取りと、家内の依頼で、小さな畑を耕した、が、その気持ちの良いこと、雲一つない晴天で、少し気温の低い風が吹いて、陽射しと風の温度差が、今は春なのだ、と気付かせた。そして、スポーツジムに行って汗を流し、例のごとく、プールの後は、屋外のジャグジーに浸かって、束の間のリゾート気分を味わうのだが、どうも今日は、ジャグジーのお湯の温度が高く、長く浸っておられなかった。そして、運動した後の少しばかりの疲労感と、冷ための風が身体にぴったりで、全身を爽やかに撫でていく。今日も、そろそろ終わりに近づいてきたか、と振り返りながら、帰宅する。今朝のメールを見たら、残念な知らせがあった、と言っても、大したことでもなく、さらに自分は多少の関わりを持っているだけなので、言わば、応援席からの眺めなので、気は楽だが、それでも多少は気になる。畑仕事とスポーツジムで運動をしたので、その爽やかさと帳消しになったようで、今は、何でもない。誰も同じだと思うが、メールは、依存症ではないが、頻繁にチェックする。嬉しい知らせも時にはあるが、中には今日のような、都合の悪い知らせもある。それが当たり前で、ごく平凡な出来事である。しかし、良い・悪いは、実は、後になってみないと判断できない。都合の悪いことが、後になると、それが良かったことは、何度も経験している。つまり、今の瞬間における良い・悪いであって、常に変わるものなのだ。だから、むしろ、これからどうなるのか、楽しみにするぐらいが、ちょうど良い。スポーツジムの帰り道、三輪車に乗った幼児と母親の親子連れに出会った、幼児は三輪車に乗るのが嬉しくてたまらないようで、大人は、先行き短い老人も、幼児をモデルにして生きたら楽しかろう、と思う。新聞に、種袋振れば良いことありそうな(曽我部幸子)の句があった。どんなきれいな花が咲くのだろうか、この種袋は、その良いことがいっぱい詰まっているのか、どんな良いことなのか、振ってみたくなる、幸せの音がするのだろうか、それは、三輪車に乗って母親に見守られて動き回る幼児の姿に、似ているかもしれない。どんなに幼い子であっても、嬉しいこともあれば、面白くないことも起きるだろう、ただ、幼児が思っていることは、今が良いことであり、都合の悪いことは、微塵も頭をよぎっていない。それで良いのだ。