成長

今日は火曜日、ブログを書くにはちょうど良い日であり、南側の窓から見える空に、久しぶりにどんよりした灰色の雲が浮かんでいて、西向きの窓からは、白い雲が太陽を遮って目に優しい。昼間は雷が鳴り、短い時間ではあったが雨が降って、庭の木々が生気を取り戻したようで、緑の葉の色が濃い。入道雲は夏の象徴であり、ギラギラした太陽と共に夏休みを連想させ、活動的な季節にふさわしいが、それも長く続くと疲れてきて、涼しげな木々に囲まれた小川に行ってみたい気がする。つい先ほど、オンラインの講演が終わり、一息ついたところで、今日の仕事は終わったかという安心感とリラックス感で、体から力が抜ける。まあいいだろう、このようにして毎日が過ぎていく。先ほどのセミナーは自分にとっては、ここ一番の仕事であり、うまくいくと平凡ながら充実感がある。充実感とはもちろん自分の心が満たされることだが、それ以上に聴衆者の心に響いたのか、何かのお役に立ったのかの尺度が重要で、その評価を知りたいが推測するしかない。ただ約一時間話をしている間は夢中で、聴衆者のことは頭にないが、終わったときふと気づく。自分の話はお役に立ったのか、飽きてはいなかったか、と少し自省する。聴衆者の数が多かったりチャットの質問が多かったりすると、皆さんが多少とも関心を寄せてくれたのだなと思って、安心する。それは多分、子供も同じだろう。授業の中で、子供たちは質問したり発表したり答えたり、多くの活動をしているが、すべて自分の心への振り返りがあるはずで、それで嬉しかったり不安になったりするだろう。まあ良い評価ばかりではないだろうが、そうして子供は成長していくのだが、大人であろうと年寄りであろうと同じである。振り返ってみて次はこうした方がいいのではないだろうかと思うこと、それは成長への足がかりである。思い出せば、今日話したことはそのような内容であった。つまり授業の一コマ一コマに、子供の自信と不安が生まれ、そして喜びと反省が繰り返されるのである。子供はそうして成長していく。そしていつの間にか、こんなにも大人びたのか、こんなにもすごかったのか、と気づく時が来る。つまり大人を乗り越えていく。新聞に、夏の雲少年貯金箱壊す(加藤木よういち)の句があった。文脈はよくわからないが、少年は何か思い切った決心をしたかもしれない、これまで貯めていた貯金箱を壊して、どうしても欲しいものを手に入れたいと思ったかもしれない。幼い子供から決断を下した少年に、飛躍したのかもしれない。老人にとっては、どこかまぶしい生き様である。

人生いろいろ

今は金曜日の夕方、かなり外も過ごしやすいような気温になって、カーテン越しに見える空も、真夏の白い雲もあるが心なしか穏やかな色をしている。夏は入道雲のようにモクモクとした力強い雲の形だが、西空に見える雲は綿菓子をちぎったような形で、少し安らぎを覚える。しかし今日も暑かった、思い出せば昨日は博多から夜遅く帰宅した。その理由は、空港で雷雲と雷雨が発生し、2時間半の遅れが出てようやく飛行機が飛んだからで、自宅に着いたのは夜遅かった。こんな時、疲れたというより、自宅に帰れて良かったという安堵感で満たされる。遅い夕食を食べて、ウイスキーの水割りを飲むと、ありがたいと感謝でいっぱいになる。今朝はぐっすりと休んだおかげで、さわやかに目覚めた。そして今日も、三つのオンラインの会議や打ち合わせがあり、先ほど長引いた打ち合わせが終わった。仕事には、嬉しいこともあれば不安なこともある、楽しい出来事もあれば反省するような終わり方をすることもある、まだまだ頑張れると思うこともあればそろそろ看板を下ろすかと思うこともある、文字どうり人生いろいろなのである。先ほど意見をぶつけ合った余韻と、今朝の少し歯車が噛み合わない打ち合わせの後味が頭の中にあって、仕事が終わったという安心感と少しばかりの気がかりなことが頭を覆って、夏休みの子供のように、全身がわくわくするような気持ちにはなれない。大人になれば、子供のようにはいかない、歳をとっても、全て思い通りに行くはずもなく、生きているということは、自分に都合の悪いことにも出会うことと同じなのだ。ただ、何故か、そのプロセスの中で、努力したり考えたり小さな気付きを得たりアイデアを思いついたりする、まるで小学生の宝物探しのように大切にしたいことが起きる。それが、この先もずっと生きていきたいと思う原動力になっているのかもしれない。小さな喜び小さな気づき小さな発見小さな幸せ、それは子供も大人も年寄りも同じであろう。そんなことがあるから、不平も言わず平凡ながらも生活していける。新聞に、夏 雲の 白より 白き産着干す(難波佳代)の句があった、赤ちゃんは、世間の汚れとは全く関係のない純粋で、天使のような存在であるが、やがていろいろな出来事に出会って、苦労と喜びを味わって、なんとか生きていくのだが、この句のように、真っ白な産着を見れば、誰でもが心が洗われるに違いない。すべての赤ちゃんは、真っすぐに幸せに育ってほしい。

夏の始まり

今は火曜日の夕方、ブログを書くにはちょうどよい日時であり、この時刻になると、いろいろなことが、頭をよぎる。今日もなんとか無事に過ごしたとか、いろんなことがあったとか、過ぎ去ってみれば一日が終わるのは早いなあと、平凡な感慨が起きてくる。朝はかかりつけの医者に薬をもらいに行き、帰宅してからオンラインでの打ち合わせ、午後はオンラインセミナーでの挨拶と最後のコメントで、ほぼ一日が埋まり、その合間をぬって、メールを読み、返信をし、書類の整理や資料をまとめたり文献のチェックをしたりなど、まあ忙しいと言えば、その通りだが、ふと思うのは少し体を動かさないとと不安になる。書斎に引きこもり、画面を見続けて目に悪いと思って、時々目薬をさし、少しばかりの散歩をして誤魔化している。先ほどは歩いて2分ぐらいのスーパーに行って、ガリガリ君のアイスを買ってきた。こんな生活をしているが、時間の過ごし方は、昔からあまり変わっていないようだ。少しでも外に出ると、猛暑の言葉通り、突き刺すような太陽光に身をさらし、小さな川岸に鴨が水面下で足を動かしているのだろう、ゆっくりとした動きを眺める。不思議なもので、自宅から出た瞬間は、あまりの暑さに手で太陽を遮るような仕草をするが、ほんの1分もすれば慣れてきて、暑さの中に身を委ねることが平気になる。世の中はそんなものかもしれない。全国に梅雨明け宣言が出され、どの地域も猛暑の中に包まれ、日本中が夏一色になった。このブログを書終えれば、メールをチェックして、お風呂の時間となる。明日は九州に出張する。夕方ホテルでオンラインセミナーを仕切り、明後日の午前中に対面での講演をし、その後のシンポジウムにも参加して、午後の便で帰宅する。まあいいか、この暑いさなか、自分の仕事があり、出番があり、人前で話ができること、感謝しかない。全国の子供たちは夏休みに入って、思う存分動き回っているだろう。新聞に、グランドから鳴り響く金属音のそのあざやかさ夏が始まる(雨谷詩穂)の句あった。そうか甲子園の地区予選はもう始まっているのだ、猛暑の中で選手たちは戦っている、本当に高校時代を青春というならば、その通りだろう。高校野球のせいか、夏は青春と結びついて、土まみれに汚れたユニフォームが目に浮かぶ。子供は子供なりに、若い者は若い者なりに。年寄りは年寄りなりに、それぞれの夏を過ごしていく。

緊張と安堵

今は金曜日の夕方少し前、外は灰色の混じった入道雲のような夏らしい空が、書斎の窓から見える。1日は早いと感じながら、ブログを書いている。もう今日の仕事のほとんどは終わりかけている。そしてふと思う。自分は今日何をしたのか、午前中は市内の学校に行って講演をし、研修会に参加した。どんな仕事にも緊張感があり、不安があり、終わるまでは心が休まらないのは、たぶん自分ばかりではないだろう。ある有名な歌手も、似たようなことを話していたようで、始まる前の緊張感は何回経験してもハラハラドキドキすると言っていた。逆に考えれば、それは自分の仕事に対する真摯な態度の表れとでも言えよう。終わると安堵感に包まれて、ほっと心が安らぐ。自分たちの生活とは、毎日このような積み重ねであり、緊張と安堵との繰り返しの中で生きているわけで、ずっと心穏やかに過ごすことはありえない。そのような心境で過ごしたいものだと思いつつも、ほとんどの凡人は小さなさざ波のような中で暮らしており、多少の不満や多少の気苦労や多少の思い通りにならないことも、必要なことである。もしそれがなければ、むしろ認知症のようなもので、感情の起伏がなくなれば、人は生きている甲斐がないからである。午前中の学校を後にする時、緊張感がほぐれて、多少ともお役に立ったという自己満足感があって、帰宅する車の中で音楽を聞いていると、心がほぐれてくる。今日の講演の一部は、デジタルの表と裏、光と影、プラスとマイナスのような両面があることを述べたが、それはすべての物事に通じることで、緊張感がなければ、終わった喜びは味わえないであろう。会議でも同じで、自分の意見に近い考えもあり、それとは別の意見があることも当然であり、違う意見があるから、自分の意見の存在感が出てくる。光があれば影がある、つまり影の存在は重要である、が、理屈はそうなのだが、現実は自分の意見だけに賛成してくれると嬉しいのは、これも凡人のなせることである。都合の良いことと悪いこと、その両方が必要なのだと、人の前でも言うし自分でもそう思っているが、実際はそのように悟りきれない。新聞に、梅雨激し鴉不満を声に出し(中野博夫)の句があった。カラスもまた激しい雨は嫌なのだろう、都合の悪い天気なのかもしれないが、やがて梅雨が明けるだろうが、人間にとっては、今の時期、もう少し雨が降ってくれないかと思っているが、なかなか天は言うことを聞いてくれない。こうして一日が過ぎていく。それで良いのだ。

今を楽しもう

今は火曜日の夕方より少し前、南向きの窓から夏の雲が空いっぱいに広がり、まだ梅雨明けは来ないのにと嘆息しつつ、連日の猛暑に耐えて毎日を過ごしている、とは言っても、それなりに忙しく、今日の午前中は市内の学校訪問をし、帰宅後オンラインの事務局会議に出席し、午後は先ほどまでメールの処理や仕事の準備や諸々の用事に振り回されて、ほっと一息ついて、ブログを書こうという気持ちになった。昨日までの三連休、今日も含めて、この尋常ではない暑さに対抗して、冷蔵庫で冷やした水やアイス、夕食には冷凍庫に入れてキンキンに冷やしたビールなどを用意し、寝室にはクーラーをかけて寝るのだが、ここ数日は夜中に目が覚めて、なかなか寝つかれない時間を過ごした。そのため昼間は睡魔が襲ってくることもあり、仕事への集中度が欠けてくる。まあ、それもよし、連休中は、ゆったりと仕事をしよう、スポーツジムに行って、プールで泳いだりジャグジーで体を泡で包み込ませて、まるでリゾート地に遊ぶセレブのような時間を過ごした。歳をとっても、水の中に浸かったり、美味しいものを食べたりすると、若い頃のように、わくわくした気持ちになる。そして三連休中は、我が家の庭に、伸び放題になった雑草を刈ったりして、まるで子どものように全身が汗びっしょりになって、その後シャワーを浴びて、さっぱりとすると、夕食の冷えたビールの味は、もはや形容する言葉が見つからない。そんな時、生きていて良かったなどと、オーバーに幸せ感を味わったりする。ただ今日は平日であり、午前も午後もしなければならない仕事に追われて、今に至っているが、それでも、外は昼間の灼熱とは違った、少し柔らかい日差しになっている。明日と明後日は、少し小雨が降りそうなので、夕方には庭に出て雑草取りやガーデニングをやろう。この3日間の汗びっしょりかいた後の、シャワーとくつろいだ開放感と自分へのささやかな褒美としての、夕食とテレビ番組を楽しむ時間が忘れられなくて、このブログ書きが終わったら、庭に出てみよう。歳をとっても、楽しいことや嬉しいことは、つまでも心を豊かにしてくれるので、忘れられないのだ。それは、最も素晴らしい生き方かもしれない。新聞に、脚も老い目も老眼と物忘れ良きこと無き日も饅頭は旨し(守吉恵美子)の句があった。生きていればこそ、食べ物の美味しさを味わえる。この作者も、そのことを実感しているのであろう。自分も同じである。体力も知力も気力も、若い頃に比べれば衰えているのだが、生きていれば、まだまだ楽しむことはいっぱいある。そう思えば、悲観したり心配したり不安になったり後悔したりすることは、要らない。今を楽しもう。

AIと人間の共存

今は、土曜日の昼間、本来は、夕方、すべての用事が終って、スポーツジムなどに行って、気楽な一時にブログを書く方が、読み手も、その気持ちが伝わって、読みやすいのではないか、と思うが、今日は、諸々の用事があって、ジムには行っていない。庭の雑草が伸び放題なので、この3連休で、なんとか手入れをしたいと計画したが、日曜日と祝日は、猛暑という天気予報で、外での雑草取りは、熱射病になると知ったので、曇り空の今日しかない。と言っても、今の時間でも暑く、夕方にしようと思って、ブログ書きが今になった次第である。時間の貧乏性というか、空き時間があると、何かで埋めないと、気持ちが悪い、それは、気楽な資料探しでもよく、見たいビデオでも、読書でも、スポーツでも良いが、ぼーっとした時間が、何か自分の生き方に反するようで、嫌なのである。ふと気付いたことは、なるべくメモをして、忘れないようにして、時間の隙間を作らないようにしているが、歳と共に、忘れることが多くなった。2日前に、講演資料で、あることに気が付いて、たいていは、夜中か明け方に、ベットの中でが多いのだが、枕元にあるメモ帳にメモするようにしているが、それも忘れて、朝起きて、あれは何だったか、と思うことがある。その資料は、著名な学者の、大昔の論文なのだが、あることがきっかけで、検索して、入手できた。嬉しくて、もちろん、PCに保存した。ところが、今朝、どのフォルダーに保存したか、を忘れてしまった。イメージは鮮明に思い出すことができるが、フォルダーが思い出せない。言語心理学者の今井むつみ先生によれば、言葉は関係である、と言う。ということは、このファイルは、このフォルダー、つまり下位概念を上位概念に関連付けて、保存しているので、その関係があやふやになっているということだ。脳のシナプスが、途切れて、活性化していないか、別のニューロンにつながっているのだろう。理屈が分かっても、入手できないことには、講演で、あの、例の〇〇論文、などと言っても、恥をさらすだけである。実は、ついブログを書く前の隙間時間に、検索していたら、ようやく出てきた。なつかしい待ち人来る、のような気持で、資料に張り付けた。これで少しほっとしたが、思い出そうとしても思い出せない、言葉では表現できない、あの、例の、なんとか、という自分の脳の中にあるイメージを、最近のAIで検索してくれないものか、言葉にならないから、忘れているのだが、イメージはある。そのような脳とAIが結びついた技術はあるかもしれないが、それはそれで、恐ろしいような気もする。AIはAIで、どこか、完璧でない方が、可愛らしさがある。新聞に、AIにAI訛り梅雨に入る(泉尾武則)の句があった。まだ音声は機械的な発音のようで、ロボットのようだと思うが、その方が良い。きれいな発音だと人間と間違えるからだが、それは時間の問題で、その内すぐに人間を追い越すだろう。AIと人間の共存、共生は、どうなるのだろう。識者の意見も聞きたいが、人間は歳と共に衰えることは、残念ながら、疑いようがない。

元気の源

今は、火曜日のお昼、この時間にブログを書くのは、夕方にオンラインの仕事が入っているからだが、今日は、年に2回の検査で、午前中都内に出かけ、帰宅したところだが、午後は市内で対面の委員会が入っているので、今しかない。明日は、夕方も自分がホストのオンラインサロンがあるので、書く時間がない。都内の病院で、夏と冬の2回だけなのだが、ともかく外来患者で溢れるくらいなので、今日は意を決して朝早く出かけた。お陰で、スムーズに検診を受けたが、実はほとんどが血液検査レベルで、しかもずっと数値も変化していないので、先生、いかがでしょうか、と聞いたら、もう来なくてもいいですよ、という有難いお言葉で、所沢のかかり付けのお医者さんに、経緯と手紙を書いてもらった。近日中に特別健康診断があるので、その時に手渡すことになった。いつも面倒だと思っていたが、もう来なくて良い、と思うと、どこか心残りがあって、今日は、すぐ前にある根津神社にお参りをした。年に2回くらい、どうということもないから、遠足のつもりで来たらどうかとも思ったが、まあ、特に大病院で検査するほどのことでもないので、これでよし、と思い、気が向いて暇な時があったら、下町のこの辺り、江戸情緒の残る地域に、ぶらりと散歩すればいいか、と思って、納得した。神社には、外国人が、観光なのか、散歩したり、写真を撮ったりしていたが、確かに、この周りは、そんな風情がある。電車で帰宅したが、ともかく暑い、午後は市内に車で出かけるが、この暑さでは、車の中を冷やしてからでないと、乗れない。梅雨はどこにいったのか、灼熱のような日差しを浴びて、駅から自宅まで歩いたが、お昼近くの太陽は、容赦ない、遠慮会釈もなく、という言葉通りであった。帰って、思わず、アイス、と叫んだ。まるで、子供のようだが、仕方がない。子供は、暑さなど平気で、来週からは、いよいよ夏休みだろう、小学生くらいは、宿題とか勉強とか言っても、遊びの付録みたいなものだろうから、近所の子供らや仲良しグループで、動き回るだろう、暑さなどは、モノともせず、汗いっぱいかいて、夕方まで遊んで、帰宅したら、冷たい飲み物、冷えたスイカ、もう美味しくて、こんな美味しいものが、この世にあったのか、と思うだろう。つまり、子供は、精一杯、生きているのだ。大人は、身体の事もあるが、なんとなく疲れて、元気が出てこない、この暑さでは、などと言って、言い訳をしたくなる。まあ、仕方がないか、と言いながら、これから午後の委員会の支度もせねばなるまい。新聞に、雨傘をぶっつけながら小一は紫陽花のごと密で帰りぬ(四ノ宮光里)の句があった。仲良しグループなのだろう、話したくて仕方がない、傘が邪魔だが、仕方がない、ぶっつけながら、話している、話したいことがいっぱいある、帰宅途上も、子供は、全力なのだ。その子供たちの未来をどうするか、が委員会の趣旨なのだが、大人は、むしろ子供から元気をもらい、生きる勇気をもらっている。子供は、地域の宝であり、日本の元気の源泉である。

共存する

今は、土曜日の夕刻、ようやくブログが書ける時間ができた。有難い、土日は、オンラインなど入っていなくて、午前は仕事をこなすが、午後は自由なので、スポーツジムに行った。久し振りに、解放感を味わえる。オンラインでも対面でも、仕事には、なにかしらのストレスがあるから、プールで泳ぐようなリラックス感はない、少しずつストレスが溜まって、身体を動かすことで、溜まったガスを放出するように、身体と気持ちが軽くなる。いいね、こんな雰囲気と時間は、どこか昔に戻ったような気持になる。昭和の時代は、今よりノンビリしていたような気がするのは、単なる郷愁なのか、歳を取ったからなのか、水の流れのように、自然に寄り添って生きることが、自分に合っている。ただ、仕事になるとそうはいかない、午前中は、逃げたいような自分を叱って、取り組んだら、意外とスムーズに進んだ、だから、嬉しい、というより、ほっとした。若い頃は、夢中で取り組んで、仕事に囲まれ、若い者と議論し、多くの会議をやりくりし、など、生きている実感はあるが、ただただ、忙しい、という一言だった。誰からも、先生はいつも走っているね、などと言われたが、まんざらでもなかった、暇なことは罪悪のような気がしていたからだが、それは幸せな生き方であることは、言うまでもない。自分の周囲の先生も、同じような仕事の仕方だったから、何も疑問を感じなかった。今は、どうだろう、オンラインで処理できることが多くなり、移動時間が無い分だけ、仕事の仕方は、効率的になっただろう。ただ、気持ちの持ち方が違う。ギラギラした太陽の元で、などは、もう性に合わない、静かな夕日を浴びて、のほうが馴染みやすい。自分の仕事内容を考えると、カタカナ用語が多く、デジタルだのチャットGPTだのGIGAスクールだのSSHだの、どうしてこんな用語に囲まれているのだろうかと、ふと思う。黒板、子供、運動会、朝礼、夏休み、宿題など、もちろん今でも同じだが、何かあまり使わないような気もする。当たり前すぎて、何も感じないのだが、それでも、これらの用語を聞くと、昔の子供の頃を思い出すか、光景が目に浮かぶ。しかも、ありありと、確かな存在感を持って思い出すが、デジタル用語はそうはいかない。スマホ、タブレット、電子黒板、クラウドと聞いても、無機質な道具しか思い出さず、人の匂いがしない。こんなことを書くと、周囲の人や仕事仲間や、研究者や学校関係者から、叱られるだろう。いつ、お前は宗旨替えしたのかと、言われそうだが、そうではない、歳と共に、人の感性は移っていくのだ。今の自分のテーマは、デジタルを、無機質ではなく、血の通った温かい道具として、そこに子供たちが寄りかかり、共存している光景に変えたいということだ。漠然としているが、そんなことを思ったり、講演や原稿などでは、少し触れてみたりするが、それは理屈ではなく、自分の生き様なのである。新聞に、商店街団扇配りし日は遠く(小川清)に句があった。そう言えば、最近は、団扇をもらったことがない、と言うか、商店街そのものが無くなったのだから、仕方がない。昭和は遠くなりにけり、だが、かと言って、昔を恋しがっても仕方がない。スマホ無くては、生きていけない、インターネット無くては、生活できない、しっかりとすべての人々に入り込んでいる。人は誰でも、薬のお世話になり、小さな病気を持って生きているが、同じように、デジタルと共に、生きているのだ。スマホが壊れたら、インターネットから遮断されたら、仕事もできず、生活もできない、一生付き合っていくしかない。時々、もしどこかで倒れたら、パスワードを誰も知らないから、どうなうのだろう、と不安に思うことがある。人が生きていくことは、矛盾を認めていることか。

厳しい世界

今は、月曜の夕方である、言うまでもなく、明日は対面での会議と講演があって、出かけなければならない、帰宅が夜になるので、今日ブログを書いている。考えてみれば、たかがブログと言えども、なかなか時間を生み出すのは容易ではない。誰しも、普段は当たり前とか、なんだ、この程度か、と思っても、やってみると、意外に難しいことは、経験している。今日も、何回もそんなことがあった。先ほどのオンラインでも、たぶん、こうなるだろう、というより、こうならないなどあり得ないと思うことが、現実に起きている。世の中は、本当に分からないことだらけだ、どうしてだろう、と思うと、それは、思い込みなのだ。これまでの経験からして、こうだと断言できることが、そうならないのは、その思い込みが強いからかも知れない。以前に、自分は頑固な年寄りになりたくないと、書いた、出来れば、ニコニコして世を達観したような顔をして、好々爺になりたい、とも書いたが、なかなかそれは難しいかもしれない。毒にも薬にもならず、大した役にも立たないが、若い者に任せて、機嫌よく応援する爺になることを夢見た、が、小説やドラマのようにはいかない。それは、現実に生きているから、仕事をしているから、組織に属しているから、山あり谷ありの浮き沈みが起きる。オンラインであっても、難しい話もある、厳しい言葉のやりとりもある、それでいいのだ、と言いながら、内心は、穏やかな日々を望んでいる。昨日は日曜日、1ヵ月近くもスポーツジムに行けなかったが、ようやく行けた。帰宅したら、録画している将棋番組などを観るが、大逆転の勝負だった。負けた棋士は、この世がひっくり返ったような怖さを知った、どんなにか指した一手を悔やんだろうか。日曜の夜は大河ドラマを観るが、昨日は、家康が、我が妻、我が息子の自害を、滂沱の涙を流しながも、認めるしか手がなかった。うーん、なんとこの世は、悲哀に満ちているのだろうか、棋士もプロだから、遊びではなく、人生をかけて戦っている、そして、一手のミスで負ける、生きることの意味さえ失うような表情をしたが、心情においては、戦国時代の武士と変わらないだろう。楽をしたい、そう思うのは人情だが、すべてはそうはいかないことも、認識しなければならない。どうすればいいのか、スポーツジムでプールで泳ぐことは、まるで極楽で、棋士や武士に比べれば、天と地のような差がある。小さなことだが、会議でも、浮き沈みがある、それでも、なんとかやりくりをしながら、生活をしている。その中に、どこか生き甲斐とか楽しさとか自己実現の喜びを感じたりするから、人生は分からない。扇子措(お)く話いよいよ難しく(石田わたる)の俳句が、新聞にあった。難しい局面になって、扇子で扇いでいる余裕がない、目も血走っているかもしれない、難しくなると、たぶん、胃も痛むだろう。そのような中でも、生き甲斐を感じ、面白さを味わう人はいるのだろうか、棋士は、そうかもしれない、思えば、勝ち負けなど、紙一重の差であり、プロはギリギリで頑張っているのだ。そこまで出し切って、戦っているので、厳しい世界であっても、離れられないのだろう。この世は、なんと厳しいのだろう、厳しいから続けられる、生きていけると書けば、叱られるかもしれない。

総会

今日も忙しい1日だった、木曜の夕方だが、ブログを書く。明日と明後日の金土は、都内と他県で用事があって、夕方に時間が取れないからだ。明日は、所属する団体の総会があって、都内に出かけなければならない。明後日も、講演があって、帰りが遅くなる。いづれも、夕方に懇親会が設定されていて、立場上、断れない。これも、仕事の内だから、文句は言えないだろう。人には、好きなことと苦手なことが、誰でもあるが、自分は、というより、誰でも、形式的な会議は苦手というより、面白くはないだろう。世間では、無難に通過することを願うが、総会はその通りだが、通常の理事会は違う。参加した理事の全員が発言できるように、自分は配慮しているので、それなりに、盛り上がる。盛り上がるように仕切ることが、会長の務めだと心得ているので、形式的ではない。だが、総会では事情が違って、なにしろ1分単位で、議事進行のプログラムが組まれているので、余分なことは話せない、臨機応変に、ではなく、予定通り、進行すように仕切るのが、会長の役目である。否、そうではなくて、事務局長が仕切るのであって、会長は、儀礼的な決議をする役目なので、プログラムの進行通りに、そのままの文章を読むしかない。その準備の打ち合わせが、今日の午後にオンラインであった。苦手な役割と思っていたが、今日の打ち合わせで、総会の進行がイメ―ジできると、どこか余裕が出てきて、明日は、無事だけではなく、せっかく参加していただく会員の皆さんに喜んでいただこう、という気持ちになる。団体の職員は、言わばホスト役であり、会員の皆さんがゲスト役だと心得ると、対応の仕方が、自然にできる。懇親会では、皆さんに分け隔てなく、ビールを注いで回ろうとか、出会ったら、明るい笑顔で挨拶しようとか、名刺はいつでも出せるようにしようとか、心構えが出来てくる。物事がうまく行くか行かないかは、ここが分かれ目ではないかと思う。自分の立場は何なのか、を自覚しないと、心が決まらないのだ。それが決まれば、どんな人にでも、頭を下げることができる、お礼を言うことができる、ありがとうと感謝を態度で示すことができる、形式的な会議であったとしても、人の誠意は伝わる。それは、これまでのすべてのオンライン理事会でも、気持ちは画面を通じて、必ず伝わる、それは何度も経験しているが、そのような研究論文もある。しかも、明日は、4年ぶりの対面とオンラインのハイブリッドの総会と理事会なので、満面の笑顔で出迎えたい。来ていただけるだけで有難いのだ。新聞に、四年振り友との会話弾みけり振り返る人に会釈で詫びる(寺岡美聖子)の句があった。本当に、その通りだ、明日は会話も弾むだろう、会釈で詫びる人もいるだろう、久し振りの対面で、嬉しい懇親会になると良い。人は、本来は、対面で話せば分かる、食事を共にすれば、わだかまりも溶ける、お酒を飲めば、笑顔で会話ができる、肩を組み合って話したい心情に駆られるかもしれない。そう期待して、明日の総会に臨みたい。