雀隠れ

今日は火曜日の夕方、1日中雨降りで庭の木や草や野菜など、喜んでいるに違いない。晴天続きのせいか、植物が雨降りを心待ちしていたような気がする。今週から自分は暇になる、嬉しいことなのか寂しいことなのかわからないが、心に余裕ができたことは確かで、雨降りの今日は、午前中に内科クリニックに行って検査をしてもらい、午後は先ほど雨の中を車で出かけて背もたれ座布団に入れるウレタンを買ってきた。この説明をすると長くなるのでやめるが、仕事とは関係のない用事を済ませた。先週は、土曜日に高校生のポスター発表を聞いてコメントをしたこと、日曜日は学会で講演をしたことが重なったので、仕事で時間が凝縮していた。忙しいと色々なことに気がつく。高校生の発表に目を奪われて、新しい気づきがあった。例えば、手話と話し言葉ではどちらが効率的かという発表があったが、このテーマの発想自体が面白く、しかも結論が手話の方であったこのことに、新鮮な驚きと嬉しさがあった。手話と話し言葉の両方を聞いて意味が分かった時点で、聞き手がタイマーを押すという方法なので、確かに科学的な証明になっており、言われてみればそうかもしれないと思って、溌剌とした高校生の発表に大きな拍手を送った。日曜日は自分が講演したが、自分のPCでオンラインでの発表と同時に、会場にはプロジェクターに投影するという方法なのだが、PCを開いてびっくりした。電源残量が4%になっていたからである。新しいPCで意気揚々と会場に持参したのだが、なぜだろうと思った時はもう遅い。数分経ったら画面が真っ暗になった。電源がなければパソコンは無用の箱でしか過ぎない、頭を何回も下げて司会者のパソコンの電源を借りて投影した。電源は持ってこなかったのだ。当然充電が100%に近いと思い込み、自宅を出る時に確認もしないで鞄の中に入れたからである。講演はなんとかできたが、自己肯定感が急速に落ちていった。自分は短い時間の時は電源が重いので持っていかないことが多いのだが、この時ばかりはこんなミスをしないようにと誓った。高校生の発表に比べれば、自分はなんと情けないのだと思ったが、もはや仕方がない、気を取り直して後の時間は他の人の発表を聞いて、自分を慰めた。この世の中は順調のように見えて、どこか横槍が入るとか、信じられないようなアクシデントが起きる。それは何か神のいたずらのような気もする。逆にそれが自然の現象であるかもしれない。文脈は離れるが新聞に、球児たち雀隠れに球探し(村山邦保)の句があった。雀隠れとは草木が伸びてスズメも見えなくなる形容だと、俳句の評に書いてあったが、自分を振り返るとまさに雀隠れだったのかもしれない。司会者が電源コードを貸してくれたこと、そしてその後何とか思ったように発表できたことを思えば、まあ良かったのだと思う。世の中には、必ず雀隠れのようなことが起きて、人は右往左往しながら生きているのだろう。それで良いのかもしれない。

変化を求める

今は金曜日の夕方、これからブログを書こうとしている。今日も肌寒いが、天気も良く青空が書斎の窓からよく見える。明日からの土日は、都内にイベントがあって全く時間が取れないので、今書いている。自分のようなものでも、オファーがあってイベントに参加できるのは正直ありがたい。それはまだ自分が世の中に少しでも役立っているという感覚である。その感覚は多分一生ついて回るのではないだろうか、いやもう自分は引退するからオファーが来ても逃げるよと、正直思ってる人はほとんどいないのではないか。人は一生何かやってないと人でなくなるという感覚があるからだろう。今日も午前中、研究とは言えないまでも研究もどきの仕事をやっていたが、時間が立つのを忘れてしまう。その世界に入ると、そこに自分が投影されて自己対話が起きる。すると同じことの反復では、自分に進歩がなく、生きている甲斐がないような気持ちすら起きてくる。だからどんなことでも、少し変えてみるとか新しい試みをやってみるとか、変化を求めるのである。明日からの土日にスポーツジムに行けないので、代わりに今日の午後に行ってきた。プールで泳ぐのは平泳ぎとクロールなのだが、特に新しい試みをしているわけではないので、健康のために蛇足で泳いでいるような気持ちなので、実はそんなに面白いものではない。ブログで書くのは恥ずかしいが、ゴルフの打ちっ放しがジムにあるので、そこで練習しているが、下手ということは素晴らしいことで、なんとか上達しようと色々工夫している。それがこの上なく楽しい。確かに人は変化を求め新しさを追求しているようだ。いくつになっても、それが人間の本姓なので変わらないと思う。文脈は離れるが、新聞に、春寒し誰も帰りて来ぬ故郷(月城龍二)の句があった。故郷を離れ都会で暮らしている人を詠んだ句なのかもしれないが、自分も同じであるが、別に故郷を捨てたわけでもなく、東京が素晴らしいというわけでもないが、そのほうが自分を活かす比重が高いからとも言える。故郷にいれば平凡だが幸せな生活を送ることができるかもしれないが、なぜ人は失敗するかも挫折するかもと思いながらも、変化を求め故郷を離れるのだろうか。それが人間の本性だからかもしれない。

鳥雲に

今は火曜日の朝、変則だが、午後に北陸地方に出張する関係上、この時間が書きやすい。気楽な出張で、小さな会議と後は懇親会で一泊する予定になっている。明日の朝ホテルを出て帰宅する予定なので、全く自由な時間が新幹線の中で取れる。ふと思う、何も縛られない自由な時間とは、なんと嬉しく明るい響きがあるのだろうか。そんな瞬間が時々あって、自分の今の境遇をそのまま受け入れることができる。新幹線の中でこのブログを書いても良いのだが、あいにくとポケットWi-Fiを持っていないので、インターネットに繋がらないからブログが書けない。今はクラウドに繋がらなければ何も仕事ができないようなパソコンの仕様になっているので、このブログも自宅で書いている。ブログを書く時間は、自分にとって数日間を振り返える時間でもある。昨日はこんなことがあったとか、あの時こうすれば良かったとか、ほとんどは自省することが多い。たぶんこれは日本人の特性だろう、そのことは長所でもあり短所でもある。時々これで良かったと思える時もある。実は昨日がそうだった。細かいことは書かないが、昨日は都内に出かけて事務所に行き、その後文部科学省に行って打ち合わせをし、帰宅してオンライン会議に参加した。そのこと自身に何も感慨はないが、その間にいろいろなことを振り返っている。教材でチェックした内容が間違えていなかったかと、ふと思ってもう一度チェックしたり、スポーツジムで、あの時こうすれば良かったなどと思ってみたり、古いパソコンから新しいパソコンにアプリをインストールし直す設定が間違えていなかったかなど、本当に些細なことが頭をよぎり、胸を撫で下ろしたり、不安になったりする。人の生活とは、一瞬一瞬がこのような一喜一憂することで満たされているような気がする。そしてそれが何でもなかった時に、ようやく自己を認めることができるのだろうか。新聞に、あのことはあれでよかった鳥雲に(中島徒雁)の句があった。「鳥雲(とりくも)に」は、春の季語で鳥たちが北の方に帰っていく様子を示していると、ネットに書いてあった。自分と同じように、ああすればよかったこうすればよかったと反省することもあるが、後になって考えてみれば、あれで良かったのだ、心配事は鳥たちの北帰行のように去っていくのだという思いは、作者と全く同じである。だから今は自由に羽ばたいて、今日と明日を過ごそうと思っている。「鳥雲に」の季語を初めて知ったが、良いことを教えてくれた。反省することも悔やむことも、すべて北の方に去っていき、人は自由の身になれる、だから何も心配することはないのだ。

土曜の夕方

今は土曜日の夕方、南向きの窓から見る空はまだ明るい。昼間の時間が少しずつ長くなって、春だなあと平凡ながら感じている。特に今日の気温は高く天気予報は20度だと言っているので、温かいはずである。気持ちまで明るくなって、子供のようにはしゃいでみたくなる。今週は忙しかった、子供が遠足の日を待ち焦がれるように、自分も土日を心待ちにしていた。実は来週も土日まで忙しく、今日明日の休みは自分にとっては、オアシスのような天の恵みのような楽しい2日間なのだ。ところが世の中は自分の都合の良いようにはいかず、来週を過ぎると途端に暇になる。夏が終わると急に蝉の声が聞こえなくなるように、パタンとオファーがなくなり、4月の手帳は真っ白で、職探しの浪人のような気分になる。団体の役員をしていると、企業や役所や学校の先生などとは、忙しさのパターンが違っている。大抵の人間は、忙しければ忙しさを、暇であれば暇なことを不足に思ったりするから、誠にわがままである。忙しさの合間の暇な時間はありがたく感謝できるのは、好きなことを自由にして良いからかもしれない。今日の午前中は研究的なことを、締め切りもなく調べていた、まあ趣味と同じである。お昼はお墓参りに行き、そのまま回転寿司屋で好きな寿司をつまんで帰宅した。そしてスポーツジムに行って汗をかき、帰宅してグレープフルーツを食べて生き返ったような気持ちになった。考えてみれば、これはすべて遊びのようなものである。それは楽しいに違いない。それでも誰でも不平を言ったりするから、どうも人間は始末に悪い。その点、子供はすべてを楽しんでいるような気がする。新聞に、投げ合いとなりし我が家の年の豆(宝満光保)の句があった。子供たちが、節分の豆を投げ合ってはしゃいでる姿が眼に浮かぶ。小学生の低中学年などは、どんなこともすべて遊びにしてしまう。子供に苦しいとか嫌だとか不平だとか思うのだろうかと考えると、それでも子供なりの悩みもあるだろう、だから不登校の子供たちの数が急速に増加しているのだ。子供たちに何が起きたのだろうか、自分の目には、子供たちは遊びの天才であり楽しさに囲まれていて幸せの絶頂にいるとしか見えないのだが、現実はどうもそうでもないらしい。そうするとこの世の中は、見た目では判断できないほど複雑なのだろうか、確かにそうかもしれない。蓋を開けてみれば、誰も同じかもしれない、ということは、現象そのものや表面を見ただけでは、幸せ不幸せ、喜び悲しみ、嬉しさ悩みなどは、判断できないのかもしれない。自分が嬉しいと感じればそれで良いのか、節分の豆を投げている子供にも、同じことが言えるのだろうか。大人も子供も、人の心は分からない。

直線と広がり

今日は日曜日の午前中、この時間にブログを書くのは全くの異例だが、前のブログでも書いたように、明日の月曜日から全く時間が取れないからである。考えてみればありがたい。昨日は大学入試問題模擬試験の内容をチェックしていた。別に趣味でなく仕事なのだが。いろいろなことを思った。人は意外に思考力は衰退していないようだ、人の名前とか固有名詞は驚くほど出てこないが、思考力、特に論理的な思考、多面的な見方、判断力や表現力などは、若い頃に比べてもそれほど衰えていない。判断力などは、経験の積み重ねによって、むしろ多様な視点から捉えることができるので、より深くなる。というか、いぶし銀のような、派手ではないが、味が出てくるような気がする。直線的でなく、扇のように広がっていくと言ってもよいだろう。学習指導要領でも、知識よりも思考力を育てる方向に向かっているが、その通りだとも言えるし、そうでもないとも言える。このような見方が、広がりと言ってもよい。というのは、知識の積み重ねが、判断力や思考力や表現力などを生み出すことも多いからだ。物事を直線的に一面的にとらえることは、すこし危険なところがある。あるテーマを元にした学生の議論の分析を研究をしているが、知識を持たない学生は発言できない、見通しができない、予測がでたらめになる。オンラインであるがアメリカの学会でも、同じような結果を発表していたが、考えてみれば当然のことかもしれない。そんなことは誰でも知っているのだが、その知り方は経験則なので証明されていない、だから研究する意義は存在している。ただ研究の場合は仮説を立てるので、見方が直線的になる。それ以外の可能性を捨てることになり、ある面で研究者は専門だけはよく知っているが、それ以外は全くの素人になる。それを日常生活に適用すると、少し厄介なことも生じる。文脈は離れるが新聞に、吐き捨てし言葉は悲し枯茨(飛田多恵子)の句があった。枯茨(かれいばら)とは、冬の季語で葉っぱがすべて散ってしまった棘だけの茨を示すとネットに書いてあったが、確かにその通りである。怒りに任せて捨て台詞を言った後味の悪さは、誰でも経験しているが、感情とは直線的であり、広がりのある思考からは生み出されない。別に口論したわけでもないが、新聞を読んでふと思った。今日日曜日は、午後スポーツジムに行く、それだけで楽しくなる。楽しいことは体の全てが、やさしさで満たされるのだ。広がりのある楽しい人生でありたい。

梅の花

今は木曜日の昼間、ブログを書くには変則的な時間だが、仕方がない。来週のスケジュールが極めて厳しく、ほとんど都内や地方に出かけっぱなしで、土曜日になってようやくブログを書く時間がとれる。だから週の初めのブログは来週には書けないので、苦肉の策で今週の日曜日に来週の分を書くことにした。すると今週は3回書かなければならないことから、バランスを考えると、月木日の3日間が適切なのだ。まあこんなたわいのない計算は意味がないので、自分の日々の生活のことを書こう。といってもそんなに他人に語って聞かせるほどの物語はないが、最近感じたことを、それも小さなことなのだが、そっと書いてみる。テレビ番組が面白くないので、録画して見ることが多い。最近では、ベストセラーになった白い巨塔の連続テレビ番組で、さすがに大評判になっただけあって、見る人の気持ちをしっかり掴んで、視聴者を番組の世界に入り込ませる。一昨日見た内容は、主人公の財前教授は、海外で基調講演を行い、得意絶頂の時期であったが、彼が手術をした患者が亡くなってしまう場面であった。里見助教授は、財前教授の手術に疑問を抱き、何かと患者のためを思い、さまざまな提言をするも、大学の制度の中で、それは生かされなかった。この患者は八百屋の主人であり、癌の疑いがあると里見助教授に言われて、本音では入院も手術もしたくなかったが、いろいろな悪条件が重なって最後は病院で亡くなってしまう。この番組を見てふと思う。医者とすれば癌の手術をして生きるほうが幸せだという信念なのだが、この患者はもっと八百屋の仕事を続けたかったのではないか、例え、癌で亡くなったとしても、その方が本望だったのではないかと思った。悪いところがあるから取り除く、それは誰も反対はできないが、それは本当に幸せなのだろうか、わからない。人にはそれぞれの立場があって、その中に入り込んで、善意を振り回すのはいかがなものかと思ったのだ。教師も医師も同じような信念を持って仕事をするのだろうが、それは正しいことなのかどうか、本当は分からない。新聞に、立ち位置を心得てをり梅の花(嶋田武夫)の句があった。淡い色をした小さな梅の花は、自分の立場をよく知っていて、桜のような晴れやかさではなく、そっと咲いて、人々がふと振り返って愛でる役なのだ、そんな風情がよく似合う花なのだ。人間にも同じような立場があるのではないか、自分のように歳をとってくると、自分の立場が見えてきて、スポットライトを浴びて劇場の中央に立つのではなく、脇役でよい、端のほうでそっと立っていたい。今の自分は、決して桜ではなく梅の立場である。桜の季節は過ぎたのだ。

日々の生活

今は月曜日の夕方、晴天が続いて淡い青空が静かな冬の日にふさわしい。明日の夕方は都心に出ているので、今の時間がブログを書くにはちょうどよい。昨日と一昨日は、疲れた心と体を癒すために、新幹線で温泉に行って帰ってきた。老夫婦は時に温泉が恋しくなる。ゆったりと湯船に浸かっていると、どこか浮世を忘れ、上げ膳据え膳の贅沢な食事に、日常生活とは違う豊かさを味わいたいからだ。昨日の夜帰ってきて、今日は朝から一日中、仕事に労力を使った。温泉と仕事は天と地のような差があり、今朝は朝から学校訪問かと思い、日常に戻るのに気持ちと頭が切り替わらず、海外からの時差ボケのような1テンポ遅れたような取り掛かりだった。ところが世の中は良くできていて、仕事にかかれば昨日までのことはすべて忘れさせてくれる。あれは何だったのかとふと思う。幻なのか夢なのか、などとたわいもないことを思ったりするが、一日が暮れる今の時間となると、穏やかな日常生活がこの上なく有り難く思う。いつものように朝食を取って、車で市内の学校訪問をし、戻ってオンラインの会議に出席し、さらにオンラインで打ち合わせをし、書類を作成したり原稿を書いたりして、先ほどオンラインの審査系の仕事を終えた。思えば日常生活とはなんと素晴らしいのだろうか。人は非日常に憧れ、温泉は疲れを流してくれるが、それは本当の回復する力になるのだろうか。人が生きる世界は、この日常生活である。こまごましたことの中に、困ったなと思うこともあれば、うまくいって自信を取り戻すこともある。そんな小さな出来事が自分たちの生活のすべてである。その出来事が、自分を救ってくれているのではないかとふと思った。新聞に、詠みて救はれ読みて傷つき母想ふ今日の波濤のさらに高しも(柳橋正人)の句があった。母親が詠んだ句なのか作者が詠んだ句なのか、母親がつけていた日記なのか誰かの著作なのか分からないが、今は亡き母親を思い出し、現実社会の厳しい流れに身を置きながら、これから先どのように乗り切っていこうかと、思っているのかもしれない。自分の勝手な想像なので的外れかもしれないが、人は時に立ち止まって救いを求めることがある。自分も亡くなった両親がどんな思いで生活していたのだろうと思いを馳せることもあるが、今はただ平凡な日常生活が自分を救ってくれるような気がする。温泉は癒やしてはくれるが、一時の慰めであり、儚く流れゆく夢でしかすぎない。本物の救いは、日々の生活にある。

倒れる老木

今は金曜日の夕方、外に出ると風は冷たいが、空気は春めいて少し気持ちが浮き立つようだ。自宅の小さな庭だが、あちこちに緑の葉っぱが目立つようになったが、それは雑草なのだが、それでも春の息吹を感じる。昨日までは何かと忙しかった。その理由はわかっている。対面での会議がオンラインに代わって開かれるようになって、都心に出かける回数が多くなった。この時期は事業の区切りの季節なので、夕方から懇親会というパターンになることが多い。これまではオンラインの方が良いと思っていたが、久しぶりに顔を合わせたりすると、何か話したくなって、予約してある居酒屋で祝杯をあげたりする。何か昔に戻ったような気持ちになって、あまり強くもない日本酒を飲んだりする。コロナ以前の生活に戻ったようで、オンラインでは顔を合わせているのだが、どこか懐かしさと楽しさが混じって、つい饒舌になってしまう。この年齢になると昔の話をするようになるのは致し方ないが、自分はあまり好きではない。昔は昔今は今、いつでも楽しいこと苦しいことが小さな波のようにやってくるのだ。若い頃も同じで苦しいことはほとんど忘れているので、楽しい思い出しかなく、それを語り合って今の自分の存在を確かめているのかもしれない。誰でも他人に語って聞かせたい物語を持っている。昨日も一昨日も、懇親会でそんな話を聞いた。それもいいではないか、どんな仕事もどんな人も大きかろうが小さかろうが、何かしらの自分の足跡を残して、今に至っているのだ。そんな自分を認めることが、自他共に必要なのだ。新聞に、容赦なき電動のこの轟音に従容(しょうよう)として倒る老木(黒田道子)の句があった。従容とはゆったりとした形容の言葉で、確かに老木はゆっくりと堂々と倒れていく。なるほど出来れば自分もこせこせせずに、老木のように倒れて行きたい。それは最後まで自分らしくありたいという願いであり、誰でも持っているだろう。従容として倒れる老木とは、なんとも惚れ惚れするような姿である。

偶然

今は火曜日のお昼過ぎの時間、ブログを書くには少し早いが、夕方にオンライン会議が入っているので、余裕がある今にした。少し反省がある。つまらないことだが、なんとなくブログの文章が長くなってしまい、後で自分で読んでみると冗長だなあと思ったので、今日から少し短めにする。何しろあまり見通しがなく書いているので、レポートや論文のようなきっちりした構造になっていないことをお許しいただきたい。書斎の窓から見る空は快晴そのもので雲一つなく、何か陰りはないのかと思うほど青一色に塗られている。あまりにも天気が良いので、お昼の時間にジョギングをした。それは自分の意思というより、この青空に誘われたのだ。見慣れた光景とは言え、ジョギングをするたびに見え方が違うのは何故だろう、それは、自分の心模様の反映だからだろう。今の自分の身分は非常勤なので、午前中の仕事が終ると、気が楽になって、散歩したいなとか走ってみたいなとかスポーツジムに行ってみたいなとか、どこか足の向くまま気の向くままに生きていく風来坊のような感じがする。たまたま今日は晴れで、そして走ると突風のような風が体を叩きつけて、こんな天気もあるんだと驚いた。帰宅して少し遅い昼食を取って書斎に上がると、手帳に書いてある予定していた仕事を止めて、ふと気になった資料を探した。するとハッと気が付くような内容がある。それは資料の方から目に飛び込んでくるような感じで、ジョギングと同じだと思ったのだ。つまり抜けるような青空が自分を誘って、自分の意思とは関係なく走ったことと似ている。常勤であれば気の向くままというわけにはいかず、しなければならない、という背中に背負い込むような荷物に振り回されているようだ。今の自分の非常勤のありがたさは、文字どうり重い荷物がすっかり軽くなって、表面上は物事が自然に進んでいく。自然とはそのようなものかもしれない。文脈は遠く離れるが、新聞に、偶然の積み重なってこの落葉(早坂哲夫)の句があった。落葉の積み重なりは、物理学の法則に従っているのであろうが、人間の目には単なる偶然の積み重なりに過ぎないと映る。自然現象だけでなく、人間世界の出来事も、ひょっとしたらそんな偶然の積み重なりなのかもしれない。偶然は必然ではないので、先のことはすべてわからないという結果になる。ということは、予定は未定であり、何が起きるか分からない。それは良いことも悪いことも起きてくるだろう。人は偶然の中に生きて行くしかないないのだろうか。それでも多少の因果関係はあると信じているので、毎日を努力しているのだろう。

とりあえず

今は土曜日の夕方、窓から見る空は白みがかった青空で、久しぶりの快晴の1日だった。昨日と一昨日は1日中雨降りで、時にみぞれ混じりの寒い日中だったが、今日は打って変わった天気になった。天気のせいではないが、今日は、月に一度のお墓参りをしてお昼は外食にした。自分たちの生活のこと子供や孫たちの様子などを報告すると同時に、お願い事などをしている。お線香に火をつけて拝んでいると、周囲が木々と畑で囲まれているせいか、俗世間を離れた静かな気持ちになる。そして他家のお墓さんを回って小さなピクニックのような散歩をして、駐車場に行く。そのまま行きつけの中華料理店で昼食をとった。自分は塩味のスープが好きなので野菜たっぷりタンメンで、家内は豚骨ラーメンだったが、たわいもない食事である。その後自分はスポーツジムに行って汗をかき、例のごとくプールで汗を流して、先ほど帰宅した。何とも平凡な休日であるが、休みというだけでどこか嬉しい。午前中は3ヶ月に1度の眼科クリニックに行って目薬をもらってきた。自宅から歩いて1分という近さなので、気楽に行ける。年を取ってくると何でも気楽が一番で、スーパーマーケット、コンビニ、薬屋、クリニック、電車の駅、接骨院、蕎麦屋、スポーツジムに至るまで、近いところを愛用している。午前中は平日と変わらず書斎で仕事をしたが、今日は大学入試模擬試験に似た問題の妥当性やら適合性などの自分にとっては慣れない仕事で、しかも気を使う。締め切りがあって、近づいているわけではないが、年と共に余裕がないと不安になることが多いので、朝一番と眼科クリニックから帰ってきて取り掛かった。誰でもそうなのだが、不慣れな仕事は取り掛かるまでの壁が高いから、先に延ばそうかという心と、いや今やらないと後で気が重くなるからという葛藤があって、迷うのだ。だから、とりあえずできるところからやってみようという、平凡な戦略を用いた。1問を解き2問を解いていくうちに、何かリズムに乗ってきたようで、時間を忘れた。とりあえずとはそういうことなのか、自分が、問題の中に潜んでいる黒子がいて、その黒子とやり取りしているような気がする。これは別に比喩ではなく、学問的に認められている言説である。文脈は遠く離れるが、新聞に、まだ慣れてゐないだけだよ靴擦れに絆創膏を貼るやうに言ふ(小金森まき)の句が目を引いた。旧かなづかいで書いているから、短歌に慣れている作者であろうが、気持ちはよくわかる。仕事で慣れなかったり、不手際になったり、自分はどうしてこんなにうまくいかないのか、自分には才能がないのかなどと、自己肯定感が低くなったりする時に、いやいやそうではないんだ、慣れだよ、慣れてくれば靴擦れの靴が足に合ってきて、馴染んでいくから心配ないよと、誰かが慰めてくれたり、あるいは自分自身で元気を出そうとしている短歌なのかもしれない。と解釈したが、いやそうではない、この短歌の文章通りではないのかと、ふと思った。午前中の自分の慣れない仕事であっても、とりあえず1問2問とやっていくうちに、靴に足が馴染むように、足が靴に合わせるように、自分と問題の中にいる黒子が協力しあって、ゴールに向かっていくのではないだろうか。そうすると、そのきっかけは、とりあえずやってみることなのだろう。このとりあえずという言葉は、優れた処世術を含んでいるような気がする。