今日は12月25日クリスマス、今は夕方で、もうかなり日も暮れてきたが、先ほどまで冬の夕焼けが美しく2階の窓から見とれていた。昨日の日曜日はクリスマスイブで定番のピザと唐揚げのセットを買って老夫婦2人のクリスマスを祝った。近所のピザ屋さんに頼んで午後7時過ぎに受け取りに行ったが、昨夜は冬本番とも言えるような寒さだったが、タイミングよく焼きたてのピザのようで、ことのほか美味しかった。ピザと唐揚げはよく合って、赤ワインなどであれば絵にかいたような夕食だが、家内はコカコーラ自分はウイスキーの水割りで楽しんだ。月曜日の今日の午前中は3つのオンラインでしっかり仕事をしたが、お昼は久しぶりの友人との忘年会であった。と言っても2人だけのささやかな昼食会であるが、市内の駅の近くのイタリアンの店に入った。イタリアンといってもパスタが専門の店で、小さなピザ付き野菜サラダとパスタに加えて2人で赤ワインを飲んで乾杯した。パスタと赤ワインはよく合う、昼間からワインが飲めるとはなんと贅沢なと思ったが、今日はクリスマスかと、どこかワクワクする気持ちが起きて、2階の座席から窓越しに人々がなんとなくせわしそうにしかしどことなく楽しそうに歩いている姿を眺めた。この風景はどこかで見たような感じがすると考えたら、外国では確かにこのような光景をよく目にした。ヨーロッパやアメリカでも似たような格好でワインを飲んでいたような気がする、といっても頻繁ではないが、通りに面したレストランでテーブルを出して街ゆく人々を眺めながら談笑していたが、あれは気持ちが開放するからだろう。あれはいつだったかスペインだったかイギリスだったか忘れたが、国際会議に参加して仲間と一緒にレストランに行ったら、ワールドカップのようなサッカーの試合があって、地元の人たちが大騒ぎしている光景に出会ったことがあった。そういえば、クリスマスのシーズンに仲間と一緒にドイツに調査に行ったことがあった。寒い夜だったが、レストランの近くで地元の人たちが子供も含めて大騒ぎをしている、何か祭りのような雰囲気で我々も赤ワインを買って飲んだら温かいワインだった。なるほどこれほど寒ければ飲み物も温かくするのかと感心したが、それぞれの国でそれぞれの楽しみ方があるようだ。ただ我々日本人と違って海外の人にとってクリスマスはやはり特別な日なのだ。グラス2杯といってもアルコールに弱い自分にとってはほろ酔い気分になって、心が大きくなり友人とあれこれやと昔話に興じ、まだ若かった頃の武勇談や失敗談に話が弾んで時を忘れた。若い頃は仕事に夢中で、それは研究と呼ぶにはふさわしくなく、やはり仕事なのだ。男はどうしても仕事から頭が離れない。友人や家内に話すのはそのことをどこかで共有したいからで、それで自分が自分を認めることができるからではないか。新聞に、乗客は吾のみのバス折り紙のサンタが運転席に揺れおり(大野多恵子)の句があった。多分奥さんか子供が、主人か父親の仕事の無事を願ってつけたものかもしれないが、その運転手にはお守りのようなものだろう。サンタの折り紙でもよし神様や仏様の御札でもよし、仕事をする人は誰でも支えてくれる人を求めるようだ。そしてクリスマスでもお祭りでもお正月でも何かにつけてお祝いと称して、美味しい料理と酒やワインを飲んで楽しんでいるのは、人間のしたかな生きる知恵なのだ。それほど長くもない人生ならば、くよくよせずに楽しむ方が得である。
年の瀬
今は土曜日の夕方、久しぶりにスポーツジムに行って帰宅したところである。今日はブログを書くと手帳に書いてあるので、書斎に上がってここ数日間を振り返ってみる。なぜかわからないが忙しくせわしなく、なるほど師走とはよく言ったものだと、つまらぬことを納得した。仕事の区切りをつけることが多いからだろうか、都内に出かけたり書斎でオンライン会議に出席したり書類を調べたり、何かと仕事に振り回されている。そうは言っても、自分には有難いことなのだ。明日はクリスマスイブ、それが終われば一直線に大晦日に進んで新しい年が明ける。大晦日には子どもたち孫たちが我が家にやってきて、大賑わいの数日が過ぎていく。本来は除夜の鐘を聞きながら静かに一年を振り返り、年越し蕎麦でも食べて新年を迎えるのが自分の年齢には合っているのだが、どうもそうはいかない。紅白歌合戦よりも裏番組の昔の歌謡曲でも聞きたいところだが、若い者が来ればそうもいくまい。明日は近所にあるピザ屋さんでピザを買って、老夫婦二人で静かにすごしたい、といっても日曜日なので土日はなるべくスポーツジムに行くことを自分に課しており、さらに日頃なかなかできない家の周りの整理、つまり砂利を買ってきて敷きつめる仕事などがあってそれなりに忙しい。来週は水曜日までつまり三日間は都内や市内に出かける用事が入っている。その中には少し気乗りのしない頭の痛い仕事もあるが、それでよいのだ。趣味と仕事は違うので、このぐらいでちょうどバランスが取れている。しかしこの時期は年末のテレビ特別番組が賑わうが、お笑い系や若い人たちのはしゃぎぶりにはついていけず、この頃は録画番組を見ることも多い。世の中が騒がしくなると、人はどこか静かに過ごしたくなるのか、自分を見つめたくなるのか、書斎でネット検索でもしていると心が落ち着くようだ。午前中はオンラインの打ち合わせもあったが、その他は自分の興味のある研究の関連文献を探していた。それは自分だけの孤独な作業なのだが、それなりに面白い知的活動なので静かな満足感がある。その意味では、この時期は一人で考えたり昔の事を思い出したりするような思索する活動に適している。じっくり文献を探して読んだり、哲学的な考察をしたくなるようだ。文脈から外れるが、新聞に、青鷺よお前も寡夫か白鷺の群れより離れ遠くを見つむ(藤谷明)の句があった。この作者は奥さんに先立たれた寂しい思いを抱きながら、鷺を見つめていたのだろう。スポーツジムからの帰り道、自宅のすぐ近くの小川に数羽から十羽ぐらいの鴨がいて、その鴨に混じって一羽の白い鳥がいる。その鳥が白鳥なのか白鷺なのか自分はわからないが、鳥は川の水につかって寒くはないのかとつまらぬことを思ったりする。その光景が人々の気持ちに癒しを与えてくれるのか、通りすがりの人がよくこの鳥たちの姿を眺めている。冬型の高気圧が張り出してるせいか、この頃は毎日が晴天で真っ青な空が小川の向こうに見えてうっすらと茜色の夕焼けが彩ることもある。なんときれいなと思う気持ちと、鴨と白い鳥の組み合わせがどこか寂寥感をもたらしている。この世の中は、テレビの派手な映像と書斎での静かなひと時と、自然のはっと息をのむような美しさと鴨と白い鳥が小川に佇んでいるわびしさと共存し共鳴しながら、時を刻んでいるようだ。確かに年末である。また一つ年をとるのか、楽しいような寂しいような年の瀬がやってきた。
家の暖かさ
今は、月曜日で夕方から夜にかかっているが、ひんやりとした外気が家を覆って冬の気配を感じる、といっても暖冬なのでそれほど寒くはないが、やはり書斎の中は暖かい。月曜日は新聞の俳句や短歌欄を読むのだが、それは午前中の楽しみでもある。一階にある畳の部屋がどこか似合っているようで、朝の15分程度だが読んで丸印をつけ、気に入った句を記録してこのブログで紹介している。朝刊を玄関の郵便箱から取り出して、和室で新聞を読んだりするのは、どこか風流というか昭和の時代というか、心が安らぐ。実は昨日まで出張で四国に出かけていたが、今日からは所沢の生活に戻る。外に出かけると、自宅とは違った刺激がありそれなりの緊張感と充実感が伴って、書斎での仕事とは別の感覚が湧いてくる。しかし和室で俳句や短歌を読むのも、静かな平穏な気持ちになる、つまり外が動なら内は静の世界である。こうして今パソコンに向かっているが、先ほどまで、ある教材の審査をしていた。内容は書けないが、うーんと考えながらチェックしていたが、いつの間にか時間が経ってブログを書く時間が遅くなった。それは仕事というか勉強というか見分けがつかないが、つの間にか夢中になっている自分に気が付いた。昨日の出張では最高温度が6度という寒さだっただけに、家の中の暖かさが余計に嬉しく、自分にも他人にも優しくなれる。こんな暖かい部屋で考え事をしたり調べものをしたりと振り返るだけで、自分の境遇に感謝する。多分今週から気温も下がるだろう。午前中に来年の手帳に予定を書き込んで、今は二冊の手帳を横に置いて仕事をしている。今週の日曜日はクリスマスイブとは、平凡ながらなんと月日の経つのは早いのだろうか。頭の中は年末という言葉に全く馴染みがなく絵空事のように思える。ブログを書くときには少し振り返るが、現実の時間経過と脳の認識のギャップが大きすぎて、本当に今年も終わるのかと実感できない。多分多くの人と同じ感覚だろう。明日は都内に出かけるので夕方に時間がなく、今日ブログを書いているがつつがなく過ごせるだけで良しとしなければならない。新聞に、家を出て家ふりかえる寒さかな(萩原行博)の句があった。外はもう真っ暗でこれから外に出ると思えば、たぶんこの俳句の作者と同じ心境になるだろう。ありがたいかな我が家は。
白いネギ
今は金曜の朝方で、この時刻にブログを書くことはほとんど最近ではない。もちろん夕方に書く方が良いのだが、今日は都内で仕事が色々あって帰宅してからも夕方に諸々の用事があって時間が取れない。そんなことは珍しくもないのでブログで書く必要もないが、人はなぜか状況が変わると言い訳をしたくなる。今日は理事会やら会議やらでいろいろ気を使う。多少緊張感はあるがそれが仕事の代名詞のようなもので、緊張感がなければ気楽かもしれないが、たるんだ糸で結んだようなもので会議の参加者には内容が伝わってこないだろう。理事会も同じで、自分は仕切る役割なので台本に従って司会をするが、その台本には分単位または秒単位のものもあるが、台本作りはスタッフの仕事である。自分にはできないなと、ふと感心する。どの分野にもそれぞれの専門があって見事と言うしかない仕事ぶりをする。今日の理事会もオンラインと対面とのハイブリッドで、しかも会場は事務所とは違い、赤坂の借り会議室である。ビジネスであるから借りた時間分の支払いが要求されるので、オンラインのセッティングなどに多くの時間はかけられない。機材などは事務所から持って行ってテストなどをするのだが、その時間は担当者はかなり緊張する。自分は会場に来られた理事の皆さんへの応対なのであまり緊張はしないが、確かに会議一つであってもスタッフの協力がなければできないのだ。今日の理事会はいつもとは少しプログラムが違っているので、余計に神経を使う。会議は毎回同じ訳ではなく、回や時とともに変わっていく。文脈は離れるが、数日前のテレビ番組をふと思い出した。ものまね大賞のような題名だと思うが、芸達者なタレントが歌のものまね顔つきのものまね仕草のものまねなど、すごいとしか言いようがないような内容だった。一次予選で一人だけ選ばれその人たちで決勝を行うのだが、予選で敗れたタレントたちへのインタビューがあった。誠にタレントというのは厳しい仕事だと思うが、負けた人たちへのインタビューなので答えたくないのが本音だろう。タレントたちは、残念で仕方がないが、確かに自分の芸は今一歩粗かった、選ばれた人に比べるとどこか新鮮味がなかった、やはり努力が足りなかったのだろうと、言葉少なに応えていた。なるほどプロの世界とはこのようなものか、厳しい競争に勝ってこそ初めて仕事になる世界なので、絶えず努力を重ねているが上には上がいるのだ。紙一重のような世界とは比べものにはならないが、今日の理事会の準備をしているスタッフも、それなりの緊張感を持って臨んでいるが、起きてくることはすべて新しいことなので、過去のやり方で通じるとは思っておらず、どんなアクシデントがあっても対応できるようにしている。新聞に、切る葱を飛び出す葱の白さかな(板坂寿一)の句があった。ネギを切ると生まれたばかりのように新鮮な真っ白いネギが飛び出してくる。それが我々の食欲をそそる。ものまね大賞のタレントたちの芸も同じであろう。新しいネタで新鮮でハッとするような芸であれば人はみんなそこに惹きつけられるのだが、これまでと同じであれば、人はすぐにそっぽを向いてしまう。今日の理事会は前回の理事会とは違う。全く新しい出来事なのであって、新鮮な会議ができれば理事の皆さんも来てよかったと満足されるであろうし、そうでなければ次回からは欠席しようと思うだろう。と考えればタレントも我々も、仕事という点では同じ土俵に立って戦っているのかもしれない。
篠笛
今は火曜日の午後なのだが、後一時間少しで都内に出かけなければならない用事があって、時間が空いてるのはこの時間だけなのでブログを書くことにした。今週はいろいろ忙しく、昨日も今日もまた15日も都内に出かけて用事を済ませる。だから金曜日の15日も朝にブログを書く予定になっている。できれば一息ついた夕方が筆も運びやすいのだが、世の中はそう自分の思い通りにはいかない。またそれでよいのだ。状況に応じて工夫することが仕事でもある。そして週末の土日は四国に出張があって、とてもブログは書けない。つまり今週は出かけることが多いのだ。もちろん13日14日は所沢市内の学校などに車で出かけ、その他の時間はほとんどオンラインの会議で詰まっている。今週を乗り切ると18日の来週からは少しホッとする。自分の本心は電車に乗って出かけることは億劫になっている。もう何十年も電車に乗って出かけ仕事をし帰宅するという定番のスタイルが、コロナによって突然変異のように変わった。在宅勤務オンライン会議オンラインセミナーオンライン講演オンライン理事会など体の一部のようになってきたので、電車に乗るのは違和感を覚えるのだ。特に夕方や夜に混んだ電車に乗るのはもう御免で、座席に座れれば本も読めるし少しは快適感もあるが、今のような生活パターンが自分には合っている。全体的に言えば都内での仕事から市内への仕事に変わったといってもよい。市内の仕事は学校や教育委員会などの仕事で車で出かけることができるので通勤が快適なのだ。勝った負けたとか切った張ったのような世界は政治とか企業とかには適しているが、教育にはなじまない。研究はその中間どころかもしれないが、自分の場合は教育研究なので、子供の幸せとか充実感とかが価値観になっているので、あえて言えばウェルビーイングが目的である。それは企業の営業活動や技術畑の製品開発などの仕事とは基本的な方向が異なっている。自分の最後の仕事は地元の教育にサービスをすることである。つまり地元の学校などに、これまでの自分の経験を生かし奉仕することであると信じている。今は、特にコロナ以降は、そのように活動をシフトした。それは自分にとってはピッタリ合った素晴らしい道であり満足しているので、出張とか都内での仕事とかは、言葉は適切ではないが、出稼ぎ労働とか、お呼びがあって出かけるお座敷タレントのような気がする。色々な人に会ったりいろんな仕事に出会ったりすることも刺激的で面白いが、所沢市内の教育サービスとは方向性も質的にも異なっており、今は市内に重点を置きながらバランスよく活動している。文脈は少し異なるが新聞に、人生が祭りのようなものならば最後は篠笛一本でいい(長谷川幸子)の句があった。篠笛は日本古来からある細い竹でできた笛らしいが、賑やかでもないし晴れやかでもないが惹きつけられる音色を出すようだ。自分の心境はあえて言えばこの篠笛のように、静かに穏やかに平穏でしかししっかりとした音色によって人々に安心感を与えるような存在でありたい。少しでも良いので先生方や子供達に生きる力が与えられれば、自分が生きている甲斐がある。そんな願いを込めて市内の活動を続けている。
何でもないこと
今は土曜日の夕方ほぼ午後5時なのだが、この季節では夕暮れというより夜が始まっている時刻である。土曜日でも平日と変わらない生活スタイルなのだが、土日はやはり気楽で気持ちに余裕がある。午前中は審査系の仕事に取り組んでいたが、それを中断して、たいした理由もなくパソコンの初期化をした。データファイルだけは残してwindows 10のOSのインストールをし、諸々のアプリのインストールをしたが、これにかなり時間がとられた。今日は土曜日なのでと思って、昨日の夕方に初期化のボタンを押した。その時はちょっと後悔したのだが、まあなんとかなると思って実行したが、ほぼ予定どうりなので問題は無い。しかし思えば人間のやることはどうも無駄が多いようだ。OSもアプリもすべてインストールし直して何の意味があるのだと自問自答したのだが、やはりこの方がすっきりすると思ったからである。他人に話すような理由もないのだが、相性というか一から出直した方が仕事がやりやすいと感じたからに過ぎない。人間は無駄と分かっていても、やってみないとスッキリしないことがある。その理由を言っても多分他人には理解してもらえそうもないのだが、まあそんな平凡なことをして午前中が過ぎた。午後はスポーツジムに行って汗をかきプールで汗を流した。今日の天気は秋の季語である小春日和というように暖かく昼間は20度近くあったようで、気持ちまで暖かくなる。スポーツジム行く途中に旧市役所の広場があって、大勢の赤い服姿の人たちが見えた。それはサンタクロースの姿だった。サンタの格好をした若者や子どもたちが百名以上いたと思うが、壮観な眺めであった。今日は何の日なのだと思ったが、サンタのイベントのようだ。キッチンカーや屋台も出てるし音楽も奏でているし、サンタの祭りなのだろう。そういえば去年もこんな光景を見た。老いも若きも暖かい日差しに照らされて、何ということもなく平和な時間を過ごしている。スポーツジムの帰りに通った時もまだイベントは続いているようで、くじ引きか何かで商品が当たるので盛り上がっていた。威勢の良い若い衆の祭りも楽しいが、誰かれなく赤い服を着たサンタの格好をしてぶらぶらしている祭りもどきも悪くはない。秋祭りの法被姿が赤いサンタ服になったと思えば、初冬の祭りと言って良いだろう。商店街の企画なのだろうか、あまり宣伝もしないのに、商店街の大通りは、ぶらぶらしている人でいっぱいだった。暖かい土曜日の昼下がり、子供連れでサンタ祭りに出かけるのは、若いパパやママにとっては、極上の幸せのひとときである。そんな光景を見ている自分自身も心が癒されて、なんと日本は平和なんだろうと感謝した。文脈は離れるが、新聞に、ゆく秋や裾野ひろがる目玉焼き(新井温子)の句があった。フライパンに卵を割って乗せたら、白身の裾が広がったという意味のようだが、何気ないその光景が朝食なのか昼食なのかわからないが、美味しそうな香りがして幸せな気分になる。作者の意図を推測すれば、その平和な一時が嬉しかったので、句にして残しておきたかったのではないか。自分は午前中パソコンの初期化で何でもないことなのだが何か気持ちがスッキリし、サンタ祭りに出くわして大した意味はないが何か癒された気持ちになった。人は何でもないことで、気持ちが落ち着くようだ。つまりその何でもないことが大切なのだ。
月日が過ぎていく
今は火曜日の夕方というか夜に近い。先ほどまでメールをチェックして返信をしなくてはならないメールがあって、それに戸惑っていた。簡単な返信ならよいが色々調べなければならない内容を含んでいると、それなりに時間がかかる。昨日も今日も都内での仕事があって出かけた。それは充実感があって、今自分はちゃんと社会人としての役割を果たしていると、素直に自分を認めることができるので、内心は嬉しいのだ。ただ時間がかなり取られるので、メールの返信や調べものなどは滞ってしまい、その中身も密度が薄くなって、内心もう少し丁寧な内容にしたいという気持ちが起きる。しかしそれは仕方がない。それが仕事のバランスというものだろう。今日は都心で講演をしたのでレベルで言えば深い仕事で、先ほどのメールの返信などは浅い仕事と言えよう。職業に貴賎はなしと同じように、仕事に浅いも深いもないのだということは頭の中ではわかっていても、現実には大きな差がある。総理大臣などは外から見ているとよく頑張っていると思うのだが、世間の評価は厳しく支持率は下がる一方で、新聞などで報道されるグラフを見ると、本人はどのように感じるのだろうか。一般市民には窺い知ることができないような悲しみややりきれなさがあるのではないだろうか。大臣でも凡人でも人の子、良いことがあれば喜びうまくいかなければ逃げ出したくなるような気持ちは同じだろう。自分たちのような世界でも浮き沈みがあって、感情の起伏の中で生活しているようなものである。このブログでもよく書いてるが、自分の生活はその浮き沈み、小舟に乗って大海を渡っているようなもので、波にもまれて進んでいるが、なるべく大波は来ないで欲しいと願っている。そしてなんとか向こう岸までたどり着きたいと魯を漕いでいるのかもしれないが、無事にたどり着けるかどうかは天しか知らない。それでも漕ぐのを止めてしまえば前に進まない。たまに魚が捕れて喜んでみたり、逆風が吹いて戻ってみたりという、天から見ればたどたどしい動きなのだろう。喜びも悲しみも深い仕事も浅い仕事も混じりあって、月日が過ぎていく。新聞に、トップにはガザの惨状その次に柿がうまいと報ずる国か(野老功)の句があった。そのちぐはぐな報道に違和感を読み手は覚えたのであろうが、人の生き方とはそのようなものかもしれない。大きなことも小さなことも毎日起こっている。人はまるで蟻のように、せっせとその出来事に向かって少しずつ少しずつ事を動かしているのだ。考えてみれば凡人とはどこか可愛げのある生き物である。
不安や心配事
今は土曜日の夕方、午後5時近くになると今の季節では外は真っ暗である。土曜日なのでスポーツジムに行って帰ってきたばかりで、お風呂に入る前の気楽な時間にこのブログを書いている。12月に入ってようやく冬らしい天気になり、気温も時々ぐっと下がって寒いという言葉がたまに出るようになった。ただこの気候変動はこれまで経験したことがないような暖かさで、春夏秋冬の日本ではないような気がする。こんな自然環境にいると気持ちまで揺らいでくる。春夏秋冬つまりゆっくりと気温が下がったり上がったりという変化なので、それが日本人の穏やかな性格を形作っているような気がする。スポーツジムから帰宅する時刻はまだ西空が明るく、明日も良い天気かと思うと気持ちが安らかで、日本は平和でいいなぁなどと、子供のような感覚で歩いていた。西の方角は、綿菓子のような雲が空一面に散らばって、秋らしいというか12月とは思えないような青空であった。そして茜色と黄金色のブレンドした太陽の光が、西に向かって歩く自分の顔に当たってくる。それは何と言っていいのか、お釈迦様に向かって歩いているような感じで、心が優しくなるのである。スポーツジムから自宅までおよそ15分間歩きながらいろんな過去の出来事が浮かんでくる。過去といっても昨日の出来事もあれば今日の出来事もあり、そして突然と若い頃の生活を思い出したり、脳は全く脈絡がない。振幅の小さなさざ波のように、嬉しいこともあればそうでないこともある。それは誰でも味わう平凡な出来事である。昨日は都内で仕事があって、ほぼ丸一日夢中になって取り組んでいた。帰りの電車は夕方だったので立ちっぱなしで、文字通りぐったりして帰宅したのだが、それでもどこか充実感があって密度の濃い時間を過ごした後の解放感があった。平凡だがそんな時の晩酌はことのほか美味しい。今日は土曜日だが、いつものように午前中書斎で仕事をしていたが、先に述べたように有難いと思うメールもあれば少しがっかりするという知らせもある。ただ年をとってくるとその対応が経験的に分ってきて、まあいずれなんとかなる、日にちが経てば状況も変わると思うようになる。何年か前まではそれは気休めの方法だと思っていたが、この頃は本当にその通りだと納得している。今日の夕日はまるで後光が差してるようで思わず手を合わせたくなるような光景であったが、それも自分の気持ち次第だろう。年を取ればそのような心の処世術というか、捉え方に慣れてきて、平穏な気持ちが持続するような方向に感情を少し移動させているようだ。といっても自分のような凡人にはそれほどではないのだが、これからお風呂に入って楽しい夕餉が待っていると思うだけで嬉しくなる。心配事があったらそんなことはないだろうと思うかもしれないが、ほとんどの心配事は小さなことで、自分がそのように勝手に捉えている場合が多い。文脈は離れるが、新聞に、遠くから誰かに呼ばれたそんな気が路面電車がカーブ切るとき(河野多香子)の句があった。誰にも経験がある。カーブを切る時の車輪とレールの摩擦音が、人の声のように自分に呼びかけていると思うのは、自分の脳がそのように作って感じたことに過ぎない。何か気にかかることがあれば、路面電車でなくても何でも、そのように聞こえそのように見えそのように感じるのだろう。そう思えば、ほとんどの不安や心配事などは、自分の脳の作り事かもしれない。
時に狂ってみたくあり
今日は午前中に都内で、久しぶりの対面での会議に参加し、久しぶりにお昼を外食した。外食といってもカツ丼だった。実はカツ丼やカレーライスが好きで都内に電車通勤してた時はよく食べていたが、かかりつけのお医者さんから体重を減らせという定番の指示があって、蕎麦やうどんなどの低カロリーの食事にしていたが、久しぶりに都内に出かけると、その抑止力は低下して脂っこい丼ものを食べたりする。満腹になったせいか、帰りの電車の中では読もうとしていた本を手に持ったまま、ぐっすりと寝てしまった。駅から自宅に帰る道すがら、なんとなくお腹が重いような気がして、これはいけない、運動してバランスを取ろうなどと考えた。天気も良いしジョギングには最高の日和である。ただ自分には忸怩たる思いがあった。平日でお天道様が高い時間に、呑気に遊んでいてよいのかという天の声が聞こえてくるのだ。遊んでいるわけではない、ジョギングなのだと自分に言い聞かせても、なかなか長い間の習慣は頑固で何かのいいわけがないと、堂々と走ることができない。もう年なのだから研究やら仕事やらに身を任せるのもいいが、それと同じ位かそれ以上に健康を保つことが大切だと頭で分かっていても、心の奥の方に仏頂面したもう一人の自分がいる。こんなとき人はどうするのだろうか。この前、多作でよく知られている小説家のインタビューが、新聞に掲載されていた。それほどの流行作家でありながら、午前中に2時間午後も約3時間、仕事以外に時間を費やすという。才能あふれる作家でも執筆だけに時間を集中することはできず、それ以外のこと、それはスポーツであったり散歩であったりするだろうが、そのことで自分をコントロールしていることを知って、自分のような凡人は研究や仕事以外に時間を費やすことは当然であり、そうでなければ何もできないことを納得した。長い間努力は美徳なりと思っていたが、その考えを変える必要があるかもしれない。少し文脈は離れるが、新聞に、ハローウィン時に狂ってみたくあり(出利葉孝)の句があった。そうかハローウィンで仮装するのは、悪魔のような格好をして、善人である自分を年に一度だけ破ることなのか、仮装のいわれは知らないが、なんとなく気持ちはわかる。そういえばカリフォルニア・アーバインに家内と滞在していた頃、子供達がチックオタックと自分達には聞こえたが、我が家にもやってきた。買い物に行くと店員さんが演劇の役者のような恰好で応対していた。お店は年に一度の劇場なのか、みんなその日だけ変身していたのか。自分は長い間研究や仕事を美徳として信じ続けてきたが、それだけではないのかもしれないと、価値観が変わり始めている。それは心の中に、時に狂ってみたくなるもう一人の自分がいるからかもしれない。
電化製品の寿命
今は土曜日の夕方、書斎にいてパソコンの画面に向かっている。ちょうど今スポーツジムから帰って来たばかりで、居間で少し休んで柿とみかんを食べて、二階に上がってきた。自分はこの書斎の窓から、マンションを背景にした空を眺めるのが好きだ。今の時刻だと、マンションの階段側つまり北側が見えるのだが、そこから規則正しい配列で明かりが灯っているのを見て、夕飯の支度やほっと寛ぐ家族の様子を想像している。一日の終わりでやすらぎの時間なので、机の横にあるCDプレイヤーの音楽を流している。童謡か昔のラジオ歌謡などのオーケストラ演奏なのだが、今の時刻にはよく似合っていて、今風の流行りの曲とは違うので、年配者にはこのような音楽が適している。そう言えばNHK紅白歌合戦の歌手も決まったようだが、ここ何年間か観ていない。裏番組の古い歌謡曲を聞きたいのではなく、騒がしいきらびやかな動き回る舞台に何か違和感を感じて、ドキュメンタリーかNHKの小さな旅のような静かな番組が好ましくなるからだ。なるほど自分も年を取ったのだなと思う。そう言えば長い間使っていたCDプレーヤーが壊れたので、数日前に買った。新品なので心なしか音色が良いように思えるが、多分錯覚だろう。電化製品は不思議なことに、ある年数を過ぎると正確に壊れるようにできているらしい。10月からエアコン二台と電源を使う農機具とこのプレイヤーが壊れたので、新品に変えた。当たり前だが、人間と同じように機械にも寿命がある。スポーツジムに行く前に、小さな畑の手入れをして冬に備えたが、最近少し腰が痛むようになった。畑仕事のせいか運動のせいなのか、多分年齢のせいだろうと思うが、少しずつ体の使用年数の寿命がやってきている。少しでも寿命を伸ばすには、やはり運動する方が良いだろう。脳も同じで、使わないと農機具と同じようにサビがついてきて、使い物にならなくなる。自分の感覚では、専門分野のことは時間をかければ若い頃と同じような感じで、特に劣ってくるようには思えず、むしろいぶし銀のような鋭くはないが本質を掴むような知恵がついてくるような気がする。ただ日常生活や社会の出来事など、特に人名や地名のような固有名詞は信じられないほど忘れてしまう。体の方は細胞が衰えていくのであるから、体力がなくなるのは仕方がないが、その減衰の勾配を小さくすることができると思う。まあ全体的には脳も体も少しずつ衰えていくことには変わりがない。文脈から外れるが、新聞に、大根干す狭き庭にも西ひがし(石原美枝子)の句があった。農家の風景かもしれない、太陽は少しずつ少しずつ動いてやがて沈んでいくのだが、人の生き方を映していると思えなくもない。こんな俳句に心惹かれたのは、お昼に小さな畑の仕事をしたからかもしれない。少しずつでいいから体を動かして汗をかいたり、脳を使って知的活動ができればもうそれで充分である。生きている甲斐がある。
