今は、月曜日で夕方から夜にかかっているが、ひんやりとした外気が家を覆って冬の気配を感じる、といっても暖冬なのでそれほど寒くはないが、やはり書斎の中は暖かい。月曜日は新聞の俳句や短歌欄を読むのだが、それは午前中の楽しみでもある。一階にある畳の部屋がどこか似合っているようで、朝の15分程度だが読んで丸印をつけ、気に入った句を記録してこのブログで紹介している。朝刊を玄関の郵便箱から取り出して、和室で新聞を読んだりするのは、どこか風流というか昭和の時代というか、心が安らぐ。実は昨日まで出張で四国に出かけていたが、今日からは所沢の生活に戻る。外に出かけると、自宅とは違った刺激がありそれなりの緊張感と充実感が伴って、書斎での仕事とは別の感覚が湧いてくる。しかし和室で俳句や短歌を読むのも、静かな平穏な気持ちになる、つまり外が動なら内は静の世界である。こうして今パソコンに向かっているが、先ほどまで、ある教材の審査をしていた。内容は書けないが、うーんと考えながらチェックしていたが、いつの間にか時間が経ってブログを書く時間が遅くなった。それは仕事というか勉強というか見分けがつかないが、つの間にか夢中になっている自分に気が付いた。昨日の出張では最高温度が6度という寒さだっただけに、家の中の暖かさが余計に嬉しく、自分にも他人にも優しくなれる。こんな暖かい部屋で考え事をしたり調べものをしたりと振り返るだけで、自分の境遇に感謝する。多分今週から気温も下がるだろう。午前中に来年の手帳に予定を書き込んで、今は二冊の手帳を横に置いて仕事をしている。今週の日曜日はクリスマスイブとは、平凡ながらなんと月日の経つのは早いのだろうか。頭の中は年末という言葉に全く馴染みがなく絵空事のように思える。ブログを書くときには少し振り返るが、現実の時間経過と脳の認識のギャップが大きすぎて、本当に今年も終わるのかと実感できない。多分多くの人と同じ感覚だろう。明日は都内に出かけるので夕方に時間がなく、今日ブログを書いているがつつがなく過ごせるだけで良しとしなければならない。新聞に、家を出て家ふりかえる寒さかな(萩原行博)の句があった。外はもう真っ暗でこれから外に出ると思えば、たぶんこの俳句の作者と同じ心境になるだろう。ありがたいかな我が家は。
白いネギ
今は金曜の朝方で、この時刻にブログを書くことはほとんど最近ではない。もちろん夕方に書く方が良いのだが、今日は都内で仕事が色々あって帰宅してからも夕方に諸々の用事があって時間が取れない。そんなことは珍しくもないのでブログで書く必要もないが、人はなぜか状況が変わると言い訳をしたくなる。今日は理事会やら会議やらでいろいろ気を使う。多少緊張感はあるがそれが仕事の代名詞のようなもので、緊張感がなければ気楽かもしれないが、たるんだ糸で結んだようなもので会議の参加者には内容が伝わってこないだろう。理事会も同じで、自分は仕切る役割なので台本に従って司会をするが、その台本には分単位または秒単位のものもあるが、台本作りはスタッフの仕事である。自分にはできないなと、ふと感心する。どの分野にもそれぞれの専門があって見事と言うしかない仕事ぶりをする。今日の理事会もオンラインと対面とのハイブリッドで、しかも会場は事務所とは違い、赤坂の借り会議室である。ビジネスであるから借りた時間分の支払いが要求されるので、オンラインのセッティングなどに多くの時間はかけられない。機材などは事務所から持って行ってテストなどをするのだが、その時間は担当者はかなり緊張する。自分は会場に来られた理事の皆さんへの応対なのであまり緊張はしないが、確かに会議一つであってもスタッフの協力がなければできないのだ。今日の理事会はいつもとは少しプログラムが違っているので、余計に神経を使う。会議は毎回同じ訳ではなく、回や時とともに変わっていく。文脈は離れるが、数日前のテレビ番組をふと思い出した。ものまね大賞のような題名だと思うが、芸達者なタレントが歌のものまね顔つきのものまね仕草のものまねなど、すごいとしか言いようがないような内容だった。一次予選で一人だけ選ばれその人たちで決勝を行うのだが、予選で敗れたタレントたちへのインタビューがあった。誠にタレントというのは厳しい仕事だと思うが、負けた人たちへのインタビューなので答えたくないのが本音だろう。タレントたちは、残念で仕方がないが、確かに自分の芸は今一歩粗かった、選ばれた人に比べるとどこか新鮮味がなかった、やはり努力が足りなかったのだろうと、言葉少なに応えていた。なるほどプロの世界とはこのようなものか、厳しい競争に勝ってこそ初めて仕事になる世界なので、絶えず努力を重ねているが上には上がいるのだ。紙一重のような世界とは比べものにはならないが、今日の理事会の準備をしているスタッフも、それなりの緊張感を持って臨んでいるが、起きてくることはすべて新しいことなので、過去のやり方で通じるとは思っておらず、どんなアクシデントがあっても対応できるようにしている。新聞に、切る葱を飛び出す葱の白さかな(板坂寿一)の句があった。ネギを切ると生まれたばかりのように新鮮な真っ白いネギが飛び出してくる。それが我々の食欲をそそる。ものまね大賞のタレントたちの芸も同じであろう。新しいネタで新鮮でハッとするような芸であれば人はみんなそこに惹きつけられるのだが、これまでと同じであれば、人はすぐにそっぽを向いてしまう。今日の理事会は前回の理事会とは違う。全く新しい出来事なのであって、新鮮な会議ができれば理事の皆さんも来てよかったと満足されるであろうし、そうでなければ次回からは欠席しようと思うだろう。と考えればタレントも我々も、仕事という点では同じ土俵に立って戦っているのかもしれない。
篠笛
今は火曜日の午後なのだが、後一時間少しで都内に出かけなければならない用事があって、時間が空いてるのはこの時間だけなのでブログを書くことにした。今週はいろいろ忙しく、昨日も今日もまた15日も都内に出かけて用事を済ませる。だから金曜日の15日も朝にブログを書く予定になっている。できれば一息ついた夕方が筆も運びやすいのだが、世の中はそう自分の思い通りにはいかない。またそれでよいのだ。状況に応じて工夫することが仕事でもある。そして週末の土日は四国に出張があって、とてもブログは書けない。つまり今週は出かけることが多いのだ。もちろん13日14日は所沢市内の学校などに車で出かけ、その他の時間はほとんどオンラインの会議で詰まっている。今週を乗り切ると18日の来週からは少しホッとする。自分の本心は電車に乗って出かけることは億劫になっている。もう何十年も電車に乗って出かけ仕事をし帰宅するという定番のスタイルが、コロナによって突然変異のように変わった。在宅勤務オンライン会議オンラインセミナーオンライン講演オンライン理事会など体の一部のようになってきたので、電車に乗るのは違和感を覚えるのだ。特に夕方や夜に混んだ電車に乗るのはもう御免で、座席に座れれば本も読めるし少しは快適感もあるが、今のような生活パターンが自分には合っている。全体的に言えば都内での仕事から市内への仕事に変わったといってもよい。市内の仕事は学校や教育委員会などの仕事で車で出かけることができるので通勤が快適なのだ。勝った負けたとか切った張ったのような世界は政治とか企業とかには適しているが、教育にはなじまない。研究はその中間どころかもしれないが、自分の場合は教育研究なので、子供の幸せとか充実感とかが価値観になっているので、あえて言えばウェルビーイングが目的である。それは企業の営業活動や技術畑の製品開発などの仕事とは基本的な方向が異なっている。自分の最後の仕事は地元の教育にサービスをすることである。つまり地元の学校などに、これまでの自分の経験を生かし奉仕することであると信じている。今は、特にコロナ以降は、そのように活動をシフトした。それは自分にとってはピッタリ合った素晴らしい道であり満足しているので、出張とか都内での仕事とかは、言葉は適切ではないが、出稼ぎ労働とか、お呼びがあって出かけるお座敷タレントのような気がする。色々な人に会ったりいろんな仕事に出会ったりすることも刺激的で面白いが、所沢市内の教育サービスとは方向性も質的にも異なっており、今は市内に重点を置きながらバランスよく活動している。文脈は少し異なるが新聞に、人生が祭りのようなものならば最後は篠笛一本でいい(長谷川幸子)の句があった。篠笛は日本古来からある細い竹でできた笛らしいが、賑やかでもないし晴れやかでもないが惹きつけられる音色を出すようだ。自分の心境はあえて言えばこの篠笛のように、静かに穏やかに平穏でしかししっかりとした音色によって人々に安心感を与えるような存在でありたい。少しでも良いので先生方や子供達に生きる力が与えられれば、自分が生きている甲斐がある。そんな願いを込めて市内の活動を続けている。
何でもないこと
今は土曜日の夕方ほぼ午後5時なのだが、この季節では夕暮れというより夜が始まっている時刻である。土曜日でも平日と変わらない生活スタイルなのだが、土日はやはり気楽で気持ちに余裕がある。午前中は審査系の仕事に取り組んでいたが、それを中断して、たいした理由もなくパソコンの初期化をした。データファイルだけは残してwindows 10のOSのインストールをし、諸々のアプリのインストールをしたが、これにかなり時間がとられた。今日は土曜日なのでと思って、昨日の夕方に初期化のボタンを押した。その時はちょっと後悔したのだが、まあなんとかなると思って実行したが、ほぼ予定どうりなので問題は無い。しかし思えば人間のやることはどうも無駄が多いようだ。OSもアプリもすべてインストールし直して何の意味があるのだと自問自答したのだが、やはりこの方がすっきりすると思ったからである。他人に話すような理由もないのだが、相性というか一から出直した方が仕事がやりやすいと感じたからに過ぎない。人間は無駄と分かっていても、やってみないとスッキリしないことがある。その理由を言っても多分他人には理解してもらえそうもないのだが、まあそんな平凡なことをして午前中が過ぎた。午後はスポーツジムに行って汗をかきプールで汗を流した。今日の天気は秋の季語である小春日和というように暖かく昼間は20度近くあったようで、気持ちまで暖かくなる。スポーツジム行く途中に旧市役所の広場があって、大勢の赤い服姿の人たちが見えた。それはサンタクロースの姿だった。サンタの格好をした若者や子どもたちが百名以上いたと思うが、壮観な眺めであった。今日は何の日なのだと思ったが、サンタのイベントのようだ。キッチンカーや屋台も出てるし音楽も奏でているし、サンタの祭りなのだろう。そういえば去年もこんな光景を見た。老いも若きも暖かい日差しに照らされて、何ということもなく平和な時間を過ごしている。スポーツジムの帰りに通った時もまだイベントは続いているようで、くじ引きか何かで商品が当たるので盛り上がっていた。威勢の良い若い衆の祭りも楽しいが、誰かれなく赤い服を着たサンタの格好をしてぶらぶらしている祭りもどきも悪くはない。秋祭りの法被姿が赤いサンタ服になったと思えば、初冬の祭りと言って良いだろう。商店街の企画なのだろうか、あまり宣伝もしないのに、商店街の大通りは、ぶらぶらしている人でいっぱいだった。暖かい土曜日の昼下がり、子供連れでサンタ祭りに出かけるのは、若いパパやママにとっては、極上の幸せのひとときである。そんな光景を見ている自分自身も心が癒されて、なんと日本は平和なんだろうと感謝した。文脈は離れるが、新聞に、ゆく秋や裾野ひろがる目玉焼き(新井温子)の句があった。フライパンに卵を割って乗せたら、白身の裾が広がったという意味のようだが、何気ないその光景が朝食なのか昼食なのかわからないが、美味しそうな香りがして幸せな気分になる。作者の意図を推測すれば、その平和な一時が嬉しかったので、句にして残しておきたかったのではないか。自分は午前中パソコンの初期化で何でもないことなのだが何か気持ちがスッキリし、サンタ祭りに出くわして大した意味はないが何か癒された気持ちになった。人は何でもないことで、気持ちが落ち着くようだ。つまりその何でもないことが大切なのだ。
月日が過ぎていく
今は火曜日の夕方というか夜に近い。先ほどまでメールをチェックして返信をしなくてはならないメールがあって、それに戸惑っていた。簡単な返信ならよいが色々調べなければならない内容を含んでいると、それなりに時間がかかる。昨日も今日も都内での仕事があって出かけた。それは充実感があって、今自分はちゃんと社会人としての役割を果たしていると、素直に自分を認めることができるので、内心は嬉しいのだ。ただ時間がかなり取られるので、メールの返信や調べものなどは滞ってしまい、その中身も密度が薄くなって、内心もう少し丁寧な内容にしたいという気持ちが起きる。しかしそれは仕方がない。それが仕事のバランスというものだろう。今日は都心で講演をしたのでレベルで言えば深い仕事で、先ほどのメールの返信などは浅い仕事と言えよう。職業に貴賎はなしと同じように、仕事に浅いも深いもないのだということは頭の中ではわかっていても、現実には大きな差がある。総理大臣などは外から見ているとよく頑張っていると思うのだが、世間の評価は厳しく支持率は下がる一方で、新聞などで報道されるグラフを見ると、本人はどのように感じるのだろうか。一般市民には窺い知ることができないような悲しみややりきれなさがあるのではないだろうか。大臣でも凡人でも人の子、良いことがあれば喜びうまくいかなければ逃げ出したくなるような気持ちは同じだろう。自分たちのような世界でも浮き沈みがあって、感情の起伏の中で生活しているようなものである。このブログでもよく書いてるが、自分の生活はその浮き沈み、小舟に乗って大海を渡っているようなもので、波にもまれて進んでいるが、なるべく大波は来ないで欲しいと願っている。そしてなんとか向こう岸までたどり着きたいと魯を漕いでいるのかもしれないが、無事にたどり着けるかどうかは天しか知らない。それでも漕ぐのを止めてしまえば前に進まない。たまに魚が捕れて喜んでみたり、逆風が吹いて戻ってみたりという、天から見ればたどたどしい動きなのだろう。喜びも悲しみも深い仕事も浅い仕事も混じりあって、月日が過ぎていく。新聞に、トップにはガザの惨状その次に柿がうまいと報ずる国か(野老功)の句があった。そのちぐはぐな報道に違和感を読み手は覚えたのであろうが、人の生き方とはそのようなものかもしれない。大きなことも小さなことも毎日起こっている。人はまるで蟻のように、せっせとその出来事に向かって少しずつ少しずつ事を動かしているのだ。考えてみれば凡人とはどこか可愛げのある生き物である。
不安や心配事
今は土曜日の夕方、午後5時近くになると今の季節では外は真っ暗である。土曜日なのでスポーツジムに行って帰ってきたばかりで、お風呂に入る前の気楽な時間にこのブログを書いている。12月に入ってようやく冬らしい天気になり、気温も時々ぐっと下がって寒いという言葉がたまに出るようになった。ただこの気候変動はこれまで経験したことがないような暖かさで、春夏秋冬の日本ではないような気がする。こんな自然環境にいると気持ちまで揺らいでくる。春夏秋冬つまりゆっくりと気温が下がったり上がったりという変化なので、それが日本人の穏やかな性格を形作っているような気がする。スポーツジムから帰宅する時刻はまだ西空が明るく、明日も良い天気かと思うと気持ちが安らかで、日本は平和でいいなぁなどと、子供のような感覚で歩いていた。西の方角は、綿菓子のような雲が空一面に散らばって、秋らしいというか12月とは思えないような青空であった。そして茜色と黄金色のブレンドした太陽の光が、西に向かって歩く自分の顔に当たってくる。それは何と言っていいのか、お釈迦様に向かって歩いているような感じで、心が優しくなるのである。スポーツジムから自宅までおよそ15分間歩きながらいろんな過去の出来事が浮かんでくる。過去といっても昨日の出来事もあれば今日の出来事もあり、そして突然と若い頃の生活を思い出したり、脳は全く脈絡がない。振幅の小さなさざ波のように、嬉しいこともあればそうでないこともある。それは誰でも味わう平凡な出来事である。昨日は都内で仕事があって、ほぼ丸一日夢中になって取り組んでいた。帰りの電車は夕方だったので立ちっぱなしで、文字通りぐったりして帰宅したのだが、それでもどこか充実感があって密度の濃い時間を過ごした後の解放感があった。平凡だがそんな時の晩酌はことのほか美味しい。今日は土曜日だが、いつものように午前中書斎で仕事をしていたが、先に述べたように有難いと思うメールもあれば少しがっかりするという知らせもある。ただ年をとってくるとその対応が経験的に分ってきて、まあいずれなんとかなる、日にちが経てば状況も変わると思うようになる。何年か前まではそれは気休めの方法だと思っていたが、この頃は本当にその通りだと納得している。今日の夕日はまるで後光が差してるようで思わず手を合わせたくなるような光景であったが、それも自分の気持ち次第だろう。年を取ればそのような心の処世術というか、捉え方に慣れてきて、平穏な気持ちが持続するような方向に感情を少し移動させているようだ。といっても自分のような凡人にはそれほどではないのだが、これからお風呂に入って楽しい夕餉が待っていると思うだけで嬉しくなる。心配事があったらそんなことはないだろうと思うかもしれないが、ほとんどの心配事は小さなことで、自分がそのように勝手に捉えている場合が多い。文脈は離れるが、新聞に、遠くから誰かに呼ばれたそんな気が路面電車がカーブ切るとき(河野多香子)の句があった。誰にも経験がある。カーブを切る時の車輪とレールの摩擦音が、人の声のように自分に呼びかけていると思うのは、自分の脳がそのように作って感じたことに過ぎない。何か気にかかることがあれば、路面電車でなくても何でも、そのように聞こえそのように見えそのように感じるのだろう。そう思えば、ほとんどの不安や心配事などは、自分の脳の作り事かもしれない。
時に狂ってみたくあり
今日は午前中に都内で、久しぶりの対面での会議に参加し、久しぶりにお昼を外食した。外食といってもカツ丼だった。実はカツ丼やカレーライスが好きで都内に電車通勤してた時はよく食べていたが、かかりつけのお医者さんから体重を減らせという定番の指示があって、蕎麦やうどんなどの低カロリーの食事にしていたが、久しぶりに都内に出かけると、その抑止力は低下して脂っこい丼ものを食べたりする。満腹になったせいか、帰りの電車の中では読もうとしていた本を手に持ったまま、ぐっすりと寝てしまった。駅から自宅に帰る道すがら、なんとなくお腹が重いような気がして、これはいけない、運動してバランスを取ろうなどと考えた。天気も良いしジョギングには最高の日和である。ただ自分には忸怩たる思いがあった。平日でお天道様が高い時間に、呑気に遊んでいてよいのかという天の声が聞こえてくるのだ。遊んでいるわけではない、ジョギングなのだと自分に言い聞かせても、なかなか長い間の習慣は頑固で何かのいいわけがないと、堂々と走ることができない。もう年なのだから研究やら仕事やらに身を任せるのもいいが、それと同じ位かそれ以上に健康を保つことが大切だと頭で分かっていても、心の奥の方に仏頂面したもう一人の自分がいる。こんなとき人はどうするのだろうか。この前、多作でよく知られている小説家のインタビューが、新聞に掲載されていた。それほどの流行作家でありながら、午前中に2時間午後も約3時間、仕事以外に時間を費やすという。才能あふれる作家でも執筆だけに時間を集中することはできず、それ以外のこと、それはスポーツであったり散歩であったりするだろうが、そのことで自分をコントロールしていることを知って、自分のような凡人は研究や仕事以外に時間を費やすことは当然であり、そうでなければ何もできないことを納得した。長い間努力は美徳なりと思っていたが、その考えを変える必要があるかもしれない。少し文脈は離れるが、新聞に、ハローウィン時に狂ってみたくあり(出利葉孝)の句があった。そうかハローウィンで仮装するのは、悪魔のような格好をして、善人である自分を年に一度だけ破ることなのか、仮装のいわれは知らないが、なんとなく気持ちはわかる。そういえばカリフォルニア・アーバインに家内と滞在していた頃、子供達がチックオタックと自分達には聞こえたが、我が家にもやってきた。買い物に行くと店員さんが演劇の役者のような恰好で応対していた。お店は年に一度の劇場なのか、みんなその日だけ変身していたのか。自分は長い間研究や仕事を美徳として信じ続けてきたが、それだけではないのかもしれないと、価値観が変わり始めている。それは心の中に、時に狂ってみたくなるもう一人の自分がいるからかもしれない。
電化製品の寿命
今は土曜日の夕方、書斎にいてパソコンの画面に向かっている。ちょうど今スポーツジムから帰って来たばかりで、居間で少し休んで柿とみかんを食べて、二階に上がってきた。自分はこの書斎の窓から、マンションを背景にした空を眺めるのが好きだ。今の時刻だと、マンションの階段側つまり北側が見えるのだが、そこから規則正しい配列で明かりが灯っているのを見て、夕飯の支度やほっと寛ぐ家族の様子を想像している。一日の終わりでやすらぎの時間なので、机の横にあるCDプレイヤーの音楽を流している。童謡か昔のラジオ歌謡などのオーケストラ演奏なのだが、今の時刻にはよく似合っていて、今風の流行りの曲とは違うので、年配者にはこのような音楽が適している。そう言えばNHK紅白歌合戦の歌手も決まったようだが、ここ何年間か観ていない。裏番組の古い歌謡曲を聞きたいのではなく、騒がしいきらびやかな動き回る舞台に何か違和感を感じて、ドキュメンタリーかNHKの小さな旅のような静かな番組が好ましくなるからだ。なるほど自分も年を取ったのだなと思う。そう言えば長い間使っていたCDプレーヤーが壊れたので、数日前に買った。新品なので心なしか音色が良いように思えるが、多分錯覚だろう。電化製品は不思議なことに、ある年数を過ぎると正確に壊れるようにできているらしい。10月からエアコン二台と電源を使う農機具とこのプレイヤーが壊れたので、新品に変えた。当たり前だが、人間と同じように機械にも寿命がある。スポーツジムに行く前に、小さな畑の手入れをして冬に備えたが、最近少し腰が痛むようになった。畑仕事のせいか運動のせいなのか、多分年齢のせいだろうと思うが、少しずつ体の使用年数の寿命がやってきている。少しでも寿命を伸ばすには、やはり運動する方が良いだろう。脳も同じで、使わないと農機具と同じようにサビがついてきて、使い物にならなくなる。自分の感覚では、専門分野のことは時間をかければ若い頃と同じような感じで、特に劣ってくるようには思えず、むしろいぶし銀のような鋭くはないが本質を掴むような知恵がついてくるような気がする。ただ日常生活や社会の出来事など、特に人名や地名のような固有名詞は信じられないほど忘れてしまう。体の方は細胞が衰えていくのであるから、体力がなくなるのは仕方がないが、その減衰の勾配を小さくすることができると思う。まあ全体的には脳も体も少しずつ衰えていくことには変わりがない。文脈から外れるが、新聞に、大根干す狭き庭にも西ひがし(石原美枝子)の句があった。農家の風景かもしれない、太陽は少しずつ少しずつ動いてやがて沈んでいくのだが、人の生き方を映していると思えなくもない。こんな俳句に心惹かれたのは、お昼に小さな畑の仕事をしたからかもしれない。少しずつでいいから体を動かして汗をかいたり、脳を使って知的活動ができればもうそれで充分である。生きている甲斐がある。
プロの将棋
今日は火曜日、手帳に予定を入れているがブログを書く日である。書斎の窓から見える空はもう真っ暗で、午後5時になると夜である。先ほど市役所にある教育委員会の会議室から自宅に戻って、庭の仕事を30分ほどして書斎に入り気になっているメールをチェックして、ようやくブログを書く時間になった。仕事をしているとメールに気がかりなことも多くある。自分の癖なのか、メールを送信した後で後悔することが多いのだ。現役の頃は、よく家内に、あなたは反省病だと言われていた。後になって、あーすればよかったこうすればよかったと悔やむので、他人から見ればほとんど意味のない嘆き節なのである。これも癖なので仕方がない、しかし気になっているのでメールを読まざるを得ない。先ほどもそれが自分の取り越し苦労で杞憂であったことが分かって、子供のように嬉しくなった。人はいくつになっても悔やんだり喜んだり、なんと忙しい感情の起伏を渡り歩いているのだろうか。こんなことはもう卒業したいと思いながらも、人はそう簡単には悟れない。ふと一昨日の日曜日の夕方に見たビデオを思い出した。日曜日だけは、お風呂に入る前にNHK杯の将棋の録画ビデオを見ることにしている。自分とすれば日曜日ぐらいという気楽さと気ままな観戦の楽しさがあって、週一回の趣味の時間になっている。囲碁の番組でも良いのだが、藤井八冠の影響なのか子供の頃に夢中になったノスタルジアがあるのか、将棋の録画を見る。一昨日は羽生九段と豊島九段の対戦だった。久しぶりにハラハラドキドキ、手に汗を握るとはこのことかと思いながら、一時間半を夢中になった。特にAIの予測手が表示されてその凄さに舌を巻く。この時は千日手になって再戦したのだが、一手30秒以内というギリギリの状況の中で、両棋士とも最善手を次々に繰り出していた。羽生さんも豊島さんも名人の経験者であるからそのレベルの高さは言うまでもない。印象的だったのは羽生さんの駒の指し方であった。序盤から中盤にかけてどちらとも優勢が分からない間は、羽生さんはきれいな手つきで優雅としか言いようがない指方をしていた。ところが終盤の勝つか負けるか紙一重の局面になって、羽生さんの手は震え駒が震えた。あの羽生さんでさえも、と考えると人智の極限まで達してもがき苦しんでいたのか、なんと壮絶な仕事なのだろうか、一手間違えば負けなのだから、自分のようにあの時こうすればよかったなどの後悔はできないのだ、やり直しができない世界なのである。文脈は離れるが、新聞に、原爆資料館を出でて泣きたる外国の少女を見ればわれも泣きたり(古山智子)の句があった。たぶんこの作者は、外国の少女の気持ちに共鳴し、その気持ちに心が動かされて、思わず涙が出たのだろう。自分と羽生さんでは天と地ほどの差はあるが、ギリギリの崖っぷちに立って最善手を指そうとするプロの気迫に心が打たれ、終わった後感動が残った。勝負の世界は厳しく一切の妥協はなく、それが見る人の心を動かすのである。
贅沢な生き方
今は土曜日の夕方、ほぼ今日も終わりの時刻である。特に筆記することもなく特別なイベントもないが、それは平穏無事で幸せな生活の代名詞である。特別ではないということは、いつもの通りで土曜日であっても平日と変わらず、午前中は書斎で仕事をし午後はスポーツジムに行って汗をかき、先ほど帰宅してみかんなどを食べて喉を潤し、そして今パソコンの画面に向かっている。何事もない静かな生活が今の自分にはこの上無く有難いと思う。もちろん生きていれば多少の凸凹はある、メールを見ればこれは少し困ったとか、仕事をすればここは時間が足らないとか、誰でも経験する小さな不幸はある。それはプールで泳いだりジョギングをしたりすれば、すぐに忘れてしまうほどの些細な出来事である。例えばパソコンの調子が悪く何故か文字変換がうまくいかなかったり、これはウイルスにかかったのかなどと心配したりすることもある。そんなことでもなかなか原因が分からず無駄な時間がとられて気が滅入る。あるいは昨日は夕方都内に出かける用事があり、電車の時刻表を書いたメモを居間に置いていたのだが、自宅から駅まで行く時間をうっかり忘れていた。このメモを信用していたら会合に遅刻することになると思って、ぞっとした。そしてふと考えた。もの忘れや何か気がかりなことやパソコンのトラブルなどがあると、どうも自分の年齢のせいではないかと疑う。時間の計算などは、うっかりミスとは言え思考力が低下してきたかもしれず、パソコンのトラブルも考えてみれば原因を推測する論理力が弱ってきたかもしれないなどと、多少の因果関係を推測した。少しずつ少しずつ身体も脳の働きも心の動きも低下してきているのだろうか。しかしそれはおかしなことではなく自然現象である。そのことを意識しているのか、午前中はデスクワークで頭を使い、午後は今日はスポーツジム昨日はジョギングをして筋力や体力を維持しようとしている。心の健康はなるべく心配しないように心がけているが、効果のほどは頼りない。昨日のジョギングは西方向の公園に出かけたが、そこに老人ホームがある。不思議なことだが、老人ホームから外に出てくるお年寄りの姿を見たことがない。これは寂しい生き方だな、まるで部屋の中に閉じ込められているようだ、公園に出してあげれば幼児や子供たちとも会話ができるのになどと思った。自分もやがて老人ホームに入るのだろうか、その気持ちは今の自分には全くわからない。新聞に、緑濃き老人ホームの決め手には娘の家の灯が見えしこと(通力紅)の句があった。気持ちはよくわかる、娘さんの家の灯りが見えればどんなにか心丈夫だろうか考えれば、施設に入るお年寄りは孤独と戦っているのかもしれない。自分は平凡な毎日を送っているが、それはこの上無い贅沢な生き方であり、多少の凸凹はあっても決して不満など言えないし口に出すこともしない。本当に有難いと感謝する。年を取るにつれて、有難いという言葉が常用語になってきた。
