今日は土曜日の夕方、昼間の真夏のような暑さが少しやわらぎ、暖かい春か初夏のような日差しと風が吹いている。大型連休真っ只中で、日本全国の大人も子供も、平和な数日を過ごしているにちがいない。例年なら子供たちと孫たちが我が家にやってくるのだが、今年はいろんな事情で老夫婦二人だけの連休になった。中学生ともなると部活がこの連休中にあってすべてつぶれるという事情なのだが、なるほど先生方も忙しいはずだ、働き方改革はぜひ実施してもらいたいと思う。というわけで今年は車で近隣のテーマパークに老夫婦だけで行った。と言っても遊ぶわけではなく、名物のソーセージを食べ夕食用に買って来ただけである。自分はスポーツジムに行って運動をして、先ほど帰宅したのだが、平日とあまり変わらない生活パターンなのだ。例年やってくる孫たちが来ないので、家内も心配になってLINEで問い合わせたら、小学生は友達や親と遊び、中学生は部活で忙しく、その一人は体調が悪くてどこも行けず家に居ると言う。家内は心配でLINEでやり取りしていたが、大丈夫だよありがとうという短い返信に安心したようだ。それを見て、ふと数日前にあった中学校の公開授業に参加した時の国語の授業を思い出した。それはある文学作品を読んで、登場人物の心情を読み取る単元であった。自分は理系出身だからか、このような曖昧でどうにでも解釈できる学習は苦手であった、というより今でも苦手である。心情を読み取るとはどういうことなのだろうか、どうしてそれができるのだろうか、それがなぜ教科書に掲載されているのだろうか、という単純な問いの答えがわからないのである。その時天啓のように、ある詩を思い出した。それはその中学校から毎月送られてくる学校だよりの中で引用された詩だった。「確かに心は誰にも見えないけれど心遣いは見えるのだ、それは人に対する積極的な行為だから。胸の中の思いは見えないけれど思いやりは誰にでも見える、それは人に対する積極的な行為なのだから」(宮澤章二)。そうかそうなのだ、心情は必ず表に出てくるものなのだ、例え、それがどんな形であれ、この詩のように行為として表出される。それは文章であれ話し方であれ仕草であれ、形式は問わないだろう。だから家内が孫からのLINEの言葉を見て安心したのは、なるほど気持ちや心を読み取ったからである。LINEの言葉で何がわかると言われるかもしれないが、行間にそれが現れるのだ。それは自分の感想や思い込みではなく、国際的なジャーナルに根拠となる実験結果を載せた論文がある。人の心遣いも思いやりも優しさもすべて形となって周囲に伝わっているとすれば、自分ももっと心を磨く必要があるだろう。この世の中は優しさだけでは生きていけない時もあるだろうが、できないとは思いつつ、そう願って生きていたいと思う。
春愁
今は火曜日の夕方、というより連休明けの初日と言った方が、今の気持ちを表すだろう。連休明けは子供も大人も、どこかけだるく物憂いような腰が引けているような感じがするのは、全国の誰でも同じだろう。連休もどこにも行かないで書斎で仕事をすれば平日と変わらないと思っても、脳のどこかの部位が、いやそれは違うと、反対しているような気がする。やはりどこかリラックスしているのだろう。ところが今朝、仕事のため車に乗って市内に出かけたら、なぜか大渋滞に巻き込まれ時間がかかってしまった。連休明けからついてないなあと思っても、どうにもならない。ゆったりとした気分でいたら、いきなり嫌味を言われたような気がして、仕事とはこういうものかと自分を慰めた。今日はいろいろ忙しく、それなりに仕事を片付けていった。そうこうしていると、昨日までの連休のことはすっかり頭から抜けていった。人間の脳のキャパシティは小さいから、連休のことと平日の仕事を同時に処理することができないので、脳が仕事一色に塗られたようだ。それはリズミカルなモードになって、ゆったりモードはどこかに行ってしまった。それでよいのだろう。ただ連休明けの初日に感じる感覚は、多分人によって違うだろう。ゆったりモードがなかなか抜けきれず、仕事モードになりきれない人は、両方が重なって少し物憂い感じになるのだろう。文脈は離れるが新聞に、補色混ぜ灰色となり春愁(飯島加津枝)の句があった。連休明けの初日は、多分この俳句のように補色が混じったようなものだろう。その色は白から黒までのグラデーションがあるから、それでその時の気分が表されているかもしれない。できれば白く光った気持ちでいたい。話はそれるが、物理学によれば絵の具などの色の三原色を混ぜると黒色になるが、光の三原色は白になる。人の生き方は、できれば色ではなく光でいたい。光なら自らが輝いて周囲に明るい気持ちをばらまき、逆に色であれば何も光を発することはなく暗い気持ちになる。誰でも思う、どうしたら光になれるのか、どうしたら自ら輝いておれるのか、分かったら教えてほしい。新聞は月曜日に歌壇欄があるので、この句は昨日の新聞から引いた。作者はたぶん別の文脈で詠んだとは思うが、春愁とはなるほど色の補色の関係なのだと思った時、少し謎が解けたような気がした。俳句は素人だが春愁は語数から考えて多分、はるうれい、と読むのだろう。
土曜の夕方
今は土曜日の夕方、連休の初日であるが、今の自分にはそのような感覚はあまりない。サンデー毎日という言葉があるが、自分にはあまり当てはまらず、手帳を見るとそれなりに毎日が埋まっている。3月の終わり頃は、4月の手帳がこんなに真っ白だとどうなるのだろうと不安に思ったが、世の中は動いていて、時が来ればそれなりの用事が出てくるようだ。今の自分の身はフリーランスだから、オファーが来れば仕事をし、そうでなければ自分で計画した、いわば好き勝手な仕事をしている。それはまあ趣味のようなものだから仕事と言っていいのかどうか分からないが、現実はそのバランスが大切だと思う。外からのリクエストに応じて仕事をする、例えば今日も、どさっと分厚い書類が届いた。それは審査系の仕事で、締切日が決められている。これに対して、興味があって対話論の文献を読んでいたが、それは自分の資料作りに必要だからである。人は趣味だけでは生きていけないし、生きがいのような仕事がなければ、これもまた虚しくなる。人間とは、誠に贅沢な生き物である。世の中の人は、誰でもそんなふうに感じているのではないだろうか。今日は連休の初日で土曜日なので、スポーツジムに行く予定だったが、外からの仕事で時間が取れず、その代わりジョギングをして、先ほど帰宅したところだ。気温はそれなりに高いが、日差しがなくゆっくり走るにはちょうどよい天気だった。仕事が一段落ついたところで、西の公園の方向にジョギングをしていたら、親子連れも幼子も子供たちも、キャッチボールやサッカーなどに興じて楽しそうだった。自分も歩幅を小さくし時間をかけてゆったりとその光景を見ながら、走った。確かに今日は大型連休の初日だ、子供も大人も年寄りも皆この日を楽しんでいるのか、子供は勉強や宿題のことを忘れ、大人は仕事の憂さを忘れ、ただ春の夕方に身を任せて漂っているようだ。大渋滞する高速道路に車を走らせるよりも、こんなゆったりとした時間の過ごし方の方が、心は穏やかになるだろう。自分も、なんとなく春の一時をゆったりとした気持ちで走ってるような散歩してるような、そしてどことなく物憂さを覚えながらジョギングをしていた。新聞に、自転車を押して帰るや春夕焼(はるゆやけ)(山本亨)の句があった。作者は自転車に乗って用事を済ませ帰宅途中だろうが、あまりにも美しい夕焼けを見てゆっくりと眺めたいと思い、自転車から降りて押しているのだろうが、その気持ちはよく分かる。今日は夕焼けではなかったが、風情はどことなく似ている。日本全国の大人も子供も、たまにはこんなゆったりとした時間を過ごすのも良い。生きていれば、良いことも悪いことも嬉しいことも悲しいことも起きるだろうが、時間がくればお風呂に入り、その後少しの時間だけ好きな小説を読み、一杯飲みながらテレビでニュースを見て、気に入った番組があれば視聴し、そして少しの酒で酔っ払い、時間がくればベッドに入り、やがて明日を迎えるのだ。何事もない土曜日の夕方は、ぼっとしていても誰も文句を言わない、そんな自分が許される平穏な時である。
プロとは
今は火曜日の朝、この変則的な時間にブログを書くのは、当然ながら夕方に時間が取れないからである。今日は文部科学省の仕事で他県に出張して、学校視察をするので帰りが遅くなるからである。ブログであっても何かイベントの後なら書きやすいのだが、仕方がない。昨日は都内の赤坂にある事務所に行き、諸々の用事を済ませて帰宅したが、夕方にまたオンラインで継続的な打ち合わせをした。自分はある団体の代表をしているが、気楽そうに見えてそうでもなく、忙しいかといえばそうでもないので、会長とは微妙な立場にいる。自分の団体は営利が目的ではないが、ほとんどの職員が企業からの出向なので、企業文化の影響が大きい。大学や教育委員会や学校などの教育文化とは違う。夕方のオンラインは、ある事業を企画しているスタッフからの報告であった。報告というよりも議論と言ってもよいが、立場上何らかのアドバイスをしなければならない。それが的外れであれば、自分の職をはたしていることにはならない。スタッフの説明を聞いてると、時々ハッとすることがある。自分は学校文化の中にいたので、企業文化とは厳しさという点でギャップを感じる。そのギャップはどちらが良いとは言えないが、昨日の議論はさすがに企業の厳しさや鋭さや目配り、全体の論理的整合性などを感じて、会長として背中をパンと叩かれたような気がした。スタッフは、会長としての意見は別の視点からなのでハッとし、自分はスタッフの非の打ち所がないような企画に対して敬服した、まるで暑い日に清涼飲料水を飲んで体全体がスッキリと生き返ったような感じがした。昨日は、自分がこの団体の代表をしていることに感謝した。文脈は変わるが新聞に、剣道の女子高生の掛け声にテレワークの我姿勢を正す(岡田孝道)の句があった。竹刀で打ち込みをするときの気合の鋭い声が、自宅の外から聞こえてきたのであろう、テレワークで疲れてぼっとしていた我が身にしっかりしろと言われたような気がしたのだろう。昨日のオンラインの打ち合わせはそんな感じだった。専門家とかプロと呼ばれる人は、その剣道のような鋭さを備えている。それは周りの人に、すごいとか場合によって感銘を与える場合がある。それは企業、官庁、学校などに関係なく、スポーツ芸能などあらゆる分野に当てはまる。人がプロを目指しプロでありたいと願うのは、他人に感動を伝えたいからかもしれない。
あてどない
今は土曜日の夕方、晴れてはいるがどこか灰色っぽい青空で、どことなく蒸し暑い春と初夏の間のような気候で、けだるさが襲ってくる。先ほどスポーツジムから帰ってきて、書斎に上がって週2回のブログを書こうとしている。今日は何を書こうかなどあまり悩むことはないのだが、それでもネタがないと文章が出てこない。たまには何もないことがいいことなのかもしれない。そういえば黄砂がやってきたようで、車が汚れているから洗車した方がいいよと、家内に言われたけれども、なかなか腰が上がらない。気にはなっているのだが、ふと思った。紙に書いてみよう、今日の仕事として、加湿器の掃除と洗車をすることブログを書くこと三冊の雑誌の文献をチェックすることと書いた。不思議なことに、その今日の仕事の紙を見ただけで、何かやる気が出てきた。自分の体が先に動いて、加湿器の蓋を取って歯ブラシで綺麗にして電源を抜いておいた。そうすると体がリズムに乗ったようで、風呂場の蛇口にホースをつないでお湯で車を洗った。黄砂で汚れているのかどうか自分にはわからないが、洗車しているとなんとなく生き返ったようで、ホンダの青色の車体がみずみずしく若返ったような気がした。ついでに掃除機で運転席のゴミを取った。するともっと何かやらなければならないような気がして、庭に出て雑草を取った。取りながら思ったのだが、これは来週の仕事にしよう、そうでないと文献が読めないと思って、書斎に上がった。お昼を済ませてスポーツジムに行き先ほど帰宅したのだが、平凡な一日なのである。しかし土曜日という気楽さが手伝って、たまには書斎でぼーっと外を見ていたいと思った。そしてなぜ紙に書いたら自分は急にやる気が出たのだろうかと考えた。しかし考えたところで哲学的な深い意味があるわけでもなく、紙に書けばなんとなくやらなければならないと思ったのかもしれない。自分は手帳を愛用しているが、手帳があるから仕事をするのかもしれない、学校は時間割があるからきちんと授業ができるのかもしれない、そう思えばタイムマネージメントは心の中で思っただけではダメで、可視化しなければできないのだろう。文脈は離れるが、新聞に、あてどとは流れゆく先春の雲(久野茂樹)の句があった。あてどとは当所と書いて行く先のことだが、風の向くまま気の向くまま、あてどない旅をするフーテンの寅さんのような生き方をしてみたいと思う人も多いだろう。ただどうだろうか、行く先がないのは気楽のようで寂しいのではないか、土曜日曜のような休日はたまにあるから楽しいが、それでも自分が紙に今日のすべき仕事を書いて、それを見て体が動く方がむしろ楽な生き方なのではないだろうか。そんなたわいもないことを、このブログに書いてしまった。
学校訪問
今は火曜日の夕方、ぽっかりと浮かんだ白い雲を従えて青空が広がっているのを見ると、今日も良い天気だったなぁと思う。仕事以外の用事もいくつかあって市内をあちこちと動き回った。雑用的な仕事はこのブログでは書かないが、学校訪問だけは少し触れておきたい。所沢市の教育委員会や教育センターに協力して学校訪問をしている。訪問と言ってもボランティアの授業参観である。本年度最初の授業参観を、センターの先生と一緒に出かけた。いつも思うのだが、出かける前はどこか不安だったり、どう表現していいかわからないのだが、学芸会で舞台の袖で待っているような気分なのである。自分の立場は気楽で、別に授業中に何かするわけでもないのだが、それでも緊張したり不安になるのはなぜだろう。しかし終わった後は満足感はある。自分は帰宅したらすぐに授業のコメントを書いて学校にメールの添付ファイルとして送っている。もう数年も続けているので、それが自分の仕事の一部となっている。本年度最初だからなのではなく、毎回そんな不安や緊張感に襲われる。それはどこか授業、特に小中学校の授業については自分は素人だからという気持ちが潜在的にあって、どこかしどろもどろするような自分がいるかもしれない。今朝、校長先生に挨拶をしたら、先生のその別の角度からのコメントが先生方に人気なので是非今年もよろしくと言われた。褒めているのか逆なのかわからないが、学校関係者の授業のコメントとは全く違って、先生方とは別の考え方なのでハッとするのだと言われた。自分は小中学校の経験がないので素人だと思っているが、別の見方からすれば新鮮なのかもしれない。主に研究の側面から光を当ててコメントしているのだが、というよりそれしか自分には能がないのだ。相手と同じ世界から眺める方が良いのか、別の世界からの方が良いのか、本当は分からない。自分の学校訪問は、多分学校の先生方にとっては異文化のような感じがするのではないか。文脈は離れるが新聞に、短命と告げられし娘と半世紀共に歩みて我は傘寿(さんじゅ)に(村上八重子)の句があった。医者は多分科学的な見地から短命だと告げたのであろうが、実際はそうではなかった。母親は苦労しながらも、子供を育てることに懸命だったのだろう。それは科学の世界とは別の子育ての世界での生きる力なのではないか。現実の諸相は複雑で科学だけからは割り切れない、また子育ての経験則だけでも予測できない。自分が学校訪問をしている本当の理由は、その現実の世界の持っているダイナミックな力を知りたいからと言ってもよい。多分科学の力と現実の力が相互作用しながら、諸相は生まれ流れていくのであろう。
自然に逆らう
今は土曜日の夕方、今日は朝からまるで初夏のような天気で、書斎から見る南向きの空は白い雲が混じった青空が、言葉はふさわしくないが青春を謳歌しているような感じがする。今日は自分も短いシャツに着替え、今は浴衣を着てこのブログを書いている。今日のブログは何を書こうかと、実は迷っている。それはなんとなく自分の恥のような内容なのだが、仕方がない他にネタもないので書こう。家内に言われて左頬に小さなイボのようなものができているから皮膚科に行って治療してもらうと良いという、ありがたいようなありがたくないような助言に従って、昨日その手術をしてもらったのである。びっくりした。もちろん事前に色々な説明は受けていたのだが、まさか左頬全体に絆創膏のようなものが貼り付けられようとは思ってもみなかったのだ、鏡を見るとみっともない。看護婦さんは10日間の辛抱ですよとは言うけれども、自分は来週から人に会わなければならず、人前で話もしなければならず、また学校にも行かなければならない。こんな姿でどうしようかと思ったのだが、後の祭りである。家内に愚痴を言ったら、少しの辛抱だから気にするなと、まるで冷酷な裁判官のような言葉を告げたのだが、諦めるしか仕方がない。しかし人は窮地に陥ると、どこか救いの手が差し伸べられる。マスクをすればいいじゃないの、と家内が言った。なるほどその通りだ、学校訪問をしなければならないのだが、子供たちに冷やかされないようにマスクをしていくかと思って、気が和らいだ。しかし考えてみると、年を取れば顔にイボやシミなどができるのは当たり前であり、それが自然なのである。自分は自然に逆らいたくないと思っているが、医学とはその逆を行く学問である。自然に抵抗しながら進化することが原理である。考えてみれば教育も同じかもしれない。自然のままに子供を野放しにしておけば楽かもしれないが、世の中を渡っていくには落ちこぼれになってしまう。自然ではなく自然に逆らって勉強して、頭や体や心を鍛えていくのだろう。そしてふと思う、絆創膏ぐらい大したことではなく何でもないことなのだ、気持ち一つで人はどうにでもなる、小さなことだが、そんなことを経験しながら、人は少しずつ生きる知恵を身に着けていくのか。新聞に、一歳で歩き覚えしわれなるに「歩き教室」に妻と通へり(大健雄志郎)の句があった。確かにその通りだ、歳をとると歩くこともままならず、教室に通って歩く練習をするのかと思うと、学習とは自然に逆らうことなのだろう。歩き教室まで世の中にあるとは知らなかったが、歩けない人が歩けるようになれば、幸せである。とすれば自然に逆らうことで、人は幸せを掴もうとしているのか。ただ世の中の人は、自然に逆らう人と添っていく人に別れるような気がする。どちらが正しいのか、自分は分からない。
入学式
今は火曜日の夕方、今日は朝から雨が降り午前中はかなりの雨量で、草木は喜ぶかもしれないが、桜の花はかなり散ってしまっただろう。おまけに風も強く、自然はなんと無情なのだろうと思うが、だから自然なのだ。優しい時もあれば厳しい時もある、そして何事もなかったかのように時が経っていく。昨日は自分が評議員している中学校の入学式に参列した。久しぶりの入学式の参加で、昨日は曇り空ながら雨も降らず満開の桜が新入生を受け入れてくれる儀式にふさわしい天気であった。この日は入学式が終わって、すぐに自宅に戻ってオンラインの会議に出席しなければならなかったので、すぐに学校から我が家に駆け足で戻った。黒の上下のスーツ姿でネクタイをした男が上り坂を駆けていく姿は、多分道行く人にはおかしな姿に映ったであろう。人は間に合うならば坂道であろうと走っていく、遅れるかもしれないと事前に断ってあっても、間に合わせたいと思うのは人情である。あるいは日本人特有の几帳面さであり真面目さなのかもしれない。入学式の会場は体育館で、周囲を紅白の幕で囲い、壇上には日の丸の国旗と校章なのか市のシンボルなのかわからないが旗があって、横にピアノが置いてあり、綺麗な花で彩られた壇上は、自分たちが子供の頃と変わっていない。それはどこか自分が日本人であることを思い出させるようだ。君が代の国歌を歌い、新入生と保護者と教職員と我々のような来賓が、姿勢を正して式に参列している。新入生を見ると、小学校を卒業したばかりのまだあどけない顔をした生徒というか子供というか、まだ幼い。仕事の関係上3月の卒業式には参列できなかったが、入学式は学校から走って戻れば何とか会議に間に合う時間だったので、久しぶりに参加した。そして校長先生の、以上265名の生徒の入学を許可する、という声が高らかに体育館に響いて、正式に認められた。入学生と同じ数の着飾った保護者と教職員などを合わせると700名を超える人々が、この体育館を埋め尽くしていた。教職員も保護者も自分たちも、どんな気持ちでここにいるのだろうかと、ふと思った。それは理屈抜きに学校は素晴らしい存在だからだと気が付いた。教頭先生の起立礼の号令に従って、全員が動いている。それも自分の体に染み付いた遺伝子のような感じがする。新聞に、新しき地図へ画鋲のあたたかし(熱田俊月)の句があった。歌壇の評者は、小学校の壁に貼っている様子ではないかとコメントしていたが、あたたかし、の言葉は学校を連想させる。学校は暖かく優しく誰でも包んでくれるので、この俳句の意味が伝わってくる。そして入学式も、規則を守り真面目で几帳面な日本人を育成することに一役買っているのだろう。そのせいか、自分も走って帰宅した。そして会議に間に合った。
新年度
今は土曜日の夕方、スマホでは小雨の天気予報もあったが、白い雲が空一面に敷き詰められてはいるが、小雨も降らず良い天気である。コロナが明けた今年は、市内の公園で花見をするのも悪くないなとは思いながらも、午前中はどんよりとした天気だったので仕事をした。それもほとんどがメールの処理に追われた。それには理由がある。一昨日と昨日は兄弟会があって、大阪と和歌山に旅行に行っていたからである。そのためにメールは読めても関連する資料の整理などはできず、その処理にほぼ午前中かかってしまった。兄弟会と書いたが、正確には自分を除けば姉妹会である。話をしながらふと思った。それぞれが、身内なら話せる物語を持っていて、楽しかったことや辛かったことなどを話していると、そうだなとか、その通りだとか、納得することばかりであった。あの時こうすれば良かったとか後悔することもあるが、愚痴を言っても仕方がない、自分を責めても仕方がない、現在を生きていくしかないなら、楽しく元気で毎日を過ごすという平凡な結論に終わった。しかし世間から見れば、3人がそれぞれ幸せな生活をしていると言ってもいいだろう。幸せとは主観的な概念なので、そのように自分に言い聞かせているのかもしれない。面と向かって対話することはオーセンティックな世界なので、ほとんどの出来事は小さなことで何でもないということが、本心から納得できるような気がした。今日のお昼は良い天気だったので、公園に行けない代わりに、近所の桜を散歩がてら見に行ったら、満開に咲き誇っていて、道行く人の誰もがスマホで写真を撮っていた。つまらぬことを考えず、美しいものを見れば美しいものをそのまま味わえば良いのだ。新聞に、九十九の母も雛(ひな)の日ちらし寿司(久田雅子)の句があった。いくつになっても桃の節句を祝って、楽しい食事をするのは素晴らしいことなのだ。腰が痛いことも肩が張ることも病気であることも全て忘れて、雛の日を楽しんでいる姿はどこか尊い。美しい桜、楽しい音楽、感動するドラマ、心にしみるような身内との対話など、細胞レベルで見れば全ての情報や物質が五感を通して、皮膚を通して体内に入ってくるので、動的平衡論で言えば新しい細胞に生まれ変わっているはずである。そうすると人の思考は前向きになる。桜の写真を撮りながら、ふと思った。来週の4月8日から、こんな計画でやってみようと、新しいアイディアが湧いてきた。多くの学校が来週から始まる。自分も子供達と同じように新年度が始まる。
フレッシュマン
今日は早や4月2日、新年度になって2日目である。昨日は赤坂の事務所で定例会議があり、新規事業で来客との打ち合わせがあったので、都心に出かけた。スタッフとお昼を食べに行ったら、紺のスーツを着たフレッシュマンで店内はいっぱいだった。そうか今日は新入社員は全員対面での出社なのだ。事務所に帰ると、自分宛に届いた郵便物が置いてあった。送り主にNHKの3文字が目に映った。送り状があって1年間ありがとうございましたと、A4用紙2枚にわたって詳細に礼状が書いてあった。すっかり忘れていた。NHK高校講座情報Ⅰの番組が、この1年間20回にわたり放映して3月末で終了したのだ。今度3年間は継続と聞いているが、自分は一応この番組の総括監修の役を仰せつかっていた。確かにこの番組の始まる前には、プロデューサーやディレクターと綿密な打ち合わせをして企画をしたのだが、いざ放映されると、自分から離れてお任せしていたのだ。確かにNHKスタッフは、この1年間が勝負であった。20回分を視聴するだけでもよいので、コメントの1つも書いて送る役割はあったのだが、面目ない、すっかり頭の中からすり抜けていた。担当のプロデューサーから、この1年間の視聴者からのコメントなどを全て記載したどっしりとした書類が送られてきたのである。なんと自分は無責任なのだろうか、1年半ぐらい前は夢中になって面白い番組をと意気込んでいたのが、嘘のようだ。忙しい時と暇な時の自分の気持ちも同じかもしれない。忙しい時は夢中で走っているが、暇な時は何か不平を言ったりする。おかしなもので、どちらにしても自分は文句を言ったり不足に思ったり、まだまだ人間性が成熟していないようだ。昨日の新聞に、する事があまたとなれば辛くなり何もなければなおさら辛し(秋元玉江)の句があった。まるで自分のことを言っているような気がするが、この作者も自分と同じように自嘲しているのかもしれない。なるほど、こんな風にして人はなかなか悟りきれないで、日々を、時に自嘲し時に夢中になり時に自惚れたりする。そしてこれからは努力しようなどと思うが、現実はなかなかそうはいかない。自分の好きな河島英五の酒と泪と男と女の歌詞に、又ひとつ男のずるさが見えてきた、のフレーズがある。作詞作曲は彼なので、彼自身もまた、どうにもならない自分を自嘲したのかもしれない。フレッシュマンよ、今の気持ちを忘れるな。
