ゴミ箱

 今は火曜日の夕方、いつもの通り2階の書斎で机に向かっている。あまり理由はなくても時間があっという間に過ぎていき、忙しい一日だった。ついさっきまで論文のチェックをしていた。論文査読とほぼ同じだが、きちんとした論文を読むと背中がまっすぐになるような気がして、お前もちゃんと勉強しろ、という天の声が聞こえてくる。とは言っても、怠けているわけではなく自分なりの仕事をしている。

 我が家の庭に少し大きめのゴミ箱がある。ゴミの種類によって回収曜日が決まっているので、ゴミがたまる場合が多い。燃えるゴミ・プラスチック・段ボールなどは、かさばって片付かないから、庭にゴミ箱を設置している。家内が手術をして退院しても足腰は無理できないので、2階の洗濯物の物干しを庭に移した。その関係でゴミ箱の利用の仕方が少し変わった。細かくは述べられないが、ゴミ箱の上の蓋を開けて、ゴミを一時的に貯めておくのだが、その蓋がたまに落ちてくることがある。片手で蓋を持ち片手でゴミ袋を入れるのは、老人にとっては厄介なので、昨日家内が蓋に頭をぶつけた。

 今日午前中は学校訪問で時間がなかったが、午後時間ができたので、蓋を開けたまま棒で支える仕組みを考えて取り付けた。細かいことは書かないが、70cmの棒をゴミ箱の台に磁石で取り付けて、蓋を開けた時には外して支えるのである。こんな小中学校の工作のようなことでも、あれやこれやと考えて、必要な機材はホームセンターまで行って買ってきた。そしてうまくできた時には嬉しくて、家内に自慢した。

 日常生活を送るには、こまごまとした仕事が要求される。歳を取ってくるとこれがなかなか厄介になってくる。昨日は防犯カメラにmicroSDを取り付けた。これもスマホにインストールしたアプリで、操作しなければならない。世間では老人はそのような仕事を止めて身内などにやってもらうようだ。ただ自分はなるべくできることはやってみようと思っている。それは面倒なことはなるべく早く片付けて楽になりたいのではなく、できた瞬間が面白いのである。今日もゴミ箱の支え棒を作ったので、早く使ってみたいと思い、防犯カメラも映像がスマホに送られてくると、ニコニコしている。この前のブログでも書いたが、気楽になりたいのではなく、むしろそれが楽しいのである。

 歳を取れば、若い頃のようにはいかないことは当然である。それを嘆くのではなく、年相応に工夫したり取り組んだりすれば、楽しいことはいっぱいある。文脈は離れるが新聞に、秋晴れの丘ベッドより見上ぐれば青春映画の自転車隊ゆく(若元秀人)の句があった。病院のベッドなのか自宅のベッドなのかわからないが、窓から見える丘をまるで映画のように、自転車に乗った若者たちが進んでいく。多分笑い声を上げながら走り去っていったのだろう。それを見上げている作者はどんな気持ちなのだろうか。誰でも歳を取っていくのだ。自転車に乗りたくても乗れないだろう。しかし自分も歳を取って分かることは羨ましいとは思わない。小学校から大学まで青春の中にも悩みはあろう。老人と同じなのだ。いろいろあっても、自分が今できることをこなしていくことで楽しい時間を過ごせる。昨日も今日も自分は空に向かって口笛を吹きたくなった。

気楽な生き方

 今は土曜日の夕方、いつもの通り2階の書斎でパソコンの画面に向かっている。冬至が近いせいか、日の暮れるのが早く外は真っ暗である。土日の過ごし方は、いつものようにスポーツジムに行っている。気温もぐっと低く、ジムに行く時ジャンパーの下に薄いベストを着た。100円ショップで買った手袋もして出かけた。自分はこの安い手袋が気に入っている。頬に当たる風の冷たさと手の温かさのコントラストが、12月の実感と我が身を守る防寒具のありがたさを感じるからである。

 今日の午前中は、お墓参りに老夫婦で行った。藤枝市から所沢市に墓地を移して、何年経ったのだろうか。市内に墓地があれば毎月お参りできる。きれいに晴れ上がった青空の下、緑と黄色と赤の混じった木々に囲まれ、お墓の周りは管理会社が手入れをして、みずみずしい花で囲まれている。家内は菊の花をお供えしたのだろうか。自分はお線香に火をつけてお墓に供えた。今日は土曜日のせいか、法事があったりお墓参りに来たり、それなりの人が来ている。墓地はまるで公園のようで、花と芝生に飾られて静謐な空間になっている。

 毎月来ているので、墓地に眠っている両親に言うことはほぼ同じで、近況報告である。本来は仏になった両親には、自分たちも健康で頑張っているから心配しないでいいよと、安心させるのが子の務めなのだろうが、我々老夫婦は少し世間と違っている。安心させるよりお願い事をしている。誠に親不孝なのだが、両親に墓の前で言うと、分かった分かったいいよと、笑顔で答えてくれそうな気がするからだ。墓の前では両親の優しくて機嫌の良い笑顔しか思い浮かばない。だから甘えているのかもしれない。

 お願い事はたいてい決まっている。老夫婦と息子夫婦と娘夫婦は、病気のこと仕事のこと職場の人間関係のことなどで、孫たちは勉強のこと進学のこと友達関係のことなど、どこの家庭でも同じようなものだろう。自分は手術や入院はしたことはないが、血圧検査ではそれなりの異常値が出ている。高血圧・尿酸値・脂肪肝などの懸念があって毎朝薬を飲んでいる。家内は腰や足が痛くなっている。日常生活に支障はないので老化現象なのだからそれほど深刻ではない。働き盛りの息子夫婦と娘夫婦は、いろいろなことで頭を悩ませる。よくお父さんは気楽でいいななどと言うことがある。

 しかしこの世の中に、悩みもなく気楽な生き方をしている人はどこにもいない。ニュースを見れば、政府もあっちからもこっちからも突かれ、答弁にも苦労している。外交問題は厳しく、気の休まる暇もないのではないか。国内でも大火災が発生して、被災者にはこの寒空の下で厳しい生活を強いられる。テレビ番組を見ていたら、もうどうすることもできません、生きる勇気が出てきませんと嘆いている。その通りですねと同情はできても、それ以上の支援はできない。定年になったら気楽な生き方をしたいと思って、農村に移住する人も多いと聞くが、現実はそれほど楽ではない。こんなはずではなかったと後悔する人も多いという。どこに気楽な生き方があるのだろうか。

 文脈は離れるが新聞に、一粒を含みて思う亡き息子幼時ぶどうを「どぶ」と言いしを(大門とよ子)の句があった。息子を亡くした悲しみは、その経験者でなければ誰にも分からない。まして可愛い盛りの我が子を亡くせば、どれほどの悲しみがあったのだろうか。どれほどのもがきと苦しさを乗り越えてきたのだろうか。子の親ならば、どんな姿形でも良いから生きていてほしいと、神に願ったに違いない。

 それを思えば、気楽な生き方などは口に出してはいけない。少しぐらいの老化現象や仕事の人間関係や、業績が良いとか悪いとか、勉強ができるできないの、など吹けば飛ぶような小さな小さな出来事である。このような出来事は、生きているからこそ生じるのだ。生きていれば必ず遭遇するのだから、相棒のようなものである。一生付き合えばよいのだ。気楽に生きるには、認知症にでもなるしかないだろう。歳をとっても気楽なことなんてない、それに向き合う方が楽しいよと、子供たちにも言うのだが、信じたくないようだ。

 

実験

 今は火曜日の夕方、昼間は天気が良かったが、文字通り晩秋の一日だった。この季節は、木々の葉っぱが黄色や赤色に染まって、公園などは、一面が黄色い落ち葉で敷き詰められている。午前中は学校訪問があって、中庭のほとんどが花や畑や木で覆われているので、4階の教室から見たら、緑や黄色や赤の極彩色で、思わず見惚れた。市街地ではない、ここだけの幸せな空間のように思われた。晩秋はどこか物寂しいところもあるが、静かで平穏な季節である。

 この前のブログで防犯カメラの設定について書いたが、ブログを書く前の短い時間だったので時間切れだった。家内のリクエストで防犯カメラを設置したのだが、正解だった。テレビ番組を見ると、老人目当ての詐欺電話や偽の届け物が頻発しており、今年は特に被害額が急増しているという。用心に越したことはない。設定になぜ時間がかかったかというと、家内のスマホで設定したので、家内のアカウントがホストであり自分はメンバーであった。ホストしかいろいろな設定ができないことを、つい忘れていた。昨日は設定を変えたり、カメラの向きや角度を変えたりして調整をしたら、2人とも満足した。考えてみればこれは物理の問題であった。

 寒くなるとビールは飲まないが、一昨日は焼肉だったので冷たいビールを久しぶりに飲んだら美味しかった。ただベッドに入って3時間ぐらいで目が覚めた。小用を足したくなったのだ。トイレに行ってその後ぐっすり寝たので合計6時間は眠れた。この頃夕食で飲んでいるのは赤ワインか日本酒である。赤ワインならばほぼ6時間ぐらいぐっすり寝て、途中で目が覚めない。日本酒ならばほぼ8時間ぐらいぐっすり寝て、途中で目が覚めない。これはアルコール度数のせいか液体の量のせいか知りたくて、実はいろいろ実験していた。詳細は略すが、結果は量の問題ではなく、赤ワインと日本酒の特性の違いによるものだと分かった。ただビールは液体量が多いので多分量の問題だろう。これは生化学の問題である。

 このように、人は日々の生活でも実験をしているのだろうかと、ふと思った。突拍子もない仮説であるが、どこか真実がありそうな気がする。物理や化学の問題ならば日常生活でも実験をしていると言えるだろう。我々の生活はどうなのだろうか。買い物などではよく言われるように問題解決をしている。主婦は野菜はあの店が安い、魚はこの店が鮮度が良いなど、経験的な知識を豊富に持っている。これも実験と言えば実験である。人と人の付き合いではどうだろうか。これは難問である。多分心理学の問題かもしれないが、学問では片づけられないだろう。

 最近ある人とオンラインで打ち合わせをした。自分は事前ではどこかで気に入らなくて、打ち合わせでは不機嫌であったことを自覚していた。しかしふと相手のことが気になって自分の見方を変えようと思った。その瞬間から自分もいろいろなことに気がついた。終わってみれば相手も自分も、この打ち合わせに満足していた。つまり人と人との付き合いは、こちらの心が変わればすぐに変わる。まるで化学反応のように、まるで物理の力学のように、きちんとした因果関係があると思った。

 文脈は離れるが3週間ほど前の新聞に、余命少なき父が看護師にわれのこと自慢せし笑顔今も忘れ得ず(古山智子)の句があった。この作者の父親は娘のことが自慢で、嬉しそうに看護師に語ったのだ。残り少ない命のことは父親も知っていただろう。しかし娘に看取られて、幸せな気持ちで死を迎えたのではないだろうか。娘もその父親の笑顔が忘れられない。それは何にも代え難い至福の時間だったのではないだろうか。臨終が近いかもしれない時に、心の持ち方次第で幸せな思い出を作ることもできる。人との付き合い方も同じではないだろうか。人は、この世の中の出来事を通して知恵を獲得していく。それは日常生活という経験の中で得られるものだろう。経験とは実験と言えるのではないか。

防犯カメラ

 今土曜日の夕方、外はもう真っ暗で、11月の末ともなれば昼間の時間は短い。初冬というには暖かすぎるので、晩秋の言葉がよく似合う。土日の休みの日はスポーツジムに行って、健康維持に心がけている。自宅への帰り道が西向きなので、薄茜色に染まった空が美しく、今日も一日ほぼ終わりかという安らぎと、平穏無事で良かったという安堵感が混じって、静かな秋の夕暮れに感謝した。昨日の夕方ジョギングしていたら、近所にある公園が銀杏の葉っぱの黄色い絨毯で、すべて覆いつくされていた。2人の子供がキャッチボールをしている姿を見て、秋は平穏でいいなあと思った。

 しかし最近、我々の地域にも、強盗などが出没して何件か被害にあったと報道があった。我々老夫婦とすれば大事件であり、何か対策を取らなければならない。家内はこのような治安対策には長けていて、窓は二重ガラスでロックも頑丈で、玄関の扉には鈴までつけている。当然ながら玄関にはセンサー付きの街灯がある。庭にも東向きの壁にも同じ街灯があって、たまに猫などが通るとよく光る。だからもうこれ以上対策はいらないだろうと思っていたら、防犯カメラを付けたいという。確かにそれは良いアイデアで、玄関に誰か入ってくれば、通知してくれればありがたい。インターフォンはすでに設置してあるので、どのようなデバイスはいいのだろうと思っていたら、家内がネットで調べて、スマホに通知してくれる防犯カメラがあるという。

 自宅に出入りしている電気屋さんにお願いしたら、外壁からの電源コードがかなり長く、カメラ本体の他にかなりの設置費用がかかると言う。見積もりをもらう間に、家内がネットで調べたら、いろいろなタイプがあるらしく、最も設置が簡単なデバイスを選んだ。自分が電気量販店に行って昨日買ってきて、今日自分が設置した。そして試験運用を、スポーツジムから帰った先ほど行った。確かに簡単で効果的である。カメラは動きが生じた時だけ電源がオンになり録画をする。その知らせをスマホに送ってくる。我が家のWi-Fiに繋いであるので、感度は良い。テスト結果は上々ではあった。

 しかし若干困ったことがあった。我々が玄関から入っても、誰かが玄関前の道路を通っても、車が走っても、その通知がスマホに送られる。確かにスマホには人物マークと物体マークがあって、AIが画像認識しているのか、スマホを見ると動画がその度に数秒間録画されて、クラウドに保存される。しかし老夫婦二人のスマホは、しょっちゅうピンピンと通知音が鳴っている。こんなはずではなかった。時間設定とかあるはずなので、アプリを操作してみようと思ったのだが、よくわからなかった。そして時間切れになった。

 正直なことを白状すれば、自分はスマホのアプリの操作は苦手である。パソコンもスマホも同じはずなのだが、相性が悪いのか、なかなか思い通り動いてくれない。何より設定に時間がかかるのが嫌で、たぶんスマホの方も嫌がってるのだろう。それはアプリを開発するデザイナーの考えと、使う側のユーザーの考えが一致しないからであり、情報科学の分野ではインターフェースの研究として重要視されている。そしてふと思った。それはアプリの操作だけではなく、すべての面でその不一致が重要なのではないだろうか。

 文脈は離れるが新聞に、秋寒し悲しきクマのぬいぐるみ(山田真理子)の句があった。かつて可愛らしいと評判のクマのぬいぐるみも、今は誰も見向きもしないだろう。熊は動物だから人間のことはわからず、餌が不足したので市街に降りてきて、人間に被害をもたらしている。動物は本能で生きることが基本的な行動様式であり、人間のような複雑な思考はできない。だから熊と人間には本質的な違いがあり、折り合うことができないのだ。異常気象もなく正常な気候であれば、山にも豊富な食糧があり、熊も猟銃やライフル銃で駆除されることもなかっただろう。

 しかしそれは熊と人間だけでなく、人間の世界でも考え方が違えば、戦争をして人が人を殺戮している。理性ある人間であっても、基本的な考え方が違うだけで、大量殺戮をする兵器を持ち込んで、無残な光景を繰り広げている。何も罪のない幼い子供たちまで死に至らしめているのは、どう考えてもおかしい。しかしそれは個人対個人であっても同じである。人は煩悩の塊のようで、小さくても憎しみや毛嫌いする気持ちは誰にでもある。ただそれではあまりにも悲しく、なんとか手を取り合って生きていこうと、自分に言い聞かせているのではないか。多様性を認めることはなかなか難しい。

感情の変化

 今は火曜日の夕方、いつものように書斎から南の空を眺めている。日中は曇り空か小雨の降る天気で、夕方頃から雨が止んで、夜は晴れて明日は良い天気だと予報している。先ほどまで細い三日月が見えていたのだが、今は雲に覆われて見えなくなった。そろそろ一日が終わる時刻がやってくる。こんな時、今日や昨日のことを振り返って、ぼんやりしている。一日の中でも、面白いこともあれば気に入らないこともある。そんな事の繰り返しで時が過ぎていく。自分のような市井の人は、誰しも同じようなもので、山と谷の振幅の幅は小さいだろう。

 誰でも、テレビ番組を見て腹を立てたり喜んだりするだろうが、この前のブログで少し反省したことがある。某国の高官の傍若無人な振る舞いに、正義感が湧いて許せないなどと思った。庶民が怒ったところで、なんの変化も起きず、世の中の動きは微動だにしないが、その影響は自分自身に起きる。例えばニュースを見るのが少し億劫になって、そっぽを向いてしまったり、その場面では独り言のような文句を言ったりする。若い時ならそれも許されようが、年老いた今は、もう卒業してもいいのにと思いながらも、人間の性なのか、なかなか悟り切れない。

 今日ふと、自分の弟子の加藤由樹先生の研究を思い出した。メールを送ったり受けたりした場面の感情の変化の研究である。誰でも嬉しいメールなら喜び、都合の悪いメールなら怒ったり無視したり、否定的な感情が生じたりするだろう。彼は肯定的な感情、否定的な感情、そして怒りの感情に分類して、分析した。詳細は述べないが、誰でもわかるように、肯定的な感情が生じる場合は、いろいろな面でプラスに作用する。あの人はいつでもニコニコして感じがいいなあと思える人は、ポジティブな感情が起きやすい人なのだ。これに対してネガティブな感情が起きやすい人は、物事に対して否定的にとらえる。たぶんいつも苦虫を噛んだような表情をするだろうから、周囲からはあまり好意的には見られない。最後に怒りやすい人は、いろいろな面でマイナスに作用する。この研究で最も重要な知見は、怒りの感情である。この感情が生じると物事をネガティブにとらえ、怒りはさらに怒りを増幅する。だから怒りだけは避けた方がよい。最も影響が大きい感情だからである。

 上記は、論文の結果に、世の中の浮き沈みの様相を重ねて、拡大解釈した文章であることをお断りしておく。しかし実際はこの通りなのだ。自分はテレビのニュース番組にも少し背を向けるようになった。某国にもっと自然災害が起きればよいのになどと、つまらぬことを考えている自分に、自己肯定感が下がった。今の自分は若い頃と違うのだ。いいではないか、いずれ落ち着くところに落ち着くのだ、大丈夫大丈夫、大したことではないではないか、と思える自分を描いてみる。そうすると少し世の中が明るく見える。自分も歳を取ったのだ、好々爺になることを夢見ている。

 今日はプロジェクトの報告書作成の準備に取り掛かったのだが、なかなか重い腰が上がらなかった。それが気になっていたのだろう、今朝ベッドから起きる時、ふとこうしたらどうだろうか、と思いついた。午前中にその仕事をしていたら、笑みがこぼれて口笛でも吹きたくなった。人はこうも簡単にマイナスからプラスに変わるのか。そうだとすれば、何もくよくよ考えることは一切ないのだ。新聞に、わずかなる嬉しきことの今日ありて瓶ビール買う帰りの途(みち)で(千葉幸平)の句があった。この作者も自分と同じか、少しでも嬉しいことがあると、祝杯をあげたくなるのか、なんだなんだそんなことなのか、人は気持ち次第でどうにでもなる。気持ちが変われば状況が変わり、物事は好転する。場合によっては逆転もある。加藤由樹理論を拡大して適用すれば、そうなる。

態度で示そうよ

 今は土曜日の夕方、書斎の窓から南の空を見ると、もう真っ暗になって今日も一日が終わることを告げている。ブログの書き出しもいつもほとんど同じだが、今日もスポーツジムに行って、一息ついて2階の書斎に上がってきた。平凡だが一日があっという間に過ぎていき、夕食を食べてテレビ番組を見れば一日の終わりである。ブログで書くのは恥ずかしいが、9時になると眠くなり、翌日は5時に起きるのが日課である。そんな平凡な一日にもさまざまな変化がある。ジムからの帰り道、いつものように西の方角に向かって帰宅していると、灰色の雲と薄茜色に照らされた白い雲が浮かんでいて、静かな秋の夕暮れで何事もなく過ぎていく一日が、どこか愛おしいような気もする。

 そんな優しい気持ちになっている時でも、お昼のテレビニュースなどを見ると心が騒ぐ。あちらこちらで熊が出て被害が起きたとか、大火災にあって家を失ったとか、他人事であっても同情する。しかし中には、某国の政府高官のあまりにも不見識で非常識な態度に怒りを覚えたニュースもあった。これでも国の重要案件を審議する人間なのか、一言で言えば品格がないのだ。自分は教育に関わる仕事をしているので、どのような地位になっても、どのような経済状態であっても、人間としての品格は持っていなければならないと思っている。食べる餌がないので、熊は市街地までやってくる。つまり自分の欲望を満たすために、なりふり構わず行動するのだ。某国の高官は人間ではなく熊と同じ動物に近い。自分のブログで政治に関わる内容はほとんど書いたことはないが、この頃ニュースを見るたびにイライラが募ってくる。

 日本の外務担当の高官も苦しい立場であろう。耐えながら折衝しているように思われる。驚異的な高支持率の内閣も、この一件で苦しい立場になった。そしてふと思う。世界中どんな人も、好都合のことばかりは起きず、必ず落ち込む時がある。政府であろうと平凡な家庭であろうと、高官であろうと庶民であろうと、その繰り返しの中で生きている。人はその波にもまれながら、なんとか事態を改善しようと努力する。自分を振り返ってもその通りである。問題は落ち込んだ時の対応の仕方なのだ。たぶん正解はないだろう。油断大敵とか好事魔多しなどの格言はあっても、どうしたら良いかについては教えてくれない。

 新聞に、辛い時「お姉ちゃーん」と呼んでみるベランダに出て空に向かって(田中澄子)の句があった。国際間の政治のような難しい課題には適用できないだろうが、庶民の生活では意外と効果的ではないのかと思った。つまり声に出してみることだ。これも庶民の知恵で、苦しいことがあれば声に出して発散しろということだ。心の中にあるモヤモヤが外に出るのだから、多少スッキリすることは常識的にも分かる。声に出してみれば、自分の立場を、声を通して振り返ることができる。自分はこんなことを考えていたのかと気づくことができる。ある論文で、身体性認知を利用した学習法を読んだことがある。認知は頭の中だけで起きることではなく、身体や環境と関わり合っているという考えである。だから頭だけから体全体に広げることで、解決の糸口を見つけることができるのではないだろうか。

 坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」の大ヒットした歌があった。その中に、「幸せなら態度で示そうよ」の言葉もあった。手をたたいたり足をならしたり肩をたたいたり、文字通り身体性認知である。とすればこの作者の大好きな姉に、お姉ちゃーんと呼びかけるだけで、塞ぎこんでいた気持ちが安らぐのではないか。そしてベランダで空に向かって話をしたら、天国のお姉ちゃんが聞いてくれるような気がして、そして優しい笑顔が浮かんできて、また頑張ろうと思うかもしれない。そのようにして人は生きてきたのだろうか。不幸せなら声を出そうよ、好きな人に呼びかけようよ、そして態度で示そうよ、と言えるかもしれない。

 

 

旅行と出張

 今は水曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ると、今の時期は真っ暗である。火曜日の夕方でないのには事情がある。昨日火曜日の午前中は市内の学校訪問があり、その後コメントを書き、午後に私的な旅行をして一泊した。そして今日の昼間に帰宅し、今パソコンの画面に向かってブログを書いている。正確に言うと、旅行から帰って、先ほど久しぶりのジョギングをして、その後メールの処理をして、ようやくブログを書く時間になった。

 市内の学校訪問は、市の教育センターに協力して、GIGA端末の導入以来、いかに端末を活用するか、学習指導要領に基づいた授業を実践するか、などについて指導主事の先生と一緒に、毎月6校程度訪問している。訪問して話をするのではなく、授業を参観するのである。これは素晴らしいことで、いつも思うのだが、自分の方が、先生と子供たちから学んでいる。授業参観をした経験があれば、誰でもこの文章に賛同するだろう。自分が先生に教えることなどほとんどないのだが、役割上帰宅してからすぐにコメントをメールに添付して送っている。正確に言うと、A4用紙1ページ分に相当する1600字で文章化している。

 その文章化は、自分にとって嬉しくもあり厳しくもある作業である。なぜならその見方は、自分の学習観や指導観そして知識に依存するからである。一般的に言えば、正確に知識を伝える、または教えることに情熱を傾ける先生もいれば、子供たちに任せ、自由な発想を大切にする先生もいる。自分を振り返ってみても時々忸怩たる思いをする。なぜなら高等学校や大学では学習内容を伝えることや教えることが中心となりやすく、小学校では子供たちの発想を大切にする比重が高いからである。中学校はその中間程度であり、大学院は研究が中心なので、教えることも伝えることも難しく、いわば二人三脚で模索することになる。

 自分の学校訪問は、小中学校なので学校や授業によって、内容を伝えるのか子供たちが学ぶのか、そのバランスは異なってくる。内容の伝達派は、教師はおそらく正確に伝えたいと思っているだろう。子供たちの学び派は、内容の正確さよりも表現力や想像力などを大切にしたいと思っているだろう。このブログで、どちらが重要かなどの野暮な議論はしない。正確に伝えてこそ授業で、子どもの実践に任せることは、言葉は美しいが何が正しく何が間違っているかの判断力が身につかないのではないか、という危惧を持ち、子供の自由さや発想などを大切にする考えは、そのような主体性がなければ、そもそも内容の理解などできないのだという思いもあるだろう。

 今日の旅行を終えてふと思った。私的な旅行は、いわば自由であり開放感があり縛られない嬉しさがある。仕事の旅行つまり出張などは、やりとげなければならないミッションがあり、成果を見える形で出さないと意味がない。私的な旅行は、肩肘張らずに、この時間を楽しもうと考えていて、仕事による出張は、どうしても達成しようという意思がある。同じ旅行でも天と地ほどの差がある。これは授業でも同じだろう。どちらが正しいというわけではない。それは教育的信念と呼んでも良いので、簡単には変えられないのである。

 今日の昼間帰宅したら、空が真っ青で冷たい風が心地よく思わず外を駆け出したくなった。久しぶりにジョギングをした。それは心が解放されて自由に動ける楽しさである。新聞に、平和とは平凡な秋空の下のこと(深町明)の句があった。今日はこの句のように平和な気持ちであった。急ぎの仕事があるわけでもなく、心穏やかに今の時間を楽しむ余裕があった。ジョギング中に、子犬を連れたおばあさんとすれ違った。何の特別な意味もない平凡な光景であったが、束の間の平和を感じた。こんな生活をしたいと思う反面、仕事や研究をするときの緊張感や充実感も忘れられない。だから授業参観して、こちらのほうが良いと断言することは、自分にはできないのである。

気づき

 今は日曜日の午前中で、書斎の窓から見る空も明るく、太陽の日差しが差し込んで、今日も秋らしい天気になるだろう。土曜日ではなく変則的に今の時間に書いているのは、当然ながら諸々の仕事の関係である。昨日と一昨日はつくば市で大きな大会があって、自分も参加したので時間がなかった。今日もお昼前には出かけて、別のイベントに参加しなければならないので、今がブログ執筆の時間である。もちろん自分のような年配者に、このようなオファーがあること自体は有難く、また喜びでもある。

 自分が参加するイベントには、学会の研究発表のようなスタイルもあれば、昨日や今日のような研修スタイルもある。自分にはそれがうまく区別できなくて、後で反省することもある。研究発表であれば、その目的や方法など長い間に培われてきた暗黙の了解事項があり、その文法に基づいて発表を聞いたり質問したりするので、安心感がある。研修スタイルはそこが異なっていて、対象者は主に学校の先生方なので、求める情報の質が違う。学会発表であれば、データがありグラフがあり考察があり、つまり主張する根拠であるエビデンスが伴っていて、発表も統計的な検定などの方法で検証している。しかし研修の場合は、そのようなデータは不必要とは言わないが馴染まないのである。

 そもそも学校の現場において、データを取得するとか統制群や実験群などのような群を設定すること自身が、教育の平等性の観点からすれば、不必要であるというより、してはいけない禁止条項である。したがって結論を導くには別の方法を用いなければならない。それは曖昧であることは承知しながらも、主観的なアンケートであったり子供たちの教室における仕草や発言などをデータとして扱うのである。それは仕方がないのではなく、その方がむしろ信頼性の高い根拠とも言える。自分も研究発表のセッションの司会をしたりシンポジウムで発言をしたりしたが、そのデータは当然ながら後者であり、写真や子供の発言や作品であり、それを質的に分析して述べた。

 昨日のシンポジウムでの発言を振り返って、自宅への帰りの電車の中でふと気づいたことがある。それはなんというか、ふと浮かび上がってきた。あの時自分が考えていたことは、基本的におかしいのではないかと思った。それはデータが不正確とか解釈が不鮮明だとか時間が長すぎたとか短すぎたなどの表面的な事ではなく、もっと本質的なことである。そのことをこのブログでは書けないが、一言で言えば自分は勘違いしていたのではないかという反省である。内心少しショックであったと同時に、それは自分にとって天啓のような優れた知見であった。表面的なことはいつでも誰でも改善できる。しかし本質的なことは、物事を捉える枠組み、つまり基本的なスキームなので、その違いはデータそのものをもう一度考え直す必要が生じるのである。昨日の帰りの電車の中で改めて考えて、次回からは枠組みを変えてみようと思った。それは自分の不勉強さであり無能力さや浅学のせいでもあるが、半面大切なことに気がついた。

 自分には悪い癖があって、わかっている内容の研究発表や話を聞いたりすると、ああそんなことかと、軽く受け流すことがある。そのことが多分、自分の思考に蓋をしているのではないか。文脈は離れるが新聞に、足跡の付かぬ足音秋深し(臼井正)の句があった。推測すれば、秋がやって来ているのだがそっと近づいてくるので、地面に足跡のつかない歩きのように、足音だけを耳にする。しかしそれは日常の足音にすぎないのだが、気がついてみれば秋ももう深くなって、見渡せば木々の葉っぱも紅葉している。そんなことに初めて気がついたと解釈すれば、自分の気づきとよく似ている。

 たぶん自分の発言や言動に対して、言葉に出しては言わないが、お前の考えはこういう点ですれ違っているよ、と視聴者は伝えているのかもしれない。本人はそのことに気づかないのだ。ただ少しずつ少しずつ自分の体の中に入ってきて、ある時水面に浮かんでくるように、はっと気づけば秋がやってきて秋真っ只中の季節になっているように、ようやくそのことに思考が向くのである。とすればそれは有難いことなのだ。ようやく自分が見えてきたのだ。自分のことは分かっているようで、ほとんど分かっていないような気がする。そう思って、今日のこれからのイベントに参加しよう。

二つのレベル

 今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南向きの窓から外を眺める。いつものように、この時期はすでに真っ暗な風景が広がり、マンションの灯りが規則正しく輝いている。灯りを見ると、そこに人が住んでいることがわかって、外の寒さと家の中の暖かさがイメージされて、ほっとする。今日の午前中は、市内の学校訪問があって、そのコメントを学校にメールで送ると、午前中は終わる。午後はオンラインの会議などの仕事と、家庭の諸々の用事も家内から言われて処理している。歳をとるにつれて仕事一筋というわけには行かず、夫婦が協力しながら生活していかなければならない。それは自然の成り行きで、二人とも身体的および認知的な機能も弱ってくるからで、すべてが男女共同参画になる。

 午前中の授業は、市内の中学校で、市の教育委員会に協力して特にGIGA端末の導入以来、その活用法などについてのコメントをしている。ただし1人1台の端末が整備されても、道具は道具である。それ以上でもそれ以下でもないので、誰が考えても優れた学習効果は、授業デザインや指導方法や振り返りに依存することは言うまでもない。今日の授業参観でも、GIGA端末の特性を活かしながら効果的に使っていた。そのコメントを書いて送ったとしても、それは道具の使い方にすぎない。つまりパソコンの使い方や車の運転の仕方などと大して変わらない。ということは、学びそのものに何が含まれているのかが重要である。自分の印象では、それは授業参観をしている自分の気づきに依存している。これまで経験的に文献的に実践的に蓄えられてきたいくつかの知識があって、授業を見ていると脳の中からふとそれらが浮かび上がってくる。それはちょうど釣り竿の紐が引っ張られるような感じで、引き上げると思いがけない知見に出会うことがある。

 教育界にも流行がある。どの学校に行ってもいくつかのキャッチフレーズがあり、日本全体がその理念や考え方に沿うように、授業を工夫している。自分は小中学校の授業については素人であり、コメントの冒頭に必ず、「こうしたほうが授業がうまくいくという提案はできません」と断っている。「自分にはこう見えます、こう感じます」ということだけを、コメントとして書いている。そのコメントは、今流行のキャッチフレーズとは関係ないような気がしている。授業を見る人のメンタリティーや価値観などによって、気づきはかなり違うからである。そのような見方はどこから生まれるのだろうか。それはキャッチフレーズはなく、もっと深い部分によって制御されているのではないか。

 今日の授業は、優れた指導力を持った先生で、見事に生徒たちを動かして単元内容を納得させていた。それはある面では、うまい教え方のできる先生とも言える。かつてはこのような名人芸のような先生を目指していたが、今の教育のキャッチフレーズとは少し方向が違う。多分長い指導経験が、たやすくは変えられないからであろう。授業参観をしている自分の目には、自分も多分中学校の教壇に立ったとすれば、同じような教え方をしたのではないだろうか。それは自分の郷愁と言っても良いかもしれない。つまり気づきは、認知レベルか無意識レベルなのかで違う。このブログでその良し悪しを論じるわけではないが、教育でも生活でも仕事でも二つのレベルがあるような気がする。老夫婦2人だけの生活でも、昔と変わらぬ無意識的な行動と、お互いが助け合うという認知的なまたは意識的な行動がある。

 文脈は離れるが新聞に「介護課の液体糊(のり)に秋日かな」(黒沢正行)の句があった。市役所などの介護課の職員が、書類に添付したい別の紙に昔ながらの液体のりを使っている。たぶん人差し指で書類に貼り付けているのだろう。今ではテープのりが主流で、自分も書斎の机の中には液体のりはない。この役所の介護課では、相変わらず昔ながらの方式で事務仕事をしているようだ。それは経済的とか衛生的な理由ではなく、習慣なのであろう。その方が気楽なのである。教育でも生活でも仕事でも、昔ながらのやり方はある。それは是非を論じるべきことではなく、二つのレベルが共存して、ある時は意識して、ある時は無意識的に選択しているのではないだろうか。自分も年老いてきたので、「こうせねばならぬ」という思いは少しずつ少なくなって、「いいではないか」という思いが強くなっている。平凡だが、相手を認め助け合うことかもしれない。

国宝

 今は土曜日の夕方、といっても外はもう真っ暗である。いつもは休日である土日は、スポーツジムに行って、一息ついて書斎で1日や1週間を振り返りながら、ブログを書くのだが、今日はスポーツジムに行っていない。珍しく来週からしばらく仕事で忙しく、その準備がまだ出来ていないので、今日の午後そこに時間をかけたいと思ったのである。歳をとってから綱渡りのような仕事は心臓に良くないので、なるべく早く準備をすることを心掛けているのだが、不安がよぎる。だからスポーツジムは明日日曜日だけと決めた。

 午前中はお墓参りに行ったので、なかなか時間が取れなかった。毎月お参りをしている関係で、特に公開日誌に書くほどでもないので、昨日の出来事を記録しておきたい。息子と息子の嫁に言われてかなり月日が経ったが、昨日金曜日の午後、映画館に行った。素晴らしい映画だから必ず見た方が良いと言われながらも、もう何年ぶりか、いや何十年ぶりか、所沢駅に隣接するショッピングモールの4階にある映画館に足を運んだ。家内と2人だが、このモールの4階に小規模なシアターと呼んでいる映画館が12館もある。小規模といっても150名程度は入れるだろう、平日であってもほぼ満席であった。作品は今大評判になっている「国宝」である。多分土日は満席だと思う。

 何しろつい最近まで、このショッピングモールに映画館があることすら知らなかった。しかも12館もあって、数日前からネットでチケットを購入し、かつ支払いもでき、座席も選ぶことができる。入場は自分のID番号を示すQRコードだけで入れる。だから開演時間の5分ぐらい前に行けばよく、しかもスマホからフード・ドリンクを注文でき、帰りには映画館の前で業者が待っていて、残ったものを処分することもできる。なるほどデジタルの時代だと、当たり前のことだが納得した。そして映画も評判通りの内容で、3時間を飽きることなく、大画面に引き付けられた。大画面と予想以上の大音量で、臨場感に体全体が包まれた。

 歌舞伎の世界の物語だが、自分の住んでる世界とは全く違うので、はじめは乗り気ではなかった。しかし一流の専門家が作る芸術とはこのようなものかという魅力があって、その世界に入り込むのである。しかし自分は美については全くの音痴であり、素人なので、この作品が訴える本質を受け止められたかどうかわからない。ただ美を極めるということは凄いことだと感じた。その凄さはどこからくるのだろうか。自分のような門外漢には、猫に小判や月とスッポンのような感じで、どう考えても結びつかない。それは何かと考えたとき、自分は日本人だからではないかと思った。

 もちろん芸術は国境を越えているので、海外でも大評判の作品である。だから芸術は文化を超えて伝わるのだろう。自分は歌舞伎のことも美のことも芸術のこともわからない。ただ江戸の昔から、こんな風に庶民も美しさを求めていたのかと思った。文脈は離れるが新聞に、「秋場所の溜り桟敷や江戸の粋」(佐藤光義)の句があった。相撲の観客席にも、砂かぶりや升席などがあって、その言葉も江戸の情緒が漂ってくるようで、昔の人は粋を共有していたのかもしれない。ただし、自分は、歌舞伎座へ行って鑑賞するつもりはない。歌舞伎の美や芸術性を理解する知識も能力もないからだ。ただ江戸の昔から、このような優れた芸術が伝わっているのかと思ったとき、日本文化の素晴らしさに改めて敬服したのである。そして自分が日本人であることにささやかな誇りを感じた。