論文

今は土曜日の夕方、いつものことだが、今日や数日間を振り返ってブログを書いている。今日の天気は一日中晴れていたので、外は相当暑いと思ったが、それほどでもなかった。爽やかな風が心地よく、猛暑ではなく快適な天気だった。いつもの通り、土曜日の午後はスポーツジムに通っていて、帰宅してブログを書くのが自分の宿題になっている。今日は午前中に論文を書いていた。事情を話すと長くなり、また公開するほどのものでもない。ただ自分とすれば、ここはどうしても書いておかねばならないという、自分自身への使命というか、約束というか、矜持のようなものだろう。毎日少しずつ資料を整理したり図表を書いたり文献を読んだりしながら、今日でようやく見通しが立った。どんな仕事も同じだと思うが、始めは混沌としていて玉石混交で、どれも同じように見える。やがて理由はわからないが、なんとなくキラリと光る玉とその他大勢の石の見分けがついてくる。そして玉を中心に石もつながって、一つのストーリーが浮かんでくる。それができれば、後はまっすぐな道で迷うことはなく頂上を目指せばよい。始めは、ねばならないという、自分への戒めというか、枠をはめるというか、肩を怒らせたような気持ちだった。しかし論文などというものは、誰かに言われて仕方なく書くものではなく、当たり前だが、自分の考えというより、もっと強い信条のような熱意に駆られて筆を運ぶのではないかと思う。だから論文はまったくの自分事なのだ。つまり他の誰にも指図されず、左右されない自分の意のままに文章を綴っていく、自由な作業ではないかと思う。気負っていた自分ではなく、自由に世界を動き回る自分が、今の姿であろう。これは多分論文に限らず、自分が手がける仕事は、このように変容していくものではないのか。始めは大変だ、どうしようか、もしこうなったらとても対応できないなどと壁ばかりを考えて、その中に自分を押し込んでいるのだが、仕事が進行していくうちに、それらの壁が取れていき、その壁の向こうに自由に羽ばたくような世界が見えてくる。だからすべてのものは、予測ができないのかもしれない。文脈は離れるが新聞に、棒を持つ小石を拾う葉をちぎる頂上目指す子らの遠足(臼井正)の句があった。小学校の遠足を思い出す。棒を持ってあたりかまわず叩いてみたり、気に入った石を拾ってみたり、まったくの自由である。だから楽しい思い出として遠足を記憶しているのだろう。論文も形が整うまでは頭をひねって考えているが、見通しが立ってこれはオリジナルだと信念のような気持ちが出てきたら、頂上はもう近い。そして楽しい思い出として脳に記憶されていく。誰でも同じだが、自分の論文は決して忘れることはない。それは多分苦しさよりも、楽しい思い出として、自由に羽ばたいた足跡として、どこか誇りを持って自分の矜持として大切にしているからかもしれない。

夏風邪

今は火曜日の夕方、書斎の窓から見る空はグレー一色で、曇り空である。先ほどまでポツリポツリと小雨も降ったが、蒸し暑い一日であった。午前中は市内の学校を訪問したのだが、鼻水が出て困った。もちろんこれには理由がある。夏風邪をひいてしまったのだ。夜も25度以上という暑さなので、寝室のエアコンをつけっぱなしで寝たのだが、真夜中になると寒さで目が覚めて、スイッチをオフにして寝るのだが、なかなか寝つかれない、その内に、やはり暑くなって冷房のスイッチを入れて寝て、また寒くなってという繰り返しで寝付かれなかった。今朝起きたら典型的な夏風邪をひいて、ティッシュが手許から離せなくなった。学校の校長室で話をしている時も、鼻がもぞもぞして仕方がなかった。学校から帰宅して、どうしても午前中にしなければならない仕事を終えたら、疲れがどっと出た。実は土曜日から毎日、早朝にジョギングをしているからだ。寝不足の上にジョギングをしてシャワーを浴びるところまでは良かったが、その後がいけない。家内が出かけていたので、薬箱を取り出し風邪薬を飲んだ。少しばかりの睡眠剤が入ってるせいか眠くなった。いくら自然に逆らうと言っても、無理をすると体に異変が起きる。昼食後は家内に少し横になるとよいと言われて、うたた寝をした。風邪を引いたのは何年振りだろう、ティッシュを片手にくしゃみを連発していたのは、たぶんコロナが流行る前だったような気がする。健康だと自分を過信するが、限度がくれば体が警告を発してくしゃみが出たのだ。午後外に出る用事を済ませたら、風邪薬のせいか少し元気が出てきた。また書斎で仕事をしたが、ふと思う。自分ももう少しあるがままに生きて、ごろんと横になって体を休める方が良いと思うが、数分もすればそれも飽きてしまう。文脈は離れるが、新聞に、滴りといふ岩石の息づかい(望月清彦)の句があった。滴り(したたり)を岩石の息づかいとはよく言ったもので、小さな穴から息をしているとすれば岩石は生きている。日本列島に大雨を降らしたり灼熱の太陽を浴びせたり、それは地球が生きている証拠である。大地震が起きればそれはマグマが風邪を引いたようなものかもしれない。生きている地球の上に、生きている人間がいて、こまごましたことで喜んだり悲しんだり病気になったり回復したり、地球から見れば蟻の動きのようなものだろう。小さい蟻でも生きて行く上には、知恵を出さなければならない。風邪薬を飲むのも、ごろんと横になるのも、そして夜寝る時は長袖のシャツを着て手が布団から出ても寒くならないようにしようと、対策を立てるのも、人の知恵である。異常気象や大地震は自然法則にしたがって、偶然ではなく必然として生じたものであろう。人間社会の場合はどうだろうか、人間社会の法則は多分ない。それは人が知恵を持っていて、自然に対して対抗するので、予測ができないからだろう。

意欲の階段

今は土曜日の夕方、昼間は猛暑とも言って良いほどの暑さであったが、猛烈な雨が、雷と共に降ってきて、今は暑さがやわらいでほっとしている。と言っても、午前にオンラインの会議、午後は先ほどまでオンラインの研究会に参加して、一日が暮れようとしている。自分にとって嬉しいこともあれば駄目だなあと落胆することもあり、いつものことながら、この世のことは晴れたり曇ったり、快晴になったり大荒れの天気になったりと、揺れ動いている。今朝はずいぶん早朝に目が覚めて、なかなか寝付けれなかった。今日の午後のオンライン研究会に参加しなければならないから、寝不足では困ると思いつつベッドの上でゴロゴロしていた。これも歳なのかと思ったが、そうではなくて昨日はほとんど運動できなかった。運動不足ではぐっすりと寝られないという当たり前のことに気がついて、今朝久しぶりにジョギングをしようと思った。昼間に走れば正気ではなく、ほとんど熱中症になるだろう。朝ならなんとかなると思って、西方向の公園に行って戻ってきた。なんとなく気分が爽やかになった。このように数日を振りかえって、あれはプラスこれはマイナスなどと採点してみると、年とともにマイナスの回数が増えていくような気がする。それは仕方がないだろう、身体も脳も心も衰えていくのが自然だからだ。しかし今朝のジョギングのように、なんとか自然現象に逆らっていこうという気持ちがあるだけありがたいのだ。人が生活するとか仕事をするとか研究をするとか何か活動をするということは、自然に逆らうことだろう。逆らうにはエネルギーが必要で、その源は意欲だとすれば心である。極端に言えば、体が弱っても脳が働かなくなっても、心さえ前向きであればなんとかなるのだ。今朝ジョギングしたので明日もやろうと、また一つ意欲の階段を昇る気持ちになった。今朝のオンラインの会議でまたひとつ仕事が増えた。だからもう一つ上の階段を上る気持ちになった。しかし先ほどのオンライン研究会では、自分はまだ修行が足りない勉強不足だと思って、階段を一つ降りた。新聞に、もの忘れするたびに老い薄暑かな(相原清雄)の句があった。その気持ちはよく分かる。あれを忘れたこれも忘れたと回数が増えるたびに、自分の老いを自覚するのだ。意欲の階段を降りるごとに、自然に逆らうことを諦めるのかもしれない。まして酷暑の続く異常気象のこの頃は、テレビでも外出を控えるようにと警告をしている。しかし早朝など涼しい時間なら、運動するほうが健康的だ。しかし世の中全体は、どうも自然に逆らうことは推奨していない。安全な生活をするように指導しているが、それが人間にとって良いのかどうかは、わからない。外に出るなという警告はもちろんよくわかる。よくわかるが、どこかしっくりとしないのは、なぜだろうか。

専門と雑用

今は火曜日の夕方には少し早い時刻だが、ブログを書こうと思う。夕方にオンラインの会議に参加しなければならず、その後に時間が取れず今の時間にシフトしている。いつものことだが、ブログには平凡な毎日の出来事を書くしかないので、面白いネタはあまりない。こんな時、新聞記者の気持ちが少しだけわかる。何か読者があっと驚くような面白いネタはないかと、2人の新聞記者が雑談している光景に、もう何十年も前に出会ったことがある。つい先ほど、会計士からの依頼で税務署への振込用紙の書類とか、団体理事会の議事録署名のサインとか、およそ面白くない事務処理をしていた。これを通常、雑用と呼んでいるが、なぜ面白くないのだろうかとふと考えた。そんなつまらぬことを考えて、お前は暇なのかと言われそうだが、事務職の人はこれが面白いのだろうか、それともやはり面白くないのだろうか。企業の経営者の方とも付き合うことがあるが、自分にとってはあくびを噛み殺すのに精一杯なのだが、貸借対照表は彼らにとっては、生きている数字であって、とても退屈するどころではない。面白いか面白くないかは別として、真剣に見る書類だということは、人によって違うということだ。昨日都内で対面の会議があった。GAFAは世界中から富を集めていて、スマホを使えば使うほど、お金はこの数社の大企業に流れていくのだというNHKの番組を大学生に説明したら、これまで見たことないような真剣さで講義を聞いていた、と言う。とすれば、講義の面白さもつまらなさも、その人の特性に依存することになる。同窓会があって、今でも山登りをしている古い友人が、体に負担がかからないと面白くないと言っていたが、自分も同感した。近所を散歩しても何も面白くない、ジョギングならば何か達成感があって、どこか面白い。それは体に負荷をかけるからだ。今日振り返ってみても、自分の専門の分野は、脳のどこかに負荷をかけて、いろいろ考えることが多いので面白いのだろう。今の世の中では、苦労をしないこと優しいこと分かりやすいことなどを目標にして、授業をしたり自らもそのような道を選ぶことが多いのだが、実は逆ではないのか。自分の専門や自分の仕事に関わることは目の色が変わり、あーでもないこーでもないと、ある面で苦しんでいる。しかしそれが楽しいのである。それが専門分野という意味ではないのか。新聞に、夕方の職員室のコーヒーが教師をただの大人に戻す(猫背の犬)の句があった。教師の専門である授業をしたり生徒を指導したりしている時の顔つきは、多分緊張し自分にプレッシャーがかかり、負荷がかかっているのであろうが、それが終われば文字通りただの大人になる。そう考えれば、負荷がかかること、それは苦しみではなく喜びなのだろう。少なくとも今日の自分の活動を振り返ってみれば、雑用と専門的な仕事の間には、天と地ほどの差があって、専門の仕事は苦しみながら楽しんでいる。

心豊かな生活

今は土曜日の夕方、と言ってもまるで白昼のような空の光景である。書斎は西向きなので西日が入り込んでくるから、薄い白いカーテンにグレーの厚手のカーテンを重ねて、さえぎっている。いつもの通りスポーツジムに行って、運動をして汗をかきプールで泳いで汗を流し、ミストサウナに入って体内の老廃物を外に出しシャワーを浴びてさっぱりして帰宅した。冷水で喉を潤し、我が家の庭で採れたグレープフルーツを食べた。いつもの献立で、酸っぱいビタミンCが無性においしいのは、体が要求しているからだ。梅雨に入ったとは言え、異常気象なので暑い日が続いている。今週もいろいろなイベントがあったり会議があったり同窓会があったり、様々な出来事が過ぎていく。そんな活動があるたびに、緊張したり不安になったり、ほっと胸を撫で下ろしたり喜んだり、人間はなんと忙しく感情の浮き沈みがある生き方をしているのだろうか。今日午前中は、ここ1週間ほどずっと取り組んでいる仕事をして、ふと道筋が見えてきた。あっそうかと独り言を言ったが、何か無性に嬉しくなった、といっても他人に話すほどの内容ではないが、自分にはそんな小さなことでも、子供のような喜びを感じる。なぜだろうか、年齢と共に若い頃のような大きな活動や心躍るような華やかさはないが、小さいけれども似たようなワクワク感を感じる時がある。今朝もメールを見たら、著名な海外のジャーナルに論文が採択されたという古い友人からの知らせがあった。文字が喜びで踊っている。生涯を賭けた論文なのかと、その文面から伝わってきた。そんな嬉しい知らせもあれば、別の友人は家族に不幸があり自分自身も大手術をして、今は元気で暮らしていると、何事もなさそうに同窓会で自分に語った。さぞかし大変だったろうに辛かっただろうにと思ったが、彼の表情を見て、人は何と強く生きられるのかとも思った。2週間ほど前の新聞に、かなしみも老ゆれば遠き花あやめ(田辺英男)の句があった。作者は悲しい出来事に出会ったのだろう、それでも目の前にある華麗な紫色をしたあやめを見ていると心が癒され、悲しい出来事も遠くに行ってしまう、今はただ美しい花を愛でることで、楽しい気持ちに浸ることができると語っている。そしてふと思う、年を取るごとに、悲しい出来事やつらい出来事は少しずつ遠くに去っていき、嬉しい出来事や楽しい出来事はそれが小さなことであっても、振幅の大きい喜びになるのではないだろうか。とすれば老いることは決してつまらぬことではない、むしろ心豊かな生活ができる老境に入ることなのだ、と言いたいが、世間では賛同する人は少ないかもしれない。しかし、そう信じている少数派として生きていたい。

総会

今は火曜日の夕方、窓の外は曇りのような晴れのような、わけのわからないような空である。このブログを書けば、今日も一日終わる。今日の出来事を書いても、あまり記憶に残るようなこともないので、昨日のことに触れたい。昨日は自分の所属する団体の総会であった。大学にいる時は総会とはほとんど縁がなく、せいぜい学会の総会ぐらいであって、ほとんど気に留めなかった。しかし団体役員になってみると、この総会というのは、極めて比重が高いのである。団体に所属する正会員の半数以上が参加しなければ総会が成立しないので、大変なのである。総会が成立しなければ、昨年度の事業や決算などが成立せず役員人事も承認されないことになる。これは団体にとっては一大事になるので、スタッフが揃って総会の参加数の確保に大わらわになる。今のご時世なので、対面だけでなくオンラインでもよし、委任状も有効数としてカウントするので、大抵の場合は問題ないが、団体活動にあまり興味がない会員は、依頼に対して回答しない場合があるので厄介なのである。都内の某ホールを借りて、午後1時半から午後6時まで数分の狂いもなく予定通り進行して終わった。三部構成になっており、一部は正式な総会、二部は基調講演と活動報告、三部は懇親会である。月曜日の午後なので、対面にしろオンラインにしろ、総会に参加するには仕事を中断しなければならない。仕事を辞めても参加して良かったと思える内容にすることが、事務局の仕事なのだが、言うは易く実行は難しい。自分は一応団体の代表なので、内心緊張もするが表に出さず、臨機応変に対応するのが仕事である。省庁関係の招待者に挨拶をしたり名刺交換をしたりという、いわばホスト役なのである。ゲストに対するホストの役割とは、参加して良かった来年また来ようと思ってもらうことである。それには満面の笑みを浮かべて頭を下げ応対に徹することである。大学に勤めていた頃、自分にとっては天の上のような存在である先生が、今の自分の立場の時に、頭を45度ではなく90度まで下げて、にこやかに応対されていたこと覚えていて、自分は今それを真似ているだけである。懇親会では、皆さんの席に行って懇談するのが自分の役なのだが、参加者から自分のところに来ていただけるので、誠に恐縮した。こうして総会という大一番が無事に終わった。昨年に比べて、今年は段取りやら進行の仕方も進歩したようだ。それは昨年の反省点を今年に生かすからである。文脈は離れるが新聞に、けふ千歩あすは二千歩夏帽子(渡辺美智子)の句があった。この方は足のリハビリをしているのだろうか、昨日よりも今日、今日よりも明日と少しずつ歩数を伸ばして、自分と戦いながら回復を目指しているのだ。総会の運営も同じで、昨年よりも今年、今年よりも来年と、さらに充実しなければならない。そうでなければ、会員の皆様に来ていただけないのだ。そう思えば、いくつになろうとも、人も絶えず前に進まなければならない。

運動不足

今日は土曜日の夕方、つい先ほどまでオンラインの会議があって、午後1時からずっと画面に釘付けになりようやく4時半に終わった。少し休憩して近所の弘法大師のお社まで散歩して、といっても数分程度なのだが、書斎に戻り5時過ぎからこのブログを書いている。何と言っても今日は運動不足で、通常ならスポーツジムに行って汗をいっぱいかいて、すっきりした気持ちで画面に向かっているのだが、午前と午後一日中、書斎で仕事をした。やはり人間は頭を使うことと体を使うことのバランスが大切で、今日は運動量が足りない。思いっきり走ってみたいと思うが、まあ無理だろう。昨日が確か夏至だったせいか、外を見ても夕方という感じはしない。それでもブログを書いている時間は緊張がないせいか、書斎の窓から空を見ても、どこか優しさを感じる。先ほどの散歩では、土曜日のせいか、近所の人たちも庭の手入れをしたり、所在なく小川を眺めたり、スーパーから幼子とゆったりと帰宅している親子連れがいたり、どこか初夏の気だるさが漂っている。今日は運動不足だったが、昨日は運動過多であった。午前と午後に外出したのだが、事情があって両方とも徒歩で出かけた。特に午前は片道40分もかかる距離だったが、歩いて出かけると決めていた。いつもは車で出かけるのだが、雨が降ると踏切で大渋滞になる、そのイライラが嫌で昨日は歩くと決めていた。定例の学校訪問だったので遅刻はできない。片手に鞄を持ち傘をさして長時間歩くとかなり疲れる。午後の徒歩の時間は片道20分程度でちょうど良かった。夕方はオンラインの研究会で一日を終えたが、その間にも些細な用事があって外出したので、相当の歩数に達しただろう。そして今日はほとんど歩いていないのだから、なんともこの世の中は、あまのじゃくにできている。しかし、これが誰でも経験する世の常である。新聞に、踏切の警報長し夕薄暑(松本弓子)の句があった。昨日の新聞の埼玉版で見た俳句であるが、薄暑とはちょうど今頃の季節、初夏の季語であるが、昨日は薄暑というより、酷暑ほどではないが大雨と汗で下着が肌にびっしりとまとわりついて、その蒸し暑さが長時間の徒歩で疲れを増大させた。しかし昨日の徒歩は正解だった、踏切でイライラすることもなく体を動かした心地よさで、夕食も美味しく、ぐっすりと快眠であった。しかし今日は違うから、体がなまって、走りたいがそうもいかず、居間でストレッチ運動でもして体内の老廃物を外に出そうかと思う。まあまあこれで1週間の仕事も終わった、明日は日曜日、ようやくスポーツジムに行ける、お昼は回転寿司屋へ行って、好きな寿司ネタを味わおうか、そんな小さなことでも、今の自分には極上の癒しである。

不幸の前兆

今は火曜日の夕方、窓から見る外は久しぶりの雨が降って、心が落ち着く。もう何日振りだろうか、夏空の照りつけるような季節外れの天気が、ようやくこの季節にふさわしくなった。まだ梅雨は来ないようだが、いずれ梅雨の季節を迎えるだろう。雨が降らなければ農家は大変な痛手となり、一般市民も野菜が値上がりしたりするので、誰もが困ることなのだ。春夏秋冬、自然のまにまに世の中が過ぎていけば、平穏なのである。しかし自然のままに行かないのが、またこの世の中でもあるので、最近我が身にも小さいことだが、信じられないようなことが起きてきた。外出して帰宅してみたらズボンにペンキがついていた。ペンキのあるようなところに行ったこともないのに、なぜだろうか。昨日学校で講演をするので、会場でパソコンをプロジェクターを接続したら、なぜか画面にマウスポインターが見えなくなった。こんなことは初めてだったので焦った。数日前、腕に傷ができて血が出ていた。すぐに処置をしたが、全く記憶がないのだ。俺は認知症になったのかと、自分だけでなく誰でも悪いことを予感するだろう。ここ1週間ぐらい、我が身に病気とか怪我とか事故とか不吉なことが起きる前兆なのだろうかと思っていた。だから今日は一日中雨降りで、午後は書斎で過ごすしかない、少し憂鬱な日になるのかと思っていた。ただ午前中は学校訪問をするので、いつもは車で出かけるところを、何故か今日は雨の中を傘を差して歩いて行こうと思った。久しぶりの雨だから、そんなに遠くもないのだからと、ふと思ったのだろう。歩いてみると、雨降りのためか目抜き通りは車で大渋滞していた。帰宅して書斎に向かっていると、次々とメールが入ってきて、不幸な予感はすっかり忘れてしまった。公開ブログなので私的なことは書かないが、自分にとっては嬉しい知らせがいくつかあった。なんだ不幸の前兆ではないのか、自分で勝手にそう思っていただけなのかと思うと、つまらぬことでくよくよしている自分が馬鹿々々しくなった。とは言うものの、現実世界には本当に厳しくて、もがいている人もいるようだ。新聞に、夫の句に夫の苦悩や栗の花(松養花子)の句があった。申し訳ない、この人の苦悩は自分はわからないが、ただただ、この先きっと解決すると言いたい自分がいる。たぶんそれはこの人にとって気休めにすぎないだろうが、このご主人も奥さんにすべて話せば、苦しさも半減するだろう。いやもうその時点で解決に向かっていると自分には思える。一歩踏み出せば必ず飛躍につながる、楽天的だと言われるかもしれないが、これまでの長い経験でそう思う。

日常と非日常

今は土曜日の夕方、といってもまだ外は暑い。昨日今日は真夏の天気で、テレビニュースを見ていないが、多分30度を越したであろう。公開ブログなのであまりプライベートなことは書きたくはないが、昨日秩父の長瀞の温泉に一泊し、今日帰ってきた。秩父の札所を巡って御朱印を押してもらい、温泉に浸りたかったからである。家内がどういう訳か御朱印帳を買ってきたので、札所巡りをすることになったのだが、秩父の札所はもう20カ以上は訪問したと思う。ただ御朱印を押してもらうのは初めてなので、信心深くはないが、多少のご利益はあるかもしれないと思い、といっても一番の目的は温泉である。誰でも温泉に入って美味しい料理をいただければ、この世の極楽だと思って、浮世の憂さを晴らすのは嬉しいに決まってる。特に朝の露天風呂は緑の木々に囲まれてさわやかな風が吹いて、癒しとはこのことかと思うぐらいリラックスできる。それは非日常だからである。日常では朝からお風呂に入れるわけがない、しかし年中日常だけの生活に追われると人は疲れるし、生きている張り合いもない。だからお正月は朝からお酒をいただき酔っぱらっても誰も文句を言わない、それは非日常だからである。一日の中でも夕食の時は、お風呂に入ってお酒を飲んでテレビ番組を楽しみという、昼間の日常から離れるのである。1週間のうち土日は非日常の生活を送ってもよく、1年でも夏休みのような長期休暇も許されるのは、人間の優れた知恵なのだろう。考えてみれば、日常と非日常のバランスの上に我々の生活は成り立っている。新聞に、再入場できぬと書かれた美術展を出て日常に再入場す(武藤義哉)の句があった。美術館で優れた作品を鑑賞するのは非日常で、外に出ればまた日常に戻るのだ。この作者はそれを日常に再入場すると表現しているところが、意表をついて、そして素晴らしい。なるほど日常はいつでも戻れるのか、それは大変ありがたい。どんないたずらっ子でも、両親は最後には許してくれる、それは両親の我が子に対する愛情なのだ。そう思えば、日常とは、いつでも我々を引き受けてくれる慈悲深い仏様のようなものなのか、御札参りをして御朱印の影響なのか、ふとそんなことを思った。ただ問題は、戻る日常があるかどうかである。高齢になると、仕事がなくなり、することがなくなり、日常がなくなっていく。日常がなくなれば、論理的に非日常は生まれない。毎日温泉旅行に行くことは日常にはなり得ず、苦痛でしかないであろう。そう思えば、仕事があり、するべき事があるということは、なんとありがたいことなのか、自分もいずれ日常がなくなる時が来るだろう。そのときは自分で新しい日常を作り出しかないのか、そんなとりとめのないことを考えながら、書斎の窓から南の空を眺めている。

感情の起伏

今は火曜日の夕方、窓から見る外は初夏というより真夏のようで、ほとんど雲が見えない。今年も異常な天候のようで、今日もいろいろなことがあった、といってもブログに書くほどのことでもない。人が生活するということは、とりたてて他人に語って聞かせるほどの出来事はないのが普通で、何かあるとすれば多分あまり良い話題ではないだろう。だから平凡に暮らせれば、それはそれで有難いと思うしかないだろう。しかしふと思う、それで楽しいのだろうか。毎日の生活は、楽しいというより時間が過ぎていくという方が普通だろう。つまり楽しいとは感情であり、時間が過ぎていくとは物理的な描写である、つまり心が動かされていない状況である。何かあれば、心がワクワクしたり緊張したり不安になったり後悔したりなどの感情が伴うのが自然だと思っていたが、どうも最近そうでもないかもしれないと思うことがある。日常的で平凡なことは、感情は素通りして、出来事だけつまり時間だけ過ぎていくのだ。プラスの感情が起きるなら歓迎だが、マイナスなら逃げたいと思うのが人情だろう。だから取り立てて何の感情も揺り動かされないとすれば、物理的な事実だけが過ぎ去っていく。うーんそのような状態は良くないだろう、人が毎日出来事に出会って、喜んだり悲しんだりする方が、どこか人間らしい気がする。平凡だが、生きることが実感できるからだ。自分を振り返ってみると、少し感情の起伏が小さくなったような気がする。ただし、面白いと感じるのは、新しいものにチャレンジしている時、チャレンジというより作り出している時である。どんな小さなことでもそれは楽しい。小さな旅行だがその計画を立てている時、自動車ナビで新しいやり方を見つけた時、学校の授業参観で授業を見ながら、こういうことかと気づいた時、歯間ブラシで歯をきれいにする新しい方法を見つけた時、パソコンで新しい設定の仕方を見つけた時、などこまごました小さなことだが、それでも楽しい。そんな時は、なぜかタイミングが合って、ラッキーと言いたくなるような瞬間がある。これに対して、平凡に何事もなく進んでいる時には、そのような出会いがほとんどない。平凡であるということは有難いのだが、何も面白くはない。新聞に、古希になり大きく見えるお月さま欲やしがらみちょっと吹っ切れ(小森きよし)の句があった。本当なのか、そうだとすると誠に羨ましい。自分などは未だ煩悩があって、なかなか吹っ切れない。ただ欲やしがらみがあるから、感情が揺れ動くのかもしれないとすれば、どちらが幸せかわからない。平穏な毎日を送るのか、多少の感情の起伏を経験しながら、苦しんだり喜んだりして時を過ごす、どちらが良いのかわからない。できれば嬉しい感情だけが起きるような出来事に、毎日遭遇して生きていたいと思う。まだまだ悟り切れていないようだ。