秋深し

今日は月曜日の夕方だが、同時に休日なので3連休の最終日である。今日ブログを書くのは、明日は都内での仕事が山積しており帰りが夜になるから、休みの今日に繰り上げた。今日のブログを見越して、土曜日ではなく先週の金曜日に前回のブログを書いた。義務ではないのだが、一度ルールを踏み外すとそれに慣れて楽な方に流れるのが、悲しいかな凡人のさがである。休日なのでオンラインなどの仕事はなかったが、私的な用事でともかく忙しい一日だった。午前中は、これも自分への約束事だが、文献調査をしたり原稿執筆をしたり審査系の仕事をしたりなどの本来の仕事をした。これも習性でそうしないと何か落ち着かなくなる、背中がモゾモゾする様な感じなのだ。今日は貯まった私的な用事をまとめて片づけた。午後に100円ショップへ出かけ、その後長い間心待ちにしていたカレー屋さんで昼食をとった。たかがカレーかと言う勿れ、スパイシーの効いた野菜カレーは、ジャガイモはこれほど美味しいかと思うほどで、苦手な人参すらこんなまろやかな味だったかと思った。家内はカツ野菜カレーだったので、少し高級だった。その後月一度のお墓参りをした。報告することやお願いすることはいっぱいある。孫のこと子供のことそして自分たちのことである。ご先祖様を喜ばせる報告をするのが常識だろうが、自分たちはほとんど願い事である。効果があるかどうかわからないが、お参りするだけで背負った荷物を降ろしたような気持ちになる。その後ユニクロに行って買物をし、電気屋に行ってプリンターのインクを買った。戻ればもはや3時過ぎだった。一息ついたが、もう一つやらねばならぬ事があった。3時半から重い腰をあげて畑仕事をした。もうしばらく草取りも何もしていないので、鍬を持つ手がだるい。こんな時、誰でも今日は止めておこうかという悪魔のような囁きが聞こえてくる。これに引っかかると、ブログを書くのと同じように、その先は確実に坂道を転んでいく。上着とズボンを着替え長靴をはいて鍬を持つと、それだけで心が決まる。終わってみれば、1時間鍬で土を耕したので、雑草が生えていた緑っぽい平面が、黒っぽくて若々しいような土色に変わった。家内が土の栄養剤をまいたので、近日中に植える玉ねぎが育つだろう。それを見た時、何か今日は良いことをしたなあと、ふと思った。青空いっぱいの秋である。文脈は離れるが新聞に、永遠のごとき放課後秋深し(月城龍二)の句があった。子供は夢中になって放課後を遊んで過ごす、いつまでもいつまでも時間を忘れて遊んでいる、いつの間にか日は暮れてきて家路に急ぐだろう、その光景は秋深しの形容がぴったりで、子どもの声や童謡が聞こえてきそうである。自分も畑仕事が終わってみれば、秋深しの季語がふさわしい。子供のように書斎に入ってブログを書き、その後夕食になる。今日も一日つつがなく終わる。

秋の夜長

今日は金曜日の夕方、というより書斎の窓から見れば外はもう真っ暗な夜である。今日から11月、あっという間に今年も後2ヶ月になった。今年のお正月は何をしたのだろうか、もう10ヶ月も過ぎたのかと思うと、夢でも見ていたのかとさえ思う。毎日何事もなく過ぎていけば平穏なのだが、それは嬉しいような嬉しくないような、退屈なような退屈でないような気がするのは、自分にもまだエネルギーが残っているからだろう。昨日は都内で小学校の授業を参観し、その後のシンポジウムでコメントをしたり感想を述べたりしたので、一応自分の役目は果たした。ただ若い頃のような感じ方と昨日では少し違うようだ。年を取ったのだから当然だと思うが、何と表現していいかわからないが、今は話の勢いが弱くなった。若い頃は、周りの評価もあまり気にしないで前だけを見て進んでいたような気がする。そういえば学会では赤堀節などと呼ばれていたようだが、自分は人前で話すのはあまり好きではなく得意でもない。なぜか思ったことが素直に思った通りに言えないのだ。話している間にいろんな雑念が浮かんできて、それが急に口に出るものだから、文脈が途切れて、たぶん聞いている方はおかしいと思っているに違いない。話が終わった後、自己肯定感が下がるのである。ただ関係者は、忖度しているのか気を使っているのか褒め上手なのか、自分が喜ぶような感想を言ってくれるのだが、自分では役目をあまり果たしていないような気がする。そんなことを考えると毎日落ち込むことになるので、うまくいくこともあれば、そうでないこともあると、自分で自分に言い聞かせている。多分誰でもそんなことを思いながら、毎日を過ごしているのかもしれない。自分の弟子や知人も、先生みたいに生きてみたいと言われることも多いのだが、社交的なお世辞かと思っていたが、どうもそうでもないらしく、傍目から見ると自分は好きなように生きて、落ち込むことはないと信じているらしい。しかしどんな人も必ず浮き沈みを感じながら、自分はダメだと思ってみたり、今日はうまくいった、まんざらでもない日もあるのかなどと思ってみたり、誰でも同じなのだ。今日のように平穏無事で静かな夜を迎える時ですら、これでよいのかと自分に問うのだ。文脈は離れるが新聞に、一つ置くグラスの中の秋灯(小町季生)の句があった。ウイスキーだろうか、飴色の液体がグラスの中を彩付けして、透き通った角氷が表面に浮かんでいて、飲むたびに角氷のぶつかる音がして、それを眺めていると今日はどんな日だったかと、自分と話をしているような気がする。この句を読むとそんな想像をしたくなる。グラスの中に天井にある電燈が映っているのかもしれない。自分もお風呂から上がって、毎晩晩酌をしているが、ほとんどオンザロックと水割りのウイスキーである。日本酒があまり飲めないからだが、小さな酔いが疲れを癒してくれる。この作者は自分と同じ自宅なのだろうか、あるいは高級なお店なのだろうか、どちらにしても人は夜になると嬉しかったことも切なかったことも、晩酌の杯を友にして、秋の夜長を感じながら自分と語るのだろう。

秋刀魚

今は火曜日の夕方、といっても書斎から見る空はもう真っ暗で、日が短くなった。今日は比較的時間的に余裕があって、ゆっくりと仕事をさせてもらい、歩いて行ける距離の用事をいくつか済ませた。小雨が降っていたせいか肌寒く、ジャンバーを着ていないと風邪を引きそうだった。寒暖の差は激しく、これも異常気象なのだろう。これでは体がついていかない。政局も同じようで、予想以上の大差で自民党が敗北を喫した。やはりこの世の中は動いているようで、自分はもう少し緩やかな選挙になるかと思いきや、まるで異常気象のように揺れ幅が大きかった。政治には大した興味もなく距離を置いているが、それでも選挙前の党首会談で石破首相がきっちり受け答えしていた姿に共感を覚え、密かに応援していた。一つ一つの言葉に重みがあって朴訥ではあるが実行可能な政策を披露していたのだが、メディアの論評は厳しく自民党に不利なように聞こえた。世の中の諸相はその通りだろう。金と政治というキーワードだけですべて灰色に包まれて、全てが疑心暗鬼になるのだろう。これも世の常なので、市井の凡人が感想を述べたところであまり意味はない。世の流れに従って政局は動いていき、庶民の生活もその影響を受けながら緩やかに変化していくだろう。自然の変化も政治の変化も技術の変化も激しく、世界を見れば我々の見えぬ変動が、まるで地殻のマグマのようにいつ地上に現れて人間の生活を脅かすかもしれない。そんな不安感を誰も持っているだろう。その不安感を除いてくれるのは、昔から変わらない生活そのものである。朝夕めっきり涼しくなった。外気に触れてやはり秋はやってくるのか、玄関先に植えてあるハナミズキの葉っぱがいっぱい落ちて、赤茶けた石畳になっているのを見ると、自然は忘れていないのだとほっとする。昨日も今日も新聞は選挙の報道ばかりで、今週は短歌と俳句のページがなかった。だから少し趣旨と外れるが、先週の新聞から引く。来賓も秋刀魚祭りの煙(けむ)の中(山口良子)の句があった。なんと美味しそうなのだろう、サンマが火で炙られて、じゅうじゅう音を出しながら煙で辺りがいっぱいになった。テントで囲まれた来賓席にも煙が漂ってきたが、その美味しそうな香りを嗅いで、来賓もニコニコしていたのかもしれない。あの少しほろ苦い味は、秋そのものであり、確かな秋の手応えである。変わらぬ生活の場面に触れるとき、人は我が身を委ねながら、厳しい浮世に備えているのかもしれない。

予定外

今は日曜日の早朝、異例の時間のブログなのだが、昨日は帰宅がほぼ夜になって、書く時間がなかった。なるべく土曜日中にという気持ちはあったが、どうしても予定通りいかなかった。金曜土曜と2日間にわたって、ある教育団体の大会に参加して、土曜日はそれでも少し早めに帰ったのだが、夕食の時刻になった。参加する前は正直に言うと、あまり乗り気ではなく、できれば両日ともなるべく早く帰宅したい思っていたのだが、金曜日は懇親会があったので夜遅く、土曜日は上記の通りであった。こんな小さなことでも、頭の中は予定通りに事を運びたいという思いが強く、いろいろ試みていたのだが、現実にはその通りにはならない。そしてふと思う、こんな小さなことをどうして人は予定に固執するのだろうか、日曜日の早朝にブログを書けばいいではないかと思い至るのに、時間がかかった。金曜日も懇親会に出るかどうか実は迷っていた。大会の責任者に、申し訳ないが懇親会は失礼させていただきたいと言ったのだが、懇親会場が凄い会場だからと、あなたは招待だからという声に引きずられて、参加した。この週末の2日間を通じて学んだことがある。それは予定は未定であり変わることにも意味があるという、平凡のような非凡のような知恵である。昨日ブログを書いていれば気が楽だったかもしれないが、ただそれだけで夕食が遅れれば家内に叱られる。金曜日の懇親会では素晴らしい経験をさせてもらい、大勢の人と情報交換でき本当に良かった。そして何よりも思ってもみなかったような素晴らしい研究成果をもらった。どんな研究発表でも実践発表でも、聞き方や受け取り方によって天と地ほどの差がある。なぜかそれは予測できないのだ。土曜日も研究発表の教室を間違えて参加したが、振り返ってみるとそこから気づくことがありヒントをもらった。そうかそうだったのか、それは予定外の出来事だった。昼食でふと挨拶を交わした先生方がいた。詳細は書けないが、そこから予想外のアイディアが浮かんだ。ブログで書くと、なんだそんなことかと思われそうな小さなことなのだが、自分にはそれが無性に嬉しいことだった。他人が聞けば意味のないことでも本人にとっては宝のような気づきがある。今日は日曜日、朝食を済ませたらすぐに衆議院選挙の投票に行く。結果はどうなるのか天のみぞ知る。予想通りなのかそうでないのか分からないが、そのどちらにも大切な意味がある。土日のイベント会場で大勢の人たちと名刺交換をした。昔と変わらないなあと、よく言われたが、あえて言えば自分はまだ燃えるものがある、やってみたいことがある。文脈は異なるが新聞に、あの頃に戻る気がするそれ故になお捨てがたき古き名刺も(飛田多恵子)の句があった。たぶん世間の年配者はこの通りだろう。しかし今の自分は古い名刺は見たくもなく、過去を懐かしむ気持ちは皆無である。そもそも名刺にあまり興味がない。今、やるべき仕事があれば、健康であれば、家族がいれば充分である。それはすべてが順調という意味ではなく、波風のある生活であるが、まだ舟を漕いでいて、先に進んで、どんなことが起きるのか見てみたいという意味である。

秋の1日

今は月曜日の夕方と言っても、かなり外は暗くなって夜といってもおかしくはない。つい先ほど都内から帰ってきたばかりである。月曜日だが、明日の夕方は全く時間が取れず、今日でしか書けない。都内に出かけると、ともかく人が多いのでそれだけで疲れるのは何故だろう。人はそこに居るだけで何らかのエネルギーを放出して、周囲の人に刺激を与えているのかもしれない。それが良い場合もあれば疲れる場合もあるだろう。ほとんどが疲れるので、自分は本を読んでいる。小説も読みたいが最近は専門書が多い。専門書を読んでいると、寝不足の場合には頭が働かないが、どこかで脳の琴線に触れると、ハッとして頭全体が活性化する。時に降りる駅を確かめないと乗り過ごすことになる。そして会議に出てあれこれ発言していると、脳はそれ向きに必要な情報を集めてくるようで、それなりの仕事が出来る。今日は午前中と午後に対面での会議があって出かけたが、子供のようだが、お昼ご飯が楽しみだった。職場近くの馴染みの食堂でカツ丼を食べた。この店のカツ丼は自分の大好物で、食べ終わると充実感がある。食事なのに何を大げさなと思われるかもしれないが、午後の会場に行く電車の中で、何度もあの美味しいカツ丼を思い出した。カツと卵の絶妙な味のバランスが、白いご飯の上に乗っかって、それが喉元を通り過ぎる時、少しオーバーだが幸せを感じる。今日の天気は平年並みの秋の気温で優しい風が都心のビル街を吹いていて、ところどころに都会にふさわしい常緑樹が少し揺れている。空を見ると青空と白い雲のコンビネーションが、なぜか秋を感じさせた。ほとんど文脈はないが新聞に、焼きいもは新聞紙にて包(くる)むべし湯気にふんわり土の香のして(唐木よし子)の句があった。この句の作者の気持ちはよく分かる。焼き芋が新聞紙にくるまれていると、この芋はこの前まで畑の中に植えられていたのだろう、焼き芋を見ると自然に秋だなあと思うのかもしれない。湯気が立って、ホクホクのそれは、秋への郷愁である。自分のお昼のカツ丼も同じような気持ちだった。午前の会議も午後の会議も、意見が対立するわけでもなく平凡な議事進行のもとに、何事もなく終わった。爽やかな秋風のように、暑くも寒くもないちょうどよい秋の日差しのように、穏やかな一日の仕事が過ぎていく。ただ明日は自分にとっては波風の起きる荒れ天気になるかもしれない、というより、ここ大一番の会議がある。しかし、今こうしてブログを書いていると、それも平穏な会議で終わるかもしれないと、ふと思った。それは、今自分が穏やかな心境だからだろうか。里の秋の童謡を思い出した。今日は静かな秋の1日だった。

セミナー

今は土曜日の夕方、と言っても新幹線の中である。先般も金沢に出張して、新幹線の中でブログを書いたので同じ状況である。岡山からの帰りの新幹線なので、仕事が終わって気が楽である。歳を取ると、ハラハラドキドキはもう御免で、ワクワクしなくてもいいからユッタリとかノンビリが良い。長く生きていれば、いろんなことが起きて、その経験をしているから、少々のことでは不安になったり悲観したりしないと思うのは、嘘である。若い頃と同じように、いつもブログで書くように、さざ波のように、絶えず小さな心配事や、ほっと胸を撫でおろすことが、起きてくる。昨日の夕方まで所属団体の会議の仕事があって、都内の事務所で参加したが、オンラインなのだが、いつもより少し参加人数が少ない。こんな小さなことでも、どうしようかと不安になる。自分は司会役なので委員の皆さんよりも気を遣うが、意見交換会の時間になって、ふと思った。せっかく人数が少ないので、議論を多くしようと思ったら、次々に的確で本質的な意見が出てきて、終わってみれば、これまでにないような有益な会になった。そうか、参加者が少ないことは、不安になることでも悲観することでもないのだ。昨日の夜岡山に着いて、今朝からほぼ夕方までセミナーに参加した。午前中に自分の出番があった、と言っても司会役だったので、発言時間は短いので、気楽だと思っていたら、今朝になってホテルで、いや待てよ、このスライドでは論旨が嚙み合わない、数枚を作り直そう、と思って、修正した。今日の本番になったら、発表者のプレゼンが素晴らしく、いつの間にかその世界に入り込んだ。始めに話すイントロはそのままだったが、後半のスライドは今朝作り直した1枚だけを提示し、すべて見せずに終わった。参加者からの評価というか、満足度はたぶん良かったのではないかと思う。それは、2人の発表が、胸に飛び込んでくるような内容だったからである。終われば、もう心配はないのだ。教育の発表は、結局人間とは何かを追及しているような気がする。それは自分を含めた3人の一致した感じ方だったと思う。文脈は違うが、新聞に、みすゞ読む秋の日差を栞(しおり)とし(小町季生)の句があった。金子みすゞの「みんなちがってみんないい」は誰でも聞いたと思うが、それはこの言葉に誰でも共感するからだろう。この作者は、みすゞの本を読んでいて、ページを閉じようとした時そのページに秋の日がこぼれた、という句で、情景が目に浮かぶ。秋の良い天気に読書をしながら、夢中になって、その世界の人になった。本を閉じようとした時、秋の日差しが入ってきたことに気が付いた。その光景は、自分の今日のイベントに似ている。夢中になって分からなかったが、終わった時、自分は現実の会場の人になった。

禊(みそぎ)を終える

今は連休明けの火曜日の夕方、書斎から見る南側の空は、昼間の溢れる日差しの光景と違って、空全体に雲が広がってマンション群を包み込んでいる。つい先ほどオンラインの審査系の仕事が終わった。今日は朝から先ほどまで休憩する間もなく気を抜く暇もなく緊張しながら神経を使いながら、ようやくほっとする時間がやってきた。連休明けは大抵がこんな状態になるのは、連休で緩んだ糸をピンと張るような仕組みなのだろうか。ピンとしつつも時には緩やかにという繰り返しで、この世の中はバランスが取れるのだ。それでも何故か都合の悪いことが繰り返して続くことがある。ブログといえども面白くないことやプライバシーに関わることは書きたくないので、詳細は書かないが、ここ数か月いろいろなことがあった。なぜこんなに嫌なことが続くのか面白くないことが続くのかなど、嘆くことがあった。しかしそれは、世間ではどうも小さなことらしい。家内に聞くと、近所の噂話や趣味の会での友達などの家庭や生活の状況を聞くと、そんなことは当たり前、それが生活そのものだと言う。そうか自分だけではないのかと、多少安堵する。しかしなんといってよいのか、1週間ぐらい前にその不幸続きというか天からのバッシングというか、そんなことがピタリと無くなった。自分の本音は、禊が終わったのだと思った。何を古風なと思われるかもしれないが、本心である。この世の中には、論理や理性で割り切れないことが続けて起きる。何をやっても好ましい結果が出ないことがある。しかし、ある日を境にベストタイミングになることがある。例えば文献を読んでいて、欠伸ばかり出そうな本であったとしても、あるタイミングでふと本質が見えることがある。そのページを境にきらめくような知の泉に触れて、宝物を見つけた子供の心境になる。それまでは時間つぶしとか何の為なのだと後悔することが続いていても、あるページを境にして逆転する。まるでカードが裏表になるのだ。カードであれば悪いカードばかり続くことは自然ではない。確率的にあり得ないのだが、人の世は自然ではないことが、起きるようだ。だから常識で割り切れない。ただ好転する日を待って努力するしかないのか。それまでは禊だと思うしかないだろう。 新聞に、猛暑にもいつかは秋がやってくる大渋滞を抜け出るように(武藤義哉)の句があった。誰も経験しているように、大渋滞に巻き込まれるとただ待つしかない、待つ時間は禊なのだ、世の中はそれでもうまくできていて、いずれ大渋滞を抜ける時がやってくる。空いている道路を運転すると、口笛を吹きたくなるような開放感で満たされる。確かに猛暑もいずれは秋に変わる、不幸続きもいずれは幸福に変わる、逆も当然ながら起きる。しかし人は自然を変えたいという欲望を持っているから、幸福がずっと続くことを願っている。禊が終わった現在、特にそう願う。

所沢祭り

今は土曜日の夕方、ブログを書く時刻になった。書斎の窓から見える南向きの空は、さわやかな秋空とはこのことかと思えるような、絵に描いたような美しい光景である。南側にはマンション群がそびえていて、その手前の方に2階建ての住宅群が見える。住宅群とマンション群の間に、小さな川が流れていて、そこに鴨がよく来る。今朝はなぜかアオサギが住宅の屋根に止まって、まるで日向ぼっこでもしているようだった。このブログでも何度も書いているように、その小川に橋が架かっていて、橋を渡ると小さな社があって、自分もその前を通るときは、お辞儀をしたり手を合わせたりたまにお賽銭を入れたりする。その横に大きなスーパーマーケットがあって、大勢の人たちが買い物をしている。屋上に駐車場はあるが、社の横のスペースは駐輪場になっている。この社には弘法大師が祀ってあり、すぐ側に弘法の井戸と呼ばれる歴史的場所がある。誰も見向きもしないような井戸だが、そのいわれを書いた説明書きが立っている。自宅から2分もかからないので、スーパーマーケットは台所の食材保管庫、社は仏壇代わり、小川は散歩コースと考えれば、なんとなく殿様のような気分になる。先ほどスポーツジムから帰ってきたばかりである。休日はできるだけ体を動かし、体調を整え健康を維持したいと心得ている。だからこの3連休はすべてスポーツジムに行きたいと思っている。ただ明日は所沢祭りなので、祭り見物の後ジムに行くつもりだ。今日スポーツジムに行く途中、すでに町内会の山車が、あちこちの広場に出ていて、お祭り気分を匂わせている。明日は、久しぶりの大祭りだと聞く。人だかりで歩くのも苦労するような混雑だが、生ビールを片手に唐揚げか何かを食べながら、祭り気分を味わいたい。できれば明日は、重松(じゅうま)流太鼓の響きを聴きたい。コロナ以前は、いなせな若い衆が、いきなバチさばきで、まるで歌舞伎役者が演じているかのようなパフォーマンスをよく見た。太鼓の音が笛の奏でる曲によく合って、観客のお腹にずしんと響いてきた。明日はそんな楽しい一時が過ごせるだろうか。かつては家内も着物の着付けを手伝っていたせいか、踊りにも参加して目抜き通りを練り歩いていたが、年のせいでずいぶん前から出ていない。年月が経ったのだ。年寄りはそれなりに楽しめばよいだろう。文脈は離れるが新聞に、強き日も弱き日もあり秋桜(小俣友里)の句があった。ピンク色をした可憐な秋桜の花は、どんな日でも美しく咲いて、人々の目を楽しませてくれる。コスモスの英語は、宇宙でもあり、すべてを統一する意味も含まれると聞く。明日の所沢祭りは、老いも若きも、男も女も、お金持ちもそうでない人も、幸せな人もそうでない人も、抜けるような秋空の元で、江戸時代から続くお囃子や太鼓や踊りを楽しみながら、一時を過ごせばよいのだ。それは昔から庶民の娯楽として引き継いできた、この世を生きるための先人の大切な知恵である。

歳を取っても

今日は火曜日の夕方ではなくて、昼間である。この時間にブログを書くのは夕方に都内で役員会があり、1時間半後に出かけなければならないからである。先週も昨日もいろいろあったが、今感じるのは、都合の良いことも悪いことも、いろいろあることがありがたいのだ。このブログでも何度もそんなことを書いているが、そのように実感する。先週のブログで、土曜日を火曜日と勘違いしていて、携帯でふとしたはずみに読んで、ミスに気付いて修正した。年をとるとこんなことはよくある。気づくのが遅いけれども、すぐに対応するとなんとかなる。携帯でミスに気づいたのは、真夜中でベッドからトイレに行って帰ってきた時で、何気なく自分のブログを読んだからである。ブログを読み返すことはほとんどないのだが、なぜか気になったのだろうか。多分直感的にどこかおかしいことがあると、潜在的に思っていたのかも知れない。そういえば大体朝5時に目覚ましをかけているが、ベッドから離れるのが時に億劫になることがある。特に今朝のような気温が低くなると、威勢よく飛び起きるなどということはない。そんな時いろいろ考え事をしたりするのだが、ほとんどは仕事のことで気に掛かることである。あの資料は修正を少しした方が良いとか、メールをあの人にも出しておいた方が良いとか、小さなことなのだが、起きると居間に行って顔を洗う前にメモしておく。ほっておくと忘れてしまうこともあるが、それよりも気付くことをすぐに実行すると効率が良いからである。手帳にすぐにメモすることもあれば、ベッドの棚にあるメモ帳にメモすることもあれば、スマホに音声入力でメモする場合もある。いずれにしても外部出力しておかないと、脳のキャパシティが小さくなっているので、どこかに行ってしまうのである。その気づきも、実はかなり重要な情報を含んでいる場合がある。気づきとは意識の水面下にある無意識層から浮き上がってくる情報なので、自分が気にかかっていることが多い。それはネットで調べたり文献を読んだりして得られた知識ではなく、自分のオリジナルな知識を含む場合がかなりある。今朝もそんなことで、メモを片手に午前中資料づくりをした。その資料は自分が気づいた考えなのだが、作成中に変形して行く場合もあり、最後になってみると無意味な場合もある。しかし打者で言えば3割以上の打率で狙いと外れていない場合が多い。とすればそれは優れたバッターである。今日は自分とすればヒットだった。野球選手と同じように、そんなときは年甲斐もなく口笛を吹きたくなる。そうかまだ俺も大丈夫かなどと、妙にくすぐったいような感じで、昼食が終わっても、その資料をどうしても見たくなる。何度も言うが、それは小さな小さな自分だけの喜びである。ただそれは3割と書いたように、毎回というわけではない。文脈は離れるが新聞に、わが女孫(めまご)ほどの女医さん笑顔にて年齢(とし)より若いと褒めてくれたり(斎賀勇)の句があった。前のブログでは、女孫を孫娘とふりがなをふってしまったが、読み方がわからなくてネットで調べてそのとおり書いた。今日の句はふりがながふってあった。それはともかく、歳をとっても何か良いことがあったり、人から褒められたりすると、自分にも自信が出てきて嬉しくなるのだ。この作者も、お世辞であってたとしても、自分もまだ若いと嬉しくなって、短歌にして投稿したくなったのだ。そう思えば、子供でも大人でもそしてお年寄りでも、人は健気なそしてどこかシャイな一面を持った可愛らしい生き物である。

曼殊沙華

今は土曜日の夕方、ただ今日は一日中小雨が降って肌寒く、秋の長雨の言葉通りの天候であった。昨日は金曜日だったが、午後に日高市にある曼珠沙華公園に行った。今日行きたかったのだが、天気予報は雨であり、多分今日は花もだいぶ萎れているだろうと思って昨日行ったのだが、こんなにも多くの人がと思うぐらい、公園の中は人であふれていた。毎年老夫婦2人で電車で行くのだが、今年も行って良かった。赤い曼珠沙華が群生している様子は、この世のものではないような別の世界がそこにあるようで、しかも花の命は短くての言葉通り、多分来週には色あせて公園も閉めるだろう。自分の目的は一面の花の美しさを愛でることもあるが、花より団子の例え通り、公園内の出店で売っている鮎の塩焼きを食べることだった。この味は絶品で、ほろ苦さと川魚の気品ある優しい味が一緒になって、毎年の事ながら忘れがたく今年も賞味したかったからである。今年は特に子持ち鮎だったので、大振りでその味を堪能した。そして歩き疲れたせいか甘味も欲しくなり、地元で作られたアイスクリームを食べた。これがまた、甘味は別腹と言う通り、美味しくて美味しくてまるで子どものように食べ歩きをした。年をとったら、どこかに人生の折り返しがあるかのように、精神的に子供のような感覚に戻るらしい。もちろんそれは個人差があり一般論では無いが、美しいものを見て美しいと感じ、美味しいものを食べて幸せだと思い、運動をして汗をかいて心地良い一時を感ずるのは、子供のような素直な状態なのだろう。曼珠沙華公園の側に高麗川が流れている。その河原で、多分遠足なのだろう、赤や白や青の帽子をかぶった何百人という小学生が昼食を食べたり川の中に足を入れたりはしゃぎ回っていた。そんな子供の姿を見ているとこちらまで嬉しくなる。世の中に出れば、そうはいかないよ、色々あってねなどと野暮なことは言うまい。今が幸せならばそれで良いのだ。少し文脈が離れるが新聞に、9月から看護実習あるからと女孫はピアスの穴をぼやかす(椎名昭雄)の句があった。女孫(まごむすめ)も看護実習が始まれば、世の中の第一歩を踏み出すことになり、否応なく厳しい目が向けられる。ピアスをしていたことを見破られないように、孫娘なりの気を使って、準備している。それを優しく見守り、無事に実習が終わるように、そして少し成長していると、どこか心が弾むような、誰かに自慢してみたいような気持ちなのかもしれない。幼稚園や学校はすべて見守られているが、世の中はそうではない。競争の世界であり、自分で自分を励ましていくしか手がないのかもしれない。無数の曼珠沙華の花は、始めに書いたようにこの世ではないような気がする。実は一昨日まで忙しく厳しい仕事があって、それがようやく片付いたので、身も心も解放したかったから、赤く咲き誇る花を見て癒しを求めていたのが本音であった。それも良いだろう。