今は火曜日の夕方、窓から見る外は久しぶりの雨が降って、心が落ち着く。もう何日振りだろうか、夏空の照りつけるような季節外れの天気が、ようやくこの季節にふさわしくなった。まだ梅雨は来ないようだが、いずれ梅雨の季節を迎えるだろう。雨が降らなければ農家は大変な痛手となり、一般市民も野菜が値上がりしたりするので、誰もが困ることなのだ。春夏秋冬、自然のまにまに世の中が過ぎていけば、平穏なのである。しかし自然のままに行かないのが、またこの世の中でもあるので、最近我が身にも小さいことだが、信じられないようなことが起きてきた。外出して帰宅してみたらズボンにペンキがついていた。ペンキのあるようなところに行ったこともないのに、なぜだろうか。昨日学校で講演をするので、会場でパソコンをプロジェクターを接続したら、なぜか画面にマウスポインターが見えなくなった。こんなことは初めてだったので焦った。数日前、腕に傷ができて血が出ていた。すぐに処置をしたが、全く記憶がないのだ。俺は認知症になったのかと、自分だけでなく誰でも悪いことを予感するだろう。ここ1週間ぐらい、我が身に病気とか怪我とか事故とか不吉なことが起きる前兆なのだろうかと思っていた。だから今日は一日中雨降りで、午後は書斎で過ごすしかない、少し憂鬱な日になるのかと思っていた。ただ午前中は学校訪問をするので、いつもは車で出かけるところを、何故か今日は雨の中を傘を差して歩いて行こうと思った。久しぶりの雨だから、そんなに遠くもないのだからと、ふと思ったのだろう。歩いてみると、雨降りのためか目抜き通りは車で大渋滞していた。帰宅して書斎に向かっていると、次々とメールが入ってきて、不幸な予感はすっかり忘れてしまった。公開ブログなので私的なことは書かないが、自分にとっては嬉しい知らせがいくつかあった。なんだ不幸の前兆ではないのか、自分で勝手にそう思っていただけなのかと思うと、つまらぬことでくよくよしている自分が馬鹿々々しくなった。とは言うものの、現実世界には本当に厳しくて、もがいている人もいるようだ。新聞に、夫の句に夫の苦悩や栗の花(松養花子)の句があった。申し訳ない、この人の苦悩は自分はわからないが、ただただ、この先きっと解決すると言いたい自分がいる。たぶんそれはこの人にとって気休めにすぎないだろうが、このご主人も奥さんにすべて話せば、苦しさも半減するだろう。いやもうその時点で解決に向かっていると自分には思える。一歩踏み出せば必ず飛躍につながる、楽天的だと言われるかもしれないが、これまでの長い経験でそう思う。
日常と非日常
今は土曜日の夕方、といってもまだ外は暑い。昨日今日は真夏の天気で、テレビニュースを見ていないが、多分30度を越したであろう。公開ブログなのであまりプライベートなことは書きたくはないが、昨日秩父の長瀞の温泉に一泊し、今日帰ってきた。秩父の札所を巡って御朱印を押してもらい、温泉に浸りたかったからである。家内がどういう訳か御朱印帳を買ってきたので、札所巡りをすることになったのだが、秩父の札所はもう20カ以上は訪問したと思う。ただ御朱印を押してもらうのは初めてなので、信心深くはないが、多少のご利益はあるかもしれないと思い、といっても一番の目的は温泉である。誰でも温泉に入って美味しい料理をいただければ、この世の極楽だと思って、浮世の憂さを晴らすのは嬉しいに決まってる。特に朝の露天風呂は緑の木々に囲まれてさわやかな風が吹いて、癒しとはこのことかと思うぐらいリラックスできる。それは非日常だからである。日常では朝からお風呂に入れるわけがない、しかし年中日常だけの生活に追われると人は疲れるし、生きている張り合いもない。だからお正月は朝からお酒をいただき酔っぱらっても誰も文句を言わない、それは非日常だからである。一日の中でも夕食の時は、お風呂に入ってお酒を飲んでテレビ番組を楽しみという、昼間の日常から離れるのである。1週間のうち土日は非日常の生活を送ってもよく、1年でも夏休みのような長期休暇も許されるのは、人間の優れた知恵なのだろう。考えてみれば、日常と非日常のバランスの上に我々の生活は成り立っている。新聞に、再入場できぬと書かれた美術展を出て日常に再入場す(武藤義哉)の句があった。美術館で優れた作品を鑑賞するのは非日常で、外に出ればまた日常に戻るのだ。この作者はそれを日常に再入場すると表現しているところが、意表をついて、そして素晴らしい。なるほど日常はいつでも戻れるのか、それは大変ありがたい。どんないたずらっ子でも、両親は最後には許してくれる、それは両親の我が子に対する愛情なのだ。そう思えば、日常とは、いつでも我々を引き受けてくれる慈悲深い仏様のようなものなのか、御札参りをして御朱印の影響なのか、ふとそんなことを思った。ただ問題は、戻る日常があるかどうかである。高齢になると、仕事がなくなり、することがなくなり、日常がなくなっていく。日常がなくなれば、論理的に非日常は生まれない。毎日温泉旅行に行くことは日常にはなり得ず、苦痛でしかないであろう。そう思えば、仕事があり、するべき事があるということは、なんとありがたいことなのか、自分もいずれ日常がなくなる時が来るだろう。そのときは自分で新しい日常を作り出しかないのか、そんなとりとめのないことを考えながら、書斎の窓から南の空を眺めている。
感情の起伏
今は火曜日の夕方、窓から見る外は初夏というより真夏のようで、ほとんど雲が見えない。今年も異常な天候のようで、今日もいろいろなことがあった、といってもブログに書くほどのことでもない。人が生活するということは、とりたてて他人に語って聞かせるほどの出来事はないのが普通で、何かあるとすれば多分あまり良い話題ではないだろう。だから平凡に暮らせれば、それはそれで有難いと思うしかないだろう。しかしふと思う、それで楽しいのだろうか。毎日の生活は、楽しいというより時間が過ぎていくという方が普通だろう。つまり楽しいとは感情であり、時間が過ぎていくとは物理的な描写である、つまり心が動かされていない状況である。何かあれば、心がワクワクしたり緊張したり不安になったり後悔したりなどの感情が伴うのが自然だと思っていたが、どうも最近そうでもないかもしれないと思うことがある。日常的で平凡なことは、感情は素通りして、出来事だけつまり時間だけ過ぎていくのだ。プラスの感情が起きるなら歓迎だが、マイナスなら逃げたいと思うのが人情だろう。だから取り立てて何の感情も揺り動かされないとすれば、物理的な事実だけが過ぎ去っていく。うーんそのような状態は良くないだろう、人が毎日出来事に出会って、喜んだり悲しんだりする方が、どこか人間らしい気がする。平凡だが、生きることが実感できるからだ。自分を振り返ってみると、少し感情の起伏が小さくなったような気がする。ただし、面白いと感じるのは、新しいものにチャレンジしている時、チャレンジというより作り出している時である。どんな小さなことでもそれは楽しい。小さな旅行だがその計画を立てている時、自動車ナビで新しいやり方を見つけた時、学校の授業参観で授業を見ながら、こういうことかと気づいた時、歯間ブラシで歯をきれいにする新しい方法を見つけた時、パソコンで新しい設定の仕方を見つけた時、などこまごました小さなことだが、それでも楽しい。そんな時は、なぜかタイミングが合って、ラッキーと言いたくなるような瞬間がある。これに対して、平凡に何事もなく進んでいる時には、そのような出会いがほとんどない。平凡であるということは有難いのだが、何も面白くはない。新聞に、古希になり大きく見えるお月さま欲やしがらみちょっと吹っ切れ(小森きよし)の句があった。本当なのか、そうだとすると誠に羨ましい。自分などは未だ煩悩があって、なかなか吹っ切れない。ただ欲やしがらみがあるから、感情が揺れ動くのかもしれないとすれば、どちらが幸せかわからない。平穏な毎日を送るのか、多少の感情の起伏を経験しながら、苦しんだり喜んだりして時を過ごす、どちらが良いのかわからない。できれば嬉しい感情だけが起きるような出来事に、毎日遭遇して生きていたいと思う。まだまだ悟り切れていないようだ。
ロマンと現実
今は土曜日の夕方、といっても窓から見る外は、夏空で気温が高いので窓を開けっ放しにしている。休日といっても平日と変わらない生活なので特筆すべき事はないが、やはり週末は気が楽である。窓から入ってくる涼しい風が心地よく、今週も終わって月曜からまたいろいろなことが始まるのかと思う。今週の水曜日は、自分が所属している団体のオンラインセミナーが隔週にあって、毎回ゲストをお呼びして自分がホスト役を務めているイベントがあった。今回は、ある省庁のトップクラスの官僚がゲストで、興味深い話を聞かせてもらった。夕方だが、30分がゲストのプレゼン、30分が自分との対談を含んだ質疑応答の時間である。文部科学省なら、ほぼ背景が分かるのだが、この省庁、隠すこともないので、デジタル庁なのだが、自分の知識が不足しているせいか、逆に大変興味深かった。どの省庁でも同じなのだが、国を背負っている意識があって、枠組みが幅広く論理的でしかも根拠に基づいたプレゼンなので、参加者を完全に納得させた。自分もなるほどと何度も頷いた。その翌日つまり木曜日に、市内の3校からなる運営協議会という会議があって参加した。チーム学校というか、地域が学校を支援する、もしくは運営母体の役割を果たすような位置づけで、これまでの文部科学省をトップにした階層構造から脱却しようという制度だと聞いている。小学校2校中学1校からなる合同組織なので、それぞれの学校の概要説明を校長先生がされたが、これもまた大変興味深かった。さすが校長先生はよく学校を把握しており、長所も短所も現実の厳しさも知りつつ、地域住民の意見を聞きそれを反映する難しい役目なのだが、実に見事な応答で誰もが納得した。テレビで報道している国会討論よりもはるかに深い議論だと、自分には思えた。そして何故だろうかと考えた。デジタル庁の話も校長先生の話も、自分にはマネができない深い内容で、誰にでも聞かせてみたいような気がした。ただ枠組みは違うことは分かった。一方は国レベルまたはあるべき姿の論である。他方は現実という厳しい状況の中で学校運営をするので、揺れ動く心情に誰もその通りだと賛同した。新聞に、キャンプ張るロマンチストとリアリスト(あらゐひとし)の句があった。キャンプに行くと、星の美しさに魅せられてロマンを語る夜がある、一方では怪我のないように料理が時間通りにできるように、トラブルが起きないように、などの現実の気苦労もあるだろう。キャンプに行けば、確かにロマンと現実の両面がある。教育の議論も同じだろう。あるべき姿や理想の姿やロマンを求める必要もあり、同時に現実の姿も考慮しなければ空論になってしまう。それは理論と実践とも言い換えられるし、厳しいながらもすべての子どもの未来を信じる教師のロマンにも通じるだろう。省庁のトップも校長先生の目線も、その両方が必要なのか、自分も無力ながらそんな教育のお手伝いをしたい。
春の風
今は火曜日の昼間、空は青く白い雲が浮かんで、五月らしい気持ちの良い天気である。夕方でなく昼間にブログを書いているのは、夕刻がオンラインで塞がってるからなのだが、天気が良いことは、気分を爽やかにしてくれる。なんとなく心が弾んでいるというと、少しオーバーだが、先週の土曜日に海外にいる知り合いとオンラインで仕事の打ち合わせをし、それがうまくいったので、まだその余韻が残っていて、まるで子供のように、思い出しては頬が緩んでいるのだ。そんな嬉しいことなのかと言われそうだが、前回のブログでも書いたように、まるで小さな小さなことなのである。この仕事は、自分だけでなく何人かの同僚を巻き込んでいて、その責任が自分にあると思っているので、それでほっとしたのである。責任の思い込みが強くて、どこかプレッシャーになっていたのだろう。明日もいくつかの仕事があって、自分ではむしろ楽しみな仕事なのだが、それでも緊張するので、できれば逃げたいと思うのは、毎回なのだ。もう何10回も何100回も経験して、一度の失敗もなく満足して終わるのだが、明日のことなのに、今でも少し緊張している。これは性格だから仕方がないのだが、こんなふうに毎日小さなことで心配したり喜んだり不安になったり多少の自信を持ったり、人間とは、小舟に乗って、帆を張って風や波を避けながらそして利用しながら進んでいくような気がする。天は、人は健気にもなんとか頑張っているのかと、眺めているのかもしれない。緊張がなければ、終わった喜びもなく、不安がなければ、順調に進んだ嬉しさもないだろう。束の間でもいいから嬉しい知らせがあれば、その余韻に浸るのもよかろう。昨日は都内に会議があって出かけたが、帰りの電車で土砂降りのような大雨に遭遇して、少し到着が遅れた。今朝は快晴の天気で、思わず庭に出て雨に濡れた芝の上に立って背伸びをした。何かいいことがあるかもしれないなどと思ったのは、昨日の大雨のせいだろう。面白いことも面白くないことも、嬉しい事も苦しいことも、心が弾むことも不安になることも、相対的なものであり、ありふれたものなのだろう。しかし楽しい時には子供のように素直に喜べばよいのだ、土曜日の朗報は、まだ同僚には連絡していないが、そろそろ喜びを分かち合おう。新聞に、春の風遠くの君へ届く頃(関根ともみ)の句があった。俳句の選者は、この句は抒情豊かな青春の句で、遠くの君とは思い人だと評していたが、老人であっても、青春時代でなくてもこの気持ちはいつでも起きる。同僚と喜びを分かち合う時、人は青春に戻り、その抒情に浸るのかもしれない。
日々の出来事
今日は土曜の夕方、といっても南側の窓から見る景色は、真夏の太陽のように家々の屋根やマンションを照り付けて、まだ暑そうである。薄青色の空をバックに白い雲がぽっかりと浮かんで、平穏に今日も日が暮れていくのだろう。いつもの土日と同じように、先ほどスポーツジムから帰ってきたばかりである。体を動かすと全身に血液の循環がよくなるようで、気持ちがリフレッシュされる。午前中はオンラインの打ち合わせがあって、自分にとって、それは朗報であった。人は、仕事でも健康でも家庭のことでも、多少の心配事や不安や揉め事などがあるだろう。他人から見ればなんでもない小さなことでも、本人とすれば、喉に魚の小骨が引っかかったようで、痒いところに手が届かないようで、いつまでたっても小さな咳が出るようで、気にかかるのである。ほんの小さなことだと、たぶん人は言うだろうと思うが、今朝のオンラインの打ち合わせで、それが杞憂だったことがわかってほっとした。あまりにもこまごました仕事のことなのでブログには書かないが、本当に些細なことなのである。今は、喉の小骨が取れたようなスッキリとした気持ちである。ただ自分の性格だと思うが、そんな小さな出来事でも、なんと自分は愚かなのだろうか、なんと心配性なのだろうか、なんと取り越し苦労なのだろうか、など自己効力感が低下していく。人は見た目と内面は違う。自分の所属する団体のスタッフからみると、そんなことは大したことないよとか、大丈夫だとか、自分が口癖のように言うので、自分をそのような人物だと思っているふしがあるが、本当はそうではない。自分は小心者なのである。話をする時でも、ビクビクすることもあるし、緊張することもある。ただ今日ふと思った、だから良いのかもしれない。なんと自分は鳥越苦労をするんだろうか、心配性なのだろうか、と思うので、次回はそう思わないようにしようと、自分にいい聞かせている。それはたぶん生きて行く上での知恵なのだろう。その知恵は経験に基づく気づき、つまり本当にそうしようと、自分の信念に響くような強い教訓である。そのような知恵を毎日少しずつ重ねていくのだろう。新聞に、トーストがポンと上がってありふれたかけがえのない今日が始まる(鈴木まり子)の句があった。この短歌の作者は、毎日新しい出来事に出会い、その度に知恵を積み重ねるとすれば、かけがいのない毎日だと詠んだとすれば、自分と同じ思いである。毎日毎日出来事に関わって、自己効力感のプラスとマイナスの波が動いていき、その出来事の度に小さな知恵を積み重ねている。それがその人の人格を作り上げていくのかもしれない。性格や人格は生まれついたものがほとんどかもしれないが、それでも残りの部分は日常生活における経験から得た知恵によるものではないか。
どちらが良いのか
今は月曜日の夕方、外は曇り空で昨日までの空の景色とかなり違っていて、どうも台風1号の影響らしい。今日は都内で会議や役員会やら用事が山積して、朝から出かけた。今週は都内や他県に出かける用事も多く、ほとんど外出する予定になっている。この時間にブログを書いているのは、当然ながら明日は都内の会議やら懇親会やらがあって、夕方には机に向うことができないからである。電車に乗る時は、自分は何かの本を読んでいるのだが、それは紙の図書でないと困る。パソコンは持たずスマホで文献や書類を見ることはできないので、何かの書籍を持っていく。その書籍が小説だと周囲の目が気になるというか、何かサボっているような気がして、仕事に関係する専門書のような雑誌や本を持っていく。図書は意外と書斎では読めないもので、電車の中が最も適しているような気がする。できれば座席に座って、まとまった時間があればなおよい。しっかりした本を読むと、何か得した気がするからである。とは言っても、自分はそんなに論文を読んだり専門書を読んだりすることが好きだとは言えないだろう。本当の学者は、多分書斎だろうと居間だろうと電車の中だろうと、読みふけっているに違いない。自分はそれには程遠い。だから自分に言い聞かせているのかもしれない。長い間の習慣で、毎日少しでもいいから研究か仕事に関連したことをしてないと、背中を何かでつつかれているような気がする。もう現役でもないのにといつも苦笑する、多分習慣なのだろう。いや自分の価値観か学校文化か大学の研究文化が身についてしまって、ほどこうにもほどけにくいからだと思う。学校では頑張れ頑張れと言い、研究では寝ても覚めても考えよと、学生に言ってきた。それが良かったのか悪かったのか、この年になるとわからない。自分はまだその呪縛から逃れていないからだ。多分1年間毎日ずっと、この習慣から離れた記憶はない。昭和の人間はそうやって頑張ってきたかもしれず、理系の大学ではそれが当たり前であった。しかし今思えばそれは間違っていたのかもしれない。新聞に、職安の帰りの道は夕焼けて「ファイト!」の声の響く校庭(松本尚樹)の句があった。昭和でなくても今であっても、スポーツの世界は同じらしい。この作者は職を探していたのか、夕焼けの道を帰りながら、自分が学生だった頃を思い出し、未来に向かって頑張っている若者が眩しかったのかも知れない。ただもう年齢が来れば頑張らなくてもよいのだ、静かに生きて行くことも大切なのだと、自分の生き方と矛盾するのだが、この頃そう思うこともある。どちらが良いのか自分にはわからない。
今は幸せかい
今は土曜日の夕方、空はまだ明るく太陽もさんさんと光を放ち、青空に向かって威張っているようなマンションが見える。2階にある書斎の窓からの眺めである。いつものように土日はスポーツジムに行くが、今は帰宅して一息ついたところで、土曜日はブログを書く日である。自分が通っているスポーツジムは比較的大きく、自分は下手ながら打ちっぱなしのゴルフ練習場で30分、その後プールでクロールと平泳ぎで200m泳ぎ、その後ジャグジーで体を温め、屋上で椅子に座って足を投げ出して太陽を浴びる。今日の天候は初夏の陽気で、濃い緑の葉っぱと青い空そして白い雲さらには心地よい風に当たって、気持ちはもうハワイで夏休み、こんな時はこの時間に浸っていたいと思う。お前は今は幸せかいと問われれば、まあそれなりにと肯定的に答えるだろう。多少の心配事や小さな願いごともあるが、凡人のすることはどちらに転んでも大したことはない。昨日は午前中、自分が役員をしている中学校の運動会に参加し、午後は都内でイベントに参加して挨拶などをした。イベントには大勢の人が参加して、自分はどこか晴れがましい役目を果たした。運動会は、さすが中学生と思わせるような若い生徒たちの元気な姿が、眩しかった。自分も就職のスタートは高校教師で、修士課程を出たばかりの24歳だったから、生徒たちとあまり年齢差はなかった。校庭の向こう側に防風の松林があり、その向こうに白い砂浜と真っ青な海がつながっていた。自分は物理の教師で弓道部の顧問だった。部員たちによくグランドを一周させていた。弓道は体をあまり動かさないから運動にならないと思い、何かがあればグランド一周を課した。今思えばパワハラで訴えられたかもしれない。体育系だったのである。中学生の競技や応援合戦などを見ると、どこか血が騒ぎ昔のことを思い出した。若い時は夢中なのである。弓道部の主将も優秀な生徒だったせいか、兄弟のような感じだった。若い頃は、どこか口笛を吹くような気持ちで、肩で風を切って歩いていたような気がする。高校教師から大学教師へそして今は団体役員になった。若い頃は誰でも怖いもの知らずで、失敗もあったかもしれないが、楽しい思い出しか残っていない。しかし同時に、スポットライトを浴びて得意になったり、谷底に落とされたような失敗もあったり、異性に惹かれ夢中になったりそして破局を迎えたり、誰でもそんな経験をしているだろう。つまり振幅の激しい時代なのである。年をとるとその振幅が小さくなって、やがて平坦になっていくのであろう。しかしそれを思い出してみても過去は過去、今が幸せでなければ意味がないことは誰でも知っている。露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢、と詠んだ秀吉の辞世の句のように、すべては夢として消えていくだから、スポーツジムの屋上で椅子に座って足を投げ出し、自分に今は幸せかいと問うてみたのである。ここで新聞から句を引きたいのだが、あいにくと文脈に合う句がない。秀吉の辞世の句で、勘弁してもらおう。
ありふれている
今は火曜日の夕方、朝から気温が高く初夏というより夏のような気温であった。午前中は市内の学校に出かけ、午後は先ほどまでオンラインに参加した。ただ今でも少し体がだるく熱とは言わないまでも少し体温が高いような気がする。だからオンラインの会議ではあまり頭が働かず、ぼーとした状態で発言したので、文脈に合った意見だったのかどうか不安が残るが仕方がない。たまにはこんな日もあるだろう。会議に参加するとき書斎のエアコンを冷房にしたが、頭は心地よいが体は寒かった。今ブログを書いていても、ちょっとした風邪を引いたような感じなので、あまり論理的な文章は書けないだろう。ふと思う、午前中の仕事も午後の仕事もそんなにワクワクしないが、教育の仕事に関われるだけましというか、世間の誰でも同じだと思う。自分たちのような立場やデスクワークの人たちは、ほとんどが会議やら打合せやら資料作成などに時間を取られて一日が終わっていくのだろう。ところが講演の資料作りや原稿だけはどこか違う。当たり前だが、自分のオリジナルの考えを表現できるので、ルーチンワークの仕事に使う脳の部位が違っているからだろう。だからオンライン会議に参加しながら、隣のパソコンで内職の資料づくりをしていた。左のパソコンでオンラインで発言し、右のパソコンで資料作りをするのだから、同時に考えることはできないから、発言の前後だけ会議の頭になり、その他は資料作りの頭になる。どこかおかしいのだが、それも不調な頭で考えるので資料の内容は大丈夫かとも思うが、それなりに出来上がっている。ブログが書き終わればすぐに続きをやってみたい気持ちすらある。たぶんそれは幸せな状態になるので、脳の不調が癒され快方に向かうような気持がする。だから自分の好きな仕事をやっている時はいろんなことは忘れてしまうのだろう。と言っても好きなことだけして世の中を渡っていくことはできないから、小さな幸せと小さな不幸を交互に味わいながら毎日を過ごしているのだ。新聞に、ありふれた不幸なのかも聖五月(稲田覚)の句があった。聖五月とはキリスト教のマリアの月であることから五月の美称の季語だとネットに書いてあった。なるほど幸せだと思うこともありふれており、不幸だと思うこともありふれている。ということは幸せでも不幸せでもあまり大したことはなく、いつでもどこでも誰でも経験していることなのだ。自分もそうだが、嫌なことや面白くないことがあると、自分だけがなぜと悲観することがある。しかしそれはありふれたことなのだ、誰でも同じ思いをして自分だけがなどということは、ほとんどないのだ。体の不調と言っても、お風呂に入って夕食で一杯飲めばたぶん忘れてしまうだろう。幸も不幸もありふれているとは嬉しいような嬉しくないような、否、それは素晴らしい発見である。
気づき
今は土曜日の夕方、まるで初夏のような天気なので、書斎の南側の窓を開けて風を入れている。先ほどスポーツジムから帰って、グレープフルーツで喉を潤し、ほっとしたところで二階にある書斎に上がってきた。昨夜は都内で懇親会があり夜遅く帰宅して、しかもなぜかテレビの映画に惹きつけられて、珍しく夜ふかしをしたので、朝5時の起床がきつかった。ただ今朝はどうしてもやらなければならない仕事があった。授業を参観した時の記録、正しくはコメントもしくは感想をメール添付で送ることである。詳細は述べられないが、市の教育委員会に協力して学校訪問などをしているのだが、その関連の仕事である。かなり以前にこのブログでも書いたが、自分は授業参観をしてコメントを言ったり気のきいた助言をしたりすることが苦手である。特に小学校はまるで芸術作品のように先生方がいろいろな工夫をされているので、自分のような経験のないものが口を挟むのは、プロに向かって素人が批評をするようなもので、本末転倒なのである。つい最近までなんとか逃れようとしていたと思う。自分ができるのは、せいぜい論文などのような論理的に割りきれる世界で話ができるのであって、授業のような生きた子供たちと教師が、台本もなく丁々発止と台詞を言う、舞台で織りなす演劇のような世界は、とても難しくてコメントはできない。ところがGIGAスクール構想が日本全国の小中学校に展開されるようになると、自分も市の教育委員会から呼び出されて現場の授業に顔を出すようになった。顔を出すようになると、年に数回はまとまった講演をし、授業のたびに指導と称するアドバイスをしなければならない。ベテランの先生であればそれはたやすいことかもしれないが、自分には重荷であった。あったという過去形で書いたのは、現在は多少ニュアンスが違っているからである。長い長いトンネルを抜けたような印象で、多少自分でもお役に立つことがあるのかと思うことがある。それはどうしたのだ、どうやればそれができたのだと言われても、正確には答えられない。言えることは、ふと気づくことを大切にしている、だけである。気付くことは自分の力ではない。いくら自分が力んでみても、天からの贈り物のような気付きは決してできない。つまり自分の力ではない、天の力を借りているようなものなのだ。新聞に、原つぱに風ひかるとき今そこに詩の神がおはしましぬと思ふ(古山智子)の句があった。詩を作ることとは、そういうことなのか、自分ではない神や天の力の授かりものなのか、言われてみればそうかもしれない。授業という変幻自在な生き物を対象にしてアドバイスをするには、自分の力ではどうにもならない、気づきというあやふやだが自分の知識を超えた知識、それが経験のない自分が太刀打ちできる武器なのかもしれない。ただその武器が鋭い切れ味を持っている場合もあれば、なまくらな刃こぼれするような場合もある。少しずつそれを自分の知識に組み込んでいく作業が、自分の授業参観なのである。指導主事の先生の力を借りながら、その世界で多少ともお役に立ちたいと思っている。いつまで経っても、人は楽にはならない。
