今日は土曜日の夕方、いつものようにスポーツジムに行って帰宅して、一息ついてパソコンの画面に向かっている。土曜日は誰でもそうであるように、週末ということで気持ちがリラックスできる曜日であり、特に夕方は開放感で満ちている。つまり気分の良い時にブログを書こうとする思惑がある。といってもそんなに面白いことばかりあるわけではなく、仕事上では少し気が重い場合もある。人が生きていくことは、そのような事の連続である。そんなことは誰でも経験している。老夫婦2人だけの生活なので、時々そんな話を居間でする。家内は若い時から仕事らしいことはしたことがないが、ビーズだの裁縫だのスポーツジムだの、自分から見ればほぼ趣味の世界に生きている。ただありがたいことに、食事の支度やら洗濯やらやってくれるので、お互いに持ちつ持たれつなのだろう。趣味の世界でもいろんな人間関係もあり、自分もまだ仕事があるので多少気がかりなこともある。人は口に出しただけで、どこか開放されるようで、なるほど江戸の昔から井戸端会議で、近所の噂話やら夫婦喧嘩の憂さ晴らしやら、口に出しながら助け合っていた。と思うのは自分の想像であり、多分テレビ番組などの影響だろう。長屋に住む庶民は、そうやって春夏秋冬を生きてきたのか。貧乏であってもなんとか生活できることを感謝して、近所付き合いをしていたのかもしれない。これも落語の影響か、なんとなくそんな感じがする。自分たちも現代版の庶民だろう。長屋には住んでいないが、家内からいろんな情報を聞くと、話の内容は落語に出てくる八っさん熊さんご隠居さんおかみさんの会話とあまり変わらないだろう。我々老夫婦はご隠居さんおかみさんとは少し違うが、似たようなものだろう。子や孫のことで心配したり喜んでみたり、お米が高くて困ったとか、また旅行に行きたいとか、トランプ大統領はけしからんとか、熊谷では気温が29度だとか、たわいもない話なのである。こんな風にして庶民は毎日を生きているようだ。ブログを書くので1階の居間から2階に上がる時に、家内が蕗(ふき)を剥いていた。蕗などはどこでもある野草のようなものだが、我が家の庭から取ってきて今晩のおかずにするのだという。自分は蕗のあの苦味が大好きで、ビールやワインのつまみによく合う。グリーンピースの混ぜご飯に鳥の唐揚げと蕗だというから、贅沢ではないが自分の好みの夕食である。苦味と言えば、蕗のとうの天ぷら、6月ごろになると鮎の塩焼きなどは絶品である。苦味がなければ平凡で大した美味しい食材ではない。そういえば蕎麦にはワサビが必須で、なければ間の抜けた味になる。蕎麦だけでなく、お寿司もそうであった。ということは、これは日本人の味覚なのだろうか。脇役で主役が輝くということか。とすれば苦みは旨さの立役者なのだろう。そんなことを考えていたら、新聞に掲載された、「たらの芽の天ぷらのほのかな苦み 人生もまたほどほど苦い」(佐藤綾子)の句が目についた。確かにこの句の通りで、ほどほど苦いことがありがたいのだ。苦さ一辺倒では生きていくのが辛いが、ほどほどであれば何とか乗り越えられる、というよりその苦さがあるので、生きていく喜びがあるのかもしれない。ふと仕事のことを振り返ってみたら、それは苦味ではなくて、それがあるから喜びが増すような気がする。つまり人生の脇役なのだが、実はそれは立派な人生の立役者なのだろう。
習慣化
今は火曜日の昼間、書斎の窓から見る空の景色はまるで初夏のようで、雲の名前は知らないが大きな雲が静かに西の空から東の方向に動いている。この頃は寒暖の差が激しく、昨日は1日中小雨が降って肌寒く感じたが、今日は風は少しあるが、からっとした晴天で、書斎で仕事をするのがもったいないような天気である。この変則的な時間にブログを書くのは、急に夕方研究会があって出かけなければならないからである。大学を訪問するのだが、予定にはなかったが諸々の事情で、あと数時間後に出かけることになった。だから今日のブログは短く書いて責を果たそうと思う。ブログを書くのは自由なのだが、もう5年も続けていると、勝手に止めるわけにもいかずまた愛着もあるので、今日も書いておきたい。といっても今日はまだ午前中しか経っておらず、昨日もオンラインが3つあってそれなりに忙しかったが、日常的な会議であった。考えてみれば、そんなに他人に書いて見せるほどの出来事は起きるはずもない。それでいいのだ。自分はこの頃思うのは、平凡であることの幸せである。平凡とは、楽しいこともあるかもしれないが気に入らないこともあり、ほどほどに物事を処理している状態だろう。だから特に贅沢したいとか何か手に入れたいとか、今の自分にはほとんどない。今日はこれから研究会に出かけて帰ってくるので、少し遅い夕食をいただいて、テレビでも見てベッドに入る。テレビと言っても、そんなに面白い番組があるわけでもなく、これも半分習慣として見ているのだろう。それでも見ていると脳にインプットされて、生成AIのようにテレビと会話ができるような気がする。新聞の短歌を読んで、思わず吹き出した。吉原のことばが耳に残りんす春の花屋に咲くヒヤシンス(高見井高志)。いうまでもなくNHKの大河ドラマ「べらぼう」での会話を下敷きにしているが、言葉の遊びとしてはよくできた短歌である。ここまで素直に表現されると、理屈抜きに拍手を贈りたくなる。自分もはじめは、この大河ドラマで交わされる江戸の言葉がよく分からず、読み取れず、NHKも吉原の花魁をテーマにするとはと、半分冷ややかに見ていた。ところが習慣とは恐ろしいもので、それがだんだん違和感がなくなって、日曜日の夜はこの番組を欠かさず見るようになった。自分のブログと同じである。火曜日と土曜日になれば頭も体もそのつもりになって、パソコンの画面に向かう。そのつもりになることが大切で、多分ブログのエンジンなのだろう。そのエンジンの下で自分の脳も手も働くのだ。学校には時間割がある。この時間になるとこの教科の授業がある、それが習慣化されて違和感がなくなり、授業に出ることが当然になる。だから不登校の子供たちは、その習慣化された出来事に対して、おかしいのではないかと違和感を持っているのかもしれない。それはすごいことなのだ。それまでは当たり前なこと当然のことと思っていたことが、ひっくり返されると、人は右往左往してしまう。トランプ関税について前回のブログで批判したが、考えてみればこれまでの常識に対する反論とも言える。ただそれがトランプ流という我々にとっては納得しがたい反撃なので、反発しているのだろう。自分には、やはりこれまでの常識と習慣に従った平凡な生活がよい。
トランプ劇場
今は土曜日の夕方、今日は春らしい天気、よりも、もはや初夏と言う方がふさわしい天気だった。書斎の窓から見る景色は、青空の下でマンション群が静かにたたずんでいる。4月は暇な月だとこのブログでも書いているが、実際はあっという間に1週間が過ぎてしまう。今週もいろんなことがあって、入学式の参列や所属団体の役員の交代の面談や市内の学校訪問予定の会議などがあって、新年度が始まるのだと実感している。こんなに良い天気なので、スポーツジムに行ったのは当然だが、お昼に庭の雑草取りをした。冬の季節は草木も隠れているかのように枯草色で目を引かなかったが、4月に入ったら急に緑色があちこちに目立ってきて、手を入れないとと思って、こ数日雑草取りや鍬を持って小さな畑を耕した。この気候だと汗びっしょりなる。先ほどスポーツジムから帰って来たばかりだが、畑仕事とスポーツのせいで、我が家の庭で採れたグレープフルーツが殊の外美味しかった。昔の人は畑仕事も歩くことも多かったから、よく働きよく足を動かしたので、野菜や果物が今の時代以上に美味しく感じて、自然の恵みに感謝しただろう。ほとんどの食料品はスーパーなどで買うので、自然の恵みなどはほとんど意識しない。先ほども夕食後のちょっとしたつまみが欲しかったので、スーパーに行ってカードで支払いをしてきたが、本当に便利な世の中になったと同時に、お金がすべてかと思わざるを得ない。それも現金ではないので、数字の世界で物事が片付いていくのである。しかし物事は表と裏があるから、昔は車がなかったので、よく歩いて健康だったのではないか。一般家庭でも自宅の庭で採れた野菜などを食卓に並べていたから、新鮮な味を楽しんでいたのではないか。最近は自分もなるべく車に乗らないで歩くこと、そしてスポーツジムに行って体を動かすことなどを心がけている。それはお金では手に入らない大切な健康を維持しようとしている、あるいはお金を出して昔のような健康的な生活をしようとしているとも言える。教育に関わる仕事をしていると、お金ではない、もっと大切なものを求める気持ちが強い。アメリカのトランプ大統領の考えは、教育とは真逆である。お金とか財産とか、それが何の意味があるのかどうしてもわからない。トランプ劇場は悪役が主役の物語なのか、それは世界の大勢の人々に不幸をもたらしているのではないか。文脈は離れるが新聞に、たんぽぽやペン先つくる町工場(斎木百合子)の句があった。こんな小さな町工場にも、今回の関税処置によって影響を受けるのだろうか。暖かい春の日に身を委ねて今の小さな幸せが続きますようにと、町工場の人たちも、いや日本中の人たちがそう祈っているに違いない。まるで江戸時代の悪徳代官が、自分たちの贅沢のために農民たちから年貢米を取り立てる大衆演芸のようなトランプ劇場である。これが芝居小屋ではなく現実なのかと思う時、政治のことは素人ながら、どこか世界が綻びかけているような気がする。人はもっと賢い動物だと思っていたが、まさか現代に素人が演じる大衆演劇を目の当たりにするとは思ってもみなかった。頭の良い人たちが国を動かしているはずである。ならばもっと品の良い立ち振る舞いをしてほしい。人は共感したり感銘を受けたりする時に大きな拍手を送るのである。この劇場では誰も拍手を送らないだろう。
一直線
今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南側の窓から見ると、青空にぽっかりと雲が浮かんで春らしい景色が広がっている。今日は本当に暖かく春の息吹に包まれて、心がウキウキしてくる。先ほど月一度の床屋から帰って来たばかりで頭髪がさっぱりして、風が首元に当たっても、どこかふんわりとした感じだった。今日午前中は地元の中学校の入学式で、評議員をしている関係上参列した。卒業式は、所属団体の理事会と重なったので欠席したが、今日は出席できた。桜は満開で、子供と保護者の2人連れで登校している風景に出くわした。それは入学式らしい光景で、中学1年生と言ってもまだ幼い表情があって、どこか誇らしげな顔をした着飾った母親と、何組もすれ違った。卒業式や入学式、学校はなんと思い出に残るセレモニーを行っているのだろう。誰もが感慨がある。紅白の垂れ幕も市長の挨拶もそして在校生と新入生の挨拶も、自分が子供の頃と変わっていない。ただ新入生の挨拶は少し違った。満開の桜の下で入学できる喜びを、と定型の言葉と一味違って、この生徒は自分の言葉で話しているのだろう、何かスッキリと思ったことを率直に、そして短く挨拶を終えた。一言で言えば、それは堂々としていた。あまり周囲にも気遣いしていないと感じた。自分の胸にもストンと入ってきた。何故かわからないが、土日に出かけた観光の景色が浮かんできた。土曜日は桜の花見であったが、日曜日の午前中は蔵王エコーラインというらしいが、11mを超す雪の両壁の間を往復2キロの距離を歩いた。山岳ガイドの説明を聞きながら、雪の大壁を見上げると、どこか堂々としていて圧倒されたのだ。団体貸切バスだけ、しかも5日間だけ、その道を通れると聞いた。その初日だったのでテレビカメラも回っていたようで、今でもその光景が目に浮かぶ。ふと思う、新入生が、校長先生や市長や来賓に遠慮することなく堂々と、これからの希望を語ったことが、どこか蔵王の雪の大壁の存在感に似ていたかもしれない。大人や年をとると、周囲に自分を合わせるので、なかなか堂々とはできないことが多いのだ。だから自分は新鮮な印象を持ったのだろう。文脈は離れるが新聞に、サクサクとスマホ片手に町歩く孫との旅は無駄が足りない(杉村恭子)の句があった。現代っ子の孫は、スマホのアプリで寄り道をすることも道草をすることもなく、目的地にスタスタと歩いていくのだろう、それが年寄りにはどこか味気なく、もう少し木とか花とか人とか家だとか、見ながら行けば情緒もあるだろうにと感じたのだろう。その気持ちは自分にもよくわかる。スマホは確かに便利だが、直線的である。年を取ってくると、直線的でない部分にむしろ愛着を感じる時がある。半面、入学式の新入生の挨拶のように、大雪を切り取って大壁を作ったように、無駄のない一直線の姿も、またすがすがしい思いがする。そのどちらが良いかは自分には分からない。多分そのどちらも人の世には必要なことなのだろう。
花見観光
今は日曜日の早朝で、ブログを書こうとしている。極めて変則的な時間なのだが仕方がない。自宅でなく今は宮城県の温泉のホテルにいる。老夫婦2人で観光ツアーに参加して、昨日はこのホテルに宿泊し、バイキング料理をいただき温泉に入ったので、早い時間からぐっすりとベッドで休んだから、ブログ書きは今朝にしようと決めていたが、時間がなくなった。観光といっても桜を見る花見が中心のツアーだったのだが、福島県や宮城県などでは、まだつぼみの状態で、自宅近くの公園に春爛漫と咲くさくら吹雪で花見をするような華やかさは全くなかった。有名なさくらなのだそうだが、花が咲かないと元気のない病人のようで、あまり感動はない。ただ春休みの土日とあって観光客は多かった。地元の高校生だろうか、私たちに観光名所のパンフレットを配って町の宣伝をしていた。それこそパッと咲いた花のように、周囲を明るくし元気を振りまいていた。なるほど若い高校生とはこういうことなのか、桜が咲こうとさくまいと関係なく、彼らには未来があり今が楽しいのかもしれない。観光客は桜が目当てだから、つぼみだったらがっかりし、満開であればこれが有名な桜なのかと感動するかもしれない。しかし仕事などを考えてみると、目当て通りに行く確率は50%ぐらいだろう。仕事と観光は違うが、目当てが外れたときの対応の仕方を身につけておきたいと思った。昨日は目の覚めるような快晴で、歩くと少し汗ばむぐらいの気温だった。あーこんなに天気で良かったなあと正直に思ったので、それで帳消しにすればいいのだ。添乗員さんは桜がまだ咲かなかったので入場料が無料になったと言って、現金を返却してくれた。なるほどお金で帳消しもできる。ならば春うららと、現実を楽しめばよいのだ。おかげで昨日の夕食と温泉はことのほか素晴らしく、疲れとアルコールでぐっすりと寝たので、ブログはもう書く時間が極めて少なくなったので、今日のところは短いブログでお許し願おう。おっと忘れていた。文脈は遠く離れるが新聞に、上履き(うわばき)のかかとを潰し(つぶし)卒業歌(藤田ゆきまち)の句があった。たぶん高校生なのだろう、自分にも覚えがある。上履きのかかとを潰すことで、廊下を走るなという校則に反抗しようとするのか、あるいはそれがかっこいいと思っていたのか、昔のことはわからない。観光地で清楚な女子高生がパンフレットを観光客に配って笑顔で応対してくれたことに若さを感じたせいか、桜がつぼみだったので余計に心に残ったのか、この俳句が気になった。明日からは、新年度の仕事が本格的に始まるだろう。それまでは老夫婦は少し骨休みをする。
聞き上手
今は火曜日の夕方、いつものように書斎の南側の窓から景色を眺めると、小雨が降っている。天気予報によれば、午前中はみぞれ混じりの雨降りだと報じていたが、その通り外は寒かった。朝8時半に自宅を出て、3か月に1回の眼科クリニックに検査に出かけた。年をとると体に少しずつほころびが出るので、内科と眼科と歯科には上記の回数で出かけている。それでもこの程度であれば、良しとしなければならない。加えて毎朝、尿酸値や血圧などの数値を下げるための薬を飲んでいる。これも誰でも飲んでいるだろう。健康を維持するには、スポーツをするだけでなく医者にも助けを求めなければならない。幸い眼科の検査では前回と数値が変わっていなかったので、ほっとした。午後は2つの重要なオンライン審査があった。正確には、その結果の打ち合わせをする会議があったので、3つのオンライン会議だった。正直、精神的に疲れた。肉体的には何でもないが、気疲れの疲労度はかなり大きい。会議の内容はブログでは書けないが、自分にも所属する団体にとっても大変重要で、終わると文字通りふうと息を吐いた。その結果について、また自分の判断について、吉と出るか凶と出るか分からないが、なるほど責任とはこういうことかと思った。そうすると政治家は、なんと重い責任を背負って仕事をしているのだろうと、妙に感心した。ブログを書く前に1階の居間に降りて、家内に少し話をした。別に褒めてもらいたいわけではないが、こんな胃が痛むような仕事は嫌だけれどもなんとか乗り切ったよ、と言いたかった。いくつになっても気楽な時ばかりを過ごすことはできないのだ。そんなことは誰でも知っているし、よくわかっているが、世の中とはそういうものなのだ。映画では男はつらいよと言っているが、つらいのは男ばかりでなく女も同じである。世間ではいろいろなことが起きて、誰かに愚痴を聞いてもらいたかったり、褒めてもらいたかったりする出来事が多いのだ。だから聞き役は大切な役割で、聞き上手は話し上手より優れているのではないか。文脈は離れるが新聞に、ほめられた淡い記憶がほどけない母に編まれた三つ編みのこと(鈴木えみ子)の句があった。どんな子供も母親には何でも話すことができる。母とは天性の優れた聞き上手である。大人になっても年寄りになっても、母親がしてくれた優しさはいつまでも忘れない。昔このブログに書いた記憶に残る一句を思い出す。「母の日のゆるしてほしきことばかり」(根本理子)。本当に世の中を生きるのは難しいが、この句を読むと自分の至らなさに気がついて目が潤む。
中出来くらい
今は土曜日の夕方、いつものように書斎の南向きの窓から外を見ると、どんよりとした空と6棟が林立するマンション群が見える。今日はまるで冬に戻ったかのように気温も低く、気持ちまで寒々しくなるような景色である。と言っても今の心境はそうでもなく、久しぶりにスポーツジムに行って帰ってきたので、体のどこかに元気の源が点在しているような感じになっている。先週の土日はイベントでつぶれたので、2週間ぶりのスポーツジムだった。しかしこの天気なので傘をさしてスポーツ道具を背負って出かけたのだが、街行く人の数は少なく旧市役所の広場も誰もおらず、小雨が降り続いてコンクリートの広場をびっしょりと濡らしている。商店街の店先に置いてある自転車やバイクも雨に濡れて、どこか侘しそうなたたずまいであった。スポーツジムも人数は少なかった。それでも自分は下手なゴルフクラブを振り、プールで泳ぎ、屋外にあるジャグジーで雨にぬれながら顔だけ出して浸かっていた。冷たい雨で顔を冷やし、少し熱めの湯で体を温めていると、これも乙なものだと満足していた。今取りかかっている仕事があって、午前中にあーでもないこーでもないと言いながら、机に向かっていた。なかなか思い通りに進んでいなかったが、独り言のように、もう少し我慢してやってみようと自分に言い聞かせた。その呪文のような言葉が通じたのか、ふとアイディアが浮かんだ。それは雨の中でジャグジーに浸っている感覚に似ているかもしれない。誰もそんな酔狂なことをしていないからだ。辛抱するだの我慢するだの、もう今の時代には死語になりそうな存在だが、やはり大切なのだ。物事がうまくいかないとか、どうもしっくりこないとか、予想と違うとか、それは何か自分と対象物の間の仕組みに不自然さがあって、つながりにくいのである。午前中の仕事は小さなアイディアで、ちょっとしたことなのだが、まるで山中でけもの道に迷って、ふとしたことで確かな道に出たような感じであった。だから今日スポーツジムの帰り道は、体を動かして体内の細胞が新陳代謝をして新鮮な酸素を取り入れて元気の源をもらったせいもあるし、午前中のアイディアに気づいたこともあって、寒々しい光景であっても自分の気持ちは少しホカホカしていたのである。文脈は遠く離れるが新聞に、面接の出来はともあれ蓬餅(よもぎもち)(相川正敏)の句があった。大切な面接だったのだろう、上出来とは言わないまでも、まあなんとか乗り切れたのか、結果はどうなるかわからないけれど、終わった安堵感と満足感で、この美味しそうな蓬餅をいただこうと作者は思ったのだろう。仕事でもスポーツでも趣味でも上出来はなかなかできず、中出来くらいで満足することでよかろう。そうして自分にご褒美をあげればよいのだ。この世の中はそのぐらいで渡れるだろう。世間は鬼ばかりではなく、そのぐらいで認めてくれそうな気がする。
幸せの尺度
今日は火曜日の夕方、書斎の窓から見える空は、初夏のような淡いブルーで覆われていて、西日が近所の家の屋根を照らして、その反射光が輝いて見える。先ほど東方向の公園に向かってジョギングをして、帰って来たばかりである。ジョギングといっても若い人とは違って、ゆっくりとした足取りなのだが、帰宅すると汗びっしょりだった。食卓に用意してある我が庭で取れたグレープフルーツに、コーヒー用の細長い紙にくるんだ砂糖を少しふりかけて食べたら、ビタミンCが五臓六腑にしみこんだような気がした。年をとっても運動することは楽しく、そして健康維持に欠かせない。今日のような25度近くの夏を思わせるような気候では、体を動かせずにはいられない。その前まではオンラインの研究会があって頭を使ったので、それを払いのけるかのように、公園の方にゆっくり走っていった。公園の中はこの陽気のせいか、平日であってもそれなりの人たちがいて、犬の散歩をしたりキャッチボールをしたり、サッカー場ではホッケーのような試合をしていた。そうか平日とは言え、学校はもう春休みなのだ。暖かすぎる春の陽気に誘われて、幼児も犬も子供も大人もそして老人も家を飛び出してきたのか、誰もがどこか嬉しそうな表情をしている。そういえば自分も帰宅すれば、ブログを書いて今日一日の仕事は終わり、お風呂と夕食の時間になる。明日明後日は都内で仕事があって出かけなければならないので、それなりに忙しい。人間も生物であるから、春になれば心がワクワクし夏になれば活動的になり、秋には物静かになって冬には縮こまるような気持ちになるのだろう。もう3月も終末になり、来週には4月を迎える。今週いっぱいまでは忙しく、来週からは舞台が逆転する。来週には、書斎の机を西向きと南向きに囲んでいる棚に積み重ねている書類やら本やらを整理して、たくさんの紙を捨てなければならない。毎年やってくる大掃除である。またこの陽気のせいか、庭に雑草が目立ってきているので、草刈りもしなければならない。そして暇な時間がある来週から、計画している資料の作成にとりかかる。自分は手帳にその予定を書き入れているが、ほとんどは遅れるのだが、やるべきことはとりあえず処理できる。手帳を見て順調に事が進んでいけば、どこか嬉しい。誰も褒めてくれるわけではないが、口笛を吹きたくなる。「春よ来い」の歌のように、4月からが楽しみだ。それは自由であり自分のやりたいことができるからだ。今日のオンライン研究会で、不登校の子どもたちがメタバースでコミュニケーションする理由に、それは自由だから、他人のペースに合わせなくてよいから、自分の好きなことができるから、という分析をした研究があった。不登校の子どもたちは、むしろ他の子どもたちよりも、自分の考えを持っていて、それをやりたいという気持ちが強いのではないかと思った。今の自分は、都内に出かけたりイベントに参加して話をしたりするよりも、どちらかといえば自分の書斎でできる資料作成の方が好きだ。そうすると自分は、不登校の子どもの気持ちに近い。すると不登校の子供をそんなに心配しなくてもいいのではないかと思った。新聞に、おほよそが夫を亡くせる老女らの「あったかサロン」そのひとりわれ(田浦サチ子)の句があった。何やら楽しそうなサロンで、お婆さんたちが笑い転げる光景が目に浮かぶようである。世間から見れば少し可哀想な気持ちを持つかもしれないが、本人たちはいたって元気である。幸せの尺度が何であるかは他人にはわからない。それでよいのだ。
ふれ合い
今は土曜日の朝、この変則的な時刻にブログを書くのは、今日の夕方に時間が取れないからで、これから都内に出かける。今日もイベントがあり、明日もイベントで日程は詰まっていて、3月いっぱいは自分たちの職種は忙しい。逆に学校の先生は4月からの新年度は忙しく、3月の終りは卒業式が終わって、春休みを迎える心やすらかな日々であろう。自分の経験でも、高校教師の時は今頃が一番気が楽で、春の陽気を体いっぱいに受けて、新年度を迎える準備をしたり、人事異動などがあると、それもどこか心がワクワクする。大学の場合は卒業式はもっと遅かったが、あまりセレモニーなどの形式にこだわらず、研究室単位で卒業パーティーとか謝恩会などをして盛り上がった。女子学生は和服などを着るから、実験をするときのジーパン姿とまるで違うので驚くことがある。今はそんな季節である。幸い昨日あたりから昼間は気温が高く、春の息吹を感じる。昨日も都内で会議があって出かけたが、駅のプラットホームなども若い人たちが大勢いて、どこか華やいでいる。先生方が時間的な余裕のある時期は自分たちは忙しく、先生方が忙しい時期は逆に時間的なゆとりがある。ただ4月のはじめは先生方も入学式前なので気楽だろう。これから良い季節がやってくる。昨日は自分が所属する団体の理事会だったので、代表という立場上気を使う。理事会が終わって緊張感が解ければ、ほっと一息つく。今日はこれから若い人達のポスター発表を聞いて、審査をしたり議論をしたり、最後は結果発表と審査講評をしたりという流れなので、多少非日常的な経験をする。それはそれで華やかで楽しいのだが、若い頃とは違った感覚が今の自分にはある。来年度の事業計画や予算などについて議論をする理事会は、硬い会議ではあるが、それはそれでどこか味がある。自分は司会役なのだが、最後は出席者全員に発言をしてもらい、人それぞれの意見に接すると、この団体を盛り上げていこうという気持ちが伝わるので、会議をやって良かったという充実感がある。硬い会議も華やかなイベントもそれぞれに意味があり、自分のような老人でも、まだそこに関われることを感謝しなければならない。昨日の夕食で家内と、色々なことがあっても、出かけるところがあり、書斎で仕事をすることができ、老夫婦2人で食事ができることを当たり前のように思っているが、本当にそれはありがたいことだ、と話した。ただ人はそれをすぐに忘れて、困ったことや思い通りにならないことの不平ばかりを言うようだ。文脈は離れるが新聞に、七画で一つの線もふれ合わぬ老いの孤独に「沁みる」という字(春日賢治)の句があった。独居老人は、この句のような孤独感を感じているのだろうと思う。自分がそのような境遇になった時、どうしていいのかは分からない。寂しさも、生きていく切なさも、心に沁みるのだろう。そして人から親切をされたり、にこやかに挨拶をされたりすれば、その喜びも人一倍に心に沁みるだろう。ということは、どんな境遇になろうとも、人は人と関わることでしか生きる力は得られないのではないか。自分は、昨日の昼間は働き盛りの人たちと、夕食では家内と、今日は若い人たちとふれ合って元気をいただいている。そんな生活がこれからも続くと良い。
幸せ
今は火曜日の夕方、いつものようなブログの書き出しで、お許しいただきたい。書斎の南向きの窓から、いつものように空を見ている。雲は多いが青空が見えると、ほっとする。今日は朝から対面の会議で出かけ、色々な人と出会い、帰宅してメールを見て返信を書いたり、先ほどオンラインでの打ち合わせが終わったばかりである。打ち合わせの相手は、ある企業の経営者だが、短い時間ながら学ぶことが多かった。経営者とはなんと努力をし、それでいながら謙虚に話をされるのだろうか、いつも感心する。並大抵の努力ではないようで、先ほどの方は自分から見れば、学者であり企業の経営者であり、二つの才能を持った優れた人物のように思う。確かに長い付き合いなので、業績が上がって勢いがある時期もあれば、経営が苦しくなって、もがいている時期もあったことを知っている。自分のようなものは、浮き沈みといっても小さな波でしかすぎず、企業と比べれば横綱と序二段くらいの差がある。ある本で読んだことがあるが、経営者でなくて従業員だったらどんなに楽だろうかと、夜中に眠れなくて悶々と悩む人も多い。お風呂上りに5分程度で読む小説では、その従業員の苦しさが書かれているので、企業で働く人は、誰も努力に努力を重ね、苦労に苦労を背負いながら、たまの休みに一息つくようだ。先ほどの経営者は、ようやく谷を抜けて、業績も伸び先が見えてきた時で、自分のようなものに一つの区切りとしての挨拶をされたのである。教育に関わる者は、そのような苦労をしないのではないだろうか。この言葉は語弊があることを承知で書いているのだが、たぶんそうだろう。自分を振り返ってみれば、大した能力もないのに、あまり苦労もしないのに、とりあえず生活をしていることは、教育の分野のおかげなのかもしれない。世の中はどこか不公平なところがあって、人はそれを運と呼ぶのかもしれないが、あまり信じたくはないが、そんなところが確かにある。ただ天や神から見れば、運とか不公平さとかではなく、どこかで辻褄が合っているのかもしれない。だから今日の経営者は、表情は明るく未来を切り開こうという意欲に満ちていた。それは苦労を幸せの土台にしているような気もする。何が幸せなのか自分もわからない。文脈は離れるが新聞に、「今日はこれね」選んだ小さなブローチをデイケアに行く夫の胸に(高畔正子)の句があった。文脈から考えると、ご主人は少し認知症なのかもしれない。毎日デイケアに行って時をすごすのだが、まるで幼稚園生か小学生のように、奥さんにブローチを付けてもらって、少し恥ずかしそうで、そして少し嬉しそうな表情が眼に浮かぶ。苦労に苦労を重ねて、晩年になってデイケアに行くのか、それがこの人の人生なのかと思うと、他人のことながら不公平ではないかと思った。しかし本当にそうだろうか、ご主人は奥さんの愛情に包まれて、デイケアでもブローチを見れば、奥さんに見守られていると感じるならば、それは幸せと呼ぶにふさわしい。本当に何が幸せかは、本人に聞いてみなければわからない。
