マイナンバーカード

今日は火曜日の夕方、いつものことながらこの時間になると、書斎の窓から空を見上げる。先ほどまで小雨がぱらついていたが、今は曇り空一色である。夏至が終わって間もないせいか、夕方といっても日が暮れるのは遅く、大人はまだ仕事をしている時間なのだろうか。いつもの通り午前中は仕事をして、午後は歯科医院に行ってきた。たまにどんな仕事をしているのだと聞かれることもあるが、決まった内容ではないので答えるのが難しい。今日は、2週間ぐらい先の研修会で話す資料を作成していた。昨日の午前中は、市役所と警察署に行ってマイナンバーカードの更新と運転免許証の更新をしていた。警察署は大変に混んでいて、予定が大幅に遅れてしまった。どうも月曜日の午前中は免許証の更新で混むらしい。土曜の午前中は、雑誌の編集後記の原稿を書いていた。こんな風に決まっていないのだ、というより自分は手帳の予定に従って行動している。資料作りとか学校訪問とか、誰でも同じだと思うが、すべて手帳に書き込んでいて、その通り実行している。その通りは厳しいので、なるべくと言い換えておこう。例えば小さな庭でも今の時期は、雑草がどこもかしこも遠慮もなく無造作に伸びているのを見ると、草取りをしようという気持ちさえ起きない。ただ手帳に書いてあると、とりあえずやってみようという気になる。まるでロボットのようなものだが、手帳に朝の草取りとメモしてあるので、その通り実行した。早朝はまだ涼しいので、体が動き今日は朝から良いことをしたなどと自己満足するのだが、年をとるとそのツケが午後になって回ってくる。簡単に言うと、昼食を取った後眠くなるのだ。これも仕方がない。寝苦しいので夜クーラーをつけるせいか、喉がやられ咳をしながら多少熱っぽい体で朝6時前に草取りをすれば、爽快かもしれないが疲労が蓄積するのだ。夏風邪がなかなか治らない。これは自分だけでなく家内も近所の人たちも似たようなもので、今時の異常気象は体にこたえる。それでも昨日はマイナンバーカードと免許証を更新したので、どこか体がちゃんとしたような気になった。カードを見て10年間も使えるのかと、びっくりした。顔写真などまるで変わっているだろうに、などと要らぬ心配をしたが、身分証明書なのでこれがあれば怪しまれずにすむ。今日の歯科医院は初めて行った。これまでは虎ノ門にある歯科クリニックで馴染んでいたのだが、もう都心に行くこともあまりないだろうと思って、所沢市内の歯科医院を探したのだ。評判なども大切かもしれないが、自宅から近いことが条件で、駅の近くの歯科医院を決めたのだ。電話で予約はしていたのでスムーズであった。実は病院や医院などで、健康保険証は使ってもマイナンバーカードは1回だけしか使ったことはなかった。受付の方がマイナンバーカードでどうぞと言われたので、昨日更新したばかりのカードで受付を済ませた。どうもこの歯科医院は、健康保険証はあまり好みではないような口ぶりであった。都会ではないのにデジタル化に対応しているのかと思ったのだが、今日の会計はという時に、現金しか使えませんと言う。カードがダメなのかと思ったが、出かける時に家内から忠告を受けていた。財布に現金は入っているね、と言われたのである。なるほどこういうことかと納得した。マイナンバーカードと現金かと思っただけで、別に不平を言ってるわけではない。現金は小銭がジャラジャラするのが嫌なだけであって、お金に変わりはない。次回の予告をする時、自分は紙の手帳を取り出してメモした。手帳は断然アナログ派である。実際には両方を使っているが、手帳の肌触りや書き込んだフリクションインクのかすれなども好きなのである。マイナンバーカードを見て、これから10年も付き付き合うのかと思っていたら新聞に、更新のマイナカードのわが写真晩年の母に出会ふがごとし(高山克子)の句があった。そうかこの作者は母親似なのか、マイナカードを見るたびに亡くなった母親を思い出すのかもしれない。ただ自分を振り返ってみても、そこに自分の父親を重ねることはできない。親子といえども、別々の人生であり別々の価値観を持ち生きてきたはずである。話をしなくても写真を見なくても、どこが心が通じ合うのだろう。言葉や写真などで表現しなくてもよいのだ。陰でじっと見守ってくれているだけで、そう思えるだけで、安心できる。マイナカードが10年とはなんと長いのだろう。次の更新はできないだろう。それまではこのカードと仲良く付き合っていこう。

区切り

今日は土曜日の夕方、いつものようにスポーツジムから帰って来たばかりである。といっても、いつものようにとは少し違う。家内から、スポーツジムに行ってもいいがプールに入らないようにと、念を押されていたのだ。が、この暑さである。スポーツをして汗をびっしりかいたら、青色の透明感の水で満たされているプールを見れば、あの中に入ったらさぞかしさっぱりするだろうという誘惑には勝てない。プールからジャグジーからサウナに至るまで、いつものコース通り水やお湯に浸かった。家内の忠告は無理もない、夏風邪をひいているのである。昼間は灼熱のような日差しに照らされて、家全体の気温が上がっているから、寝る時でもクーラーをかけないと寝付かれないのだ。ここ数日間ゴホンゴホンと言いながら、しかも多少熱っぽい状態とは知りながら、スポーツジムに行ったので、確かに自分の意志は弱い。しかも昨日のイベントで、夏風邪はさらにひどくなった。自分にとっては忘れられない日であった。自分の所属する団体の総会である。昨日の総会を限り、自分は団体代表を辞めて交代することになった。正式には会長から名誉会長になったのだが、そのこと自身には自分は何の感慨もない。年をとるといつでも思うことだが、地位や名誉や役職などいずれ消えてなくなり、何の価値もないのだ。あるのは自分そのものである。自分が多少でも役立つのなら、地位や役職に関係なくオファーが来る。それは組織や地位を評価しているのではなく、自分自身の能力を他人は見積もっているのである。日本と欧米諸国の違いでもよく指摘されるが、今や自分は自己紹介する時、何と言おうかと考えている。〇〇団体の会長ですなど今でもほとんど言ったことはなく、大学名を言うことがほとんどである。しかし今の心境とすれば、大学名自身も自己紹介にはほとんど役に立たない。教育研究家なのか教育評論家なども、どこか違和感がある。教育工学の専門家ですといえば最もぴったりくるが、正確にはフリーターである。この言葉は家内があまり好きでないので、これからは自由業ですと言ってみたい。団体から名誉会長の名刺はもらったが、名誉という意味はもはや現役ではありませんという言葉である。世間ではその方が響きがよいのだが、自由業の方が自分には楽しい響きがある。何でも自由にできるのだという開放感が好きなのだが、世間では収入もほとんどない、かわいそうな職種で、高齢者なら仕方がないかという同情的な業種のようだ。昨日の総会でも、自分と参加者の間ではギャップがあるかもしれない。いずれにしても全ての行事が終わり、段取りもよく最後の懇親会も盛り上がり、自分は開放感に満たされた。ただ会場の外は灼熱地獄、会場は冷えすぎるクーラーのおかげで、自分の夏風邪はますます酷くなった。クーラーの設定温度を高くしろとは言えないらしい。だから昨夜自宅に戻った時は、思わず半ズボンの下着をはいた。それでようやく居心地が良くなった。文脈は離れるが新聞に、萎(な)ゆる足とめれば聞こゆ力あるきんぽうげの声すかんぽのこゑ(近藤きみ子)の句があった。年老いて足が自由に動きにくく、ゆっくりとした足取りで歩いていくと、道端に咲いている花やこれまで気にも留めなかった茎や葉っぱとも心が通い合うような気がするのだろう。作者の野草への優しい気持ちが伝わってくるようで、多分小さな声で声をかけたかもしれない。自分が自由業というカテゴリーには、この作者のような気持ちが反映されているような気がする。これまでとは違った別の時間の流れがある。これまでと違った気づきがあるだろう。そんなふうにして、人はいくつかの区切りを経験して、次の世界をまた歩いていくのだ。それは未知の世界であり、この短歌のように、声なき声を聞き、見えない姿を見て、少しずつ新しい世界を探索するのだろう。

きゅうり

今は火曜日の夕方、というにはあまりにも外の気温が高く、梅雨はどこに行ったのかと多分誰でも思うだろう。今日午前中は学校訪問があって帰宅してコメントを書いて送ったが、1限の授業なので問題はなかったが、久しぶりにお昼をざるそばでもと思って出かけたら、暑い暑い、もはや日傘か帽子でもかぶらないことには歩けないなどと、小言を言っていた。12時過ぎのお昼の真っ只中、歩いている人も少なかった。蕎麦屋もかなり空いていた。帰ってきて、もう何もする気がないようなだるさを覚えた。昨夜は寝苦しさでエアコンをつけた。真夜中に寒くなって切ったので、寝不足でもあった。2階の寝室には老夫婦用の2台のベッドがあって、エアコンのリモコンを家内に渡すと、自分の思い通りにならないので多少のいざこざの末、自分が持つことになった。すると夜中エアコンを切って欲しいなどと言われると、何のために自分が持つのかわけがわからなくなった。そのせいかどうかわからないが、朝起きたら風邪気味だった。ゴホンゴホンと時々咳が出た。自分は薬のことは全くわからないので、家内の言う通りにしている。風邪薬には睡眠剤が入っているので眠くなる、だから昼間は我慢して夜寝る時に飲むと良いという、ありがたいようなありがたくないような忠告にしたがって、書斎でずっと仕事をしていた。明日はオンラインだが研究会があって、自分が指導助言というコメントをしなければならない。その下準備をしていたのだが、寝不足と風邪気味で出来上がったスライドもどこかひ弱な感じがして大丈夫かと思って、明日の昼間の時間に調整することにした。ずっと書斎に居るのも身体に悪いので、先ほど歩いて数分のコンビニでの買い物に家内について行った。家内は銘柄を間違えるので、自分がビールを選ぶためである。ほんの数分であっても外に出て熱風に身をさらされると、頭痛がひどくなるような気がした。そしてブログを書く時間になったのである。エアコンをつけたり消したり、猛暑のような外気に触れ冷房の効いた部屋に入れば、その温度差に人間の体がすぐに対応できるはずもなく、体調を崩すのである。それはごくごく当たり前の出来事なので、無理をしないで自然に身を任せればよいのだろう。文脈は遠く離れるが新聞に、ひん曲がることのうれしき胡瓜(きゅうり)かな(萩原行博)の句があった。暑い日もあったり寒い日もあったり、雨風に当たればまっすぐに育つだけでなく曲がるきゅうりもあるだろう。それが自然に身を任せた姿である。店頭に並ぶのはまっすぐなものを選ぶかもしれないが、曲がったきゅうりも味がある。食べやすいか食べにくいかは、人間の都合で勝手に決めたものだから、きゅうりにとっては、はた迷惑である。などとあまり意味のないことを考えていたら、時間が経ってしまった。自分はきゅうりは大好きで、先ほど家内が庭で採れたものを今夜はおかずにすると言っていた。もちろんこれだけはなく、主食は明太子パスタだと言う。これも大好物で、キンキンに冷えたビールを飲みながら夕食を取れば、少しぐらいの風邪なら治ってしまうだろう。治らなくても風邪薬を飲めば、今夜はぐっすり眠るだろう。そう思えば、なにやら楽しい時間がやってくる。

面白さ

今は土曜日の夕方、といってもこの時期は昼間が長く、日が暮れるという感覚が薄くなっている。いつもの通り2階の書斎から空を眺めているが、小雨が降っている。これもいつもの通り、土日の休日はスポーツジムに通っている。午後2時ぐらいに自宅を出て傘をさしながら、徒歩15分ぐらいの距離にジムはあるが、風が強くて傘を半開きにして前に突き刺すような恰好で歩いた。帰りはそれほどでもなかったが、近頃の気象状況は予想がつかない。午前中は買い物などの雑用もあって、その間に読んでおきたい論文に目を通した。海外の論文なのだが、最近はありがたいことに日本語に翻訳してくれるので理解しやすい、と思ったのだが、大間違いであくびが出て仕方がなかった。図表もない論文誌の要約集のような内容だったので、時間がかからないのでありがたいと思ったのだが、期待が外れた。あくびが出るのは、もう1つ理由がある。昨日大阪で対面のセミナーがあって日帰り出張した。なるべく早く帰ろうと思ったのだが、自宅には午後10時前に着き、それから夕食を取ったので寝不足だったのである。それから昨日大阪行の新幹線の中で、880ページもある日本語訳の本を持って読んだのだが、正直言うとあまり頭の中に入らなかった。興味はあっても脳がついていかない。しかし多少言い訳になるが、昨日も今日も翻訳本なのである。日本語訳だからと思っても、内容は理解できると思っても、あまり面白くないのだ。なるほどそうかと膝を叩くような感覚が起きてこない。自分の能力のなさもあるが、翻訳だと本質的な面白さが伝わってこないのかもしれない。それならば原文を読めばいいではないかと思われるかも知れないが、膨大な時間がかかるし、自分にそれほどの英語力もない。時間の経済性と理解の深さはどうも反比例するようだ。そんなわけで、あの膨大なページの日本語訳の本は、半分くらい読んだが、気持ちの上では、残りは止める方向に傾いている。翻訳本ではなく日本人の書いた同類の本はかなり知的で面白かったので、同じかと思っていたが違っていた。研究も文献調査も、著者が最も主張したい1つのストーリーが分かればそれで充分なのだ。ただそれが分かるためには、それだけでなく余計な時間がかかる。つまり木の幹があって大枝があってそこから小枝が出て葉っぱがあり実が出て花が咲くとすれば、読者は木の幹を知りたいのだが、それだけを読んでも理解できない。葉っぱや実や花などの本質でない部分も合わせて読まないと面白さがわからない。多分分かるけど面白くない。だからあくびが出たり居眠りをしたくなるのだろう。大阪に出張した疲れや寝不足だけのせいではないと思う。そんなことを考えていたら、少し面白くなってきた。文脈は離れるが新聞に、失敗の中に得るもの更衣(ころもがえ)(池田雅夫)の句があった。我が家も衣替えで先ほど家内から、クリーニングに出した冬物のジャケットがあるので2階のクローゼットに運んで、と言われた。今は冬物と夏物の洋服の入れ替え時である。洋服にもいろいろな思い出が詰まっている。クリーニング屋で、ビニール袋に包まれてきれいになった冬物は、来年まで休眠に入る。今日のような専門書や論文を読んでも、面白くないこともあれば文字通り知的興奮をするようなこともある。それらをすべて包み込んで前に進んでいくのだろう。この俳句のように、失敗の中にも得るものがある。分かることと面白いことは違う、それは翻訳のせいなのか別の原因なのか、それを追求するのも面白かろう。それが分かれば、生成AIの特性も分かるかもしれない。今朝読んでいたのは、生成AIと教育の論文だった。

非認知

今は月曜日の午後であり、南向きの書斎の窓から外を見ても、曇り空で雲も見えずただ灰色一色の空模様である。ただ蒸し暑く、窓を開けて外の風を入れながらパソコンの画面に向かっている。この変則的な時間にブログを書くのは、今日の夕方からオンラインの会議が入っており、明日の夕方も市内の学校に出かけて研修会をするので、この時間が最も自由がきくのである。本音を言うと明日の方が都合が良いのだが、というのは今日の朝刊はお休みなので、俳壇や歌壇の欄をチェックできないので、先週の句を調べるしかない。ただそれは多少季節がずれることもあるので、ブログの内容にそわないこともあるからだ。世の中はそんな都合のいいことばかりはないので、どこかで妥協しながらブログを書いている。それは人が生活すること仕事をすることと似ている。どこかで妥協するというか相手の立場も考えながら事を進めなければならないので、仕方がないのである。今日も午前中は学校訪問して授業参観をし、そしてコメントを書いてメールの添付で送った。先生は一生懸命生徒たちに伝えている。生徒たちもそれなりに理解しようと努めている。しかしその間に何らかのギャップが生まれる。どんなに力量のある先生であったとしても、すべての生徒たちに伝わることはまれで、生徒の間にも、理解も満足するレベルもまちまちだろう。だから自分は、先生のスキルを超えた伝わり方、それは多分に非認知的な要因が大きく作用するので、そこにも注目している。生徒たちはそこをきちんと見抜いている。それは驚くべき以心伝心的な見えない世界のやり取りである。多分それが生成AIとの対話の違いだろう。生成AIは大規模言語モデル(LL M)に基づいて対話しているので、言語化されなければ会話が成立しないのだ。少し理屈っぽい話になったが、私たちの日常世界はデジタル技術に囲まれている。デジタル技術はそれまでの道具と違い、中にプログラムが入っているので、入力に対して応答する仕組みになっている。つまり生成AIほどではないにしろ、人の要求に対して対応している。道具は道具なりに人とコミュニケーションしている。ただその間にギャップがある。文脈は離れるが新聞に、火災報知器が終(つい)のちからをふり絞り人のコトバで「電池切れます」(真庭義夫)の句があった。火災報知器とすれば何度も人にそれなりの合図をしていたのだろうが、人の方がそれを忘れてしまった。最後の力を振り絞りとは、擬人化とはいえ、いかにも人間らしい。道具と人の会話はこのようなものだろう。まして人と人との会話は複雑で、授業で繰り返される言葉がどのような影響を及ぼし、言葉にならない非認知がどのような効果をもたらすのか、難しすぎて手におえない。明日の夕方の研修会は非認知の話である。自分は今でも正直に言えば自信がない。それでもいいのだ。この世の中は、すべて分かっている人など、ほとんどいないだろうから。

平凡に生きる

今は土曜日の夕方、いつものように南側の窓から空を眺めている。朝はきれいな青空だったが、今は白い雲のまだら模様で曇り空になった。スマホで天気を調べると、最高温度が30度という真夏そのものであった。午前中は自分の仕事をし、お昼に、お墓参り午後はスポーツジムで、先ほど帰って来たばかりである。こんな風にして1日が過ぎていくのかと思いながら、パソコン画面に向かっていると、瞼が下がって先ほどはっと目が覚めた。スポーツジムにサウナがあって、プールから上がった体がサウナの熱気でじっとりと汗が出た。帰宅して冷たい飲み物と果物で喉を潤すと、ドッと疲れが出たようで居眠りをしたのだろう。お墓参りも運動も、生活する上では大切なことだ。午前中はある出版社の企画で自分が監修を頼まれていたので、その原稿を書いていた。もちろん自分の本分なので仕事というよりも楽しい時間であっという間だった。原稿の推敲は明日にしてなどと考えている。実は今日は、もっと嬉しいことがあった。このブログでも何度か内緒にしておくと書いていたが、そのことである。子供の宝物探しのような、大人のへそくりで好きなものを買ったような、思わせぶりのようなことである。正直に白状するのは少し勇気がいるが、自作出版である。原稿の内容や表紙まですべて自分が制作して出版するのである。しかも無料で出版できるというから、そんな好都合の話はないだろうと思っていたが、今日現実に自作した新刊本が自宅に届いた。Amazonを通して注文した。もう白状してしまったので、少しだけ広報しておきたい。タイトルは「平凡に生きる」である。ペーパーバックという紙の本で208ページで価格は税込みで1320円である。少し弁解しておきたいが、定価は1200円で10%の税金がかかるのでこの値段になった。150円ぐらい下げようと思ったら、Amazonの規格があって、この価格だと売れた分だけ赤字になる。というものの自分は初めての経験だったので、ハラハラドキドキそして今日はワクワクした。もちろんこれまでも何冊も出版しているが、表紙も体裁もすべて出版社が行っている。今回はすべて自作である。出来栄えはどうなのか、注文してくれる人がいるのか、自分には分からないが、このブログの読者に一言お断りしておきたい。このブログをかなり引用しているからである。自分が書いているから問題はないのだが、どこか自責の念があって、これまで白状することができなかった。ただ自分はこのタイトルの「平凡に生きる」ことは、もちろん気に入っており、ブログで言いたいことは、この言葉に集約されるのではないかと思っている。出版社を通すと在庫を抱えて大変ご迷惑をかける。その心配がないだけありがたい。注文があった冊数だけAmazonが出版するシステムだからである。今年に入ってずっとこの原稿書きにかかっていた。文脈は離れるが新聞に、ことの外仕事捗(はかど)る日永かな(工藤良丕)の句があった。日永は、今の季節のように日が長いという意味の春の季語らしい。言われてみれば、春の陽気と日の長さに背中を押されて、原稿を書いたのだろうと思う。自分が手に取った時の感触は、我が子が生まれたような感じで、何度も笑みがこぼれた。歳をとっても楽しいことはいっぱいある。

探し物

今は火曜日の夕方、書斎の窓から見る空はグレイ一色で、小雨がまだ降っている。今日は朝から雨が降り続けて、昼間はそれなりに雨が降って、少し肌寒い一日だった。昨日はあれほどよい天気だったのに、この頃の天気は急速に変化して寒暖の差が大きいので、体調を崩す人も多いだろう。昨日は市内の研究指定校に行って講義をしたり、いろいろな雑用で外に出ることで一日が終わったが、今日はデスクワークがほとんどで、外に出たのはクリニックに行って薬をもらったことと、整体院で体をほぐしてもらったことだけだった。一日中雨で家の中に閉じこもりだと、どこか憂鬱になると思うかもしれないが、そうでもない。やれることをやれるので、それなりの楽しさがある。先ほどまで小さな原稿を書いて出来上がったから、どこか充実感がある。どんな小さなことでも良いので、クリエイティブなことをすると喜びがある。それは十枚の原稿でも一枚でも量には関係なく、どのくらい自分の能力が生かせるかに依存している。原稿は、自分のためのものではなく、いずれ他人の目に触れるものなので、それは絶えず意識している。今日は一ページだけの原稿だったのだが、クリニックに行って薬をもらっている間、あーでもないこーでもないと考えていたので、品の良い患者ではないだろう。かなりの雨が降っている中を傘をさして、自宅に帰っている途中、ふとアイディアが湧いてきて、それでいこうと思った。帰宅して、お薬手帳に紙を貼り付け、その後すぐに資料のチェックと原稿を書いた。そのアイディアはブログで書いても伝わらないのだが、自分が見聞きした学会での研究発表だった。確かここにあるはずと思って探すと、こんな時にはなかなか見つからない。イメージは鮮明に頭の中にあるのだが、アクセスするのは難しい。しかしこんな時には執念が勝つ。2つの発表資料にアクセスできて、待ち人に会えたような嬉しさで、これこれこれだよ、と独り言を言いながら、その文献を引用して先ほど原稿を書き終えた。昔、学生たちに言っていたことを思い出す。どんな小さな研究でも、それは自分の子供のようなものだから、ちゃんと服を着せて人前に出すのだ、自分の中で閉じこもっていたら何の役にも立たない、などと言っていたが、今も同じ気持ちでいる。人前に出すのだからちゃんと着飾ってやろうと思って、文献を探していたらぴったりサイズの服が見つかったような気持ちだった。新聞に、忽然と失(な)くせし指輪でてきたりほんにうれしよ今日といふ日は(出水美智子)の句があった。この作者の気持ちはよく分かる。見えなくなった指輪は、待ち焦がれた人なのだろう。いつも指につけていたから、それがなくなると、どこか指が寒いような力が入らないような感じだったが、思いがけず見つけた。長い間会えなかったが、ここでようやく会えたという感じである。自分の文献探しも似ている。ようやく会えた、これで人前に出せるという喜びがある。考えてみれば小さな小さな出来事だが、事の大小は問わず、嬉しさは同じである。

貝ボタン

今は土曜日の夕方、といってもまだ時刻は早く午後4時である。スポーツジムに行ったのだが今日は早めに帰ってきた。午後6時から、予定では2時間半のオンライン会議がある。本当の予定は3時間なのだが、そんな長い時間拘束されるのは厳しいので、自分の希望も入れてこのぐらいの時間に勝手に設定している。出版のための編集会議である。詳細は述べないが、大勢の執筆者が集まっていろいろなことを決めるので、多分時間はかかるだろうと思う。それでもオンラインなので助かっている。これが対面だと電車の往復時間だけで3時間くらい見積もる必要があるので、時間調整が無理である。ジムには午後2時に出かけて3時半位に帰ってきたのだが、その間に携帯電話に留守電が入っていた。帰宅してすぐ折り返しの電話をしたが、今度は相手が留守であった。電話は対面ではないが、時刻は同時なので時間調整が難しい。このブログを早めに書いて、電話とオンライン会議に対応したいと思っている。昨日は対面のイベントが都内であったので、ほぼ1日そこに関わった。それは大勢の先生方が、多分200名か250名ぐらいだろうと思うが、一同に集まるので、担当者はその対応に忙しく緊張もしたと思う。自分は5分から10分以内で挨拶をするだけなので気が楽で、スタッフの皆さんには恐縮した。しかも別の団体のオンライン会議が入っていたので、途中で中座して、別室で自分の役割を果たせた。考えてみれば、ほとんどは関係者の皆さんの努力の上に乗って、仕事をしているだけなのだ。心の中では申し訳ない気持ちでいっぱいだった。今日の午後6時からの編集会議は、オンラインなので気は楽である。自分の日常は対面の仕事は少なく、大部分はオンラインなので、いろいろな面で気を使わなくてよいことはありがたい。今日もスポーツジムに行った格好で、会議に出る予定だ。他の皆さんもほぼ同じだろうと思う。しかし対面になるとそこがガラリと変わる。昨日はワイシャツにネクタイを締め上下のジャケット姿で出かけた。自分はネクタイが嫌いで、カバンの中に入れて会場に入ってからネクタイをしている。コロナ以前はほとんどが対面だったから、多分ネクタイもしていたのだろうと思うが、今思えばあんな窮屈な格好で毎日事務所に行っていたのかと思うと、不思議な気がする。在宅勤務でオンラインで仕事をするようになって、外見だけでなく内面も変わってきたような気がする。オンラインであれば相手に見えるのは肩から上だけなので、その意識が働く。手の動きが見えないから、2台のパソコンの1台で内職をしたり、スマホを触ったりすることもある。もちろん対面ではすべて見えるので、内面も多少の緊張感は働いている。ここでオンラインと対面の違いとか、デジタルとリアルの違いとか、タブレットと紙の違いなどを論ずるつもりは一切ない。昨日は都内で対面で、今日のスポーツジムは対面で、夕方はオンラインでというように、すべて状況に応じて選択したり組み合わせたりしながら生活している。昨日は金曜日で新聞のローカル版に、夏めくやシャツにきらりと貝ボタン(深沢ふさ江)の句があった。シャツのボタンのことは自分はよく知らないが、貝でできたボタンとは、どこか洒落ていて、この人は外見に自信があるのかもしれない。女性なのか男性なのかもわからないが、貝のボタンが人目を引いたり光に当たってキラリと反射したりするのだろう。そのたびにくすぐったいような喜びを感じるとすれば、それは素晴らしい。自分も昨日大勢の先生方を前に、短い時間であってもスポットライトを浴びて話をすれば、それもまた小さな喜びである。いくつになっても、貝のボタンのようにキラリと光る存在でいたいと思うのは、誰しもであろう。

気持ち次第

今は火曜日の夕方、書斎の窓から見る空は白い雲ばかりで曇り空である。どこか青空はないかと探してみても見当たらない。夏至に近づいているせいか、昼間の時間が長く、夕方と呼んでいいのか戸惑ってしまう。今日は午前中から都内で仕事があって午後4時頃帰宅したが、家内の話を聞いたりすると、我が家にも小さな波が起きている。私的なことなのでブログには書かないが、この世の中のことは予定通りにはいかない。しかし人が生きていく上では、楽しいことや面白いことばかりではない。そんなことは何度もこのブログに書いて、よく知っている。都内では人と会うので当然ながら色々な話しをするが、仕事上では、よもやま話や雑談というわけにはいかず、それなりの話をするのだが、心のどこかで自分と比較して話に加わっている。やはり自分はまだまだダメだとか思うこともある。多分自己肯定感が低いのだろうと思うが、それは性分かもしれない。半面そう思いながらも、まだ自分の方が上だろうなどと、対抗心が頭を持ちあげることもある。大人になると、いや子供でもそうかもしれないが、自尊心と劣等感、つまり肯定と否定の感情が出てくるのである。多分誰も同じだろう。帰宅して家内と話をする時は、仕事ではなく雑事である。そのようなことでも、煩わしいことや面倒だと思うことも起きる。こんなとき人はどう対応するのだろうか。たぶんどんな偉い人でも難しいのではないかと思う。この前禅の本を読んでいたら、どんな偉いお坊さんでも雑念がおき煩悩に振り回されるようだ。ただそれを捨てる修行をしているらしい。これもまた難しそうだ。どの家庭も同じように自分も帰宅したら、仕事の面白さと愚痴を家内に話し、家内もまた友達付き合いやら病気やらの愚痴を言い、時々趣味の楽しい話をする。そしてふと思う。誰も同じなんだ、偉い人も凡人も大人も子供も喜んだり悲しんだり愚痴を言ったりして、世の中を渡っている。これをうまく切り抜ける妙手はないのかなどと愚考したりする。この前のブログで書いたように、自分は今フリーターでそして夏休みを過ごしていると言い聞かせている。世間ではフリーターと言えば、何かさげすまされるような響きがないわけではないが、受け止め方一つなのだ。家内が隣近所ではフリーターでなく団体役員と言ってもらいたいと、かつて忠告を受けたが、自分はあまりそう思ってはいない。何でもできる自由でいいではないかと思い、夏休みと聞けば何も縛られない開放感に満ち溢れた日々だと思う。人によって受け止め方は様々なのだ。だから自分の都合のいい解釈によって、自分を肯定的にとらえようとしている。それはごまかしかと言われるかもしれないが、世の中に絶対とか客観とか、ほとんどないのではないか。受け止める自分の気持ち次第で、なんとでもなるような気がする。文脈は離れるが新聞に、とりあえず駆け出す初夏の浜辺かな(一瀬利彦)の句があった。状況はよくわからないが、初夏の太陽が注いでいて、白い砂浜がずっと海の波打ち際まで続いているのを見ると、何か理由もなく走って見たくなったのだろうか。それは童心に戻ったのかもしれない。子供の頃夢中で走りまわったことを思い出し、初夏の日差しが背中を後押ししたのか、思わず駆け出したのだ。自分は今夏休みを過ごしているのだと思うと、仕事のことも家庭のことも大したことではなくて、夏休みの一時なのかと思えてくる。まだまだやりたいこともいっぱいあるし、心配事があればそれなりに対応すればなんとかなるし、と思えてくるから不思議だ。禅の修行はわからないが、この世のことは捨ててしまえば問題はないと考えるのか、取るに足らないような小さなことだから気にすることはないと考えるのか分からないが、人は気持ちの持ち方ひとつで、元気にもなれば落ち込むことにもなる。

夏休み

今は土曜日の夕方、いつもの通りの書き出しであるが、南側の窓から見える空はどんよりとして、天気予報ではもうじき雨が降るらしい。この頃の天候は寒暖の差が激しく、これでは体調がおかしくなる。今朝は肌寒かったが、昨日は初夏か真夏のような気温だった。そのせいか先ほどスポーツジムから帰宅したのだが、今日は会員も少なかったようだ。会員は老若男女だが、たぶん高齢者の方が多いと思うので、彼らが体調を崩したのかもしれない。ジムに行く前はちょっとだるいなとか思うが、たまには休むかなどは、悪魔のささやきだと自分に言い聞かせているので、休日は皆勤している。今日も土曜パターンで、午前中はデスクワークをして、午後はスポーツジムに行き、帰宅してブログを書いて、1日が終わる。お昼に少し時間があるので、大抵は家内と居間で雑談をしている。女性は人付き合いが多いが、自分はあまりいないので、もっぱら聞き役である。近所の家庭も同じような傾向らしい。私的なことなのでブログは書かないが、どの家庭も問題を抱えている。それが普通である。自分は特に問題がないので少し恐縮だが、高齢者になると、まず体の健康、脳の認知症、心のうつ病など少しずつ変化する。誰それさんが癌になって入院したとか、認知症が進んで引きこもりになったとか、いろいろな噂を聞く。他人の不幸を聞いて自分はありがたいと思うのは不謹慎なのだが、正直感謝している。さらには年金のことや家族のこと人間関係のことなど、さまざまな問題があるようだ。この点も自分は特に困ってはいないので、聞き流すしかない。今気になるのは、来週と再来週の市内の学校での講演内容だが、そんなことを家内に言っても、話がちぐはぐになるだけで、そっぽを向かれるだろう。もちろん問題が全くないわけではないのだが、ブログで書くような話ではない。仕事や研究の問題は、世の中の問題とは違う。飛躍した言い方をすれば、問題は面白いとも言える。年金や家族のこと人間関係などと書いたが、お金はそこそこでよい。子や孫は都内で暮らしているので、lineなどで情報交換をするが、便りがないのは良い便り、という言葉どうりで、問題があればそれぞれの家庭で解決すればよく、相談されれば話にのるぐらいでちょうどよい。日本社会は、親や祖父母が子や孫に必要以上に関わりすぎるような気がする。文脈は離れるが新聞に、一筋の糸に蓑虫(みのむし)ぶら下がる年金暮らしの吾に似てをり(根岸芳功)の句があった。失礼ながら、この作者は年金を頼りに生活されているのだろう。もちろん自分も同じだが、気持ちの持ち方次第で生き方も変わってくる。年金だけなのかと嘆くのか、まるで蓑虫のような生活だが、それでも贅沢をしなければ毎日を過ごせると思うかで、眉間にしわを寄せていくのか、笑顔で過ごすのか、の幸せの尺度が大幅に違ってくる。自分もいろいろな仕事にまだ関わっているが、常勤ではなくすべてオファーに応じているだけなので、フリーターである。時々自分はサンデー毎日ですなどと他人に言う時もあるが、心の中では今は夏休みだと思っている。このブログでも書いたことがあるが、夏休みの言葉を聞くと子供の頃を思い出す。かなり昔の新聞に、カレンダー1枚全部夏休み、の小学生の句があった。顔面すべてが笑っている。嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。フリーターで夏休みならば、自分の好きなことができる。ジムに行きたければ、蕎麦屋に行きたければ、ジョギングをしたければ、講演資料を作りたければ、専門書を読みたければ、と自分の願いは叶う。そう思えば、高齢者になっても楽しいことはいっぱいある。自分が幸せでなければ、家内も子供や孫も嬉しくはないだろう。それが自分の出来る家族へのプレゼントである。