過ぎし事

 今は金曜日の夕方、といえども書斎から見る空は夜の景色となっていて、マンションにも家々にも明かりがついている。今日はどんな日だったのか、思い出してもただ走り回っていたような気がする。何か歯車が合っていないようで、先ほども用事があって出かけたが間に合わなかった。市役所の出張所に用事があって急いで出かけたのだが、午後5時前なのにと思ったら4時半で受付終了であった。不満を言う前に自分がギリギリにならないと出来ていないことに、自分の段取りの悪さを思い知らされた。今日一日はそんなことで、滑り込みセーフではなくてアウトのような出来事が多かった。

 といってもそれは小さな出来事で、池に風が吹いてさざ波が立つようなものである。男やもめのような生活をし始めて10日以上経ったから、だいぶ慣れた。朝起きればゴミ出しから始まり、前夜の食器の水洗い、洗濯機を動かして時間がくれば物干し竿に干す、ルンバで掃除をする、まだゴミが残ってるようなところは手持ちの掃除機で拾う、簡単な朝食を済ませる、それから仕事にとりかかると書けば、小さな事ばかりなのだが、その間にいろいろな用事が出てくるのだ。夕食の準備をするにはスーパーに行って食材を買う、ゴミを出すと言ってもゴミの収集ボックスの手入れなどもある。午後には病院に行く、医療保険などの書類や相談しなければならないこともあるので、書類を持って家内と打ち合わせをする。文字通り雑用に囲まれているようなものだが、不思議に少しずつ慣れてくる。

 それでも期日や予定された仕事は、何を差し置いても時間をかけて処理しなければならない。昨日は午前中に中学校の学校訪問に出かけた。少し興味深いことがあった。理科の授業だったが、タブレットを使って力学の学習をしていた。詳細は省略するが、一斉授業で前を向いて先生の説明を聞いている光景から、目の前にあるタブレットを開けば生徒が主役になる光景に変わる。劇場の第一幕から第二幕のような変わり方である。とたんに教室中に声が飛び交う。その声は遊びではなく学びの喜びのような声だった。先生の説明がどんなに丁寧でわかりやすかったとしても、生徒が主役にならないと、あのような声は挙がらない。「そうか、わかった、できた、正解だった」などと、周囲に気兼ねなく声を上げる。考えてみれば、わからないことがわかったことは幸せの瞬間といってもよい。だからタブレットの使用前と使用中では、教室の雰囲気が違うのである。どこか蓋が開いたような開放感がある。

 ずっと参加していると面白い現象に気がつく。タブレットを前にして、うまくいかない時には、試行錯誤して隣の生徒とも情報交換したり、いろいろな活動をしている。そしてようやく正解した時に、まるで万歳のような叫び声を上げるのである。生徒はこんなにも表情豊かに喜ぶのかと思うと、参観している自分まで顔がほころぶ。ところが問題をいくつか解いている内に、「やった、できた」という歓声が聞かれなくなった。タブレットを見るとすべて正解している。なるほどと思った。車の運転と同じで、方法が自動化されたのである。車の運転のし始めは、嬉しくて嬉しくて窓の外から見る景色も新鮮に見えた。口笛を吹きたくなるような気分だった。しかし慣れてしまえば特に面白いこともない。それと同じで、わからなくて苦しんで初めて正解に近づいた時、人は感動するのだ。慣れてしまえば喜びはどこかに消えてなくなる。

 仕事と雑用にうずもれて、それでも夕食だけは自分の手作りで食べたいと思っている。自宅から家内の入院している病院まで車で30分以上かかるので、面会に1時間半から2時間程度見積もっている。途中に「角上」という漁業専門店がある。秋の旬である秋刀魚を二匹買って、初めて自宅で塩焼きを作った。その美味しさは絶品といってよい。お風呂上りに一杯飲みながら秋刀魚を食べる贅沢は、時間に変えられないのだ。10日間でいろいろな料理にチャレンジして、それなりに満足できた。ところがこの数日は、秋刀魚の塩焼きのような感銘はない。つまり慣れてきたのである。慣れてきた料理は、以前の料理より味付けも見栄えも良いのだが、喜びがないのだ。ふと思う。人はうまくいかないこと、試行錯誤すること、思い通りにならないことを不幸と思うが、実は幸せな時なのではないだろうか。

 文脈は離れるが新聞に「星月夜過ぎし事みな良しとする」(山田真理子)の句があった。今はその通りだと素直に思える。家内が入院することで、正直にどうしようかと思った。フリーランスといっても、約束の仕事もまだある。病院の面会に2時間もかかって、炊事洗濯など家事を全てやって大丈夫だろうかと思った。しかし今思えば過ぎし事はみな良いことだったのだ。むしろ夢中になって取り組んでいる方が、幸せなのだと初めて気がついた。そのことを教えてくれたのは中学生である。

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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