授業コメント

 今は金曜日の夕方、いつものように2階の書斎の南向きの窓から空を眺めている。今日も、空に向かって声を出して話しかけたくなるような優しい青空が広がっている。今週はずっとこんな天気で、先週の長雨はどこに行ったのだろうか。自然はこんなに優しい表情をすることもあれば、罪のない人達の命や人生をめちゃくちゃにするような大災害も起きる。誠に自然とは不可思議なもので、人の感覚とまるで違う。そんなことは当たり前で、今更ブログで公開することでもないのだが、この世の中は自分だけではどうにもならないことが起きてくる。

 今日は午前中、市内の小学校を訪問し、授業コメントをメール添付で送った。午後はオンライン研究会があり、先ほど小さな庭の草取りと小さな用事を済ませて、今机に向かっている。今週は何があったのか、振り返ってみると、4つの学校の授業参観をした。私は授業参観をする度に、自分の非力さを実感する。長い間、自分は本当のところは教育や授業のことがわかっていないのではないかと、疑問を持っている。これはもう超えることができないような問いなのだが、なかなか他人は理解してくれない。子供たちを見る目線や先生方の視点とは自分はどこか離れていて、ひょっとすると先生方は自分に対して冷ややかに見ているのではないだろうか、などとつまらぬ懸念をする時がある。

 今日も小学校を訪問したら、1限の授業より時間が少し早かったので朝の会にも参加した。子供の代表が、黒板の前に立って全員をリードしながら歌を歌っていた。子供向けの喜びに満ちた歌詞で、子供たちはリズムに乗って体を動かし、子供の代表はタクトを振るような仕草をしていた。それを見て私は身体化認知だと思った。声を出す、体を揺らす、手を振るなど、身体を通じてその世界の意味を理解するということだが、私は授業コメントにそのことを少し書いた。A4で1頁のコメントを授業後に送っているのだが、これでいいのかどうなのか不安であった。そもそも先生方にとって、身体化認知などどうでもよいのではないのか。それよりも、子供たちが元気に授業に取り組んでいることの方が大切なのだ。私は、先生方にとって当たり前のことを、理屈をつけているだけではないのかと、自責の念が起きてくる。

 5年生の社会科で食料品の自給率の単元を扱っていた。小麦などの海外からの輸入量の変化のグラフを見せながら、先生は子供たちに質問した。「なぜだろうか」と問えば「パン食が多いからだ」と答え、先生が「パンの他には」と聞いて、子供たちは「ピザ」などと答えた。それから食料品について、議論が深まった。先生と子供たちとの間の質疑応答を聞きながら、私はただ感心するだけであった。そのコメントに私は「グラフを見ながら、子供たちの日常生活の経験を話す活動は素晴らしいと思う」と書いた。生成AIに記号接地問題がある。生成AIは、言葉すなわちデータや記号を大規模言語処理によって、最もふさわしい回答をする。しかし、仮に「りんごは美味しい」と答えても生成AIは、木にぶら下がっているりんごを取ったことも触れたこともなく、食べたことももちろんない。つまり生成AIは記号だけで理解しているのであって、本当の理解には至ってないことが記号接地問題である。そこで「この授業はグラフという記号と子供たちの体験を見事につなげている。そこが素晴らしい」と書いたのである。

 そのコメントを受け取った先生は、どう思うだろうか。ほとんど意味のない理屈だけを書いたのかと、思われるかもしれない。「あなたは自分の知識で解釈しているだけなのか。それは現場には関係ないのだ」という声がどうしても自分の脳に入り込んで離れないのだ。小学校の経験豊かな先生であれば、そのような解釈ではなく、もっと地に足の着いた適切なアドバイスをするであろう。それは自分には不可能なことなのだ。文脈は離れるが、新聞に「人生は思い通りにならないと泡立つビールの呟き聴こゆ」(越智照雄)の句があった。本当に自分もそうかもしれない。ただ不可能なことを嘆いても意味がない。アメリカの学会に4月にオンラインで参加したいと思っている。テーマが気に入ったからである。それは理論と実践をつなげる(Bridging theory and practice)である。そうか、それならまだ自分も嘆くこともないではないか。少し元気が出てきた。できることだけでよいから、少しでもお役に立つなら頑張ろうと思う。

 

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す