今は金曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ると、曇り空のような晴れのような妙な天気である。最近の天気予報は当たらないようで、午後はずっと小雨の予報だったが、日差しの強い夏の天気そのものだった。天気予報も確率だから、正確さを期待するのは難しいかもしれない。テレビなどでは、コンピューターシミュレーションによってかなり先まで予想しているが、コンピューターといえども気象に関わる変数は膨大で複雑な地球を対象にしているので、難しいだろう。それにしても昨夜の千葉県の被害などは予想外のことであった。車がまるで川を走っているようで、車が壊れるだろうと他人事ながら心配になった。
ちょうどお盆の時期なので、成田空港に帰国した人も、電車が不通になってしまったので空港に寝泊まりだという。せっかくの海外旅行が台無しで、多分「今年はついてない」などと呟いているかもしれない。千葉県の飲食店などは、大水が店内に流れ込んできて、食料品などをすべて破棄するしかないという。今週はお盆の休暇である。せっかくの休暇なのに、千葉県も都内も電車が動かなくなって、バスに乗ったらバスも大水で動けなくなった。タクシー乗り場でタクシーを待っていても全く見通しが立たず、「もう6時間も待っています」と乗客は答えた。この世の中は、どうしてこのように無理難題が出てくるのだろうか。神や仏と言えども答えに窮するだろう。
今日は久しぶりにスポーツジムに行って、先ほど帰宅したばかりで、先週の日曜日から昨日までスポーツジムは保守期間で休館であった。丸5日間体を動かすことがほぼなかった。今週はずっと雨降りだったので外にも出られず、近所の買い物レベルの運動では、ストレスを発散できず、おかげで体重が増えたようで気が重くなった。内科の主治医からは、「暑いからなるべく水を飲みなさい」と言われ、それが原因ではないと思うが、水で体重が増えたかもしれないと、およそ科学的ではない推論をした。仕方がない、この5日間はこれまで後回しにしてきた仕事をしようと決めた。しかし悲しいかな、年をとると根気が続かなくなる、資料を探している内に時間が経ってしまう、気持ちばかり焦り、生産性がかなり低くなっている。そうか俺も歳なのかと嘆息した。
家内に言うと、「当たり前ではないか」と一笑に付された。その通りである。人は不思議なもので、いつまでも変わらないと思い込んでいるようだ。昨日は8月13日だったので、天にいる両親が道に迷わないように、迎え火を玄関で焚いた。親父は自分の歳の時はどうだったのだろうか、と思い出しても、鮮明には思い出せない。年老いて認知症になった頃の姿は思い出せるのだが、まだそこまで年老いてない時の姿はあまり記憶にない。今日は久しぶりにスポーツジムに行った。すると自分は今までと変わらないと思うようになる。それが突然に病気になったり転んだりすれば、つまり急激な変化によって自分の歳を感じるのだろうと思う。そうでなければ人はいつまでも同じだと思い込むのではないか。
お盆の休みは里帰りか旅行に行くか、楽しい休暇が過ごせると人は思う。毎日の生活の延長で考えればその通りだが、突然の大雨が降って、まさか成田空港で一夜を過ごすとか、タクシー乗り場で数時間も待っても見通しが立たないとか、子供であれば、毎日小雨が降って遊びに行けないとか、人は予想外のことに出会う。それまでは何の悪いことは起きないと信じている。予測できないことは、自分の都合の良いことが続くとしか考えないからである。しかしそれでよいのだ。人は変化に出会って、初めて自分の立場を知ることになる。私も同じである。自分の都合の悪いことは考えたくないし、良いことしかイメージしていない。自分も体力も能力も気力も衰えているに違いない。それでもあまり意識することなく、今の仕事に取り組んでいる。それは何かと聞かれても答えない。私は、その仕事の良いイメージしか考えていないから、他人に言えば家内と同じく一笑に付される。
新聞に「どこまでも続くと思いたいけれど線路は終わる終着駅で」(小杉なんぎん)の句があった。その通りなので何も補足することはないが、淋しさはあるがどこかおかしさがある。終着駅に向かって人は歩いていくのだが、あっちへ行ったりこっちへ行ったり右往左往して、老人と呼ばれる年齢になって、終着駅はもうじきだと思ってほっと一息つくこともあるだろう。それまではどこの終着駅かも知らず歩いていくのだ。それまでは、他人から見ればつまらぬように見えても、本人は意外と一生懸命歩いているのだ。本人は今のままずっと変わらないと思っているので、「線路は続くよいつまでも」の歌詞を信じている。人はこの歌詞のように生きるが、その先どうなるかは天のみぞ知る。
