今は金曜日の昼間なのだが、今日は一日中小雨が降って、今も空はどんよりとした曇り空である。週末である金曜日にブログを書くことにしているが、夕方にオンラインの仕事が入っているので、前倒しで昼間に書くことにした。今はワールドカップのサッカーに日本中が湧いているような雰囲気であるが、私は、午前中に学校訪問があり、昼間は先ほどまで諸々の仕事をして、この時間をブログの時間に当てた。そしてこの1週間を振り返って、気になったことなどを書き残している。
気になるほどのことはないのだが、家内のスマホがどうにも調子が悪くなった。もう寿命である。ちょうど五年も使ったのだから、すぐに機種変更したいのだが、頭痛の種はアプリの継続である。そのためにはIDパスワードなど、きちんと整理しておかなければならないが、どうも家内の場合はそれが心もとない。私も手伝って、なんとか機種変更してもうまく接続できるように、パスワードのメモなどを私のパソコンにも保存した。そして電気量販店のスマホコーナーに行って、担当者と相談した。家内はYouTubeをよく見ているが、自分はほとんど見ないので五年間経ってもまだ十分使える。私はパソコン派で家内はスマホ派である。たぶん世間でも同じようなものだろう。
二人で担当者と相談しながらやりとりしたが、はじめはなんとなく高価な機種を売り込みたいような印象を受けた。それはこの担当者だけでなく、スマホの設定などは高齢者にとってはかなり面倒なので、どこか上から目線でビジネスをしているような気がした。高齢者はスマホやパソコンになると自己肯定感が下がって、相手の言うなりになってしまう傾向がある。だからそのイメージが自分にあって、担当者に騙されないように、どこか身構えている自分がいた。家内は、とにかく面倒なことはやめて、早く新しい機種を手に入れたい、新しいカバーを買いたいなどと思っている。多分ほとんどの人はその通りだろう。自分はスマホはあまり好きではないが、パソコンは仕事上多少のことは知っている。だから、少したかをくくっていた。
専門家とはよく言ったもので、担当者はスマホのプロである。IDとパスワードを知らなければ、家内のアプリをすべて新しい機種にインストールすることはできないのは当然だが、プロにはプロのやり方がある。クラウドを活用するのだが、なるほどと思う場面があった。そこから少し自分の考えが変わった。ふと担当者の上着のポケットを見ると、10本近くのボールペンがひっかけてあった。こんな光景は初めてだったので、思わず「こんなにもボールペンを使うことがあるのですか」と驚いた口調で聞いた。担当者は半分恥ずかしそうに、そして半分嬉しそうに「これが結構便利なのですよ」と答えた。それから私と担当者の間の空気が変わった。量販店を出るときは、「本当に優秀な担当者に出会って良かった」と家内に伝えた。
最近自分の専門とは程遠い「日本と西洋の思想関連の文献」を読んでいる。抽象的な内容が難しいのだが、自分の研究や仕事上理解しておきたいからなのだが、高校の教科書に出てくる丸山眞男の「であること」と「すること」の単行本を読んでいる。表面は知っていても原文を読んだことはなかったので、面白いといえば面白いが、本質まで理解できているかどうかはわからない。ただその中で、例えば量販店の店員「である」という状態から、私たちはなるべく高く売りたいのではないかという気持ちを抱く。それは「であること」からくるイメージである。しかし実際の手際よい仕事ぶりを見たり話しあってみると、やはりこの人は専門家なのだと自分の考えが変わる。それは「すること」によって変わったのである。少しこじつけ的な解釈だがなるほどと納得した。
文脈は逸れるが、新聞に「武者人形の前に思ふか逝きし子を小さくなった妻の丸き背」(角田兼勝)の句があった。毎週月曜日に掲載される短歌や俳句を読んでいるが、脈絡もなくこの句が気になった。外見は何事もない普通の生活であったとしても、内面は逝ってしまった我が子への思いが捨てられないのだろう。武者人形を見たときの奥さんの寂しさが、ご主人にも痛いほど伝わってきたのだろう。人は誰でもそんな悲しみや悩みや辛さを持っている。裕福で立派な企業に勤め家族にも健康にも恵まれていたとしても、その「であること」という状態だけからは本当のことはわからない。ふとしたことからその人の本音を聞くこともある。ただ自分は、いろいろなことがあったとしても、雨露を防ぐ家があり、暖かい布団で体を休め、三度の食事ができれば、これ以上は贅沢だと思っている。我が子を亡くした人の悲しみは分からないが、きっと良いこともある、自分が生きていて良かったと思える日が来る、亡くなった子供も喜んでいると思える日がきっとくる。教育の仕事に長い間関わっていると、なぜかそんな気がする。
