自由

 今は金曜日の夕方、いつものように書斎の窓から外を見ている。今日の天気予報はどこかおかしく、朝は太陽が照りつけるような上天気であったが、昼食後、買い物で外に出たら西の方角の雲行きが怪しくなり、灰色が濃くなったと思ったら、急に雨が降り出した。背中にしょっているリュックには傘が入っているので濡れずにすんだが、自宅に帰ると本降りになって雷が鳴りだした。無事帰って来られてよかったと思って玄関から外を見ると、ずぶぬれになった人が走って行く。その雷雨がかなり長く続いた。1階の居間から庭を見ていると、隣の家やマンションなどは、雨煙というのか靄がかかったようで、小雨にすっぽりと覆われたような感じであった。今日はどこにも出られないと思っていたら、2時間もしたらすっかり晴れ上がった。青空だけではなく太陽が照りつけて外に出たら、真夏のような日差しであった。今日の天気はどこか変わっている。

 家内が、「自然は全くめちゃくちゃだ」と呟いたが、そういえばもしこれが人間だったら、相当へそ曲がりというか、周囲から激しい非難を受けるだろう。ルール無視の自分勝手な振る舞いだからだ。そういえば人はなぜ自分勝手な事は出来ないのだろうか。当たり前の疑問が起きた。「当然じゃないか、我々が生活しているということは、勝手な事は出来ない制約の中で生きているからだ」と誰でも思う。そうか仕方がないのかと思う反面、某大国の権力者たちは、自分の思うがままに世界を動かしてるような気がする。かわいそうなのは庶民だ。戦争の犠牲者である庶民は、今日の天気のように、大国だから仕方がないのだと諦めているのだろうか。それでも時折テレビでその映像が映し出される。いつになったら幸せが来るのかと、訴えている。

 大河ドラマでも権力者の側の映像が放映されて、城の周囲に住んで生活している人の苦労は見えてこない。あれほどの戦いをして、大火事を起こし殺戮の日々を過ごしていれば、武士も戦うことしか眼中に無いだろう。その合戦の後ろで、庶民は嘆きそして諦めている。だからこの世が地獄なら、あの世の極楽に行きたいと仏教にすがるのかもしれない。現在でも戦争で苦しめられている人々は、どのように考えているのだろうか。自分の力ではどうにもならない出来事に諦観しているとすれば、人はどのように生きればいいのだろうか。

 最近、自分の仕事の関係上いくつかの現代思想の文献を読んでいる。ポスト構造主義と呼ばれる内容だが、現代社会はいろいろな仕組みが構造化されて、目には見えなくても何らかの形で私たちの生活を制約し、無意識的に諦めて従っている状況になっているのだろう。自分はフリーランスだから、そのような制約からは逃れて自由に生きているように見えるけれども、経済的な制約、家族という制約、住んでいる地域からの制約、教育の仕事からの制約など、多くの制限の中で生きている。ポスト構造主義では、その制約から離れて個人が自由に生きることを許すとも読めるのだが、実際のところはどうなのだろうか。今日は平日だからゴルフに出かけるのは気が引ける。しかしフリーランスだから自由に行動しても良いのだが、背中をチクリと棒で突かれているような気がする。自由といっても、自由に行動すればたちまち非難されるだけではなく、自分自身がそのことに引け目を感じる。つまり自由ではないのである。

 文脈は逸れるが、新聞に「楽しげに水面を走る水馬(みずすまし)癌治療をせず兄は逝きたり」(小沢まさみつ)の句があった。作者のお兄さんは、癌だと告知されても手術を受けず旅立ったのだ。それがお兄さんの自由な選択だったのだろう。もし自分がその状況であったとしたら、同じ選択するかもしれない。生きながらえることが良いことだという命題は、当たり前ではない。医者にとっては長生きをさせることが善であっても、患者にとっては善であるかどうかはわからない。その人の自由であり、その人の個人的な生き方である。学校でも同じかもしれない。学校に来ることは善であるということは学校や教師にとっては善かもしれないが、個人にとっては自明ではない。自分自身を考えれば、制約を制約と感じないで自由に生きたい。それが私のフリーランスの立場である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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