昨日は2つのオンライン会議があって、書斎でいつものように仕事をした。その間の時間は自由に使えるので、有難い。昨日のブログで書いたように、喪中の季節である。61歳と65歳の働き盛りのご主人を見送った2通の喪中が、届いた。お二人とも癌であった。癌は無くならないのか、大切な命を奪っていくのか、コロナはいずれワクチンができると思うが、癌は人に牙をむいたまま、いまだに苦しめている。65歳のご主人を亡くした奥さんが、丁寧な文章で思いを綴っていた。亡くなる寸前まで、妻を思い、子どもたちのことを思い、介護で苦労をかける家族に詫び、そして最後は、家族に、ありがとう、という言葉を残して、黄泉(よみ)の国に旅だったという。最後まで、良き主人であり、良き父親であり、そして一家の柱であり続けたいという気持ちが、伝わってくる。数か月前に61歳で主人を亡くした奥さんの文面は、淡々としていたが、それが生前の主人を知っている身には、かえってつらい。あれほど元気で仕事をしていたのに、と思うと、まだ現実なのか夢なのか、信じられないという思いが奥さんにあるのかもしれない。思えば、仕事ができるだけで、有難い。いろいろなことがあっても、人と話をし、何かを追いかけ、右往左往しながらも、年の瀬がやってきて、新年を迎えることができれば、それ以上、何を望むのか、今の自分の境遇は、贅沢すぎる。若くして逝ってしまった人には、ご冥福を祈るだけである。心して、12月を過ごしていきたい。
喪中の季節
昨日は3つのオンライン会議があったが、楽しい話題もあれば厳しい話題もある。仕事とはそのようなものだろう。喪中の季節になった。90歳を超える長寿を全うした喪中は、ごく普通になった。昨日もらった中に、幼い孫を亡くした祖父からの喪中があった。短い生を病魔と闘い、力尽きて天に召されたと書かれていたが、祖父としての深い悲しみが伝ってくる。生きていれば、楽しいことも厳しいこともあるだろうが、それができなかった悔しさが、短くても精一杯生きようとし懸命に病気に立ち向かった幼子の、けなげさやいじらしさが、両親と祖父母の心に深く刻まれて、何度も何度も大きな涙を流しただろう。似た年齢の幼子を見れば、瞼が濡れるだろう。その日以来、脳裏から離れることはないだろうが、これから生きていくには、自分たちにある覚悟が求められていると、文面に書かれていた。子や孫に先立たれた悲しみは、他人には分からないが、身内でなくても、子供は、生きているだけで、存在しているだけで、周囲に幸せをもたらす、光り輝く天使である。朝8時前に、近所の小さな橋で、自称子供見守り隊として、登校する小学生を見送っている。1年生は、ランドセルいっぱいに交通安全とひらがなで書いたシールを張っていて、しんがりは高学年だろうが、いつも重そうな荷物を両手に抱えて、列から遅れて歩いている。いつも同じ光景だが、自分には宝石箱を見るような気がする。いつまでも生きていてほしい、と祈りたくなる。
スポーツジムで思ったこと
昨日は日曜日であるが、平日と変わらないが、スポーツジムに行った。夕方のジョギングを避けているので、その代わりスポーツジムに行くようにしているが、プールで泳ぐのも好きだが、時間の関係で筋トレだけにしている。暖かくなったら、水泳も楽しみたい。自分はランニングマシーンで30分間走る、が、その時間の過ごし方が難しい。テレビが5台くらい設置してあり、マシーンから視聴できるようになっている。見ているような見ていないような状態だが、広島県呉市の文字が目に入ってきた。呉市は生まれ故郷で、今でもカープのファン、お好み焼きは広島風、だから、見た、というより、字幕になっているので、読みながら見た。ドキュメンタリで、高齢の老夫婦の物語だが、途中からなのですべては把握できないが、この老夫婦の娘さんが撮影を継続してきたようで、その娘さんの母親が認知症になり、90歳を超えた父親が老々介護をする映像だった。母親が認知症になったので、父親の苦労は並大抵ではない。たぶん娘さんは、その父親の頑張りを映像に残したかったのだろうか、やがて母親が脳梗塞になって入院するが、父親は車椅子を杖代わりにして、1時間をかけて病院に通う。老人の身にはきつい通院であることは想像に難くないが、車椅子を止めて体をかがめる後ろ姿に寂寥感があふれている。ベットに横たわる妻の手に触れると、老夫婦の顔がほころび、二人でいることの小さな幸せを共有する。そこで、マシンの時間が過ぎた。耳になじんだ広島弁が郷愁を誘い、あの老夫婦はどうなったのだろうか、幸せな結末だったのだろうか、と気になって、別のマシーンで運動をしながら、そっと見たら、母親は亡くなったようだが、父親は何か賞状をもらうシーンが映っていたようで、そうか、最後は良かったのか、とほっとした。明日は、我が身かもしれない、と思いながら、今、自分はスポーツジムにいるのだ、と深い感慨に浸った。
音声認識と原稿書き
昨日は土曜日なのだが、生活パターンは平日と変わらないが、気分的にはゆったりしている。この気持ちが嬉しく、どこか口笛を吹きたくなるような心境になる。午前中は書斎で仕事、と言っても、昨日は原稿書きだった。ある出版原稿で、少しづつ書いているのだが、いろいろな仕事が入ってくるので、しばらくそのままにしておいた。昨日は少し一段落して時間ができたので、ファイルを取り出して続きを書こうと思った。その原稿は、正直に言えば、googleの音声入力を使うと、テキスト化が即座にできるので超便利だと思って、音声認識で作成したテキスト原稿なのである。その時も、いろいろな仕事を抱えていたので、出版原稿は後回しにしていたが、どうも気になるので、時間がないので、この超便利な音声入力で、とりあえずの原稿を作っておこう、と思って作成した。このことは、間違いではなく正しいだろう。気になることは、とりあえずでよい、雑でもよい、何か痕跡があれば、取り掛かりやすいからである。しかし、どうも、どこか気持ちの壁がある。時間が1時間あるから、すぐに取り掛かれるかと言えば、誰も経験しているように、人の脳は、機械のようにスイッチを簡単に切り替えることができない。どうしても、前の内容が脳の前頭葉に残っているようで、そこに壁を感じるのである。まして、口語体でテキスト化した原稿は、実際に書いたものと違うので、修正に時間がかかることに気が付いた。易しい原稿ならよいだろうが、出版となれば、それは多くの人に有料で読んでもらう文章であるから、気を引き締めないといけないと思って、少しもったいないような気がしたが、すべて削除して、初めから書き直した。これで、自分に正直になれた、と思ったら、書いている原稿が、萎れた花が雨の恵みを得て生気を取り戻したように、生き生きとしてきた。そうか、音声認識は、超便利ではあるが、使いどころによって、生きもし死にもする。改めて、テクノロジーと認知について、教えてもらった。
超党派議連の会議
昨日はいろいろな用事が重なった日なので、何を書いていいか迷うが、議連のオンラインに参加したことに、少し触れる。超党派議連なので、自民党から共産党まで党を超えた議員連盟で、内容はICT推進の会議体で、自分は外部有識者というか参考意見を述べるのが役割で、参加している。コロナ禍以前は、朝8時から、という超早朝からの会議であったが、最近ではコロナの関係もあって、昼間でオンラインで、なので参加しやすい。通常は、衆議院や参議院の議員会館の会議室で行われるが、超密な会議室で、これでは対面でできないと判断したのか、オンラインになったが、ありがたい。対面の時は、朝8時がむしろ有難かった、電車が空いているからである。なるほど、知恵が生かされている。議員の先生方は、いつも会議などで時間に追われているので、早朝は集まりやすいからだろう。議員会館では、館内放送があって、〇〇先生、というアナウンスを聞くと、どこか病院でも来たかのような気持がしたが、確かに、学校、医者、議員は、先生と呼ばれるのだと、改めて知った。以前、自民党の会議室でプレゼンテーションをしたことがあったが、ちょうどお昼時で、カレーライスが出てきて、これも聞いた通りの昼食か、と妙に感心したことがあった。カレーライスは誰でも子供の頃に好きだったせいか、大人になっても好きな人が多く、食べる時間が短く、皿も一つでよく、片付けもしやすい、これも知恵なのか、と思った。話が横に逸れたが、昨日の議論もGIGAスクール構想に関わる内容で、面白い。詳細は省くが、議員の先生方は、確かに元気がある。いつもアドレナリンが分泌されて、馬力のような、という形容が合っている。昨日は、いろいろな用事があったが、議連だけで十分なので、これで閉める。
ネット社会で生きるには
昨日は何があったのか、手帳を見る。オンライン会議が2つあったが、あまり覚えていないのは、印象が薄いからだろう。寝ていても、夢の中なのか、あるいは考えているのか、気になることがあると頭に残るのは、誰でも経験している。しかし朝起きると、内容を忘れてしまうことが多い。それでも重要なことがあるかもしれない、と思って、今日からメモ帳を枕元に置くことにする。人は潜在的に何かを考えたり気にしたりしているが、氷が水面へ浮上するように、ときどき思い出したり気が付いたりする。あまり覚えていないのは、水面下にあるだけなので、平穏なのかもしれない、と思って安心するが、今朝は重要なことを思い出したので、このブログの後に、すぐにメールを出して対応したいと思う。それは、ほとんど思い違いの場合が多い。例えば、メールを出したのに返事が来ないのは何故だ、と気にして、相手がどこか不満に思っているのだろうか、などと考えるが、ネットいじめなどは、このような思い違いによることが多いのではないか、と思う。ふと思った。そうか、添付ファイルをパスワード付きで送ったが、添付ファイルは、場合によってはセキュリティでブロックされているかもしれない、などと考えれば、別の方法で送ったほうがいい、と気づく。ということは、大人にも子供にも、ICT社会で生きる知識が必要ではないだろうか。また、面倒なのでそのままにしておく、なども誤解を生む原因になる。自分も、このブログの後にすぐに対応しよう。相手も、自分のことを不満に思うかもしれないから。ネット社会では、知識と共に相手への気遣いも必要である。これも、経験しながら対応するしかないのだろうか。自分を振り返って、人間関係にトラブルが起きないように、対応し、善処し、その知恵を共有する時代のような気がする。
反省した一日
昨日は午前は2時間、午後は3時間近くのオンライン会議があって参加したが、その間に諸々の仕事をして、結局朝8時から午後5時まで机に座っていたが、かなり疲れる。正確には、朝6時からで、朝食と昼食の時間を外すのだが、オンラインでは移動時間がないので、文字通り予定が詰まる。昨日は、少し公的な会議なので、固有名詞は書かないが、午前の会議の時に、自分の格好に気が付いた。他のメンバーはネクタイをしているが、自分だけジャケットを羽織っているだけだった。画像が見えると、比較ができるので、なるほどネクタイがないと、首元が少しだらしがないように見えた。つまり、反省したのである。そこで、午後は、ネクタイをして参加した。オンライン会議が始まる30分ほど前に、音声や映像をチェックする、という約束を忘れて、10分か15分ほど前に入ったのだが、担当者が心配して何度も自分の携帯に電話をかけたらしいが、まったく気が付かなかった。申し訳ないことをした、と反省した。しかし、3時間近くのオンラインは長い、2台のパソコンがあるので、1台で会議に参加しながら、横のパソコンで別の仕事をした、つまり、内職である。なるほど、大学生の気持ちがよく分かる。ふと自分の格好を見たら、下はGパンで上は背広を着たようにネクタイをしている、つまり見せかけ、なのである。元々、ネクタイをするのは嫌いで、まして自宅にいる時は、似合わないし場違いである。自宅では、ラフな格好が合うし楽である。しかし、オンラインでは、画面の向こうは外の世界なので、外を意識しなければならないが、そのギャップに気が付かなかった。内職はするし、約束の時間は守らないし、見せかけはするし、学校でいえば、できの悪い学生である。反省の多い一日だった。
式典と会議
昨日は都内で3つの用事があって、出かけた。午後3時からは、ある企業グループの式典、固有名詞で書いてもかまわないと思うので、三菱グループ150周年記念式典、に参列した。岩崎弥太郎が明治の初期に創業して以来、今年でちょうど150年になるという。新装なったホテルオークラでの賑々しい式典で、コロナ禍とあって、招待者は限られているというが、それでも壮観な眺めであった。映画かテレビドラマで見るような光景だった。この中での注目は、三菱みらい育成財団の設立と事業活動の報告であった。三菱グループは、150周年を記念して、100億円を投じて、将来の日本を支える人材育成を目指す財団を設立した。理事会のメンバーは、三菱グループのお歴々に加えて、外部からは、女性の品格のベストセラーで有名な、坂東真理子・昭和女子大総長と、自分の2名である。これまで口外していないので、たぶん知らないと思うが、自分でも恐縮している。理事の他にアドバイザリーとかいろいろな役をいただいている。ホテルオークラは、溜池山王にある自分の団体事務所と歩いても10分くらいの近い距離にある。事務所での事務局会議に出て、それからホテルオークラに行ったのだが、事務局会議では、いろいろな話題が飛び交い、喧々諤々の議論になる。式典は、予定通りの進行で、きらびやかで、華やかで、輝くような舞台と客席が用意されている、つまり対照的なのである。一方が、ハプニングもあり意見が飛び交う、動、の世界ならば、式典は、予定外のことが起きればそれは事件になるので、プログラム通りなので、静、の世界と言っても良いだろう。この世の中は、そのどちらも必要だが、どちらかというと、動の世界のほうが、面白い。人の心は、外からは見えない。
平凡と三島由紀夫
昨日のブログで、三島由紀夫のNHKスペシャルについて触れた。もう少し、補足する必要がある。三島由紀夫が自殺して、正確には割腹自殺という衝撃だったので、社会に大きなニュースになった。数年前に、北欧やロンドンの学校を訪問したことがあった。音楽が盛んで、どの子供も楽器を熱心に演奏しているので、何故だ、と聞いたら、ビートルズが生まれた国だよ、と答えたので、なるほどと思い、日本のカリキュラムにはないドラマの科目があったので、何故だ、と聞いたら、シェークスピアの生まれた国だよ、と答えたので、なるほどと思い、ついでに、007の映画も生まれた国だよ、とも答えたので、さらになるほど、と思い、そして、ジョークにも長けていることも知った。国際バカロレアの中に、知の理論、という科目があり、哲学的な思考を促す科目で、生徒が論文を書く、と思えばよいが、その論文のテーマが壁に貼ってある。我思う故に我あり、ではなく、我見る故に我あり、のタイトルの中学生の論文がある。デカルトはフランス生まれであるが、中学生にしては、ずいぶん高尚な内容を考察したのだと思った。たぶん、我観る故に我在り、の漢字を宛てた方がいいだろうと思うが、日本との違いに驚いた経験がある。日本のカリキュラムでは、音楽や美術は、高校入試に出ない、その他科目として軽視される科目である。まして、ドラマや哲学などは、意識すらしていない。文化が違う、disciplineが違う、どこか本質的な美を追求しているような気がして、日本人がこの欧米の人たちに、文化的に対抗できるのは何だろうか、と考えたとき、それは武士道しかないのだろうか、と思ったことがある。武士道は、美学でもある。自分が思う三島由紀夫論は、このようなイメージである。しかし、その美学を行動で示すのは、狂気か天才のなせる業かもしれない、つまり平凡ではない。だから凡人には、不可解である。
日曜日の光景
昨日は日曜日だが、オンライン実験があった、と言っても、自分は手伝いをしただけだが、無事に終了した。研究途上のことは知的財産なので公開できないが、自分もアシスタントとして役目を果たせたので、ホッとした。ずっとパソコンの前に座っていると疲れるので、公園にジョギングに行った。最近は、固有名詞も許されるだろうと思うので、航空公園と書く。文字通り、飛行機の発祥の地を記念した公園で、きれいな青空の元、密の人だかりで、広い公園に、幸せとしか表現のしようがないような、笑顔で飾った人々の花が咲き乱れている。サッカー、キャッチボール、バレーボール、ランニング、吹奏楽、ゴム飛行機から紙飛行機、中には、ごろり横になって昼寝をしている男がいるテントや、あちこちに、自由に秋の日差しを浴びて、人々は連休を楽しんでいる。秋の日差しは短く、太陽が西に傾くころ、人々には長い影が寄り添って、夕方になるのを惜しむかのように、時を過ごしている。その光景を見ながら、公園から自宅に向かっていると、ふと思う。学生の頃の友達は今頃どうしているのか、同僚はまだ仕事をしているのか、病気になった男や、羽振りの良かった男、などが思い出される。西日が作る長い人影は、秋や冬の季節に相応しいようで、人を過去の思いに導いていく。そうか、誰もそれなりに、幸せを求めて生きているのか、自分も同じだ。夕飯時に、録画していた、NHKドキュメンタリー三島由紀夫の番組を見たが、天才の生き方は、自分には分からない。人生は、平凡でいいから、小さな幸せで十分ではないか、オンラインで仕事をし、公園でジョギングをし、平和な光景を見て、美味しい食事をする、それ以上は望まない、それ以上は、天才か狂気か、平凡ではないのだ。
