昨日は日曜日なので、と言っても、いつもと変わらず、午前中はスケジュール管理や原稿チェックなどをしていたが、午後は買い物とスポーツジムに行った。スポーツジムではランニングマシーンで30分走るが、マシーンの位置によって、テレビが視聴できることがある。昨日は、良く見える位置だったので、と言っても、少し遠い距離なので詳細は分からないが、ドラマやニュースなどでは字幕が入るので、よく分かる。ちょうど高校女子サッカーの決勝戦の中継だった。後半45分ハーフが始まったばかりで、きれいなヘッディングシュートが決まって、アッと声を上げたが、ユニフォームを見ると、ふじ色で藤枝順心高校のサッカー部だった。自分の出身校の藤枝東高校のサッカー部のふじ色と似ているので、目がそちらに向いたのだと思う。相手校は、岡山作陽高校で、津山市にあるが、ここも父親の出身地域なので、どちらも応援したくなったが、さすが全国の強豪サッカーチームらしく、きびきびした動作が目を引き付け、30分予定のランニングが35分になった。選手たちイレブン全員が、純粋にボールを追いかけることに夢中で、コロナも近づけば吹っ飛ばされるだろう。スポーツジムから帰宅して、スマホを見ると、ふとお知らせに目が留まった。俳句のテレビ番組で人気のある東大の学生鈴木光さんが、弁護士を目指すので、スマホを止める、というタイトルに、さすがだと感嘆した。全国優勝するとか、弁護士を目指すとか、道は違っても、どこかまっしぐらに進んでいて、それが人を引き付ける。脇目を振らず、目標に向かう、たぶん迷いも不安もプレッシャーもあるだろうが、その努力が人に感嘆の声を上げさせる。コロナ騒ぎでしばらく忘れていたが、若い人達が未来を見つめる姿は、人を原点に戻してくれる。自分も、鈴木光さんの決心を聞いて、スマホを止めてみようかと思った。少なくとも、少し検討しようと考えた。スマホとは、スマートフォーン、つまり移動型電話なので、今の在宅勤務では、もう用はないかもしれない、と思ったからである。ランニング時間を30分から35分に延長させ、スマホをどうしようか、と考えさせるのは、目標に向かって努力する姿に惹かれるからである。
逆境に向かう
昨日は、土曜日で午前にンライン会議があったが、それ以外は諸々の仕事、と言っても私的な用事があって1日が終わった。暦の上では3連休の初日だが、世の中は緊急事態宣言やコロナ感染者数の急増で、そのような華やかさはない。居酒屋やスナックなどの経営は極めて厳しく、始めは、そのような職種の店は仕方がない、と思っていたが、テレビ報道で、経営者が、貯金が無くなるまで頑張る、従業員も首にするわけにはいかないから、と悲壮な顔で言われると、やはり同情する。仕事が終わって、一息つく癒しの場所も必要か、と思うと、この世の中も、いろいろな職種で成り立っていると、改めて納得する。教育の仕事は、世間から見れば、大切で、誰も我が子可愛さで、反対する人はいない、それだけ、きれい事の世界に浸っているのかもしれない。用事が終わって、スポーツジムに行った。土日はジムに行って、平日はジョギングを心掛けている。知事などがステイホームと言うが、いかがなものか、それは心身ともに不健康にして、生きる元気を奪ってしまう、それよりも、家から出て、テレビを捨てて、運動しよう、のほうが、はるかに優れている。密を避けることが肝心で、家に引きこもることは、何も意味がなく、特に子供にとっては有害でしかない。公園などでは、子供も全員マスクを着けている。ジムでは、プールや浴槽を除いて、筋トレなどの運動は、マスクを着けたままになった。やってみると、多少の息苦しさはあるが、すぐに慣れる。町を歩いても、マスクをしていない人は誰もいないから、日本人くらい、忠実に法や施策を守り、自己犠牲をしても文句を言わない人種は、世界にはいない、と思う。ジムのプールに入ると、体温に適した水の流れが心地よく、なんと贅沢なのだろうか、と思い、外に出ると、夕方の風は冷え切って、顔や耳が痛いようで、帰宅すると、その居心地の良さにホッとする。本当に、店をたたむ人、職が無くなった人、苦しい生活に耐えている人を思うと、申し訳ないと思うが、どうしょうもない。この世の中は、矛盾を抱えながらも、生きていくしかないか、とも思う。ただ、先の居酒屋やスナックの主人も、ジムの経営者も、観光業者も、すべて努力している姿が、尊い。いずれ、コロナとの戦いに勝つ日が来るだろう、否、勝ちたい。逆境に向かう時である。
人と人の出会いとは
昨日は審査の仕事をしたり諸々の用事で過ぎたが、コロナ感染数の増加が急速で電車に乗って都心に出かけるのが躊躇される。昨日の朝は時刻に遅れて小学生の見送りができなかったが、思えば学校での出会いは、それはクラスでも部活でも教師でも、大切であり、休校措置はできる限り避けてほしい。昨日、量子ウォークについて書いたが、人も量子と同じで、ある時は優しく人に接し、ある時は腹が立って苛立たしく人に接する。聖人君主というわけにはいかず、子供も、ある時にはいじめる側になり、ある時はいじめられる側になるのではないか、どの可能性も持っている、と考えたほうが自然である。このブログでも書いたが、青春はこわれもの、の歌詞を年末の歌番組で聞いたが、純粋に走っていくと同時に、内面では不安が一杯で、という二面性を持ちながら青春を過ごしている。同じように、上を向いて歩こう、と頑張ろうとか希望を持とうとかのメッセージの裏に、涙がこぼれないように、と内面の寂しさを歌っているので、人は共鳴するのであろう。昨年のNHK朝ドラで、古関裕而が軍歌を作るが、勇壮な歌詞に対して、兵士たちは、明るい長調ではなく、むしろ哀愁ある短調の作曲を好んだと言う。あの人は、こうだ、と決めつけられないのではないか。人間ブルトーザーと言われた田中角栄に森光子がインタビューした様子が、テレビで放映されたことがあるが、こんなにも繊細な心の持ち主だったのか、と思ったことがある。それは、アナウンサーでも政治家でもなく、森光子だったからではないか、と思う。量子力学では、波か粒子か、そのどちらが現れるのか、それは他との相互作用による、と言っている。つまり、人の世界では、出会いである。出会いによって、例えば、ある生徒は、教師の一言で、世界史が大嫌いになったと言い、ある生徒は、教師の一言で、教師を目指そうと決意したと言う。出会いによって、その人の何を引き出すのか、それは、相互作用、つまり人と人との関係で決まる、のではないか。通常は、量子ウォークのようにどちらでもない、物事の本質は決定論ではなく確率である、という物理の法則は、どこか人間の世界にも当てはまるような気がする。
量子ウォークとコロナ
昨日は7日で、午前は審査系の仕事で午後はオンライン会議やジョギングなどして、という平穏な1日だったが、この審査が難しくて面白い。量子ウォークというから、情報系や物理系の人には興味があるだろう。ランダムウォークは、例えは良くないが、酔っ払いが歩行する姿は、ふらふらと彷徨しているが、ある点を中心に正規分布して端の方にはあまり行かないだろう、ランダムだから当然である。ところが量子ウォークは、ある点からスタートすると、両端に行く確率が高くなって、ちょうど釣り橋のような両端分布になる。その両端を、情報なら{1,0}、物理なら{粒子、波}と捉えれば、コンピュータに関係ある理論だと理解できる。電子のような世界では、古典力学ではなく量子力学で表現される、つまり、電子が粒子なのか波なのかは、決定論ではなく確率で表わされる、確率こそ物事の本質である、と物理は言う。物理の専門家から文句を言われそうだが、お許しいただきたい。ある時は粒子、ある時は波のように、まるで夢遊病者が歩くランダムウォークのように、否、量子ウォークのように、と言えば、理数系でない人にもイメージは伝わるだろう。コンピュータの心臓部であるCPUの処理が、デジタルの{1,0}ではなく、量子のような1か0かの確率だとしたら、コンピュータの概念そのものが変わる。今のところ、この計算速度はスパコンよりも桁違いに速くなるという。この研究では、それを計算爆発を起こす探索に適用するので、もしこの研究が成功すれば、暗号解読も探索なので量子コンピュータが有望になる。もし暗号が解読されるなら、大きな社会問題を起こすだろう。研究計画を立てているのは、数学を専攻している大学院生であるが、コンピュータを作ったのは数学者なので、ち密な頭脳の持ち主でないと研究できない分野である。夕食は7日なので、七草粥だった。テレビが、東京の今日のコロナ感染者数が2400名を超えたと、ピリピリした報道をしていた。家の内では、量子ウォークだとか七草粥だとか、平穏な生活だが、外は暴風雨が吹き荒れているようで、そのギャプに驚く。何とぞ、コロナが一日も早く終息しますように、と非力な自分は、専門家や関係者に願うしかない。
小学生とロボットと
昨日は6日で朝8時前に習慣で近所のお社に行ったら、登校している小学生の列に会った。そうか、今日から学校が始まったのか、と子供見守り隊を自認している自分にとっては、久しぶりの嬉しい見送りだった。小川の橋から見ていると、昨年と変わらず、低学年の子は、背負ったランドセル一杯に交通安全の黄色いマークをつけているので、後ろから見ると交通安全が歩いているようで、先頭の高学年の子は、旗を持って先導し、最後尾の体格の大きな高学年の子は、昨年と変わらず、遅れてついていき時々小走りで追う付こうとしている。今年も始まったか、と思うが、自分は子供たちに声をかけたことはない、怪しまれるからであるが、ただ、見送るだけで十分である。たぶん、子供たちも、いつもの白髪の年寄りが、今年もいたかと思うだろう。それで十分である。家に帰ると、家内が、ルンちゃん、と呼んでいる声が聞こえる。昨年の暮れに親戚から送られてきた、お掃除ロボット、ルンバである。ルンバが掃除をしている姿を見ると、確かに家族の一員のように見えてきて、ルンちゃんの呼びかけが似合っている。午前中に、このブログでも書いた審査する研究計画を読んでいるが、その中に、塗装ロボットの研究があった。塗装も危険な場所や手の届かない場所などを考えると、自動化を目指しているが、均一に塗る、隅々まで塗る、箇所によっては丁寧に塗る、などを考えると、職人技であり、AIのディープラーニングで解決する研究であるが、ふとルンバのことを思い出した。お掃除も同じで、隅々まで、箇所によっては丁寧に、はまったく同じである。そのためには、部屋の構造、つまり部屋の地図を描く必要があるが、赤外線などでチェックしているだろうが、AIは搭載されていないだろう、などと考えていたら、なにやら、人と同じように見えてきた。正真正銘の人である小学生も、ルンバも、塗装ロボットも、可愛げのある人のようで、声をかけなくても、どこか気持ちは通じているような気がする。
病院での診断
昨日は、日本医科大学付属病院に行って、昨年12月に検査をした結果を医師から伺った。検査ではCTスキャンや骨密度の測定などで、時間がかかったが、診断結果は異常なしで、ホッとした。骨密度などはむしろ標準よりも高い数値で、有難い結果である。数年にわたる血液検査データから、副甲状腺についての疑いがあったらしい。入院や大きな病気をしたことがないので、健康に過信していたが、改めてその大切さを思う。癌や脳梗塞など、先輩や同窓生では頻繁に聞くので、むしろ大病を経験するほうが普通かもしれない。自分もいつ倒れるか、両親は、脳梗塞や脳血栓などで入院した、そして認知症になった、ことを思えば、自分にもその遺伝子は流れているだろう。細胞が衰える老化現象は、このブログでも書いたが、物理でいえば、エントロピー増大の現象なので、止めることはできないし、後戻りすることもできない、不可逆な自然法則である。そして、カタストロフィー現象がある。突然に、不連続的に、破壊のような現象が起きる。よく知られているが、地震の発生は、地層のずれが、ある限界値を超えて跳ね返ることが原因だが、いつ起きるという予測はできない。確率的な予想は言えても、決定論的に断定できないことは、競馬の予想と大して変わらない。癌細胞は少しずつ大きくなっていき、脳梗塞も血管のつまりが徐々に大きくなっていくので、確率的に病気の予測はしても、脳の血管がいつ破裂するかは、カタストロフィクな現象なので、予測不可能だろう。つまり、人は誰でも自分を窮地に陥れる病原菌を抱えながら生きているのだが、時々その菌が身体の弱った個所から顔を出して警告をする。医師は、その兆候から患者に対処法を授けるのだが、その診断に身を任せるしかない。なるほど、人は生きているようで、生きていない。病原菌や遺伝子のなすがままなのか、と嘆息しても仕方がない。生きていれば、楽しいこともあるし、幸せと感じることもある。体内に潜んでいる病原菌のことなんか、ほっとけば良いだろう、菌に負ける時は、その時に対処しよう、と思うと、どこか新型コロナと同じように思えてきた。
仕事初め
昨日は4日で仕事初め、と言っても、まだのんびりしているので、手帳には夕方からのオンライン研究会だけ入っている。ただ、審査系の仕事は、計画を立てないとすぐには不可能で、審査件数を考えると少なくとも1週間は必要なので、昨日から手掛けた。具体名は書けないが、長い年月審査をさせていただき、もうこの辺で辞退しようか、と何度も思ったことがある。しかし、その度に、あっそうか、とか、凄いとか、納得したり共鳴したりして、やって良かった、と思い、今日まで続いている。例えば、アスファルトなどの道路の舗装工事で、ひび割れを自動検知するシステムの研究を読んだ。昔は、職人さんが判断していたらしいが、そのような職人技を持つ人が少なくなって、システム化する必要が出てきた。これは画像認識の研究で、車にカメラを乗せて道路を走って録画すればいいではないか、と素人は思うが、そう簡単ではないらしい。詳細はともかく、自動認識するには、録画を分析して、道路とその他を区別して、その道路に点在するひびを認識し、その様子を可視化し、破損状況を数値化し、60%以上なら補修工事が必要、などと計算する、つまり職人の目や直感を機械にさせるので、AIで実装、具体的にはディープラーニングで実現する研究である。かなり進んでいるらしい。AIは、もちろん人から学んでいる、人の物まねであるが、最近は職人とか名人芸と呼ばれるような技に、迫ろうとしている。だから研究なのだが、ここにも、一般には知られていないが、地道に社会のお役に立とうと努力している人々がいる。もちろん、コロナと闘う医療やワクチン開発などは、壮絶な研究をしているのだろう。もう一つの研究は、キャシュレスではPayPayなど普及し始めているが、日本は諸外国に比べて相当に遅れているらしい。何が原因かを調べると、デザインや分かりにくさ、特に年配者にはソッポを向かれてしまう現状に対して、そこにメスを入れる研究で、いろいろな文献を調べて、その研究計画を立てている。これも、面白いではないか、と感じたが、自分は審査しているのではなく、教えてもらっている。こいつは春から縁起がいいわい、という歌舞伎のセリフを思い出すが、そんな仕事初めである。
無駄なのか意味があるのか
昨日1月3日はまだ松の内だから、といっても、今日から仕事初めになるので、少しお正月の名残を惜しむ日でもある。いつもと同じように午前中に書斎で仕事をして、お昼時間なので少しすいているだろうと期待して、お宮参りをした。例年のような華やかさはないが、やはりお正月で、毎年同じだが、お守りを買った。参拝客が少ないせいか、お守りの値段が例年よりかなり高い。高い分ご利益はあるのか、と不謹慎なことを思ったが、帰宅して、カバンに着けると、そういえば、去年は都心に通勤することが少なかったので、あまりお守りの役を果たしていないことに気が付いて、今年も多分期待しないで良いような気がして、何か無駄ではないのかと、正月から縁起でもないことを考えた。去年で最も使わなかったのは、名刺である。例年では、事務所の女性が、不足してきたら補充してくれたが、その使用枚数が極端に少ないのは、対面でのイベントがほとんど無くなったからであるが、考えてみれば名刺などあまり要らない。ほとんどがメールで連絡するか、ネット検索でなんとかなるからで、挨拶代わりの役目以外はないようだ。そういえば、年賀状も今年は少ないような気がする。ここ数年は300枚程度出しているが、そろそろ年賀状納めをしてもいいかもしれない。現役の頃は600枚程度だったから、今思えば、どこか無駄のような気もする。個人の生き方も世の中の景気と同じように、バブル時期には、早く行け行けと思い、バブルがはじけると、引き締めるような気持になり、コロナ禍に入ると、仕事や生活スタイルが一変して根本的に見直すようになる。通勤するのは意味があったのか、都心に高い家賃を出してオフィスを構えることに意味があったのか、と誰でも思うようになった。そして、自分は何をしてきたのだろうか、長い間税金で生活させてもらって、何かお役に立ったのだろうか、無為徒食の輩になっていないだろうか、などと考えると、お守りや名刺や年賀状や都心の事務所とあまり変わらないような気もする。いや、それぞれに意味はあったのだ、これから新しい意味を見出そう、と考えたい。
初泳ぎ
昨日は、1月2日の正月なので、気が楽である。有難いことに、自分が通っているスポーツジムは、昨日から開いている。自宅から歩いて15分くらいの商店街にある。自分は、平日はジョギング、土日はスポーツジムと決めているが、年齢と共に、コロナ禍でのオンライン会議漬けの生活と共に、体を動かすことの大切さと楽しさと効果を、ますます実感している。誰も同じだと思うが、運動をした後の爽快感は素晴らしく、きれいな夕日だとか、幸せな親子連れだとか、落ち葉はなんと自然な色なのかとか、目に周囲の心地よい風景ばかり、入ってくる。脳から、楽しさを感じるホルモンが分泌されているからだろう。昨日は、初泳ぎをした。ここ数か月は、スポーツジムでは、筋トレなどのマシーンが中心だったが、昨日は、それに加えてプールに入った。テレビで、初泳ぎ、それも6度という海中での行事が放映されていたが、その影響ではなく、昨年から、1月2日に初泳ぎをしようと決めていた。新年に、身体を水中に入れたくなるのは、どこか、お清めのような気持があるからだろうか、筋トレで汗をかいた身体を、プールに沈め初泳ぎするのは、気持ちが良いことは、言うまでもない。水温は、ちょうど良く、水が身体を優しさで包んでくれるような気持がして、母親に抱かれて安心している幼児のような感じである。これで、新年をスタートできるかと思って、自宅に帰って、また風呂に入るのだから、これでお清めは十分だろう。書斎に入って、午前中に小さな原稿を送ったので安心して、メールのチェックや調べ物をした。2階の窓から見える空は、茜色が静かに消えていく時刻で、高層マンションに灯りが点き始めた。今日は、2日か、今年も良い年であってほしい、平凡でいいので、穏やかな日々を送りたい、家族の誰もが病気をしないでほしい、自分も少しでいいので仕事を続けさせてほしい、入院などしないで健康でいたい、など、誰もが思う願いを空に向かって、祈った。そういえば、まだお宮参りに行っていない、明日にしようか、など老夫婦で話しながら、夕食をとった。正月なので、飲み物は日本酒である。
お正月
昨日は、令和3年1月元旦、つつがなく、というか、楽しい1日を過ごした。お正月くらいか、朝昼兼用の食事をしながら、全国のお正月風景をお茶の間に届けてくれるテレビ番組を見ながら、お屠蘇を飲みながら、おせち料理をいただきながら、という贅沢な時間を過ごす。昼間からお酒を飲んでも誰も叱りはしない、日頃はあまり飲めない日本酒を、老夫婦でいただいて、ふわっとした心地になって、なるほど自分は酒に弱いな、しかしこんなに美味しかったのかと思いながら、暖かい日差しの入る部屋で、テレビを見るともなく、目を向けながら、ゆりかごに揺られているような心境で時を過ごすのは、これがお正月なのだ、と実感する。年の初めなのでと思って、書斎に上がって、ドサッと山積みされている書類に、目を通す。書類を読むと、少し眠気が誘ってくるが、これもお正月か、と思いながら、あれこれと考えていたが、ふと、Googleの使ったことがないアプリを使ってみたくなり、試してみると、以外に面白く、効率はともかく夢追い人のように、仕事もふらふらと楽しい散歩をしているようだ。その後は、ジョギングタイムになって、東の方角にある航空公園に行くと、大勢の子供、若者、家族連れ、年配者が、サッカー、キャッチボール、そして凧揚げに興じて、満面の笑顔の花が咲いている。そうだ、お正月なのだ、読んだことはないが、寺山修司の、書を捨てよ町へ出よう、を思い出す。3が日は、絶対外出禁止、という知事の発言に苦笑する、そうではなくて、テレビを捨てて、太陽の元で運動しよう、または、書の後は、でもよいが、そのほうが、よほど健康であり、広い公園で密を避けることができる。お正月とは、心がリラックスし、この暖かい日差しや家庭で過ごせて良かった、と自己肯定する日でもあろう。家に閉じこもり何もしないのは、苦痛の代名詞に過ぎない。苦痛と思えば、それは、心が健康ではない。夕方は、都内に住む子供たちや孫たちと、オンライン夕食会でお正月を祝った。お正月は、自粛ではなく楽しく過ごそう。
