心身ともに健康を

昨日は、午後3時半に眼科の予約があったので、その前にジョギングをしようと思って、12時半に東方向の航空公園まで行った。お昼休み時間のせいか、何名かが、老いも若きも、同じようにジョギングをしていたが、その光景を見るのも楽しい。平日のお昼の時間は、幼児を連れた親子連れ、オカリナを吹いている年配者、散歩をする人、昼食を取る人、など様々である。一昨日は都心に出かけたが、天気予報では雪だったが、みぞれ交じりのような冷たい雨が降って寒かったが、昨日はポカポカ陽気だった。コロナ禍で店終いをした人、先行きを不安に思っている人などを考えると、どこか申し訳ないような気もするが、このようないつもと変わらぬ平穏な風景が人を元気にするのだ、と思う。昔どこかの記事で読んだことがあるが、太平洋戦争中、戦況が厳しい南の島で、いつ部隊が全滅してもおかしくない状況の中で、一人の兵士が、毎日ひげをそり、身の回りを清潔に保ち、きちんとしていたというが、その光景を見ると、部隊の皆が、これで今日も生き延びられる、と感じたという。平時と変わらぬ姿が、まだ大丈夫と言う安心感を与えたのであろう。この前、床屋に行ったら、その主人が、今はコロナとの戦争をしているのだ、と言ったので、なるほどと思った、その通りである。この戦争に勝つには、いつもと変わらぬ姿で平然と、そして平時よりも身も心も健康に保つ必要がある。自分事であるが、コロナで在宅勤務になり、月に数回程度しか都心に出かけないので、これでは健康が維持できないと思って、ジョギングを始め、そして土日はスポーツジムに行って筋トレとプールで泳いでいるが、楽しい。そして、食事がこんなにも美味しかったのか、と気が付いた。知人に話したら、プールは次亜塩素酸で消毒しているから、体全身をコロナ感染から守っているのだ、という珍説を聞いたが、まんざら嘘でもないようだ。ジョギングから帰り、シャワーで汗を洗い流して、そして眼科に行き、夕食はお鍋だったので、日本酒をいただいたが、コロナ禍だからこそ、むしろ心身ともに健康を保つように心掛けるほうが、幸せな生活ができる。

EBPMとは

昨日は忙しく、午前から都心に出かけて3つの用事を済ませた。久しぶりに溜池山王あたりに来ると、お上りさんのような心境で、どこか都会の匂いがするようだ。2つが会議だったが、主な役割は、議論して、最後は意思決定することだが、今年に入って緊急事態宣言のためか、議員や省庁の官僚との会議は控えめになっている。この政治家や官庁関係の会議では、EBPM(Evidence Based Policy Making)証拠に基づく政策立案の用語が頻繁に出てくる。意味は分かる。単なる感想やその場の雰囲気で政策を決めてはいけないので証拠が必要なのだが、最も確実な証拠は、数値であろう。つまり科学的な根拠に基づく政策立案なのだが、例えば、コロナ対応では、医学的なデータに基づいて政策決定されることで、テレビなどで頻繁に報道されるので、一般にも馴染んできた。自分はお昼時間に、NHKのニュースと再放送の朝ドラを見ているが、その間に料理番組があって興味がなかったので、近所に散歩に出かけていた。この番組では、コロナ太りになって不健康である。最近は、お医者さんが登場して、データを見せながら、外に出て運動しましょう、と呼び掛けている。このブログでも何度も書いたように、大賛成で、Stay Homeよりは、よほど訴える力がある。Stay Homeの趣旨は、家に引きこもれ、とは言っていないのだが、知事などが言うと、どうもEvidence Baseになっていない印象を受ける。表面しか見ていないので、言葉が薄く感じる。昨日のニュースで、菅総理の支持率が40%不支持率が41%と報道していたが、この数値は厳しいEvidenceだろう。誰でも経験するが、数値で示される証拠は、反論ができないので、胸に突き刺さる。しかし、人の働きは、科学的証拠だけではないのだ。その数値を生み出す要因には、見えるものと見えないものがある。人が会議をする時には、その見えない部分にも光を当てなければならない。自分事で恐縮だが、昨日の会議は、そこがうまくいったので、最後が爽やかな気持ちだった。菅総理の不支持率の数字は、コロナ禍による感染不安、オリンピックの開催不安、生活維持への不安、将来への不安、就職の不安など不安だらけの状況の中で、市民が感じる心情を為政者にぶつけた結果であろう。市民は王様であるが、責任は取らない。菅総理の取り巻きは、見えない努力を十分に評価しなければならない、菅総理の家族は数字に現れない良さを誉めなければならない。

お墓参りと成人のお祝い

仕事のスケジュールは、To Do リストに書いて、パソコンのデスクトップに張り付けているが、その日のことは手帳に書いて区別している。原稿締め切りなど手帳に書いて、手帳を見て今日だったのかと思っても、もう遅い。だから、パソコンと手帳の両方を毎日見るようにしているが、ついでに、書斎にある白板にクリアファイルを留めて、月ごとに書類をまとめて、これも毎日確認している。手帳を見ると、昨日は午後にお墓参りと記されているので、自宅から車で15分くらいにある墓地に老夫婦二人で出かけた。毎月のことであるが、楽しみでもあり、閑静で森のような佇まいが気に入っているが、昨日お線香をあげていると、向こう側に晴やかな4人くらいの人達がいて、写真を撮っている。そうだ、今日は成人式だったと思い出した。振袖なのか和服のことはよく知らないが、きれいな娘さんを囲んで、ご両親と祖父母のような人達が、嬉しそうに歓談し、カメラを向けていた。たぶん、ご先祖様に、成長した娘さんの晴れ姿を見せたかったのであろう。せっかくだから、マスクを取ればよいのに、と思ったが、真っ白いマスクを着けたままカメラの前に立っていたが、それもいいだろう、令和3年の成人式は、マスク着きだったと、何年か後で振り返って思い出すだろう。全国各地で、20歳の若者が、成人式を迎える。そして全員が、この墓地に来た娘さんのように、マスクをしているだろう。最も美しく輝く年齢であるが、その顔を隠すかのように、令和3年の20歳のお祝いは、どこか寂しさが漂う。しかし、自分も含めて今の世代は戦争を知らず、飢えを知らず、平和な世の中で生きてきた。コロナ禍くらい、小さな不幸でしかない。ふと、林芙美子の、花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、を思い出した。これからが、大切である。自分は、著名な作家と違って、あまり苦しさを感じないようで、面白いことも多かりき、と、成人式を迎えた若者に言いたい。

目標を持つ人達

昨日は日曜日なので、と言っても、いつもと変わらず、午前中はスケジュール管理や原稿チェックなどをしていたが、午後は買い物とスポーツジムに行った。スポーツジムではランニングマシーンで30分走るが、マシーンの位置によって、テレビが視聴できることがある。昨日は、良く見える位置だったので、と言っても、少し遠い距離なので詳細は分からないが、ドラマやニュースなどでは字幕が入るので、よく分かる。ちょうど高校女子サッカーの決勝戦の中継だった。後半45分ハーフが始まったばかりで、きれいなヘッディングシュートが決まって、アッと声を上げたが、ユニフォームを見ると、ふじ色で藤枝順心高校のサッカー部だった。自分の出身校の藤枝東高校のサッカー部のふじ色と似ているので、目がそちらに向いたのだと思う。相手校は、岡山作陽高校で、津山市にあるが、ここも父親の出身地域なので、どちらも応援したくなったが、さすが全国の強豪サッカーチームらしく、きびきびした動作が目を引き付け、30分予定のランニングが35分になった。選手たちイレブン全員が、純粋にボールを追いかけることに夢中で、コロナも近づけば吹っ飛ばされるだろう。スポーツジムから帰宅して、スマホを見ると、ふとお知らせに目が留まった。俳句のテレビ番組で人気のある東大の学生鈴木光さんが、弁護士を目指すので、スマホを止める、というタイトルに、さすがだと感嘆した。全国優勝するとか、弁護士を目指すとか、道は違っても、どこかまっしぐらに進んでいて、それが人を引き付ける。脇目を振らず、目標に向かう、たぶん迷いも不安もプレッシャーもあるだろうが、その努力が人に感嘆の声を上げさせる。コロナ騒ぎでしばらく忘れていたが、若い人達が未来を見つめる姿は、人を原点に戻してくれる。自分も、鈴木光さんの決心を聞いて、スマホを止めてみようかと思った。少なくとも、少し検討しようと考えた。スマホとは、スマートフォーン、つまり移動型電話なので、今の在宅勤務では、もう用はないかもしれない、と思ったからである。ランニング時間を30分から35分に延長させ、スマホをどうしようか、と考えさせるのは、目標に向かって努力する姿に惹かれるからである。

逆境に向かう

昨日は、土曜日で午前にンライン会議があったが、それ以外は諸々の仕事、と言っても私的な用事があって1日が終わった。暦の上では3連休の初日だが、世の中は緊急事態宣言やコロナ感染者数の急増で、そのような華やかさはない。居酒屋やスナックなどの経営は極めて厳しく、始めは、そのような職種の店は仕方がない、と思っていたが、テレビ報道で、経営者が、貯金が無くなるまで頑張る、従業員も首にするわけにはいかないから、と悲壮な顔で言われると、やはり同情する。仕事が終わって、一息つく癒しの場所も必要か、と思うと、この世の中も、いろいろな職種で成り立っていると、改めて納得する。教育の仕事は、世間から見れば、大切で、誰も我が子可愛さで、反対する人はいない、それだけ、きれい事の世界に浸っているのかもしれない。用事が終わって、スポーツジムに行った。土日はジムに行って、平日はジョギングを心掛けている。知事などがステイホームと言うが、いかがなものか、それは心身ともに不健康にして、生きる元気を奪ってしまう、それよりも、家から出て、テレビを捨てて、運動しよう、のほうが、はるかに優れている。密を避けることが肝心で、家に引きこもることは、何も意味がなく、特に子供にとっては有害でしかない。公園などでは、子供も全員マスクを着けている。ジムでは、プールや浴槽を除いて、筋トレなどの運動は、マスクを着けたままになった。やってみると、多少の息苦しさはあるが、すぐに慣れる。町を歩いても、マスクをしていない人は誰もいないから、日本人くらい、忠実に法や施策を守り、自己犠牲をしても文句を言わない人種は、世界にはいない、と思う。ジムのプールに入ると、体温に適した水の流れが心地よく、なんと贅沢なのだろうか、と思い、外に出ると、夕方の風は冷え切って、顔や耳が痛いようで、帰宅すると、その居心地の良さにホッとする。本当に、店をたたむ人、職が無くなった人、苦しい生活に耐えている人を思うと、申し訳ないと思うが、どうしょうもない。この世の中は、矛盾を抱えながらも、生きていくしかないか、とも思う。ただ、先の居酒屋やスナックの主人も、ジムの経営者も、観光業者も、すべて努力している姿が、尊い。いずれ、コロナとの戦いに勝つ日が来るだろう、否、勝ちたい。逆境に向かう時である。

人と人の出会いとは

昨日は審査の仕事をしたり諸々の用事で過ぎたが、コロナ感染数の増加が急速で電車に乗って都心に出かけるのが躊躇される。昨日の朝は時刻に遅れて小学生の見送りができなかったが、思えば学校での出会いは、それはクラスでも部活でも教師でも、大切であり、休校措置はできる限り避けてほしい。昨日、量子ウォークについて書いたが、人も量子と同じで、ある時は優しく人に接し、ある時は腹が立って苛立たしく人に接する。聖人君主というわけにはいかず、子供も、ある時にはいじめる側になり、ある時はいじめられる側になるのではないか、どの可能性も持っている、と考えたほうが自然である。このブログでも書いたが、青春はこわれもの、の歌詞を年末の歌番組で聞いたが、純粋に走っていくと同時に、内面では不安が一杯で、という二面性を持ちながら青春を過ごしている。同じように、上を向いて歩こう、と頑張ろうとか希望を持とうとかのメッセージの裏に、涙がこぼれないように、と内面の寂しさを歌っているので、人は共鳴するのであろう。昨年のNHK朝ドラで、古関裕而が軍歌を作るが、勇壮な歌詞に対して、兵士たちは、明るい長調ではなく、むしろ哀愁ある短調の作曲を好んだと言う。あの人は、こうだ、と決めつけられないのではないか。人間ブルトーザーと言われた田中角栄に森光子がインタビューした様子が、テレビで放映されたことがあるが、こんなにも繊細な心の持ち主だったのか、と思ったことがある。それは、アナウンサーでも政治家でもなく、森光子だったからではないか、と思う。量子力学では、波か粒子か、そのどちらが現れるのか、それは他との相互作用による、と言っている。つまり、人の世界では、出会いである。出会いによって、例えば、ある生徒は、教師の一言で、世界史が大嫌いになったと言い、ある生徒は、教師の一言で、教師を目指そうと決意したと言う。出会いによって、その人の何を引き出すのか、それは、相互作用、つまり人と人との関係で決まる、のではないか。通常は、量子ウォークのようにどちらでもない、物事の本質は決定論ではなく確率である、という物理の法則は、どこか人間の世界にも当てはまるような気がする。

量子ウォークとコロナ

昨日は7日で、午前は審査系の仕事で午後はオンライン会議やジョギングなどして、という平穏な1日だったが、この審査が難しくて面白い。量子ウォークというから、情報系や物理系の人には興味があるだろう。ランダムウォークは、例えは良くないが、酔っ払いが歩行する姿は、ふらふらと彷徨しているが、ある点を中心に正規分布して端の方にはあまり行かないだろう、ランダムだから当然である。ところが量子ウォークは、ある点からスタートすると、両端に行く確率が高くなって、ちょうど釣り橋のような両端分布になる。その両端を、情報なら{1,0}、物理なら{粒子、波}と捉えれば、コンピュータに関係ある理論だと理解できる。電子のような世界では、古典力学ではなく量子力学で表現される、つまり、電子が粒子なのか波なのかは、決定論ではなく確率で表わされる、確率こそ物事の本質である、と物理は言う。物理の専門家から文句を言われそうだが、お許しいただきたい。ある時は粒子、ある時は波のように、まるで夢遊病者が歩くランダムウォークのように、否、量子ウォークのように、と言えば、理数系でない人にもイメージは伝わるだろう。コンピュータの心臓部であるCPUの処理が、デジタルの{1,0}ではなく、量子のような1か0かの確率だとしたら、コンピュータの概念そのものが変わる。今のところ、この計算速度はスパコンよりも桁違いに速くなるという。この研究では、それを計算爆発を起こす探索に適用するので、もしこの研究が成功すれば、暗号解読も探索なので量子コンピュータが有望になる。もし暗号が解読されるなら、大きな社会問題を起こすだろう。研究計画を立てているのは、数学を専攻している大学院生であるが、コンピュータを作ったのは数学者なので、ち密な頭脳の持ち主でないと研究できない分野である。夕食は7日なので、七草粥だった。テレビが、東京の今日のコロナ感染者数が2400名を超えたと、ピリピリした報道をしていた。家の内では、量子ウォークだとか七草粥だとか、平穏な生活だが、外は暴風雨が吹き荒れているようで、そのギャプに驚く。何とぞ、コロナが一日も早く終息しますように、と非力な自分は、専門家や関係者に願うしかない。

小学生とロボットと

昨日は6日で朝8時前に習慣で近所のお社に行ったら、登校している小学生の列に会った。そうか、今日から学校が始まったのか、と子供見守り隊を自認している自分にとっては、久しぶりの嬉しい見送りだった。小川の橋から見ていると、昨年と変わらず、低学年の子は、背負ったランドセル一杯に交通安全の黄色いマークをつけているので、後ろから見ると交通安全が歩いているようで、先頭の高学年の子は、旗を持って先導し、最後尾の体格の大きな高学年の子は、昨年と変わらず、遅れてついていき時々小走りで追う付こうとしている。今年も始まったか、と思うが、自分は子供たちに声をかけたことはない、怪しまれるからであるが、ただ、見送るだけで十分である。たぶん、子供たちも、いつもの白髪の年寄りが、今年もいたかと思うだろう。それで十分である。家に帰ると、家内が、ルンちゃん、と呼んでいる声が聞こえる。昨年の暮れに親戚から送られてきた、お掃除ロボット、ルンバである。ルンバが掃除をしている姿を見ると、確かに家族の一員のように見えてきて、ルンちゃんの呼びかけが似合っている。午前中に、このブログでも書いた審査する研究計画を読んでいるが、その中に、塗装ロボットの研究があった。塗装も危険な場所や手の届かない場所などを考えると、自動化を目指しているが、均一に塗る、隅々まで塗る、箇所によっては丁寧に塗る、などを考えると、職人技であり、AIのディープラーニングで解決する研究であるが、ふとルンバのことを思い出した。お掃除も同じで、隅々まで、箇所によっては丁寧に、はまったく同じである。そのためには、部屋の構造、つまり部屋の地図を描く必要があるが、赤外線などでチェックしているだろうが、AIは搭載されていないだろう、などと考えていたら、なにやら、人と同じように見えてきた。正真正銘の人である小学生も、ルンバも、塗装ロボットも、可愛げのある人のようで、声をかけなくても、どこか気持ちは通じているような気がする。

病院での診断

昨日は、日本医科大学付属病院に行って、昨年12月に検査をした結果を医師から伺った。検査ではCTスキャンや骨密度の測定などで、時間がかかったが、診断結果は異常なしで、ホッとした。骨密度などはむしろ標準よりも高い数値で、有難い結果である。数年にわたる血液検査データから、副甲状腺についての疑いがあったらしい。入院や大きな病気をしたことがないので、健康に過信していたが、改めてその大切さを思う。癌や脳梗塞など、先輩や同窓生では頻繁に聞くので、むしろ大病を経験するほうが普通かもしれない。自分もいつ倒れるか、両親は、脳梗塞や脳血栓などで入院した、そして認知症になった、ことを思えば、自分にもその遺伝子は流れているだろう。細胞が衰える老化現象は、このブログでも書いたが、物理でいえば、エントロピー増大の現象なので、止めることはできないし、後戻りすることもできない、不可逆な自然法則である。そして、カタストロフィー現象がある。突然に、不連続的に、破壊のような現象が起きる。よく知られているが、地震の発生は、地層のずれが、ある限界値を超えて跳ね返ることが原因だが、いつ起きるという予測はできない。確率的な予想は言えても、決定論的に断定できないことは、競馬の予想と大して変わらない。癌細胞は少しずつ大きくなっていき、脳梗塞も血管のつまりが徐々に大きくなっていくので、確率的に病気の予測はしても、脳の血管がいつ破裂するかは、カタストロフィクな現象なので、予測不可能だろう。つまり、人は誰でも自分を窮地に陥れる病原菌を抱えながら生きているのだが、時々その菌が身体の弱った個所から顔を出して警告をする。医師は、その兆候から患者に対処法を授けるのだが、その診断に身を任せるしかない。なるほど、人は生きているようで、生きていない。病原菌や遺伝子のなすがままなのか、と嘆息しても仕方がない。生きていれば、楽しいこともあるし、幸せと感じることもある。体内に潜んでいる病原菌のことなんか、ほっとけば良いだろう、菌に負ける時は、その時に対処しよう、と思うと、どこか新型コロナと同じように思えてきた。

仕事初め

昨日は4日で仕事初め、と言っても、まだのんびりしているので、手帳には夕方からのオンライン研究会だけ入っている。ただ、審査系の仕事は、計画を立てないとすぐには不可能で、審査件数を考えると少なくとも1週間は必要なので、昨日から手掛けた。具体名は書けないが、長い年月審査をさせていただき、もうこの辺で辞退しようか、と何度も思ったことがある。しかし、その度に、あっそうか、とか、凄いとか、納得したり共鳴したりして、やって良かった、と思い、今日まで続いている。例えば、アスファルトなどの道路の舗装工事で、ひび割れを自動検知するシステムの研究を読んだ。昔は、職人さんが判断していたらしいが、そのような職人技を持つ人が少なくなって、システム化する必要が出てきた。これは画像認識の研究で、車にカメラを乗せて道路を走って録画すればいいではないか、と素人は思うが、そう簡単ではないらしい。詳細はともかく、自動認識するには、録画を分析して、道路とその他を区別して、その道路に点在するひびを認識し、その様子を可視化し、破損状況を数値化し、60%以上なら補修工事が必要、などと計算する、つまり職人の目や直感を機械にさせるので、AIで実装、具体的にはディープラーニングで実現する研究である。かなり進んでいるらしい。AIは、もちろん人から学んでいる、人の物まねであるが、最近は職人とか名人芸と呼ばれるような技に、迫ろうとしている。だから研究なのだが、ここにも、一般には知られていないが、地道に社会のお役に立とうと努力している人々がいる。もちろん、コロナと闘う医療やワクチン開発などは、壮絶な研究をしているのだろう。もう一つの研究は、キャシュレスではPayPayなど普及し始めているが、日本は諸外国に比べて相当に遅れているらしい。何が原因かを調べると、デザインや分かりにくさ、特に年配者にはソッポを向かれてしまう現状に対して、そこにメスを入れる研究で、いろいろな文献を調べて、その研究計画を立てている。これも、面白いではないか、と感じたが、自分は審査しているのではなく、教えてもらっている。こいつは春から縁起がいいわい、という歌舞伎のセリフを思い出すが、そんな仕事初めである。