昨日は、午後に市内での用事と夕方にオンラインの打ち合わせのために、お昼にジョギングをした。日によって、およそ東方向と西方向を交互に入れ替えているが、昨日は東方向だった。市内にも、大きな公園と町内の小さな公園があるが、小さな公園も憩いの場になっている。親子連れで、と言っても、幼児とママ友のような関係が多く、気温は低いが冬の日差しがさんさんと、親子連れや木々に照っていて気持ちが良い。自分は、いつものように、速度はゆっくりだが休憩することなく走っているので、周囲の光景を見るともなく、見ている。昨日は、その公園を取り囲むようにジョギングをしていて、ふと幼児と目があったら、ニコッと笑ったので、こちらも笑い返したら、よちよち歩き出した。そのまま通り過ぎたが、あまりにも可愛いので、振り返ったらまだ見ていて、また笑ったので、こちらも笑い返した。何も屈託がなく、文字通り天使のような笑いである。さらに、その宝物のような笑い顔が気になって、かなり遠くに離れたが振り返ったら、まだ見ていて、またニッコリ笑ったので、思わず手を振ってそのまま走っていった。ママが、その傍にして話しかけたり一緒に手を振ったようだ。何か、幸せな光景を見たような気がした。この子は、男の子だと思うが、どのような人生を歩むのだろうか。今のままの幸せが続けば良いのだが、人の生き方は、そうではあるまい。学校に入り、部活は何を選ぶのか、勉強はどうか、進学はどうするのか、やがて就職して、仕事の厳しさと戦い人間関係に翻弄され、誰かを好きになって結婚して、子供が生まれ、その時、つまり今のママ友たちと小さい公園で過ごす時が、一番幸せなのかもしれない、と思い、そして定年を迎え、自分のように、ジョギングをして健康に気をつける年になるのか、など、とりとめのないことを思った。浅田次郎の、おもかげ、の小説を読んだからかもしれない、と思っていたら、家に着いた。いろいろあっても、今が幸せと感じることが大切かもしれない。
テレビドラマ
昨日は、火曜日であまり気にいったテレビ番組がない。夜7時から夕食なので、9時までの2時間が、テレビの視聴時間である。このような時には、録画した番組を見るが、昨日は、2時間ものの教場、つまり警察学校物語であった。現実とかなりかけ離れていて、こんなことはあり得ない、という誇張はあるものの、老夫婦が2時間釘付けになった。途中でCMが入ると、すぐに飛ばして物語を楽しんだ。原作や脚本の素晴らしさと、キムタクの卓越した演技が相乗効果を生み出して、面白いドラマに仕上がっている。ただ、いじめと言ってもよいような場面は、いくら作り物でも、いかがなものか、と思うが、それでも惹き付ける魅力があるのは、プロの技だろう。ふと思い出した、自分が物心ついた頃、将来は、と聞かれたら、学校の先生か警察官、と答えていた。何故好きだったのか、学校の先生は、平凡で子供が答えそうな職業だが、警察官は、男の子が憧れるような制服とかパトカーなどに、興味があったのかもしれない。教場は、文庫本で読んだような気もするが、あまり記憶にないが、同じ作家で、刑事ものの、傍聞き、の短編は面白かった。自分の好みの小説は、藤沢周平の、武士の一分、蝉しぐれ、など、山形とか東北の雪深い地方に住む下級武士で、清貧にして、武士としての誇りを捨てず、信条にしたがって、凛として生きる武家ものである。そういえば、還暦の祝いに、息子が、大小の日本刀を、もちろん美術刀であるが、贈ってくれたことを思い出した。今でも日本間に飾ってあるが、たまにお客さんが来ると、真剣ですか、と聞かれる。そういえば、自分が高校の教師だったころ、部活の顧問は、剣道部と弓道部だった。剣道も弓道も確か初段の免状をもらった覚えもある。剣道部の顧問の時は、生徒に指導する立場上、地方の町の剣道場に通って腕を磨いたこともあった。だから、今でも、武家ものや刑事ものに興味があるのだろう。学校の先生は、その通りの仕事に就いたので、自分の人生も、振り返って見れば良いだろうと思うが、他人から見れば、教場のドラマのように、融通の利かない堅物の教師だったのかもしれない。今ならもっと優しくできたのに、と自省している。
花と掃除ロボット
昨日は、家内が室内で育てる鉢植えの花に水を入れて、陽当たりの良い場所に移動して、世話をしていた。居間は、南向きで陽当たりが良いのだが、時刻によって、その場所は移動する。居間と言っても、食事用テーブルのある部屋の延長のような場所で、自分たちが動けなくなったら、ここにベットでも置いて生活すると決めている。これなら、食事もできる、お掃除ロボットのルンバもある、陽当たりも良い、すぐ庭に出れる、など便利だから、気に入っている。その場所で、花を植えた鉢を移動する様子は、まだハイハイもできない赤ちゃんの世話をしている光景を思わせる。花や植物など生物のことはまったく知らないので、何の花だ、と家内に聞いたら、知人から貰ったようで、自分も知らないからスマホで調べたと言う。聞けば、花にスマホのカメラを向けると、インストールしたアプリが画像認識して、花の名前を表示して、しかも、葉っぱが萎れているようなので、このままだと枯れてしまう、その処置はこうしたらよい、というコメントまで付いて、花の写真と共にスマホに保存しているので、驚いた。なるほど、画像認識技術は素晴らしい。この技術があれば、人に応用すれば、健康診断や医療診断ができるし、遠隔医療も可能になる。鉢や土などは、先日100円ショップで買った安いものであるが、先端技術を利用すると、花も喜ぶだろう。そして思った、スマホを止めにしよう、と考えていたが、やはり持っておこう、5Gになったら、もっと面白いことが出てくるかもしれないから。昨日のオンライン研究会では、お掃除ロボットが話題になった。かなり普及しているらしい。これも、センサー技術、画像認識、機種によってはAIが組み込まれているようで、その性能は向上するばかりだ。老夫婦にとって、鉢植えの花も、ルンバも、どこか我が子のような気持を持っていることが、面白い。居間の隣は日本間だが、そこには少し段差があって、上るのに苦労するようで、音を出しながら、もがいている様子も、日本間を悠々と掃除する様子は、いかにも気持ち良さそうで、日本間が終わると、廊下を経て洗面所や、お風呂場などを掃除する様子は、赤ちゃんの冒険のようで、そして、一生懸命に掃除するので、どこか哀愁をそそるので、ルンちゃんと呼びたくなる。鉢植えの花も、ルンちゃんも、我が家に住んでいる子供のような気がして、知らぬ間に声をかけている。人間も、植物も、ロボットも、一生懸命に生きていると感じるものは、同じに見えるらしい。
頭と体を大いに使おう
昨日は日曜日だが、家内が100円ショップで買い物があるので、付き合った。自宅に小さな菜園はあるが、今は冬の時期なのでほとんど世話はしないが、室内用の花を栽培したいので、鉢、土、支柱などを買った。花も野菜も栽培するのは家内の仕事で、自分は雑草や土の整備の仕事だが、年毎に、自然に触れることに安らぎを覚えてくる。お風呂上りに花を見ると、何でもないことだが、癒される。100円ショップに行くと、どうしてこんなに安くできるのか不思議でならない。100均が、この文字で良いと思うが、できる前はどうだったのか、価格はどう決まるのか、利益はどう生み出しているのか、など考えても、需要と供給のバランスで決まるとしか考えられない、とすれば、よほど大量生産しないと成り立たないだろう。例え、中国産だとしても、原価価格があるだろう、などと考えて、自分のことを振り返った。今、100均で買って一番重宝しているのは、毛糸の手袋である。都内に通勤する時は、なんとなく革の手袋であって、毛糸はどうかと思うが、今はジョギングか散歩か市内を歩く、などで使う、となれば、革の手袋は相応しくない、やはり毛糸だろう。久しく毛糸の手袋は使ったことはなかったが、その温もりは、郷愁をそそる。また、これは安いと思って買ったのは、眼鏡である。少し老眼の度が入った眼鏡で、これが100円かと思うと信じられないが、実は1回使っただけである。実物と価格を比べると、その安さに驚くが、自分には合わなかった。さらに、スマホ用の電源アダプターも、ほとんど役立たなかった。毛糸の手袋は、ほぼ毎日使っているので、その価値は極めて高く、眼鏡や電源アダプターは、まったく価値がない。とすれば、価格と価値は、意味が違うようだ。頻繁に使う、使って役立つのは、価値が高く、何も使わない、使っても役立たないものは、ほとんど価値がない、ということになる。考えてみれば、当然のことで、昨日のブログで書いたように、使わないものはいずれ捨てられる運命になり、使うものはますます存在感を増し、光り輝く相棒になる。使わないものを大事に持っていても仕方がない、と考えると、断捨離は納得がいく。昨日のブログと同じように、頭と体を大いに使おう。
道具を使う
昨日は、家内がミシンの部品が故障したので、専門店で買いたいと言うので、車で15分くらいの店に行って調達して、取り付けたら、調子が良くきれいに使えた。自分にも経験があるが、気に入ったボールペンは、捨てられないので、芯だけ買うのだが、芯を入れ替えると、気持ちが豊かになって、さらに書きやすい気がする。よく無料でボールペンなどをもらっても、そのまま鉛筆立てに置いておくと、新品であってもインクが乾いてくるせいか、書けない。使わないと、書けず、役目を果たさないのである。パソコンでも、同じことが言える。一階の居間に使い古したパソコンを置いているが、最近では使っていない。電源を入れても、画面が暗いままで何も変化が見られず、しばらく経って、ようやくデスクトップにアイコンが表示される。腹が立って、もう廃棄しようかと思ったが、昨日のブログで書いたように、スマホのことでも調べようと思ったので、この古いパソコンを使えるようにしようと思って、常駐プログラムや不要なアプリなどをスタートから外したりしながら、なんとかイライラせずに立ち上がるようになった。実は、廃棄する予定だったので、初期状態に戻すつもりで電源を入れたら、立ち上がることすら厳しかったので、数日前から処理していたのである。昨日、ようやく言うことを聞いてくれるようになった。そして、スマホのことを調べてみたら、なかなか面白く、知らないことがあって、勉強になる。夕食は7時からなので、お風呂から上がって、1時間から1時間半の間は居間にいるので、その時間に古いパソコンに触っている。半分の時間は、パソコンの横に置いてある小説を読んでいるので、この時間はリラックスして過ごす。パソコンに手を加えて動くようになったら、愛着が出てきて、画面やキーボードもきれいにしたくなった。道具は何でも同じで、修理したり手を加えれば愛着が出てきて、より使いやすくなる。夕方のひと時が楽しみになった。廃棄のことを思えば、雲泥の差である。単に置いてあるだけなら、ボールペンと同じで、いずれ捨てられる運命になり、ミシンやパソコンのように修理したり手を加えれば、再び活躍して自分の相棒になる。人間も同じだということは、誰でも同意するだろう。脳と体を使わないと、いずれ捨てられる運命になり、使えば、そして修理したり手を加えれば、素晴らしい働きをする。自分はやりたいことがあり、脳はまだまだ使いたいし、ジョギングも毎日したい。その方が楽しい。
スマホをもっと安く
昨日の夕方、所沢ソフトバンクショップに行った。Yモバイルに移行したいので、その相談である。本音は、スマホを止めてもいいか、と思っていることは、このブログでも書いた。在宅になれば、電話を携帯する意味がないからと、利用金額が高すぎるからである。Yモバイル、というか、格安SIMカードなどがあるようで、できれば、この高価な電話をなんとかしたい、と思ったからである。パソコンとインターネットは仕事上でも学習でも不可欠だが、スマホは不要だと思っている。外に出ないのに、どうして必要なのか、昔は国内や海外など頻繁に出かける用事があったが、今はないのだから、と思って、せめて安くしたいと思って出かけたのである。家内は、パソコン派ではなくスマホ派であり、いろいろなアプリをダウンロードして使っているので、離せなくなっている。端末メーカーはどのように設計しているのか分からないが、電源アダプターやバッテリーなどは2年を過ぎると不具合が生じやすくなっていて、その時期に新機種に交換するような気がする。自分は止めたいと思っているが、携帯電話番号に紐づけられたアプリ、例えば、LINEやショートメールなどが使えなくなるので、それが難しい。さらに、IDとパスワードの他に、2段階認証が設定されていると、ショートメールにコードが送られてくるので、代わりの認証方法があればよいが、無ければお手上げになる。自分では不要と思っても、世の中に普及してくると、その道具がないとコミュニケーションができなくなる。最近では、固定電話に掛かってくるのは、むしろオレオレ詐欺のような内容で信用できないことが多い、ということは、固定電話はお役御免になって、代わりにスマホが代役していて、さらに若い人は、パソコンを持たなくなっているようで、スマホが重責を担っているらしい。キーボードではなくフリッカー入力でレポートを書くと言うから、どうも世界観が違うようだ。自分の価値観や好みと関係なく、世の中の流れが変わると、それに添っていかないと、どうも生活しにくい。仕方ない、時の流れに身を任せ、では主体的ではないので、世の流れに対応しよう。ともかくYモバイルに移行して、その次は、さらに格安を探るか、止めるか、の方向を探るとする。今までは、スマホにそっぽを向いていたが、これから少し調べてみよう、電話にインターネットが繋がった道具だが、それも面白いかもしれない。
教育の仕事とは
昨日は、午前はいつもの通り自分の仕事をし、午後は2つのオンライン会議に参加した。誰でも同じだと思うが、仕事には、いくつかの山があって、ある山を越すと次の山に登るのに時間がかかるのは、脳に余韻が残っているからで、その余韻に浸っていると心地良いので、揺りかごにしばらく揺られていたいからだろう。最初の1ページが大切で、昨日は、何故かすっと入って、気が付くと夢中になっている自分に気が付いた。分析の仕事なのだが、自分で勝手に壁を作っていて、たぶん駄目だろうという先入観が初めの一歩の邪魔をする。しかし、現実はそんなことはないのだ、難しくしているのは、自分であって現実ではないのだが、そこに気付くのに、時間が掛かっている。仕事がスムーズだと、口笛を吹きたくなるような気がするから、人間は単純にできている。午後のオンラインの教育に関わる会議やセミナーは、参加者全員が善意に満ちているようで、気遣いや発言に癒される。池井戸潤の小説は面白いので、かなり読んだが、半沢直樹の銀行物語は勧善懲悪の世界で、だからワクワクしながら読めるし、番組を見ても面白く、最後の倍返しで、胸がスッとして快感を覚える。しかし、現実にはないだろう。企業の世界と教育の世界は、どうも違うような気がする。教育は、全員が、子供たちを良くしたい、という自分以外の他に役立つことが前提になっていて、自分の利益という概念がほとんどないと言ってもよい。だから善意の集団で会議をしているような気がして、そして、この人は一点の曇りもなく子供に役立つこと考え、仕事をしているのか、と感じることがある。それに引きかえ、午前に自分がした仕事は、どうも自己満足にしか過ぎないのではないか、と振り返った。いやいや、そうではない、いろいろな仕事があって、直接に役立つこともあれば間接に役立つこともある、と思って安心したのだが、それは、田中角栄の、カゴに乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、の言葉を思い出したからである。自分は、草鞋を作る仕事をしている。
心身ともに健康を
昨日は、午後3時半に眼科の予約があったので、その前にジョギングをしようと思って、12時半に東方向の航空公園まで行った。お昼休み時間のせいか、何名かが、老いも若きも、同じようにジョギングをしていたが、その光景を見るのも楽しい。平日のお昼の時間は、幼児を連れた親子連れ、オカリナを吹いている年配者、散歩をする人、昼食を取る人、など様々である。一昨日は都心に出かけたが、天気予報では雪だったが、みぞれ交じりのような冷たい雨が降って寒かったが、昨日はポカポカ陽気だった。コロナ禍で店終いをした人、先行きを不安に思っている人などを考えると、どこか申し訳ないような気もするが、このようないつもと変わらぬ平穏な風景が人を元気にするのだ、と思う。昔どこかの記事で読んだことがあるが、太平洋戦争中、戦況が厳しい南の島で、いつ部隊が全滅してもおかしくない状況の中で、一人の兵士が、毎日ひげをそり、身の回りを清潔に保ち、きちんとしていたというが、その光景を見ると、部隊の皆が、これで今日も生き延びられる、と感じたという。平時と変わらぬ姿が、まだ大丈夫と言う安心感を与えたのであろう。この前、床屋に行ったら、その主人が、今はコロナとの戦争をしているのだ、と言ったので、なるほどと思った、その通りである。この戦争に勝つには、いつもと変わらぬ姿で平然と、そして平時よりも身も心も健康に保つ必要がある。自分事であるが、コロナで在宅勤務になり、月に数回程度しか都心に出かけないので、これでは健康が維持できないと思って、ジョギングを始め、そして土日はスポーツジムに行って筋トレとプールで泳いでいるが、楽しい。そして、食事がこんなにも美味しかったのか、と気が付いた。知人に話したら、プールは次亜塩素酸で消毒しているから、体全身をコロナ感染から守っているのだ、という珍説を聞いたが、まんざら嘘でもないようだ。ジョギングから帰り、シャワーで汗を洗い流して、そして眼科に行き、夕食はお鍋だったので、日本酒をいただいたが、コロナ禍だからこそ、むしろ心身ともに健康を保つように心掛けるほうが、幸せな生活ができる。
EBPMとは
昨日は忙しく、午前から都心に出かけて3つの用事を済ませた。久しぶりに溜池山王あたりに来ると、お上りさんのような心境で、どこか都会の匂いがするようだ。2つが会議だったが、主な役割は、議論して、最後は意思決定することだが、今年に入って緊急事態宣言のためか、議員や省庁の官僚との会議は控えめになっている。この政治家や官庁関係の会議では、EBPM(Evidence Based Policy Making)証拠に基づく政策立案の用語が頻繁に出てくる。意味は分かる。単なる感想やその場の雰囲気で政策を決めてはいけないので証拠が必要なのだが、最も確実な証拠は、数値であろう。つまり科学的な根拠に基づく政策立案なのだが、例えば、コロナ対応では、医学的なデータに基づいて政策決定されることで、テレビなどで頻繁に報道されるので、一般にも馴染んできた。自分はお昼時間に、NHKのニュースと再放送の朝ドラを見ているが、その間に料理番組があって興味がなかったので、近所に散歩に出かけていた。この番組では、コロナ太りになって不健康である。最近は、お医者さんが登場して、データを見せながら、外に出て運動しましょう、と呼び掛けている。このブログでも何度も書いたように、大賛成で、Stay Homeよりは、よほど訴える力がある。Stay Homeの趣旨は、家に引きこもれ、とは言っていないのだが、知事などが言うと、どうもEvidence Baseになっていない印象を受ける。表面しか見ていないので、言葉が薄く感じる。昨日のニュースで、菅総理の支持率が40%不支持率が41%と報道していたが、この数値は厳しいEvidenceだろう。誰でも経験するが、数値で示される証拠は、反論ができないので、胸に突き刺さる。しかし、人の働きは、科学的証拠だけではないのだ。その数値を生み出す要因には、見えるものと見えないものがある。人が会議をする時には、その見えない部分にも光を当てなければならない。自分事で恐縮だが、昨日の会議は、そこがうまくいったので、最後が爽やかな気持ちだった。菅総理の不支持率の数字は、コロナ禍による感染不安、オリンピックの開催不安、生活維持への不安、将来への不安、就職の不安など不安だらけの状況の中で、市民が感じる心情を為政者にぶつけた結果であろう。市民は王様であるが、責任は取らない。菅総理の取り巻きは、見えない努力を十分に評価しなければならない、菅総理の家族は数字に現れない良さを誉めなければならない。
お墓参りと成人のお祝い
仕事のスケジュールは、To Do リストに書いて、パソコンのデスクトップに張り付けているが、その日のことは手帳に書いて区別している。原稿締め切りなど手帳に書いて、手帳を見て今日だったのかと思っても、もう遅い。だから、パソコンと手帳の両方を毎日見るようにしているが、ついでに、書斎にある白板にクリアファイルを留めて、月ごとに書類をまとめて、これも毎日確認している。手帳を見ると、昨日は午後にお墓参りと記されているので、自宅から車で15分くらいにある墓地に老夫婦二人で出かけた。毎月のことであるが、楽しみでもあり、閑静で森のような佇まいが気に入っているが、昨日お線香をあげていると、向こう側に晴やかな4人くらいの人達がいて、写真を撮っている。そうだ、今日は成人式だったと思い出した。振袖なのか和服のことはよく知らないが、きれいな娘さんを囲んで、ご両親と祖父母のような人達が、嬉しそうに歓談し、カメラを向けていた。たぶん、ご先祖様に、成長した娘さんの晴れ姿を見せたかったのであろう。せっかくだから、マスクを取ればよいのに、と思ったが、真っ白いマスクを着けたままカメラの前に立っていたが、それもいいだろう、令和3年の成人式は、マスク着きだったと、何年か後で振り返って思い出すだろう。全国各地で、20歳の若者が、成人式を迎える。そして全員が、この墓地に来た娘さんのように、マスクをしているだろう。最も美しく輝く年齢であるが、その顔を隠すかのように、令和3年の20歳のお祝いは、どこか寂しさが漂う。しかし、自分も含めて今の世代は戦争を知らず、飢えを知らず、平和な世の中で生きてきた。コロナ禍くらい、小さな不幸でしかない。ふと、林芙美子の、花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、を思い出した。これからが、大切である。自分は、著名な作家と違って、あまり苦しさを感じないようで、面白いことも多かりき、と、成人式を迎えた若者に言いたい。
