慟哭

今は、29日火曜日の午前であるが、ブログを書く、それは、午後と夕方は時間が取れないからだが、この自由さが良い。仕事では、自分の意のままにならないが、趣味とか研究などは、今の自分には、気ままな旅を楽しんでいることと同じである。もう3月も終わりで、後数日で次年度が始まる。2022年度に備えて、書斎や隣部屋の本棚なども整理して、気持ちもすっきりした。ここ1週間くらいは、不要な書類の廃棄や、仕事や研究や活動に必要な文献調査をして、資料を整理している。その範囲は、いつの間にか広くなっていき、授業研究なども関連してきて、例えば、教師の見えの研究なども読むと面白い。ベテラン教師は、初心者とは、子供の見えが異なり、簡単に言えば、よく見る、子供の背景まで見通す、眼光紙背に徹すの言葉のように、的確に見えているので、子供理解ができる。これに対し、新人教師は、見えない、見ることを意識していない、認知心理で言う、選択的注意の現象で、子供の姿を意識していないので、物理的に見えてこないのである。いくつかの有名な実験もあるが、ふと、ウクライナの惨状が思い浮かんだ。昨日の新聞に、涙浮かべ「死ぬのは嫌だ」真摯なる少女の声よキエフ慟哭(岡本光夫)の句が載っていた。慟哭の言葉に打たれて、読者に同感した。キエフは泣いている、ウクライナも泣いている、世界中が泣いている、それは、大声をあげて泣き叫ぶ慟哭である。その声は、プーチンには聞こえぬか、その姿は、プーチンには見えぬか、と思う時、絶望的になった。認知心理学の言う通り、選択的なので、欲望と保身のことしか考えない独裁者には、いくら周囲が忠告しても、いくら映像を見せても、選択的に排除して、自分の意に添うものだけを、受け入れるのだろう。真実の姿は、見えもせず、聞こえもせず、哀れな裸の王様になっている。決して届かぬ、庶民の独り言を書いても無駄である、が、誰か、プーチンに、気付かせてくれないか。

生きる力

今日は土曜日、そして今は、夕方なので、ブログを書くにはもってこいの時刻である。今週は忙しかった、それは嬉しい響きでもあるが、人は、自分の力を精一杯出せる仕事では疲れは感じないし、充実感があることは、誰も経験しているだろう。今でも、その余韻がある、土曜日でも、午後2時間半、ほぼ3時間近く、休憩なしのオンラインイベントに参加した。高校生が研究発表するイベントだが、その発表に対して、専門家がコメントして、という高校生版の卒論発表会のようなものだが、ただ、新鮮味と初々しさが違う。その発表は義務ではなく、選ばれて発表するので、卒論とも違うし、大人でもない、だから、初々しいと書いた。若さとは、こういうことなのか、と思わせるのは、まだ世の中の厳しさも知らない、という危うさではなく、どんなことでも、前向きで、無鉄砲なことはあるが、がむしゃらで、それは甲子園で白球を追う球児と同じである。自分の年齢から見ると、光輝いて、眩しいくらい、生きている、その時には、何も思わないが、中年になり、老年になると、それは夢の世界と言ってもよい。これは、今の境遇を嘆いているのではなく、今は今でそれなりに生きているが、感じ方、活動の仕方の質が違う。軽やかなくつ音たててただいまと息まで見えそう幼らの声(田上蓉子)の句が、新聞にあった。我が子が外から帰ってくる、玄関で、ただいま、と言う声は、何か良いことでもあったのか、弾んでいる、その声を聞くと、明るいプレゼントをもらったような気がしたのだろう、母親の喜びの気持ちが伝わってくる。大人は、子供から元気をもらい、生きる力をもらっている。ウクライナの惨状は、気持ちが沈むので、あまり見たくはないのだが、地下鉄をシェルターにして多くの人々が生活している光景の中で、子供が遊ぶ姿をカメラが捉えた。地下鉄は深く,長い斜面になっている、その斜面が子供にとって、長い滑り台になって、格好の遊び場になって、弾んだ声を出し、一杯の笑顔だった。子供は、今がすべてであり、地下鉄が生活の場であり、そこで精一杯生きている。大人は、前途を悲観したり不安に思ったりするが、もう止めよう、子供を見よ、子供が大人を救ってくれる、そんな気がする。

決断

今日は火曜日、ブログは昨日書いたので、書く予定ではなかったが、今日は朝から雪が降って、3月下旬とは思えぬ寒さで、外出の予定を変更したので、夕方時間が空いた、有難い、と思って、キーボードに触れている。明日は、朝から都心に出かけ、夕方にもオンラインが入っているので、余裕はないが、今は、苦手な授業科目が休講になったようで、これで好きなことができるという、学生の心境に似ている。さて、何を書こうか、と思っても、それほど大したことはない。3月下旬は、片付けの時期で、書斎にある書棚、机の周囲にある書類、不要になった雑誌などを処分することにしている。一度にすべて大掃除するのは、疲れるので、週に2回、燃えるゴミの収集日に合わせて、少しずつ捨てているが、積み重ねている書類、雑誌、自分が書いた原稿など、読んでいると時間の浪費になるので、ノスタルジアを超えて、無慈悲に捨てる。名刺なども、お世話になった人、この名刺だけは大切に、と思っても、一度も用がないことが分かって、すべて廃棄にした。と言っても、ゴミ収集日に捨ててよいもの、クリーンセンターに持って行くもの、シュレッダーにかけるもの、などの弁別して、片付けた。一昨日は、机の周囲を囲んでいる書類棚についたゴミ跡を、きれいに掃除し、加湿器の水垢などもきれいにしたので、見違えるように、すっきりした。ゴミを捨てることは、脳に付着している不要な知識も捨てるような気がして、余分なものがないだけ、身も心も軽くなる。新聞に、こんな句があった。図書室へ全て返して卒業す(清正栄子)、なるほど、全て返すという言葉は、もう未練はない、ということか、新しく生まれ変わるということか、どこか決断のような思いが伝わってくる。ウクライナの事が頭をかすめる、市民への無差別攻撃に、どうしようもない怒りが湧いてくる、が、これ以上の犠牲者を出すのはどうなのか、いっそのこと、きれいさっぱりと、捨ててしまったらどうだろうか、多くの人の命を救える、という決断はできないか。しかし、ウクライナは、徹底抗戦すると宣言した。そうか、多くの人の命さえも、祖国の存続のためには、捨てるのか、そんなむごい決断もあるのか、と、異国にいる自分でさえ、どこか胸が締め付けられる。本当に、この世の中に、慈悲はないのか。

世の無常

今日は21日春分の日で、3連休の最後の日だが、自分には、土日も祝日も関係なく、日が過ぎていく。ブログを書く週の中日の予定は、火曜か水曜だが、今日の方が時間が空いている。土曜はオンラインイベントがあったが、さすが日曜と今日は、仕事は入っていない。忙しい人は、たぶん、いろいろなイベントに関わっているだろうが、自分の歳では、ちょうどよい。3連休で、出来なかった運動を、スポーツジムに行って、大いにやったが、身体を動かすと、気持ちが前向きになれる。テレビのニュース番組は、悲しい出来事ばかりで、ロシアのウクライナ侵攻で、学校や病院などを無差別に攻撃している光景が放映されると、この頃は、避けて見ないようにしている。とても、神経が耐えられない、罪のない子供が犠牲者になるのは、教育に関わる身としては、もはや限界を超えている。さらに、福島などでの地震の被害で、ニュースでは、心が折れて、立ち上がろうという気力がない、と被害者の方が、話していたが、今は、楽しいことはないのか、苦しみと悲しみと、前途を悲観することばかりなのか、と思うのは、自分だけではないだろう。それでも、春の甲子園が始まって、久し振りに球場が人が満たされて、喚声が上がっている光景が、画面に映し出されている。そうか、春なのだ、全国の選抜された球児達が、脇目もふらず、熱戦を繰り広げている。本当に、高校生は若い、青春とは、このことなのか、大地震という天災が来ようとも、理不尽な戦争という人災が起きようとも、ただ目の前のことに命を燃やしているのか、それが、大人や老人には、まぶしい、そして、コロナ禍以前の姿と変わらないことに、郷愁と共に感動を覚える。今日の新聞に、春の土手声を一つに陸上部(萩原行博)の句があった。まるで寅さんの映画に出てくるような光景で、声を掛けて走っていく姿は、遠い昔の自分を重ねているのかもしれない。自分も高校教師が就職のスタートだった、何も知らず、ただ夢中だった、戻りたいとは思わないが、若いということは、輝いていることなのか、若い人は、今の幸せを十分に生きてほしい。ウクライナで若い命を失った人には、これから花も実もある人生があったろうに、と残念でならない。甲子園で歓声が聞こえる日本と、爆撃で悲惨な状態のウクライナを見て、世の無常を感じる。

必要なこと

今日は土曜日、そして今は夕方、2階の書斎で外を眺めながら、何を書こうかと画面に向かっている。今週は忙しかった、来週も、さらに3月末までは、忙しい、そして4月からぱったりと暇になる。どの組織でも、3月は年度末で、予算決算月なので、役員会が集中するので、忙しいのは仕方がないが、学校のように、どの曜日の何の時間に授業がある、などと、ルーチンで決まっているわけではないので、いつ何が入ってくるか、突発的な仕事が多いので、予定が立ちにくい。ただ、受託事業系の仕事は、締め切りが決まっているので、年度末は、ことさら忙しく、自分のような立場の者でも、対外的な責任があるので、どこか気ぜわしい。自分の子供や教え子などが、自分のような年齢や立場になったら、気楽そうだから、羨ましい、と嘆息するような表情をすることがある。そんな風に見えるらしい、そうではないのだ、と言っても、どうしようもないので、どの仕事も、どの年齢になっても、多少のいざこざや、それなりの難しいことや、面倒な人間関係などが、あるのだ、と言うと、なおさら悲しそうな表情をして、この世の中は、いくつになっても苦労から逃げられないのか、とぼやく。そうだとしたら、この世に、楽しいことは無いではないか、不条理がまかり通るような無常の世界なのか、楽しいのは、温泉に出かけた時の、ほんの一時なのか、と諦観するかもしれない。ウクライナで悲惨を極めている人には、その通りで、何とも返す言葉がないが、日本で普通に生活している庶民には、どうなのだろうか。ふと新聞に掲載された句が気になった、節分のおまけについた鬼の面これいらないと言い張る子供(関根一雄)。子供にとって、鬼の面は怖いだけで何も価値がなく、つまらないものだが、節分をきちんとやろうと思えば、鬼の面は十分役立つ、むしろ必要なものである。ということは、これ要らない、という見方もあれば、必要な物という見方もできる。この世で起こる諸々の出来事は、すべて自分に好都合のことばかりで無いことは、誰でも知っている、そのような世界があるとすれば、漫画か認知症の人の世界だろう。ということは、鬼の面のように、実は必要なものなのかもしれない、否、すべて必要なものであり、必要なことなのだと思えば、どこか気が楽になる。だから、小さな心配事、小さな揉め事、いろいろあるが、そのようなことは、実は大切な出来事だと思う方が、乗り切りやすい。但し、この命題は、大きな問題、戦争とか大手術とか破産などには、適用できないだろう。などと、ここ数日、思案している。

その先にある世界

今は、水曜日の夕方、西空に日が落ちて、優しい光景が、書斎の窓から見える。いつも、このブログを書く時刻は夕方なので、似たような文章になるが、お許しいただきたい。3月は忙しい、いくつかの団体の役員をしているので、決算と予算の時期で、役員会があるので、出席しなければならない、そして、年度終わりなので、いろんなイベントも開催されるが、それが重なって、頭もよく使う。認知症防止には、最良の薬だろう。本当に有難いのだが、ボケーッとしている暇もなく、次々と仕事が入ってくる、それで、オンラインの場合は、そのURLが重要なので、忘れないように、googleカレンダーを用いているが、手帳と併用で、快適にこなせている。しかも、始まる10分か30分前にメールで知らせてくれて、スマホでは、その合図として音が出るので、見落としがない。そこまでやらないと、もし見落としたら、多くの関係者にご迷惑をかける。今日は以前に勤めていた大学の役員会で、栃木県に出かけ、帰宅して、すぐにオンラインのイベントに参加して、終わりの挨拶をして、今の時刻になった。頭を回転しないと役をこなせない、何かのイベントや役員会があれば、何かを話さなくてはならない、そのための情報を集める時間もないので、脳内のありったけの知識を思い出すしか手はないのだ。脳内ホルモンも分泌されているだろうが、例えば、出版原稿とか講演資料などは、意気込みが違うので、脳の活性度は、桁違いに高い。しかし、世間とは厳しいもので、それほど頑張っても、評価はたいしたことはない、あるいは、世間はソッポを向くような反応しか返ってこないことが多い。ウクライナの情勢が厳しい、このままだと、首都陥落も仕方ないのか、と素人ながら、諦めたり、なんとかならないのか、と神頼みしたり、ヤキモキしている。この世は、不条理に満ちている、努力や正義は実を結ばないのか、それなら、何のために、人は頑張るのだろうか。新聞から、こんな句が目に飛び込んだ。報われぬ努力もあると羽生選手孫にしあらねど胸しめつけらるる(山本美知子)、そうか、一流を極めた人は、さすがだ、何度、諦めようか、止めようか、と思い、自分を責める日が数えきれない程、あっただろう。その先に、自分ではどうにもならない世界があることを、知っている。ウクライナの人々も、もう限界かもしれない、勝利を信じつつも、その先は、誰も踏み込めない世界であって、もはや人知や努力を超えている。ただ、祈るしかないのか。

安らぎと安堵を

今日は土曜日の夕方、週末と週の中日の2回、ブログを書くことにしている、今は、その時間である。書斎の机は西向きで、白いカーテン越しに、夕暮れの薄日が差し込んでいる。南向きの窓は開けて、風を入れているから、今日はまるで春だと言ってもよい。スマホの天気予報では、20度というから5月並みらしい。夕方の日差しは、優しく、穏やかで、もう1日の終わり、土曜だから1週間の終わりを告げているようで、身も心も安らぐ。先ほど、スポーツジムから帰ったばかりで、椅子に身を任せて、気の向くままに、キーボードに向かっている。今日も何事もなく、と言っても、月に一度のお墓参りに行ったが、その他は平穏に時が過ぎていった。両親に、諸々のことを報告し、子や孫のことなどお願いしたが、願いを聴いてくれるかどうかは別にして、生きていれば、すべて平穏というわけではなく、波風が吹く、そして、両親ならば、その愚痴や願いを言っても、平気だろうという甘えがあって、家内と一緒に、線香をあげにいった。有難きは、身内であり、両親ならば、どんな時でも、味方になってくれる。こんな句が、新聞にあった。窓ごしに春の光が流れいる人工呼吸器はなせぬ妹に(佐川ヒサ)。作者はどんな人なのだろうか、よほどの重体かもしれぬが、妹が少しでも安らぐように、少しでも春の日差しで体が温まるように、少しでも楽しい夢を見れるように、と願うような気持が、伝わってくる。どんな状況であっても、人は、少しでも平穏に、少しでも幸せに、少しでも癒されるように、少しでも安らかに過ごせるように、願うものだ。まして、身内ならば、その思いは、なおさらである。ウクライナの悲劇が続いている。無差別攻撃をするロシア軍を指揮するプーチンは、人としての愛情を持っているのか、たぶん、残忍な人間、否人間でもなく、憎悪と欲望しかもたないロボットである。しかし、ウクライナの惨状を見るに忍びない、一刻も早く停戦してもらいたい、そして、傷ついた人々に、春の日差しが当たるように、少しでも安らぎと安堵と、幸せな一時を、つかの間でもよいから、与えてもらいたい。誰でもが願う、庶民の感覚である。

生き延びてほしい

今日は3月にしては寒く、外は小雨がぱらつく曇天の1日だった。先ほど、外出から帰宅したところだが、夕方は特に肌寒く、防寒着を着ていても、外気に触れている首に風が当たって、体感温度はかなり低い。天気予報では、1桁の温度というから、冬そのものの寒さである。たまには、このような日があっても良いだろう、関東地方は、晴天続きで空気が乾燥して、一昨日辺りから、花粉症のようなクシャミが出て、目も少し痒くなったが、今日は湿気が高いので、その気配はない。部屋の中は、エアコンが効いて、外から家の中に入ると、ホッとして、やはり我が家はいいな、と素直に思う。特に、歳を取って、その思いが強くなってきたが、それは自然である。外では、子供や若い人には、寒さは何でもないようで、幼児は母親の側で、飛び上がって話をし、女生徒の集団は、何が面白いのだろうか、否、何でも嬉しい年代なのだろう、大きな笑い声で、そこだけ、幸せの渦が巻いていて、周囲も、思わず口がほころぶ。年配者は、押し車で歩く人、首を垂れて信号を待っている人、若い人に付き添ってもらって、用事をしている人、街の中は、人々の生活の香りで満ちている。寒さと言えば、ウクライナの人々の辛さを思わずにはいられない、テレビで、赤ちゃんが誕生した映像を流していたが、どうか、この子が生き延びることができますように、と祈らずにはおれない。惨状の中で、若い母親が、無事に生まれてきた我が子を見る顔に、この惨状の中で、微笑みが戻ってきて、その心中は察するだけで、目が熱くなる。医療に従事する人たちの責任感と優しさは、なんと形容したらいいのだろう、神のように尊く、テレビを見る全世界の人々も、拍手を送るだろう。昨日の新聞に、おならほめるナースの笑顔春隣(会田重太郎)の句があった。春隣は、今日のような、もうすぐ春がやってくる冬の季語らしいが、ナースの優しさと笑顔に、心が安らぎ、ほめてもらった嬉しさで、歌を詠みたくなったのだろう。ウクライナとは天地ほどの状況の差とはいえ、どこであっても、ナースは患者にとって、この世の天使である。ウクライナの母親は、多くの天使や神のような献身的な人々に囲まれて、一時でも幸せな気持ちになっているだろうか。決して、若い母親と、罪のない赤ちゃんを、悲しませてはいけない、生き延びさせなければならない。どうにもできない自分が、歯がゆい。

春は来るのか

今日は土曜日の夕方、スポーツジムから帰宅して、机に向かっている。いつもながら、西空が薄茜色に染まって、今日も明日も良い天気が続く。今日の昼間は、まるで春のような陽気で、ジムへの行き返りは、コロナ禍を忘れて、昔に戻ったような気がした。土曜といっても、平日と変わらず、午前は自分の仕事だが、午前と午後2時半までは、オンライン会議と研究会が入っていた。外からは、たぶん平穏な日が続いているように見えるだろう。というのも、朝小さな庭にある木に、雀が止まっていて、パンを細かくして、庭の土にばらまくと、10羽くらいの雀が、ヒヨドリが混じっているが、つつくので、それを眺めるのが日課になっている。徒歩2分位の場所にスーパーがあって、前日に余って安くなった食パンを買うと、それで1週間は持つので、安い餌代なのである。近所には、スーパー手前の小川にカモがいて、その餌付けをしている方がいて、その光景も楽しめる。歳を取ると、こんなことが、どこか癒しになり、小さな生き物に愛着を感じるようになる。ヒヨドリは大きいので、雀は遠慮してか、パン切れを摘まんで、すぐに飛んでいって、別の場所で食べているが、ヒヨドリが場所を占有しているようだ。だから、なるべくパンを細かくしてばらまいているが、ヒヨドリは大きいパン切れしか食べないようで、その後は、雀が自由に食べている。細かくするのもコツがあって、両手でパン切れをこすると、細かくなるのだが、こんなことも、いろいろやっている内に、気が付く。今の季節はあまりやらないが、雀は、土か砂に身を置いて、羽を回して、虫でも落とすのだろうか、羽繕いというのか、その後は、そこに丸い窪みができる。こんな些細なことでも、心が暖かくなる。朝と昼と夕の食事時間は決まっているから、かつては、夕食の時間しかニュースを見なかったが、この頃は、ウクライナが気になって、食事時間に3回ニュースを見て、ヤキモキしている。外国のことながら、ウクライナが哀れになって、仕方がない。自分は、こんな呑気な生活をしてと思いつつ、もしロシアが勝つようなことがあれば、この世に正義はあるのか、と悲憤慷慨するだろう。ヴィヴァルディ流す我が家の牛舎春(星野芳美)の句が新聞にあった。のどかで、目を細めている牛の姿が脳裏に浮かぶ。こんな光景は、いつウクライナで見られるのだろうか。ウクライナに、いつ春は来るのか。

枯れていく

昨日は朝から夕方まで、4つのオンラインがあって、忙しかった、が、それが仕事をしている通常の姿である。今日は、オンラインが1つだけで、しかも、時間の関係上、このブログを書いた後なので、今日は何もしていないのかと、と言われそうだが、そうではなくて、データ分析をした。それは、研究活動の1コマなので、仕事というより、自分の分身のような活動であり、あえて仕事をしています、などとは言わない。歳を取っても、感心ですね、などと言われることも、どこか、的が外れている。あなたは、高齢でも、散歩したり、歯磨きをして、感心ですね、などと言われることと同じだからである。娘や息子は、父親はそういうものだ、と思っているから、大晦日でもお正月でも、書斎で何かをしている、それは生きている証拠だと思っているらしい。と言っても、仙人暮らしをしているのではなく、何かをしているので、生きているのである。このブログを書くことも、いつかも書いたように、隙間時間を使って、何の脈絡もなく、思いついたことを、書いているだけで、しかも週2回と決めている。以前は、毎日書いていたが、ある時、時間がどうしても取れず、2回にしたのだが、これが正解で、毎日というプレッシャーがないので、気楽なのである。話を戻すと、昨日は仕事に振り回され、今日はデータ分析に頭を使ったが、使う脳の部位が違うので、疲れ方や余韻が違う。ただ、人の世は、自分の好きな事だけでは生きていけないことは、当たり前で、そして、確実に歳を取っていく、身も心も枯れていく。それで、いいのだと思いつつ、人の煩悩は厄介で、まだ悟りきれないで、あれもしたいとか、まだまだ大丈夫などと思うが、そろそろ人生の黄昏を迎えて、それ相応の気持ちになったほうがいいかもしれない。昨日の新聞に掲載された句、流れつくプラごみの色とりどりに土に還らぬものの哀しさ(梅津哲郎)に、ハッとした。そうか、プラスチックは人工物だから自然に還らないとすれば、それはロボットのようなものであり、感情もない世界である。我が家の小さな庭だが、少しばかりの芝があって、今は枯草色で、この色を見てホッとするのは、なるほど、人も草も人工物ではないので、同じ生物として共鳴するからかもしれない。芝がいつまでも青々していたら、それは毎日が青空のようなものかもしれないが、自然の摂理に反する、つまり哀しい存在になるのか。