忙しさ

もうすっかり外は暗くなった。今は、火曜日の夕方だが、先ほどまでオンラインの会議があって、一息ついて、今日はブログを書く曜日なので、机に向かっている。何故か分からないが、9月からずっと忙しさが続いている。今日も4つの打ち合わせや会議があった。先ほどの会議は、省庁の委員会で、座長という立場なので、昨日の朝、事前レクをオンラインで受けて、内容を理解して、今日の会議に臨んだ。凄いと思うのは、省庁スタッフの働きぶりで、文字通り、詳細まで精通していて、座長には、事前レクをして、戸惑わないように、会議を進行させる準備をしている。それは、大臣答弁と同じで、官僚が頭を使って、答弁の原稿を作成しているが、自分のようなものでも、同じような配慮をするとは、日本の官僚機構は、凄いとしか言いようがない。日本は、政治家よりも官僚で動いている、という説に賛成したい。4つの打ち合わせの間に、少し空いた時間があったので、ジョギングをして、汗を流した。忙しいと、時間がもったいないと思うのか、ちょっとした時間でも、ジョギングをしたり、文献を調べたり、原稿書きをしたり、休むことがないのである。そうすると、不思議に、気が付くことがあって、そのタイミングが絶妙に合うので、仕事がはかどる、という因果関係になる。今朝思いついたこと、明日の訪問先にメールを出しておこうとか、実験の予定表を印刷しておこうとか、何でもないことが、後で大きな効果を産みだすことがある。それは、忙しい時間のほうが、成功の確率が高いように思う。時間があって、じっくりしていたら思いついた、などはあまりない。最近、そのような気付きで、苦にしていたことが解決したことが数回あった。なるほど、考える、とか言うが、どうも自分の力でアイデアを思いつくのではなく、天から舞い降りてくる、というと文学的な表現だが、直感なのである。それは、忙しさの中であり、仕事の合間、運動している時など、何か活動をしている時であって、静かに、物思いにふけっている時ではないように思う。歳を取ってくると、仕事が少なくなって、時間が余ってくるのが、一般的である。確かに、自分も若い頃とは、時間の使い方、仕事のスピード、文献の読み方などは違っているが、今の自分に相応しい、忙しさ、余分なことを考えなくて済む時間があって、それが快い生活のリズムになっているような気がする。若い時は、それが当たり前で、忙しさの中に身を置いているので、仕事も、遊びも、すべてに夢中になれるのかもしれない。妻子率(い)て父ひとり待つふるさとへ帰りし頃がしあわせだった(藤川幸雄)の句を新聞から引く。仕事で忙しく、夜遅く帰宅して、奥さんや子供の待つ我が家に帰って、夕餉に向かう、束の間の一時、お酒の一本もついて、どこかほろ酔い気分で夕食を済ませて、翌日は、朝早くから電車に乗って、たぶん、座席に座れない通勤時間で、職場に着けば、忙しい、と言いながら、時間に追われる毎日を過ごす。そして、年に2回くらいの帰省で、小さな親孝行かと思いながらも、年老いた父親との対面をして、それは極上の幸せだったのだ。忙しさとは、そういうものなのか、ぼやきながらも、幸せを運んでくれるものらしい。

静かな秋の光景

今は、土曜日の夕方、ジョギングから帰宅して、お風呂に入って、一息ついている時刻である。もうシャワーでは寒いので、お風呂で汗を流すと、疲れも飛んで、身体もさっぱりして、リラックスするのだが、心もきれいになるのも、当然だろう。1日の内には、きれいな心だけでなく、人をうらやんだり、なんとなく沈んだり、悲観してみたり、様々である。人が人である以上、身体も心も、山あり谷ありで、プラス思考もあれば、マイナス思考もある。自分に都合の良いことが起きれば、プラスの心になり、都合が悪ければ、マイナスの心になることは、世の常である。ただ、世の中は、そう単純な因果関係だけではないようだ。講演を依頼されたが、昨年と同じテーマで、同じ対象者で、同じ時期で、という、まったく同じ条件なので、新しい資料で、新しい枠組みで、新しい理念で、新しい事例で、と考えると、この短期間では無理だろう、と思ったので、断るつもりだったが、そこが貧乏性の性格なのか、楽天的な面があるのか、引き受けた。たぶん、苦吟しながら資料を作るのか、と想定していたが、新しい方法が浮かんできて、予想以上に早くできた。思い過ごしだった。やってみれば、どうと言うことはなく、道は開ける、方法が見つかる、なるほど、やってみれば楽しい、という単純なことを知った。今日のジョギングも、あまりにも空がきれいで、風も爽やかなので、つい走りたくなった、走ると、周囲の風景が、秋らしく、黄色い葉っぱ、小川の流れも優しく、小鳥たちも安らかで、公園では、大勢の子供たちが、大人も混じって、球技に夢中になっている。折り返しの途中で、ある家を通る時は、大人なのか子供なのか、誰かが、ピアノを弾いていて、その演奏が、走っている自分の心に馴染んでくる。いつも、その家を通る時、夕方の時間には、ほとんどピアノの演奏が聞こえてくるので、どこか懐かしい気がする。そして、自宅近くの小さな公園まで来たら、童謡の「ふるさと」の曲が拡声器から流れてきて、子供たちに、家に帰りなさい、と促している。子供の絵本に出てくる、里の秋、そのもので、こんな光景は、自分が子供だった頃と、変わっていないようだ。公園での子供の遊びも、ピアノの演奏も、帰宅を促す音楽も、すべてが、学校と結びつている。学校とは何だろう、自分には、宝物のような存在で、小学校から大学まで、そこに行けば、すべてを許してくれそうで、1日を過ごして、悔しかったとか、腹がたったとか、嬉しかったとか、さぼって無駄な時間を過ごして反省したとか、さまざまあっても、お風呂に入れば、すべてを洗い流してくれる、と同じように、すべてを包み込んでくれて、ふるさとの童謡のような、優しい気持ちにさせてくれる。学校は窓から暮れる赤蜻蛉(荻原行博)の句を、新聞から引く。昼間は賑やかだった教室も、子供たちがいなくなれば、もうそこは夕方で、静かな秋の光景になる。秋が来て、やがて、秋深し、の季節に向かう。

優しく生きる知恵

今は、火曜日の夕方、西空が薄紅色に染まって、雲が赤から白へのグラディエーションになって、美しい光景が、西窓から見える。秋の夕方は、日の暮れるのが早く、もうほとんど暗くなってきて、家々やマンションに灯りが点いて、一日の終わりを告げている。今日は何をしたのだろうか、久し振りに都内に出かけ、歯科医院に行って歯の掃除、事務局に行ってオンラインの事務局会議、帰宅して、先ほど、眼科クリニックで、目の検査と薬をもらって、帰宅したばかりである。あまり生産的なことはやっていないが、年相応に、医院に通わなければならない。それは、まあ当然のことで、たまには都内に出かけて、人ごみに混じるのも良し、医院に行って、看護婦さんやお医者さんに治療や検査を受けるのも良し、自宅にこもるだけが能ではないだろう。目は眼圧と視力検査だけで、歯も治療ではなく、歯茎などの掃除なので、別に気にすることもない。事務所に行って、スタッフと対面で話すと、雑談に花が咲き、どこか面白い。お昼は、少しダイエットを考えて、きつねうどんにしたが、「なか卯」の定番で、いつ食べても美味しい。眼科は、自宅から徒歩2分もかからない距離で、午後4時頃では、若い夫婦が幼児を連れてきている、学校帰りの子供が母親に付き添われてきている、平日の午後にしては、それなりの患者さんがいて、繁盛というのもおかしいが、賑わいを見せている。それも、大した病気ではなく、軽い症状だったり、自分のような定期検査であったり、まあ、健康診断のようなものなので、気楽に待合室で待っている。有難いことに、30分位で、すべて終わる。薬屋さんで、目薬を買って帰宅すると、もう夕方になっている。だから、今日は、何をしたのだろう、と思ったのだが、それでいいのだ、いつも、走っているわけにはいかない、頭を全開にしているわけにもいかない。今は、秋の夕暮れ、一息ついて、ゆったりとして過ごすのが、普通の生活だろう。歳を取るということは、心配事や不安なことを、一旦棚上げにして、目の前に起きてること、それが、歯科医院でも眼科クリニックでも事務所でも、ゆったりと見渡すような心境になる、ことかもしれない。しかし、そこが凡人の浅はかさで、あれはどうしたものか、難しいかもしれない、採択されない時は、など取り越し苦労をするものらしい。新聞にこんな句があった。川の字になりて子犬とお昼寝中、孫無き二人に孫を授かる(須崎輝男)を読めば、子犬が孫になって、老夫婦が目を細めている光景が目に浮かぶ。平日の午後、所在ない時間、うとうととして、可愛がっている子犬が、間に入っている、たぶん、いろいろな事があるだろう、子供たちのこと、家族のこと、病気のこと、何もないことはないだろう、しかし、子犬を孫だと思えば、こんな幸せなことはない、と思っているのか、老いるということは、どんなことがあっても、優しく生きる知恵を持つことなのだろうか。自分も、どんなことが起きても、幸せに転嫁する知恵を持ちたい。

百日紅

今は、土曜日の夕方、窓から見える空は、もう真っ暗で、日が落ちるのが早くなった。秋がやってきたのだから、当然なのだが、自然の営みの正確さには、恐れ入る。今日は土曜日だが、都心に用事があって、午前から出かけて、夕方5時半近くに戻ってきたのだから、ほぼ1日仕事になる。打ち合わせは、10名以上が参加し、内容の議論が濃いので、時間がかかるのは承知しているが、3時間近くだが、不思議に飽きないのだ。中身に入るとか、浸るとか、自分事として、内容を吟味していると、時間の感覚は違ってくるようで、終わり頃になっても、つい、いろいろなアイデアが浮かんできて、議論が進行するので、時間が足らなくなる。時を忘れるとか、夢中になるとは、たぶん、このような状態を言うのだろう。そう言えば、昨日も同じだった。今日の秋晴れとは違って、昨日の天気は、12月の冬模様だと言うから、その寒さは尋常ではないが、実は、昨日は1日中、書斎で過ごした。昨日も、都心に行く用事があったのだが、どうしても間に合わない別の仕事があって、やむなく断って、書斎に籠った。朝6時から取り掛かり、夕方6時に終わったから、朝と昼の食事時間を除けば、10時間仕事をしたことになる。だが、頭を使い、ああでもない、こうでもない、と考えながら、机に向かっているので、時を忘れるのだ。そうすると、何か、その仕事を離れるのが、惜しいような気がして、まだ続けたくなる、脳のどこかに、こびりついているのだろう。だから、今朝は、その続きをしていたのだが、午前11時前に自宅を出た。この年齢になっても、用事があること、それは、世の中から必要とされていることだから、有難いことは言うまでもない。このような仕事、オファーがあると、本当に感謝するし、精一杯の努力をして、それに答えようとするが、それは、たぶん、ボケ防止になるだろう。今は、身体を動かし、脳を使い、心を開放して、自分の最後を全うしたい、きれいに生きて、笑顔で周囲の人と接したい、と願っている。まあ、それに近い状況にあるようで、心から自分の境遇に感謝している。が、いつ、どんなことが起きるか、誰にも分からない。いずれ、身体も、脳も衰えるだろう、それまで、精一杯、花を咲かせてみたい。百日紅さすがに盛り過ぎにけり(谷川治)の句が、新聞にあった。自宅の庭に咲く百日紅も、残り少ない花びらが見える。最後まで、きれいでいたいのか、柔らかいピンクの花びらが、舞い降りてくる、自分もそんな生涯を送りたい。

曼殊沙華公園

今は、水曜日の夕方、外は小雨が降っている。平凡ながら、アッと言う間に時間が過ぎて、もう夕方になった、そして水曜日になった。昨日の夕方に書く予定が、無理だった、さぼっているわけではない、何か、駆け足で、時間が通り過ぎていく、今日は何があったのだろう、先ほどまで、長い長い審査系のオンラインがあって、ようやく一息ついた、が、本当は審査評価表を埋めるつもりだったが、明日の朝、6時から7時までの間にしようと予定を変更して、今ブログを書いている。昨日は、3つのオンライン会議が入っていて、最後の会議が長引いて、ブログの予定が今日に延びたからだ。月曜日は、研究指定校に行って、講演をして、帰宅後に、気になっていた資料作成をしたら、1日が暮れた。その前の日曜日は、楽しみにしていた曼殊沙華公園に行って、真っ赤な花を満喫した、と言う訳ではなく、もう盛りを過ぎて、文字通り、お詫びでもするように、首を垂れている光景だったが、真っ盛りの夏のような陽射しで、こんなに人がいたのか、と思うくらいで、昼食会場は、もう座椅子がなく、木陰で腰を降ろすような人出だった。出店で買った、お握り、唐揚げ、缶ビールは、もう絶品で、生きていて良かった、と思うくらいだった。家内と汗をかきながら、見どころ外れの一面の萎れた赤い花を見たが、主催者も、さすがに、入園料を無料にした。地元の野菜の漬物が、どうしようもないくらい美味しくて、3個1000円で買ったが、3日で、自分だけで食べ終わった。帰宅して、その後、スポーツジムに行ったから、夕食後は、もうクタクタで、大河ドラマを観たら、すぐに鼾をかいて寝てしまった。という訳で、明日も、何かと用事があって、ふと思う。自分は、まだこうして生きているのか、人生の峠は、はるか昔に超えているが、まだ大丈夫、最後に、そっと静かに息を閉じれば大往生だろう。いろいろなことが舞い込んでくる、これは無理、と思うこともあるが、生まれ付いた貧乏性のためか、時間がある限り、やってみよう、と思うのは、表現欲がまだ潜んでいるからかもしれない。この広い野原いっぱい咲く花の見えないところに車が一台(小杉なんぎん)の、何やら歌の文句のような句が、新聞にあった。この句で、曼殊沙華公園を思い出すのは、公園の中に駐車場があって、親子連れが、広い草一面で遊んでいて、我々老夫婦が、その草むらに行った時、ちょうど親子連れが、車に乗って帰る時だったからである。幼子のはしゃぐ姿を見る、若い夫婦は、今が幸せの真っ只中だろう、でも、心配しなくても良い、自分たちのような年齢になっても、年相応の楽しみ方があって、毎日を生きていけるから、と言いたくなった。まだまだ、大丈夫。

畑仕事

今は、土曜の夕方、秋晴れの天気が続いて、気持ちの良い時を過ごしている。つい、うとうとした、無理もない、今日は、午後になってすぐにスポーツジムに行って、身体を動かし、プールで泳ぎ、帰ってから畑仕事をしたから、もう身体がくたくた、しかも、早朝と言うか真夜中に目が覚めたから、少し寝不足気味なので、眠気が襲ってくる。自分は、手帳に書いている通りに実行しているので、午前中は、原稿を書くことになっていて、書けたのだが、推敲する時間がかかるので、午前中一杯使ったが、自分の気に入った原稿ができると、どこかワクワクして、スポーツジムに行くのも、心が弾む。この1週間は忙しく、スポーツをする時間がなく、ジョギングもできず、体重計は正直なもので、確実に数値が上がっていくので、今日こそは、と思って、行ったのである。明日は、久し振りの行楽としゃれこんで、日高市の曼殊沙華公園に行こうと予定しているが、今、ネットで調べたら、明日で曼殊沙華祭りは終わりだそうで、明日は、相当の数の見学者がいて、混雑するだろう。この巾着田辺りは、郷愁をそそるような昔ながらの土地柄で、道端に、野菜や漬物の出店があったり、赤い曼殊沙華を見ながら、何年も変わらない光景に、心が休まるだろう。だから、明日は帰りが遅くなると思って、今日中に、畑仕事とブログを書くことにしたのだが、少し頭が朦朧としているから、今日のブログは論理的な文章でないかもしれない。畑仕事は、もう歳を取ってきたから、野菜作りは、ほどほどにして、芝にしようと家内と相談していたら、近所の方から、きれいな芝をもらった。芝と言っても、我が家の芝は、雑草と呼ぶ方が正しいのだが、いただいた芝は、きれいな日本芝なので、恐縮した。数日前にいただたので、今日は植えて、箱をお返ししなければと思って、今日を待っていたが、なんとか予定通りお返しできた。日本人には、どこか、こんな風景がよく似合うようで、助けられたり助けたり、貸したり借りたり、あげたりもらったり、などの些細なことで、人間関係を維持しているのかもしれない。日高の公園に行くのも、昔の姿を見たいからで、童謡を歌いたくなるような風景で、夕焼け小焼けとか里の秋などの歌が、耳元で聞こえそうな土地なのである。あの辺りは巾着田と言って、巾着袋の形をした平らな田や野原が一面に広がって、童謡の世界そのものである。思えば、日本人は、このようにして生活してきて、どんなに生活が便利になっても、自分の近所付き合いは、昔から変わっていない。また日高辺りの漬物は、何故か美味しい、伝統の味なのだろうか、お年寄りがつけた味なのだろうか、まだ日本が色濃く残っている。新聞に、駄菓子屋も婆も健在扇風機(中里とも子)の句があった。まだまだ、お年寄りは元気だ、それにしても、扇風機も仕事をしているのか、うーん、自分は、そこまでは戻っていないから、観光客として、昔の日本に浸ってみる、という程度だが、新旧が混じっているから、いいのかもしれない。

必要なこと

今は火曜日の朝6時台なのだが、夕方に時間がなく、明日も夕方にオンラインが入っているので、早朝の今、7時からの朝食の前に書いている。今日は、あまり興味はないが、国葬の日で、都内は警備で大変だろう、それにしても、気温も高くも低くもなく、秋晴れの天気で良かった。政治的には右も左でもないが、葬儀なので、故人のご冥福をお祈りしたい。この頃は、いろいろな仕事が重なって、意外に時間が取れない、あの時、こうすれば良かった、こうしておけば、もっとスムーズにことは進んだのに、など、凡人は、後で後悔する。自分も、家内から反省病と言われるくらい、後でいろいろ思い悩んだり、過ぎたことは決して戻らない、と知りつつも、悔やんだりすることがある。それは、仕方のないことで、性癖なのだろう。有難いことと反省することは、紙一重で、今ブログを書いているのは、有難いとも言えるし、そのために9時からのオンライン会議の準備ができない、と反省することになるかもしれない。それでいいのだろう。自分のような年齢になると、仕事があるだけで有難いのだ。明日も明後日も、手帳が予定で埋まっていて、若い頃から、忙しいと言いながら、今日まで来た、思えば、もう9月も終わりに近づいている、なんとかの会議やら、なんとかの審査会やら、なんとかの研究会やら、その度に、ハラハラしたりもするが、終わって見れば、どこか学校の先生がニコニコしながら見守ってくれたような、子供のような嬉しさがある。しかし、大人になると、そこに反省したり、意見の食い違いがあって、腹を立てたりする、それが、凡人の姿なのだが、大人も、子供と同じように、嬉しさだけを味わえば良いのかもしれない。何も、反省して、自分を卑下しなくてもいいではないか、と思う。毎日、仕事がある、何かやりたいことがある、それで良い。それは、嬉しいことばかりではなく、苦みを伴うことがあるかもしれない、それでも、振り返ってみると、なんだ大したことではない、まあまあ、か、などと思いながら、人は、毎日を過ごしているのだろうか。ゴミ出しに空見る余裕涼新た(北村和枝)の句が、新聞にあった。なるほど、夏の蒸し暑さがあって、その苦みを味わったから、秋がきて、その爽やかさに、朝のゴミ出しの時に、今日もいい天気で、気持ちのよい風も吹いて、有難い、と思っているのかもしれない。ということは、夏の蒸し暑さが、必要なのだ。なんとか、7時の朝食前にブログを書けた。時間が不足している、ことは、自分には必要なことなのかもしれない。

銀舎利

久し振りに土曜の夕方、外は曇り空、小雨がぱらつく天気だが、今、スポーツジムから帰宅したばかりで、お風呂、実際はシャワーだが、に入る前のくつろいだ一時で、ブログを書くには絶好の時間である。と言っても、別に計画を立てて書いているわけではなく、気の向くまま、キーボードを叩くに任せ、思いついたことを、日記風に書き残している。言わば、自分史かもしれない。いろいろなことが、ある、今日は土曜、世間では連休の中日だが、連日の雨模様で、行楽のような気分でないことは、言うまでもない。今日の午前は、オンライン打ち合わせがあり、昨日は学会の年次大会で、講演したり、シンポジウムに出たり、程よい緊張感があって、夕方に終わると、解放感で満たされ、夕食は、家内手作りの、昔懐かしいナポリタンとグラタンで、赤ワインがことの他、美味しかった。今日のおかずは何だろう、家内は料理が趣味なのか、好きなのか、いつも手作りで、余った食材で、レシピを考え、ネットで検索したりして、おかずを作る。実は、老夫婦でコロナ感染にかかったので、市から、いろいろな食品をいただいた、2人分なので,量が多い、食べきれない、もちろん、もったいないので食べているが、今時の缶詰などは絶品で、レトルトご飯などは、これが冷凍食品か、と疑う程に美味しい。昭和の時代の人間とすると、貧乏人は麦を食え、と言った池田隼人を思い出すが、昔の日本は貧乏だった、日本人全員が、美味しいものを求めていた。麦飯は当たり前で、真っ白なお米だけの白飯は、遠足の時くらいで、おかずは卵焼きが上等で、よく晴れた山頂辺りで、弁当の時間になると、嬉しくて、誰もが笑っていた。先生の周りに陣取って、お互いの弁当のおかずを見ながら、そして優しい先生は、時折、おかずを子供にやったりして、二十四の瞳の映画そのものだった。そんな時代があったのか、遠い昔なのだが、幸せだったのか不幸せだったのか、すべて忘れているが、大人は、自分の両親も含めて、貧乏と戦っていた。日本人も、ようやくそれなりの生活ができるようになって、身体も若い頃のような無理は効かなくなり、静かに老後を迎えて、それなりに生をまっとうしたのだろう。自分もその年齢に近づいた今は、きれいな生き方をしたい、日本に生まれて良かった、この地に住めて良かった、この家で良かった、この家族で良かった、と思えれば、それは、極上のwell-beingなのである。新聞に、銀舎利のかがやく結び豊の秋(加藤賢)の句があった。真っ白い米のご飯は、銀舎利とか銀飯と言ったが、この方は、昭和の時代の人だろう、遠足のお弁当のように、太陽の光を受けて、キラキラと輝くような、お結びを見て、稲穂がたわわに実る豊(とよ)の秋を感じているのだろうか、日本で良かった、秋の季節で良かった、と思っていれば、自分と同じ心境だろう。今夜のおかずは何だろう、ご飯は、言うまでもなく、銀舎利である。なんと贅沢な、できるものなら、昔の子供に、食べさせてやりたい。

小さな幸せ

今は、火曜日の朝、ブログを書くには、変則的な時刻だが、今日は久し振りに所属団体のある溜池山王に行き、諸々の用事を済ませて、帰宅するのは夕方になるので、書く時間がないからで、明日も夕方までオンラインの委員会があって、という事情なので、隙間時間を使うことが賢明だからである。昨日も一昨日も、台風の影響で、雨風が時々猛烈な勢いで襲ってきて、書斎の窓ガラスを叩きつける様子に、連休中だが、スポーツジムに行くのは無理だな、と思って、ある資料作りに夢中になっていたが、午後3時ごろになると、急に空が明るくなって、少し陽光がさしてきたではないか、不思議な気がしたが、これは有難い、すぐにスポーツジムに出かけようと思って、支度をしたら、有難いことに、帰りは雨も降らず、健康的な汗をかいて、爽快な気持ちで帰宅した。これも、隙間時間の活用である。手帳に、諸々の仕事や用事やオンライン会議などを記入しているが、googleカレンダーにも忘れないように書き込んでいる。オンラインだと、オンラインURLが必要で、それは紙の手帳では無理なので、デジタルのカレンダーを利用している。手帳やカレンダーを見ると、都内に通勤している時代と違って、書斎のパソコンで用事が処理できるので、隙間時間がよく分かる。この時間は、ジョギングでもしようか、この時間は、ネットで調べたいことがあるから、この時間は、近所のスーパに行こうか、そう言えば、洗面所のタオル入れが故障している、直してみようか、ロボット掃除機のルンバが仕事を終えて、電気口に戻るのだが、うまく戻れない、調べて修理してみようか、など、思いつくことが多いのだが、その思い付きを、電話帳の横にあるメモ用紙に書き込んでいる。それが、極めて効果的で、実際、洗面所のタオル入れも修理できて、ガタガタ音がなくなった、ルンバも1回で電源口に戻ることができた、自分もまんざらでもない、少しは役立つではないか、と嬉しくなった。すると不思議なもので、洗面所もルンバも、使う度に、しげしげと眺め、どこか愛着を感じる。こんな小さなことでも、人は、喜びを感じて、今日もスポーツジムに行けて良かった、洗面所で朝がスタートできる、ルンバがいて助かる、夕食も運動した後だから美味しくいただける、と、小さな幸せ感が体中を包み込むような気がする。文脈は違うが、新聞にこんな句があった。おかずを移すフライ返しの音さえも快い夕べ母が居るから(金沢潤子)に、同感した。読者の母は、久し振りなのだろうか、何か事情があったのだろうか、母親がそこにいるだけで、すべてが心地よく感じるのだろう。人の幸せとは、このような些細なことかもしれない。

学会シーズン

今は、17日土曜日の朝8時なので、ブログを書くには、変則的な時刻だが、今は学会シーズンなので、今日も1日中パソコンの画面に向かっていなければならない。終わりが午後6時近くなるので、朝しか時間がない。学会にもいろいろな行事があるが、自分の役柄、今日の午後にある総会を仕切らなければならない、が、長い間似たようなセレモニーをしていると、あまり気にならなくなくなるのは、世の常である。昨日も、自分の所属団体の理事会があって、無事に、というか、活発に意見交換ができて、盛り上がった。どんな人も、必ず人は意見を持っている、言いたいことを秘めている、それを出して、なるほど、と同意したり、そうではない、と反論したりする、その雰囲気作りが、司会者の役目である。司会者というより、流行りの言葉で言えば、MCだろう。すべてを出し切ると、参加して良かった、という満足感がある。昨日は、しばらく、その余韻があって、体中が快い芳香で包まれたような気持になった。先に書いたように、今は学会シーズンで、先週、今日、明日、来週と4つの学会に参加し、その間に、団体の理事会や委員会などの理事会シーズンでもあるので、忙しい。先週の学会のシンポジウムも、さすが、よく考えている、捉えどころが、凄い、など、まるで、演劇を観ているような感じで、オーバに言えば感動が湧いてくる。学会発表も、すべて自分を出し切るのだ、演劇の役者もすべて、これ以上は無理だという限界まで出し切る、それを、観客は受け止めて、心や脳が揺さぶられて、共鳴するのだ。それは、学会でも、音楽会でも、演劇でも、いや、学校の運動会でも、演奏会でも、幼稚園の学芸会でも、すべて同じである。昔、保育園の学芸会に参加して、孫が一生懸命に踊る姿に、思わず涙がこぼれた。すべてを出し切る、そこに接するだけで、人は心を揺さぶられ、瞼が湿ってくる、何故だろうか。たぶん、純粋さや健気さに、日常生活とは別の世界を見るからだろうか。新聞にこんな句があった。学生のブラスバンドの熱演が胸を揺さぶり声出して泣く(河野樹美)、誰でもこんな経験があるだろう、演奏会でも甲子園野球でもサッカー競技でも、そして学会でさえも、人は、人から感動をもらい、生きる勇気をもらい、自分も頑張ろう、という気持ちになる。平凡ながら、有難きかな。