今は火曜日の夕方、いつものようにブログを書く時刻になった。そしていつものようによく晴れた冬空に西日が沈みかけていて、白い雲がほのかに茜色に染まって、1日の終わりが近づいていることを告げている。今日という日はどんな日だったのだろうと、振り返ってみる。午前中は忙しく仕事をしたが、午後は仕事はなく私的な用事で時間が経って、先ほどまで4月以降に向けての準備しておきたい資料を作っていた。つまり今日は午後は、時間的余裕があって平穏で心が空っぽのような状態だった。これはいいな、こんな気持ちで毎日を過ごせれば平和だななどと、思っていた。この前のブログで書いたように、土日は大阪のイベントに参加して、予想通りに進行して、忙しい中にも豊かでいくつか感動する場面もあった。自分は、閉会の挨拶を述べるだけの役割だったが、体全体で感じる充実感があった。予定した串カツとビールの夕食で、さらにいかにも大阪らしいキザミうどんも食べて、一夜だけの大阪下町の庶民になった。広いホテルの部屋にも朝食にも満足し、新幹線の中では880ページもある分厚い専門書に喰らいついて、まだ序文と数章だけだが、深い思索に触れることができた。つまり自分を全て出し切って、土日を駆け抜けたような気がする。それと比べれば今日の1日はゆったりとして、休みのような感覚ですらした。昨日の月曜日は仕事が詰まっていて忙しかったので、今日が土日の代休のような気がしたのかもしれない。年を取ってきたので、家内に言われて、週1回は整骨院に行って体のメインテナンスをしているが、今日の午後はその時間でもあった。といっても整骨院は歩いて数分の距離で、約30分位の整体なので気休めのようなものなのだが、電気マッサージを受けている間、気持ちよく眠った。自宅に戻るにはあまりにも近いので少し遠回りをしたのだが、何事もなく道行く人もマフラーで首や顔を覆って、寒さをよけながら歩いていた。日本海側などの大雪で苦難にさらされている人達に比べれば、誠になんの苦労もない地域の人々なのである。文脈は離れるが新聞に、道の端に椿ひとつの朽ちており午後をすすめば午後のしずけさ(鈴木えみ子)の句があった。自分が接骨院から帰る光景を詠んだのか、と思うような句である。午後は人通りも少なく、静かに誰もが通り過ぎてゆく。その様を、椿が落ちてもの寂しさを感じる心模様を31文字で表現したことは、文才豊かな人なのだろう。文学の素人である自分でも、作者の気持ちは伝わってくる。この数日間の出来事を振り返って、今日の午後は、穏やかで平和でゆったりとした心境で過ごした。それは寂しさではなく、椿が落ちるように自然の姿であって、老いていく自分を認めていることの穏やかさだと思う。午後何回か、2階の書斎から1階の居間に降りて、家内と短い雑談をした。今日の夕食は何か、スーパーに買い物に行くのか、物忘れをするのはやはり年のせいかなど、お互いに年を取ったのだ。共に助け合って生きていくしかないのだ。それが老いていく自然の姿である。
出張
今は金曜日の夕方、本当なら明日土曜日に書くブログを、一日前倒しにした。もちろん理由があるからだが、明日は大阪に出張があって、夕方はホテルの中なので書きにくい。もちろんパソコンは持っていくのだが、夕食を食べた後では億劫になる。新幹線の中でもよいが、あまりたいした出来事もないので、今の方が書きやすい。出張といっても明後日のイベントに出席するだけなので、気楽な1泊2日の旅なのである。毎年夏は神戸に出張しているが、何しろ関西は串カツがおいしいので、明日は大阪なのでホテルの近くの串カツ屋を探して、ビールと串カツで気楽な夕食を楽しみにしている。まるで寅さんのような1日になるだろう。日曜日はイベントだから多少の出番はあるが、明日は、新幹線に乗ることと、夕食をいただくことと、ホテルに泊まるだけの、のんびりを絵に描いたような時間を過ごすだけである。新幹線の中では、1行も読んでいない分厚い専門書を持っていくので、なんとか取り組んでみたいと思うが、あくびばかりで頭に入らなかったらどうしようと思うが、明日ぐらいしかこの本を読むチャンスはないだろう。半分楽しみで半分不安もあるが、どうしても読んでおきたい1冊なのだ。明後日のイベントは大したことはなく、これは仕事なのか趣味なのか、主催者には申し訳ないような気持ちである。人のお世話になり、人が作ってくれた籠に乗り、人が計画してくれた流れに沿って動くようなもので、本当に感謝しかない。科学研究費というありがたい制度があって、自分もいただいているのだが、本年度中に使い切らなければならないので、残金をどうしようかと考えていた。まことに贅沢なことで、国民の税金を使って研究できるということは、有益な使い方でないとバチが当たるだろう。先ほどまでオンラインで研究打ち合わせをしていて、どうしたらいいだろうかと相談したら、良い知恵を貸してくれた。自分だけで考えることは実は大したことはなく、ほとんどが他人の力によって、研究をしたり仕事ができたりするのである。数日前のオンラインでのセミナーがあって、自分はホスト役でゲストと対談した。優れた研究発表だったので、自分も嬉しくなって質疑応答に時間を忘れた。そのアイディアはどこから来たのかと聞くと、結局は他人の行動を観察することで、気づくことがほとんどであった。つまり他から教えてもらったのである。今日も午前中は学校訪問があって授業参観をした。自分は市の教育センターのアドバイザーなので、コメントを書いて送ったのだが、考えてみるとほとんどは、先生と子供たちの観察によって得られた気づきなのである。つまり先生と子供から教わっていることがすべてである。明日は分厚い専門書を読む予定だが、これもすべて他人の知恵が詰まった宝なのであり、もし読んであくびが出るようであれば、自分の浅学を嘆くしかない。そして自分もまた、そこから得られた気づきを他人にお返しするのである。文脈は遠く離れるが新聞に、温かいうどんへ落とす寒卵(久保栞)の句があった。この句を読むと、温かいうどんと冷たい卵が混じり合って、よりいっそう美味しくなり、丼を手にした人の笑顔が浮かんでくる。自分もこの句の寒卵のような仕事をしたい。主役は温かいうどんであるが、寒卵でおいしさが深くなっていくような脇役が自分には合っている。明後日のイベントでは、自分はその脇役を演じてみたい、主役が喜ぶ顔を見たい。
プラスチック
今は火曜日の夕方、いつものように書斎でパソコンに向かってブログを書こうとしている。火曜日と言っても今日は祝日なので、報道によれば昨日にお休みを取って3連休とか4連休の人もいるという。確かに若い人は連休にして骨休みするのもいいだろう。自分はリタイアしているから、よく言われるサンデー毎日なのだが、それでも気持ち的には平日と休日は違っている。久しぶりにお昼に東の公園に向かってジョギングをした。航空公園と呼ばれる広い公園には、赤ちゃんや幼児を連れた親子連れがかなりいて、きれいな青空の下でリラックスして運動したり散歩したりしている。ただ今日は風が強いので春のような気持ちにはなれず、少し前かがみになって走っていた。走るといっても、若い人から見れば散歩に近い足取りなので、ちょっとした速足程度の歩き方だろう。ただ自分にはこのくらいがちょうどよく、強い風を受けて空高く上がっているタコを見ながら風景を楽しんだ。こんな休みの日はスポーツジムでも行きたいのだが、あいにくとジムは休館日となっており、午前中に頭を使った仕事をしたので、お昼に体を動かしたくなったのだ。そしてついでに久しぶりに蕎麦屋に行って、お昼はとろろそばを食べた。これも休日の気楽さのせいだろう。1時をかなり過ぎていたのだが、多くのお客さんがいて、蕎麦が出るのを手持ち無沙汰に待っていた。することがないと人間はあれやこれやと考えるが、あまりいいことは思い浮かばず、あれはどうだったのか、これはまずかったのかなどと、なぜか自己肯定感が下がるようなことばかり浮かんでくる。これは性分なのか、あるいは年のせいなのか、いやいやそうではない、結構うまくいっているではないかなどと、自問自答しながら蕎麦屋にいた。食べ終わって帰宅する途中、スーパーマーケットが近所にあるので、そこを通ったらホタルイカやタコなどの魚も美味しそうで、珍しく甘酒なども陳列してあった。買おうと思ったがそのまま帰宅したら、家内がこれからスーパーに行くところだというので、まるで幼子のようについていった。そしてホタルイカと甘酒も買ってもらい、夕食が楽しみになった。これも休日だという気楽さが自分を動かしたのだろう。どうも甘酒は、ひな祭り用として置いてあったことに気がついて、本当に自分は子供のようだと苦笑した。年をとると子供に戻るのか、若い頃のことを振り返るのか、久しぶりにyoutubeで、嫁に来ないかの歌を聞いた。新沼謙治のきれいな高音が、昔のことを思い出させて共鳴したのか、どこか心がはずんだ。若い頃は、嫁に来ないかと直球で表現できるが、年をとるにつれて周りのことや色々な雑音も気にしながら忖度するので、ボールがあちこちに飛んだりして、つまらぬ勘繰りをされたりすることもある。自分はまっすぐに生きることを信条としてきたが、若い頃のようにはいかない。新聞に、簡単に傷つくけれど簡単に壊れずプラスチックに生きる(友常甘酢)の句があった。なるほど人の生き方はプラスチックのようなものかもしれない。生きていれば誰でも小さな心の傷を持っているが、それでもどっこいしたたかに生きる知恵も持っている。今日自分はこのプラスチックのような心境だった。蕎麦屋でつまらぬことを考えたりしていたが、美味しい蕎麦を食べ、公園をジョギングして若い人たちを眺め、スーパーで美味しそうな食材を見つけているのは、したたかに生きている証拠である。まあ前を向いて頑張ろう。
楽しむ
今日は土曜日の夕方、南側の窓から見る空はまだ明るい。だいぶ日が長くなったのか、文字通りの空色で雲ひとつ見えない。北陸地方や大雪が降り続く地方の皆さんには誠に恐縮だが、こちらはこのような晴天で神は不公平だと思っている。土曜日は、今日というより今週や数日間を振り返ることにしているが、忙しい週だった。年齢と共に、忙しいという言葉はありがたいと置き換えてもほぼ間違いはないのだが、そこに楽しむという文字が加わるのが重要なのだ。当たり前だが、仕事がいくら忙しくても楽しくなければ、それは苦痛以外の何物でもなく我慢する忙しさなので、年をとるとそこから逃げだしたくなる。若いうちは馬力があるからそれでも立ち向かっていけるが、その気力が弱ってくる。幸い今週のイベントは楽しい仕事だったので、まあ趣味のようなものだろう。趣味と書いてしまうと語弊があるので、どんなイベントかはブログには書かない。何度もブログで書くように、土日はスポーツジムに通っている。今日はいつもより参加人数が多かった。それは明日の日曜日から木曜日までメンテナンス休館のせいだろう。老いも若きも、体を動かして自分の体のメンテナンスもしたいからだ。自分は下手なゴルフのクラブを振って、その後プールで泳ぎ、帰宅して庭から家内がグレープフルーツを取ってきているのでビタミンCを補給し、短い時間だがやっておきたい資料を作成し、そして今ブログを書いている。資料作りは、自分にとって最も楽しい仕事なのだ。今日の午前中は、かかりつけのクリニックに行って、血液検査の結果を聞き、常備薬をもらってきて、その後資料作りに夢中になった。夢中になること、それが楽しむことの意味である。昨日は別の県に行ったので、丸一日そこで仕事をしたのだが、先ほど書いたように、それは自分にとって趣味のようなものであって、仕事という概念は当てはまらない。そしてシンポジウムで、自分が参加者の皆さんに、学びとは楽しむこと、エンゲージメントだと言ったので、無意識的にこの言葉が、このブログで出たのだろう。それが良かったのか悪かったのか、議論の内容に合っていたのか外れていたのか、自分にはわからない。シンポジウムの直前まで、そんな言葉を言うつもりはまるでなかったのだが、会場の雰囲気や状況が、自分にそう言わしめたのだろう。文脈は離れるが新聞に、一番と二番の歌詞をごちゃまぜに唄ったような子育ての日々(田巻由美子)の句があった。子育ての本はいっぱいあって、何が正解なのかわからないが、なんとなく半分合って半分合っていないような、そんな日々を送っているのだろう。それは子育てに限らない。自分も、これでいいのか間違っているのか、前に進んでいいのか立ち止まって考えていいのか、絶えず迷っている。多分ほとんどの人は同じだろう。自信満々で仕事をする人も発言する人もあまりおらず、自信半分不安半分がちょうど良いところだろう。楽しい仕事はそのことが自覚できない。だから他人から見ればどう見えるのか分からないが、それで良いのだ。他人のことを気にすれば、夢中になることはできない、仕事を楽しむこともできない、生きていることすら楽しめない。だとすれば凡人は、世間をあまり気にせず、楽しいことを追いかけて日々を暮らせばよいだろう。
小さな振幅
今日は火曜日の夕方、書斎の窓から見る南側の空は曇り空で、灰色一色なのでいかにも寒々しい。先ほど外から帰ってきたばかりで、駅から帰宅する途中やっぱり冬かと感じた寒さだった。今日も忙しい1日で、特に今週はイベントが詰まっていて、手帳が真っ黒になっている。しかし若い頃と感じ方が違う。いつも走っているねと、よく言われていたが、それは嬉々として仕事に取り組んでいたからだろう。オーバーに言えば、すべて楽しかった。正しく言えば、楽しかったことも落ち込むこともあって、その振幅が大きかった。年を取った今は、悲しいかな振幅が小さくなったのだ。それは当たり前のことで嘆くことではないが、今日のような太陽のかけらも見えない冬空は、人を少しだけ憂鬱にさせる。午前中は、オンラインの審査系の仕事があった。国の仕事なので時間をかけて準備して臨んだのだが、他の審査員の質問は核心をついて鋭く切り込む切れ味があった。それに比べて自分の質問は、なまくらの刀のようで見るからに切れ味が悪かった。そんな仕事をしていると、審査員のレベルの差がはっきりと見えてくる。俺はまだまだ駄目なのかと、自己肯定感が下がってくる。でもこんなことはよくあることなのだ。そんな自分が情けなくなったが、逃げるわけにはいかない。午後は市役所で会議があって出かけた。あまり気持ちが高揚していないので、話さないようにしようと思っていたが、そろそろ最後の場面だと思った時、話しておきたいと思って、感じたことを淡々と述べた。それは鋭い意見ではなく、日頃自分が感じていたことなのだが、それから委員の意見が続出した。そうか自分の意見が他の人の考えを誘発したのか、それはありがたい。最後になってこの会議は盛り上がり、少しお役にたったのかと思った。自分はどこかサービス精神があって、皆さんの意見を引き出すように、潜在的に持っているのかもしれない。午前中の審査の会議と比べると、嬉しい会議だった。午前中だけの審査会であれば、少し憂鬱になって 午後の仕事が上の空のようになったかもしれない。人はいつもうまくいくことばかりではないことはよく分かっている。分かっていながら、がっかりしたり喜んだり、1日の中でもそんな感情の起伏の中で生きている。やがてその振幅もだんだん小さくなって、ぼーっとした1日を過ごすのか、それは寂しい。多少落ち込むことがあったとしても、何もないよりはましだ。文脈は離れるが新聞に、年金の振り込み通知ありがたし妻と茶を飲み和菓子をつまむ(東賢三郎)の句があった。老夫婦が、微笑みながら茶菓子で談話をしている光景が目に浮かぶ。今日は良かったありがたいと話をしているのだ。小さな振幅ではあるが、心の中は幸せで満たされている。これから先自分はどんな生活をするのだろう。この老夫婦のように、小さなことでも喜び感謝してニコニコしながら暮らせたら、幸せな晩年だろう。自分は、どうも仕事の波から逃れることはできないような気がする。しかしこれから先はだんだん波が小さくなって、静かな余生を送ることになるのだろうか。確かに老いることは寂しいが、この夫婦のような平穏な日々でありたい。
人は変わる
今は日曜日の朝、書斎の窓から見える空は小雨が降っており、しっとりとした一日が始まる。日曜日の朝という変則的な時間にブログを書くのは、もちろん事情があったからで、昨日の夕方に書こうと思ったが、都内でイベントがあり、書く時間がなかったからである。昨日の午前中に早めに書いておこうとも思ったのだが、いろいろな仕事が重なって、とても無理だった。たぶん初めてだろうと思うが、日曜日の朝もなかなか味わいがある。天気予報では雪かもしれないと報道していたが、所沢では多少ちらついてるような気もするが、小雨である。窓から見える隣の家の屋根の瓦が雨にぬれて、落ち着きのある風情になっている。こんな光景を見るのは久しぶりだと思う。昨日の都内のイベントは、優れた先生方の実践研究の発表があって、自分はその審査員を務めた。自分にとっては初めての会だったが、実践と研究が見事に連携した発表で、自分も大きな刺激を受けた。このブログで何度も書いているが、理論と実践の往還とか実践をベースにした新しい知の創造など、言葉は美しいが実際のところはどうなんだろうかと思っていたら、昨日の研究発表はその通りであった。自分が求めていることを、そのまま見せてくれたような印象だった。だから審査するというより、お世辞抜きで自分が勉強させてもらった。発表の部屋の横にあるスペースで、4人の審査員が話し合っていくつかの賞を決めた。6名の発表者の内容を採点して賞状を渡し、その後審査員が講評をすることになっている。企画書によれば、3名の審査員の先生方が2名ずつ講評をして、最後に自分が全体の総括をすることになっていた。審査をしている時に、それぞれの発表の特徴や評価のポイントなどを打ち合わせしたので、自分は6名全員の特徴を話せばよいと思っていた。自分の審査メモには、それぞれの発表者のキーワードを書いていたので、これで安心と思って審査会場に入って、3名の審査員の講評を聞いた。なるほどと思いながら、審査員によって審査の観点が違うので、別のポイントを話せば良いと思っていた。3人目の審査員の講評を聞いていた時、ふと気がついた。これでは発表者の先生も参加してる皆さんも、重複して聞くことになる。つまり全体を総括することにはなっていない、というきわめて当たり前の事に気がついたのだ。なんと自分は勘違いしていたのだろうと悔やんだ。もうあと3分しかないと思った時、ふと全体を総括するようなキーワードが4つ浮かんだ。それは研究発表者それぞれのコメントではなく、全体を俯瞰したキーワードであった。ギリギリになって自分は恥をかかなくて済んだと思うと同時に、これで自分の役割は果たせたのだと、安堵したのである。自分はここで大切なことを学んだ。計画はしてもその通りにはならない、5分前まで決めていたことも、状況によって変わってしまうのだ。つまり人は変わる、そのことを自分は変わらないと思い込んでいた。体も元気でまだ色々な仕事をしていると、若い頃と変わらないと思っていたが、それは間違いではなかったのかと気づいたのである。少しずつ変わっているのである。だから自分の思い通りにならないことが起きて、自己肯定感が下がるのではないかと思った。文脈は離れるが新聞に、家事だけで一日終わる独居老最後は眠る難業が待つ(児玉孝男)の句があった。作者は年老いて一人で暮らしておられるようで、寝付かれないのかぐっすり寝られないのか、あるいは、いかに往生するかを思案されているようだ。自分も終活はすでに家内と相談して書類などもすべて作成し、子供たちにも了解してもらい、公の手続きも済ませてある。ただ今思うのは、それはあくまでも計画であり、往生する寸前まで分からないのではないか。大きな計画はできても、実際には何が起きるか分からず、人の考えも感情も変わっていき、誰も予測はできないだろう。ただ今思うことは、変わっていく自分を認めることの大切さである。
物憂い夕方
今は火曜日の夕方、書斎の窓から見える南側の空は、うす曇で日の沈む西南方向の空が薄明りとなって、いつも見える光景と変わらない。今日は一日何をしたんだろうかなどと考えなくても、やったことはわかっているけれど、なぜなんだろう、なんとなくブログに書く気力が弱くなっている。それなりの仕事をし、それなりの用事をこなしという平凡な一日なので、そのような平凡な暮らしを公開するのはやはり気が引ける。正直に言えば、今の気持ちは、ぼーっと書斎の窓から外を眺めて静かな時間を過ごしていたい。多分誰でもそんな時はあるだろう。いつもいつも元気でといえば、小さな子供やエネルギーの余ってる中高生などはその通りだが、年老いてくるとそういうわけにもいかない。ここ数日に起きたことは、自分とすればかなり振幅が大きかった。大きかろうと小さかろうと、人が生きていればその波に乗っかって前に舟を漕ぎ出さなければならない。そういえば今日はほとんど運動していなかった、体を動かせば、エネルギーが体内から放出されてアクティブに動けるのだが、何もしない日は、エネルギーは体内に沈殿してしまうのだろうか。そんな物憂い感じの夕方である。明日は何があるか、手帳を見ればそれなりのことが記入されているので、何をするかはわかっている。問題はその密度や深さなのだろう。元気な時は楽しく取り組み、そうでない時はその程度に応じた質になる。今日の午前中の学校で見た授業光景は、そんな感じだった。授業の質とはどのように決まるのか、申し分のない1時間の授業で、子供たちも一生懸命取り組んでいても、質の深さは別の次元のような気がする。それは授業だけでなく人の生活の場面でも同じだろう。それを測る尺度を、充実感とか達成感などと言ってもよいが、自分にはエンゲージメントの呼び方がぴったりくる。このブログで授業について書くつもりはないので止めておくが、人の生活も楽しむ必要がある。楽しむためには、その生活そのものに入り込む、つまりエンゲージすることだろうが、年齢によっても環境によっても月日によっても時間によっても当然ながら変わるので、いつもいつも元気というわけにはいかないのだ。ということは、生活場面でも授業場面でも波がある方が自然である。文脈は離れるが新聞に、生きてれば息も白いし目も黒い(今泉準一)の句があった。それはその通りだ、死んでしまえば息も吐かず目もつぶったままだから、白くも黒くもない、生きていれば白かったり黒かったり、怒ったり喜んだり、自信を無くしたり偉そうになったり、さまざまな変化が起きるのだ。人は嬉しいことだけ楽しいことだけを求めつつも、それは生きている限り無理である。さまざまな変化の中で生きているのだが、それでも嫌なことは避けて好きなことだけやっていたいと思うのが、これもまた人間の自然な感情である。無理だと分かっていてもそう思うのは、理性では分からない。
言い聞かせる
今は土曜日の夕方、というより夜に近くなったが、ブログを書き始める時間がだいぶ遅くなってしまった。今日はスポーツジムにも行けず、イベントがあったので、それにほとんどの時間を割いた。イベントの内容を書きたいが、今日は少し複雑な心境なので止めておく。その心境を説明するのも時間がかかるので、ぼうっとした短いブログになるがお許しいただきたい。イベントは華やかなもので、表彰式なのだが、そこで挨拶のようなコメントのような話をして会は滞りなく終わった。しかし一方ブログには書かないが、自分にとっては面白くない困ったことが数日前に起きた。こんな時人は右往左往したりどうしようかと迷ったり落ち込んだりするのが常であるが、最近はもうしょうがないと思っている。つまり腹をくくるのである。そうすれば対応することができる。今日も30分程前に帰宅したばかりだが、着替える暇もなく電話やらメールやらでその厄介な処置に取りかかった。人はこのような時なるべく避けたいと思うが、そうすればするほど苦しくなる。このブログも今日は勘弁してもらうかとも思ったが、逃げれば逃げるほど、後悔する。だから短くてもいいから、書いておこうと思った。しかしふと思う。この世の中は、嬉しいことが起きれば困ったことも起きる。ずっと嬉しいことばかりという人生は、世界中探しても誰もいないだろう。ならば困ったことが起きたら、誰も同じだからと思って、逃げないで対応する方が自然だ。今日は、一応処置がきたのでなんとかなるだろう。人は華やかなイベントのような場に出ると有頂天になって、自分が偉いように錯覚したりするが、この世の中はよくできていて、まるで子供を母親が叱るように、意のままにならない事が起きて落ち込むのである。いつもブログで書くように、その山と谷の繰り返しの中で、なんとか頑張っているのだ。しかし困った時自分はダメだと思うのは、相対的に他人を評価することであり、つまり他人の良さが見えてくるのだ。自分が偉そうにしている時は、他人の偉さや優れた点は見えず、自分がつまらぬ人間に思えた時、他人の良さが初めて見える。文脈は離れるが新聞に、障害の父をどこかで疎(うと)んじてた少年のわれ老いて悔やみぬ(若槻豊彦)の句があった。自分は父親を尊敬していたが、それは自分がたどり着けないような気がしていたからだが、今になってもその想いは変わらず、困ったときになると父親の言葉を思いだして、また頑張ろうと思っている。だからこの作者の境遇と逆なのだが、自分が老いてできなくなることが多くなると、若い頃の未熟な自分を思い出し、悔やむことになるのだろう。そういえば自分も悔やむことは多い。思いのままにならぬことや、どうもがいても無理なことに出会うと、力不足の自分だと認めるしかない。ただそのままの状態だと元気が出ない、前に向かって進んでいく気持ちにならない、それが寂しい、だから今日は腹をくくって、よしわかった、それを受け止めようと、自分に言い聞かせた。この年になっても父親の子供であることには変わりがないから、そうしろと父親から言われたような気がした。実際には、父親役の自分が自分に言い聞かせているのかもしれない。
小さい小さい
今日は日程が詰まって忙しく、このブログを書きはじめる時刻も遅くなってしまった。当たり前だが、1月も中旬を過ぎれば平常通り仕事は動くので、なかなか身も心もついていかないのは誰も同じだろう。昨日から審査系の仕事が入って、1月はかなりの時間が費やされ、頭もそこに集中する。昨日は午後1時から5時まで、今日は午前9時半から12時まで、びっしりと詰まっていた。自分のような年齢になると、前もってかなり準備していないと、急には対応できず焦ってしまうので、相当に時間をかけて準備していたので、それなりに対応できた。ただ世の中は待ってはくれないので、その間にいろいろな仕事をこなさなければならない。メールを見る毎に翻弄される。頭は働いても、使う部位が違うので、本調子になるまで時間がかかるのだ。だからどうしても遅れてしまう。そこが若い頃と違うのかもしれない。お昼はパンとスープで済ませたが、昼食時はテレビ番組を見る。トランプ大統領の就任演説やフジテレビの不祥事など、世の中は静まることはなく絶えず動いている、というより暴風雨のように荒れている。自分のような平凡な人間でも、小さな波はやってきて、喜んだり悲しんだり右往左往しながら時間が過ぎていく。このブログでも、元気な時もあれば、落ち込んでぼーっとしていたい時もある。人は誰でも、小さな躁と鬱を繰り返しているのかもしれない。今日はどうだったのだろうと振り返ってみても、あまり大したことはなく、それなりに対応してきた。それでもうまくいった時は有頂天になるような気持ちで、うまくいきそうもないことは少し不安になる。お昼時に家内と、末期癌と宣告されても、まだ命の続く限り仕事を続ける著名な経済学者の話をして、すごいなあと感嘆した。その話を聞いて、自分の不安などはちっぽけなことで、一笑に付されてしまう。考えてみれば、凡人が抱えていることは、すべて小さな小さなことでしかすぎない。それをまるで妄想のように大きく考えてしまうところが、凡人たる所以であろう。あの経済学者は最後の力を振り絞り、全力で余命を生き抜くのだろう。文脈は離れるが新聞に、傾きて急反転し独楽止まる(野々村澄夫)の句があった。確かに独楽(コマ)の動きはこの通りである。恐縮ながら、先の経済学者の生き様は独楽を思い出させる。一日でも一時でも生き長らえて大往生してもらいたいと、陰ながら祈りたい気持ちになった。自分が尊敬してやまない大先生も、亡くなる前までベッドで原稿を書かれていたと聞いた。世の中には本当に素晴らしい人がいて、命のかぎり研究や仕事に身を捧げる。不遜ながら、たぶん本人はそれが自然であり幸せな時間を過ごしているのかもしれないと推測した。そう思えば、例え自分にとって都合が悪いことであっても、そんなことは小さい小さいと思うしかないだろう。
花を咲かせる
今は土曜日の夕方、いつものブログの書き出しで恐縮だが、この曜日のこの時間に書くことにしているのでお許しいただきたい。そしていつものブログと同じように、土日はスポーツジムに行って元気をもらってくる。そしていつもと同じように帰宅したら、庭からグレープフルーツを取ってきて、少量の砂糖で甘味を添えて食べている。家内とたわいもない話をして、2階の書斎に上がってくる。この時間になると夕方の明るさがだんだんと暗くなり、西南方向の薄い黄金色が見えなくなって夜がやってくる。そしていつもの通り、マンションの灯りが点灯し、今日と数日間を振り返る。昨日は都内でイベントがあり、ほぼ一日中参加していた。今朝名刺入れを見たら、20枚以上の名刺があったので、20人以上の人と名刺交換をしたのだろう。旧知の人もいれば初めて出会う人もいる。旧知の人はまるで同窓会のように、そうか今度は関西の方に移動したのかとか、九州に転勤になったのか、ご無沙汰しております、お元気そうですねなどと話をすると、人それぞれのドラマがあって、頑張っているんだなとか、まだ燃えているなとか、感じることが多かった。話し方などは人それぞれの特徴があって、ほとんど変わらない。それがその人の個性なのだろう。中には話し方も変わってしまう人もいる。数年しか経っていないのに何かあったんだろうかと、要らぬ詮索をする人もいる。自分はどうだったのだろうかとふと思ったが、誰もが、変わらないなと言う。そしてイベントの内容とはかけ離れて、仕事の話をしたり相談事を持ち込まれたり、昨日は関係者の社交場のような印象だった。年を取れば、誰でも体力だけでなくすべての面で衰えていく。文脈は離れるが新聞に、四季ごとに花がこぼれていた庭がたった半年蔦(つた)に覆わる(関根一雄)の句があった。こんな光景を近所でもよく見かける。最近は空き家が多くなり、雑草だらけで廃屋敷とはこんなに寂しいものかと思うことがある。人間でも同じだろう。何もしなければ、古びた知識と張りのない体と愚痴だけの心になってしまい、役に立たない老害と呼ばれる人種になるのだろう。誰でもそんな老人になりたくない、どうしたらいいのだろうか。絶えず努力するしか方法はないのだ。論文や専門書を読み、スポーツジムに行って体を動かし、感動する本やテレビ番組に触れることか。それでも確実に年齢と共に衰えていくが、充実感や幸せ感は別である。20人以上の人と出会い、新たな生き方に触れて元気をもらい、新しい仕事の話をして頭を使い、帰宅して録画してあるドラマに感動する。昨日も今日も、自分は頭も体も心も、めまぐるしく動いているようで、まだ蔦に覆われる庭にはなっていない。四季ごとに小さいながらも花は咲いている。努力を忘れて体力も気力も失せた時、この短歌のような姿になるのだ。それまでは生きて生きて精一杯の花を咲かせていたい。
