受け入れる

 今は金曜日の夕方、より少し早い時刻である。天気予報とは違って、曇り空で小雨は降っているが、傘も必要ないような天気である。猛暑のような高温でもなく、ジトジトした妙な天候だが、いつものように2階の書斎から空を眺めている。先ほどスポーツジムから帰って来たばかりで、1階の居間で老夫婦が今年初めてのスイカを食べた。「夏だなあ」と話しながら、汗をかいた後の果汁の味はまた格別である。町内会の回覧板が回ってきて、そこに盆踊りのお知らせがあった。我が家からすぐ近くに弘法大師のお堂があり、銀杏の木に囲まれ、カモが住んでいる小川とスーパーマーケットに両側を挟まれている小さな広場がある。例年ここが盆踊りの会場である。

 今日金曜日はどの学校も終業式で、明日からの3連休から夏休みが始まる。嬉しそうな子供の笑顔が見えるようだ。私は昨年からフリーランスになって、正式に所属する職場はない。いくつかの団体の役員はやっているが、自分の身分を証明するような役職ではなく、名誉職に過ぎない。気持ち的にも時間的にも自分が労力をかけているのは、市内の学校訪問である。市の教育センターのアドバイザーと呼んでもよいが、職員ではない。1学期最後の学校訪問が、今週の火曜日だった。これからの夏休み期間には、いくつかのイベント等に参加もするが、時間的にはかなり暇になる。ホッとするような寂しいような夏休みだが、それも良かろう。

 火曜日に訪問した学校で、私が授業参観をしていると、一人の先生らしき人が教室に入ってきた。なぜその先生が入ってきたのか、そもそも先生なのか職員なのか、この学校外の人なのか補助員なのか、何も分からず授業を参観していると、私に何度か笑顔で頭を下げていた。意味がわからないが、私も何度も授業中にお辞儀をした。授業が終わった後、廊下に出たら「先生、本当にありがとうございました」と言われた。私も「いいえ、とんでもない。私もお世話になりました」と相づちを打った。その後、校長室で教頭先生と打ち合わせをした。「あの先生は、どのような方でしょうか」と聞いたら、「4月の授業で、私が参観した先生です」と言われた。「あの先生は、私に何か言いたいことがあったのでしょうか」と聞いたら、「あの先生は本校に転任間近で、いろいろな諸事情があって少し落ち込んでおられました。4月の授業で自分の授業を、と自ら名乗り出られて、私の参観を希望されました。そして私が書いて送ったコメントを読んで、どこか吹っ切れたような、少し自分に自信を取り戻したような様子に見えました。彼はそれから変わったのです。だから先生にお礼を言いたかったのだろうと思います」と言われた。

 それを聞いて、私の方が驚いた。自分は小中学校の授業に対して、コメントを書けるほどの力は全くない。だからこうした方が授業が良くなるという改善案は、一切書いていない。書いていないのではなく、書けないのだ。経験がないことを書くのは、欺瞞である。だから私は、授業をありのまま見てそのまま受け入れている。自分が知らない世界を教えてもらっている。ありのままを受け入れると、どこか見えてくることがある。この先生の言いたかったこと、生徒に伝えたかったこと、教材のここが本質だと考えていること、先生の生徒想いの愛情などを感じるのである。それをコメントに書いて添付ファイルで送っている。だからそれは授業改善でも指導でもなく、私の感想に過ぎない。授業を参観した一コマごとに、これまで蓄積してきた経験知や研究知見などが呼び起こされて、つながって見えることがある。だから私の方こそ教えてもらっているのである。

 「これは謙遜でもなんでもなく、もう少し改善提案などできればよいのだが」と言い、「私の劣等感です」とも言っている。長い間自分は何をしてきたのだろうかなどと、悔やんだり後悔したりして落ち込んだ。時々自分の同僚や弟子などに、なにげなく言うこともあったが、誰も、謙遜か、他人へのリップサービスか、本心ではないだろうと思っていたようだ。しかし昨年からフリーランスになって、悔やむことも反省することも要らないと思えるようになった。長い間、家内から「あなたは反省病だ」と何度も言われていた。フリーランスとは自由業であり、組織に縛られることは何もない。自分は自由の身なのだと、まるで刑務所から出てきたようなことを自分自身に言うこともあったが、今ではありのままでよいと思える。小中学校の授業を参観して、自分は素人だから、ありのままを受け入れていたが、それが今思えば良かったのかもしれない。自分の書いた感想が一人の教師に自信を持たせたとすれば、こんなに嬉しいことはない。それはその先生と私が共感しているとも言える。その先生は「そうそう、自分はこう思っていたのだ。ここを生徒に伝えたかったのだ」と、私に訴えたかったとしたら、私がそれを受け取って「その通りだ。自分はそこはこう思う」と書いたことで、よく分かってくれたという安心感が生まれたのではないだろうか。

 文脈は逸れるが、新聞に「消しゴムの消しあと黒し梅雨に入る」(塚本文武) の句があった。梅雨の季節になると、湿気が多いせいか消しゴムで消してもきれいには消えず、黒くなってしまうという句なのだが、消しゴムで消す必要もないではないかと私は思ったりする。ありのままの自分だとすれば、消す必要も修正する必要もない。かつて算数や数学の計算で、消しゴムを使うなという指導があったと聞いている。間違っていれば、そこに二重線を引いて追加すればよい、という考えであった。消せば残らないが、消さなければその時の思考過程が見えるからだという理由である。どちらがよいかは分からないが、反省病であった自分が今思うことは、その時はその時で良かったのだ、むしろ最善であったのだ、何も修正したり反省したりすることもない、ありのままを受け入れれば良いということである。過去にもこれからも、自分の思い通りにならないことが必ず起きる。その時には、ありのまま受け入れようと今は思っている。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21名誉会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す