祭りと仕事

今は、火曜日の夕方、と言っても、書斎の窓から見える光景は、真っ暗である。午後5時半を過ぎると、夜であって夕方ではない。もう11月なのだ、あっという間に月日が経っていくが、今年も残り2か月になった。今日の天気は朝から夕方まで、ずっと曇り空で、しかも気温が低いので、晩秋か初冬のような天気で、街ゆく人も、どこか背を曲げて歩いていくようで、昨日や一昨日とは真逆の光景になった。一昨日の日曜日は、所沢フェスティバルで、航空公園に家内と午後に出かけたが、もう大変な人出で、4年ぶりの開催で、好天気に恵まれて、大公園が人、人、人で、埋め尽くされた。長い行列に並んで、ようやく大串肉と生ビールを買って、持ってきたビニールシートを敷いて、昼食を取ったが、公園の芝生で、よく晴れた大空の元、小さな子供たちが喜んではしゃぐ姿を見ながら、食べるのは、格別の味がする。生きていて良かった、の表現は、オーバではない。少し散歩をしながら歩いていくと、あまりにも似た幼児がいたので、思わず、見とれていたが、母親に聞いたら、三つ子だと言う。ママとパパに囲まれて、3人の女の子と少し大きい男の子、の4人は、見たことがないような大勢の人の中で、芝生の上を勝手気ままに動いている、と言っても、まだよちよち歩きなので、遠くには行けない、しかし、4人の子宝に恵まれた父親は、もう汗だくで、他人にぶつからないように、遠くに行かないように、腰を屈めて動き回っている。お握りを口に入れたまま、4人に振り回されているが、母親は悠然として、シートに座って、にこにこしている、なるほど、子育ては、ママがパパより、はるかに上手だが、男女共同参画の現在、男親がビールを飲んで面倒を見なければ、非難されることは間違いない、などと意味のないことを考えながら、その幸せな家族を後にした。近くに、太鼓の競演があって、などと書くと切りがない。ここで、似た光景の句を、新聞から引く。倉の街市制一〇〇年秋祭(福田愛子)、の読み手は、川越市と記されていたので、川越の祭りだろう、今年は、開催されるのだろうか、この作者は、祭りが待ち遠しくて、あの街中の人が繰り出し、山車が出て、太鼓や笛で、ひょっとこが踊る、それは、子供の頃から見慣れた光景で、4年間も我慢したのだ、という思いがあるだろう。航空公園で出会った三つ子の幼子も、楽しい思い出を脳に焼き付けただろうか、その時、汗だくで動き回っていたパパもいたことも、覚えていてほしい、それだけで、親は大満足なのだ、祭りは、どこか、小さい時から脳の奥に閉まっておいた、小さな宝を取り出して、もう一度眺める時間なのだろうか。今日は、都心に出かけて、イベントに参加して、自分の所属する団体の代表としての役割を果たした、その後も、諸々の仕事をしてきた。身も心も安らぐ時もあれば、寒空を眺めながら、仕事をして役目を果たす時もある、だから、良いのだ、生きていけるのだ、浮かれてばかりだと、大惨事を招くこともある。

笑顔

今は、土曜日の早朝、そして、場所は愛知県春日井市のホテルだから、変則的な時間と場所だが、推測できるように、出張に来ている。久しぶり、前回はコロナ禍以前だから、もう3年ぶりだろうか、対面での研究大会が開催された。事前登録を忘れて、昨日の午後の当日受付だったが、もう大変な盛況で、この日を待っていたかのような、広い会場を人が埋め尽くした。自分の世代とは違う次の世代が、この協議会を引き継ぎ、運営し、大勢の参加者を巻き込んでいる光景を見て、若い世代は優秀だ、発展させていると、自分たちはOBとしての感慨を持った。昨日は、午後に会場に着いたが、会場ではまるで同窓会のように、肩をたたき合い、おーと声を上げながら、共に出会えた喜びを共有したが、オーバに言えば、会えて良かった、元気そうで良かった、生きていて良かった、という実感である。どこか、すべてを洗い流すような感じで、誰もが笑顔で、称え合っている。今日は、夜に帰宅するので、ブログを書く時間がなく、明日は、3年ぶりの所沢フェスティバルで、昼間は航空公園に出かけ、夕方は、これも久しぶりの、子供たちと3家族でのオンラインがあるので、この早朝の時間しかない。昨夜の夕食は、駅近くの中華店に入ったが、台湾人の経営する店だが、お世辞にもきれいだとは言えないが、味は絶品、美味しいと、生ビールを飲みながら、今日はなんと有難い日なのだろうか、と思った。ホテルのロビーでも、知っている人が大勢いて、お互いに、再会を喜び合った。誰も、コロナ禍で自粛していたから、我が身を包み込んでいた重いコートがようやく取れて、両手を空に向かって伸ばすような、解放感があるのだ。それは、相手も同じ思いだろう、という気持ちが、大会の会場でも、ホテルのロビーでも、満開の笑顔の花を咲かせた。新聞に、笑顔しか取り柄なき身や敬老日(加藤節子)の句があった。笑顔で十分、それが周囲を幸せな気持ちにさせるのだ、ホテルの窓から見る空は、今日も快晴で、2日目の大会がある、じっくり勉強したい。

事は解決する

今は、火曜日の夕方、今日もオンラインやら諸々の用事があって、日暮れになった。まるで冬のような寒さの中で、スポーツジムからの帰り道、ジムと言っても、今日は、少しゴルフクラブを振っただけで、恥ずかしくて、このブログでは、あまり書かないようにしているが、年寄りの慰みのようなもので、少しだけ汗をかいて、帰宅した。帰宅途中で、中学生がスポーツウェアを着て、たぶん、制服として認められているのだろう、元気に話しながら、帰宅していた。中学生はいいな、と思いながらも、どの年齢でも、多少の悩みもあるだろう、成績のこと、人間関係、部活や、進学、場合によって、病気も気にしている子もいるだろう。いくつになっても、いつも楽しいとか、いつも元気だとか、日日是好日というのは、ドラマか漫画の世界で、現実には、いろいろなことが起きてくる。日日是好日がタイトルの、小説というか現実の体験、お茶の世界のことだが、凡人には、とてもお茶の教室に通う気力はないし、こんなに深い世界があるとは、この小説を読むまで、知らなかった。すれ違う中学生も、スポーツジムで出会う人々も、オンライン会議に参加している人たちも、皆、それなりの人生を歩んでいるのだろう、若い頃は、元気そうだが、年齢を重ねるにしたがって、世の荒波に揉まれ、時に落ち込み、時に有頂天になって、また落とされる、その繰り返しである。テレビを見れば、なんと様々な出来事が起きるのだろうか、この世の中は、苦渋で満ちているのか、と大臣辞職のニュースを見て、つぶやき、というのも、大臣になる前に、何回か会議で一緒だったから、よけいに政治の厳しさを感じた。ケータイでSNSを読むと、世界情勢から芸能人ニュースまで幅広い、市民としては、興味本位だから、ほーそうか、と思うだけだが、芸能人も苦労している人が多い、特に家庭の中は、厳しいようだ。申し訳ないが、平凡な生活で、子がいて、孫がいて、老夫婦だけの生活で、なんとか生活ができるだけでも、たまには温泉に出かけるのは、よほどの贅沢だと思うようになった。それでも、いろいろな事が起きるが、少しづつ解決していくようで、それが、生きる気力を与えてくれる。不安や心配事は、自分の想像の産物のような気がしている、気休めではなく、本当に、なんとかなる、心配することはない、と思える。夜学子にひとひとりの匂いかな(萩原行博)の句を、昨日の新聞に見た。文脈は離れるが、どんな夜学なのか、塾なのか、仕事を終えてやってくる大人なのか、学校の部活を終えてやってくる中学生なのか、それぞれの荷物を背負って、夜学に集まる。肩に食い込むような重い荷物なのか、楽しいもので一杯の荷物なのか、それぞれの思いを詰め込んで、夜学にやってくる。帰り道に出会った中学生は、どうだろう、失脚した大臣はどんな思いだろうか、家庭生活が冷え切った芸能人は、どうだろうか、しかし、今の自分が言えることは、少しづつ少しづつ、事は解決していく、努力を重ねていけば、物事は必ず好転の方向に向かう、これは長年の自分の経験から言えることである。この世の中は、まんざら捨てたものではないのである。

医は仁術

今日は土曜日、そして今は夕方で、日の暮れるのは早く、既に書斎の窓から見える光景は、マンションの規則正しい窓明かりの集合体だけである。今日も、昨日も、時が慌ただしく過ぎ去っていったが、今は、スポーツジムから帰ってきたばかりだが、この後、お風呂に入り、テレビを見ながらの夕食の時間になる。楽しい時間が待っている。歳をとってきたら、食事の時間は、若い頃より、もっと楽しい時間になった。そして、美味しさが倍増したような気さえして、何故だろう、と家内に言ったら、心身のバランスがいいからだ、と学校の教師のような答えが返ってきた。確かに、今日はスポーツジムで、プールで泳いだし、ここ数日は、ジョギングをして、汗びっしょりになったから、運動で身体の新陳代謝が良くなっているのだろう。そして、仕事もそれなりにあって、頭を使っているので、現役の頃と変わらない生活だからかもしれない。半年くらい前に、少し歯茎が痛いことがあって、何か固いものなど、どこか遠慮がちに食べていたような気がする。都内の歯科医に、3ヵ月に1回だが、歯の掃除のために通院しているが、これまで、長い間使ってきた入歯を新しい入歯にしたのが、1か月くらい前である。今回の入歯は、2つ目なので、これまでのものは、相当に長く、もう20年近いのではないか、と推測するが、10年以上使っていることは確かである。都内の歯医者が言うには、確かに良い入歯だが、さすがに寿命がきて、特に上の歯茎に圧力がかかっているので、歯にとっては良くない、特に、この歯が大切な役目を果たしているので、大事にして長持ちさせるほうが良い、というアドバイスに従って、新しい入歯を作ってもらったのである。最初に使った瞬間から、口に馴染み、幼馴染に出会ったような感じで、何の違和感もなかった。今朝、歯磨きをしながら、さすがに、プロは凄い、上の歯茎が、何かしっかりしてきたような気がして、嬉しくなった。何より、特にこの歯は大事に使って長持ちさせなさい、と言う言葉に同感した。患者のことをよく考えて、少しでも自分の歯を大切にしなさい、ということは、自分の人生を大切にしなさい、と言われたようで、嬉しかったのである。医者が人の命を預かる仕事をしているので、医は仁術、と言われるのであろう。新聞に、こんな句があった。夫のこと看取りし若き研修医涙ぬぐわず頭下げたり(佐々木節子)。最後まで力の限りを尽くして、夫の命を救おうとしたが、努力も空しく寿命が尽きた、が、夫のために尽くしてくれた若い研修医に、ただただ感謝で一杯で、涙をぬぐうことも忘れて、自然に頭が下がったのであろう。自分の経験とは雲泥の差であるが、歯を大切にすることも、命を大切にすることも、同じ医者の使命であり、そこに技術のすべてをかけるのである。凡人ながら、自分も見習いたい。

忙しさ

もうすっかり外は暗くなった。今は、火曜日の夕方だが、先ほどまでオンラインの会議があって、一息ついて、今日はブログを書く曜日なので、机に向かっている。何故か分からないが、9月からずっと忙しさが続いている。今日も4つの打ち合わせや会議があった。先ほどの会議は、省庁の委員会で、座長という立場なので、昨日の朝、事前レクをオンラインで受けて、内容を理解して、今日の会議に臨んだ。凄いと思うのは、省庁スタッフの働きぶりで、文字通り、詳細まで精通していて、座長には、事前レクをして、戸惑わないように、会議を進行させる準備をしている。それは、大臣答弁と同じで、官僚が頭を使って、答弁の原稿を作成しているが、自分のようなものでも、同じような配慮をするとは、日本の官僚機構は、凄いとしか言いようがない。日本は、政治家よりも官僚で動いている、という説に賛成したい。4つの打ち合わせの間に、少し空いた時間があったので、ジョギングをして、汗を流した。忙しいと、時間がもったいないと思うのか、ちょっとした時間でも、ジョギングをしたり、文献を調べたり、原稿書きをしたり、休むことがないのである。そうすると、不思議に、気が付くことがあって、そのタイミングが絶妙に合うので、仕事がはかどる、という因果関係になる。今朝思いついたこと、明日の訪問先にメールを出しておこうとか、実験の予定表を印刷しておこうとか、何でもないことが、後で大きな効果を産みだすことがある。それは、忙しい時間のほうが、成功の確率が高いように思う。時間があって、じっくりしていたら思いついた、などはあまりない。最近、そのような気付きで、苦にしていたことが解決したことが数回あった。なるほど、考える、とか言うが、どうも自分の力でアイデアを思いつくのではなく、天から舞い降りてくる、というと文学的な表現だが、直感なのである。それは、忙しさの中であり、仕事の合間、運動している時など、何か活動をしている時であって、静かに、物思いにふけっている時ではないように思う。歳を取ってくると、仕事が少なくなって、時間が余ってくるのが、一般的である。確かに、自分も若い頃とは、時間の使い方、仕事のスピード、文献の読み方などは違っているが、今の自分に相応しい、忙しさ、余分なことを考えなくて済む時間があって、それが快い生活のリズムになっているような気がする。若い時は、それが当たり前で、忙しさの中に身を置いているので、仕事も、遊びも、すべてに夢中になれるのかもしれない。妻子率(い)て父ひとり待つふるさとへ帰りし頃がしあわせだった(藤川幸雄)の句を新聞から引く。仕事で忙しく、夜遅く帰宅して、奥さんや子供の待つ我が家に帰って、夕餉に向かう、束の間の一時、お酒の一本もついて、どこかほろ酔い気分で夕食を済ませて、翌日は、朝早くから電車に乗って、たぶん、座席に座れない通勤時間で、職場に着けば、忙しい、と言いながら、時間に追われる毎日を過ごす。そして、年に2回くらいの帰省で、小さな親孝行かと思いながらも、年老いた父親との対面をして、それは極上の幸せだったのだ。忙しさとは、そういうものなのか、ぼやきながらも、幸せを運んでくれるものらしい。

静かな秋の光景

今は、土曜日の夕方、ジョギングから帰宅して、お風呂に入って、一息ついている時刻である。もうシャワーでは寒いので、お風呂で汗を流すと、疲れも飛んで、身体もさっぱりして、リラックスするのだが、心もきれいになるのも、当然だろう。1日の内には、きれいな心だけでなく、人をうらやんだり、なんとなく沈んだり、悲観してみたり、様々である。人が人である以上、身体も心も、山あり谷ありで、プラス思考もあれば、マイナス思考もある。自分に都合の良いことが起きれば、プラスの心になり、都合が悪ければ、マイナスの心になることは、世の常である。ただ、世の中は、そう単純な因果関係だけではないようだ。講演を依頼されたが、昨年と同じテーマで、同じ対象者で、同じ時期で、という、まったく同じ条件なので、新しい資料で、新しい枠組みで、新しい理念で、新しい事例で、と考えると、この短期間では無理だろう、と思ったので、断るつもりだったが、そこが貧乏性の性格なのか、楽天的な面があるのか、引き受けた。たぶん、苦吟しながら資料を作るのか、と想定していたが、新しい方法が浮かんできて、予想以上に早くできた。思い過ごしだった。やってみれば、どうと言うことはなく、道は開ける、方法が見つかる、なるほど、やってみれば楽しい、という単純なことを知った。今日のジョギングも、あまりにも空がきれいで、風も爽やかなので、つい走りたくなった、走ると、周囲の風景が、秋らしく、黄色い葉っぱ、小川の流れも優しく、小鳥たちも安らかで、公園では、大勢の子供たちが、大人も混じって、球技に夢中になっている。折り返しの途中で、ある家を通る時は、大人なのか子供なのか、誰かが、ピアノを弾いていて、その演奏が、走っている自分の心に馴染んでくる。いつも、その家を通る時、夕方の時間には、ほとんどピアノの演奏が聞こえてくるので、どこか懐かしい気がする。そして、自宅近くの小さな公園まで来たら、童謡の「ふるさと」の曲が拡声器から流れてきて、子供たちに、家に帰りなさい、と促している。子供の絵本に出てくる、里の秋、そのもので、こんな光景は、自分が子供だった頃と、変わっていないようだ。公園での子供の遊びも、ピアノの演奏も、帰宅を促す音楽も、すべてが、学校と結びつている。学校とは何だろう、自分には、宝物のような存在で、小学校から大学まで、そこに行けば、すべてを許してくれそうで、1日を過ごして、悔しかったとか、腹がたったとか、嬉しかったとか、さぼって無駄な時間を過ごして反省したとか、さまざまあっても、お風呂に入れば、すべてを洗い流してくれる、と同じように、すべてを包み込んでくれて、ふるさとの童謡のような、優しい気持ちにさせてくれる。学校は窓から暮れる赤蜻蛉(荻原行博)の句を、新聞から引く。昼間は賑やかだった教室も、子供たちがいなくなれば、もうそこは夕方で、静かな秋の光景になる。秋が来て、やがて、秋深し、の季節に向かう。

優しく生きる知恵

今は、火曜日の夕方、西空が薄紅色に染まって、雲が赤から白へのグラディエーションになって、美しい光景が、西窓から見える。秋の夕方は、日の暮れるのが早く、もうほとんど暗くなってきて、家々やマンションに灯りが点いて、一日の終わりを告げている。今日は何をしたのだろうか、久し振りに都内に出かけ、歯科医院に行って歯の掃除、事務局に行ってオンラインの事務局会議、帰宅して、先ほど、眼科クリニックで、目の検査と薬をもらって、帰宅したばかりである。あまり生産的なことはやっていないが、年相応に、医院に通わなければならない。それは、まあ当然のことで、たまには都内に出かけて、人ごみに混じるのも良し、医院に行って、看護婦さんやお医者さんに治療や検査を受けるのも良し、自宅にこもるだけが能ではないだろう。目は眼圧と視力検査だけで、歯も治療ではなく、歯茎などの掃除なので、別に気にすることもない。事務所に行って、スタッフと対面で話すと、雑談に花が咲き、どこか面白い。お昼は、少しダイエットを考えて、きつねうどんにしたが、「なか卯」の定番で、いつ食べても美味しい。眼科は、自宅から徒歩2分もかからない距離で、午後4時頃では、若い夫婦が幼児を連れてきている、学校帰りの子供が母親に付き添われてきている、平日の午後にしては、それなりの患者さんがいて、繁盛というのもおかしいが、賑わいを見せている。それも、大した病気ではなく、軽い症状だったり、自分のような定期検査であったり、まあ、健康診断のようなものなので、気楽に待合室で待っている。有難いことに、30分位で、すべて終わる。薬屋さんで、目薬を買って帰宅すると、もう夕方になっている。だから、今日は、何をしたのだろう、と思ったのだが、それでいいのだ、いつも、走っているわけにはいかない、頭を全開にしているわけにもいかない。今は、秋の夕暮れ、一息ついて、ゆったりとして過ごすのが、普通の生活だろう。歳を取るということは、心配事や不安なことを、一旦棚上げにして、目の前に起きてること、それが、歯科医院でも眼科クリニックでも事務所でも、ゆったりと見渡すような心境になる、ことかもしれない。しかし、そこが凡人の浅はかさで、あれはどうしたものか、難しいかもしれない、採択されない時は、など取り越し苦労をするものらしい。新聞にこんな句があった。川の字になりて子犬とお昼寝中、孫無き二人に孫を授かる(須崎輝男)を読めば、子犬が孫になって、老夫婦が目を細めている光景が目に浮かぶ。平日の午後、所在ない時間、うとうととして、可愛がっている子犬が、間に入っている、たぶん、いろいろな事があるだろう、子供たちのこと、家族のこと、病気のこと、何もないことはないだろう、しかし、子犬を孫だと思えば、こんな幸せなことはない、と思っているのか、老いるということは、どんなことがあっても、優しく生きる知恵を持つことなのだろうか。自分も、どんなことが起きても、幸せに転嫁する知恵を持ちたい。

百日紅

今は、土曜日の夕方、窓から見える空は、もう真っ暗で、日が落ちるのが早くなった。秋がやってきたのだから、当然なのだが、自然の営みの正確さには、恐れ入る。今日は土曜日だが、都心に用事があって、午前から出かけて、夕方5時半近くに戻ってきたのだから、ほぼ1日仕事になる。打ち合わせは、10名以上が参加し、内容の議論が濃いので、時間がかかるのは承知しているが、3時間近くだが、不思議に飽きないのだ。中身に入るとか、浸るとか、自分事として、内容を吟味していると、時間の感覚は違ってくるようで、終わり頃になっても、つい、いろいろなアイデアが浮かんできて、議論が進行するので、時間が足らなくなる。時を忘れるとか、夢中になるとは、たぶん、このような状態を言うのだろう。そう言えば、昨日も同じだった。今日の秋晴れとは違って、昨日の天気は、12月の冬模様だと言うから、その寒さは尋常ではないが、実は、昨日は1日中、書斎で過ごした。昨日も、都心に行く用事があったのだが、どうしても間に合わない別の仕事があって、やむなく断って、書斎に籠った。朝6時から取り掛かり、夕方6時に終わったから、朝と昼の食事時間を除けば、10時間仕事をしたことになる。だが、頭を使い、ああでもない、こうでもない、と考えながら、机に向かっているので、時を忘れるのだ。そうすると、何か、その仕事を離れるのが、惜しいような気がして、まだ続けたくなる、脳のどこかに、こびりついているのだろう。だから、今朝は、その続きをしていたのだが、午前11時前に自宅を出た。この年齢になっても、用事があること、それは、世の中から必要とされていることだから、有難いことは言うまでもない。このような仕事、オファーがあると、本当に感謝するし、精一杯の努力をして、それに答えようとするが、それは、たぶん、ボケ防止になるだろう。今は、身体を動かし、脳を使い、心を開放して、自分の最後を全うしたい、きれいに生きて、笑顔で周囲の人と接したい、と願っている。まあ、それに近い状況にあるようで、心から自分の境遇に感謝している。が、いつ、どんなことが起きるか、誰にも分からない。いずれ、身体も、脳も衰えるだろう、それまで、精一杯、花を咲かせてみたい。百日紅さすがに盛り過ぎにけり(谷川治)の句が、新聞にあった。自宅の庭に咲く百日紅も、残り少ない花びらが見える。最後まで、きれいでいたいのか、柔らかいピンクの花びらが、舞い降りてくる、自分もそんな生涯を送りたい。

曼殊沙華公園

今は、水曜日の夕方、外は小雨が降っている。平凡ながら、アッと言う間に時間が過ぎて、もう夕方になった、そして水曜日になった。昨日の夕方に書く予定が、無理だった、さぼっているわけではない、何か、駆け足で、時間が通り過ぎていく、今日は何があったのだろう、先ほどまで、長い長い審査系のオンラインがあって、ようやく一息ついた、が、本当は審査評価表を埋めるつもりだったが、明日の朝、6時から7時までの間にしようと予定を変更して、今ブログを書いている。昨日は、3つのオンライン会議が入っていて、最後の会議が長引いて、ブログの予定が今日に延びたからだ。月曜日は、研究指定校に行って、講演をして、帰宅後に、気になっていた資料作成をしたら、1日が暮れた。その前の日曜日は、楽しみにしていた曼殊沙華公園に行って、真っ赤な花を満喫した、と言う訳ではなく、もう盛りを過ぎて、文字通り、お詫びでもするように、首を垂れている光景だったが、真っ盛りの夏のような陽射しで、こんなに人がいたのか、と思うくらいで、昼食会場は、もう座椅子がなく、木陰で腰を降ろすような人出だった。出店で買った、お握り、唐揚げ、缶ビールは、もう絶品で、生きていて良かった、と思うくらいだった。家内と汗をかきながら、見どころ外れの一面の萎れた赤い花を見たが、主催者も、さすがに、入園料を無料にした。地元の野菜の漬物が、どうしようもないくらい美味しくて、3個1000円で買ったが、3日で、自分だけで食べ終わった。帰宅して、その後、スポーツジムに行ったから、夕食後は、もうクタクタで、大河ドラマを観たら、すぐに鼾をかいて寝てしまった。という訳で、明日も、何かと用事があって、ふと思う。自分は、まだこうして生きているのか、人生の峠は、はるか昔に超えているが、まだ大丈夫、最後に、そっと静かに息を閉じれば大往生だろう。いろいろなことが舞い込んでくる、これは無理、と思うこともあるが、生まれ付いた貧乏性のためか、時間がある限り、やってみよう、と思うのは、表現欲がまだ潜んでいるからかもしれない。この広い野原いっぱい咲く花の見えないところに車が一台(小杉なんぎん)の、何やら歌の文句のような句が、新聞にあった。この句で、曼殊沙華公園を思い出すのは、公園の中に駐車場があって、親子連れが、広い草一面で遊んでいて、我々老夫婦が、その草むらに行った時、ちょうど親子連れが、車に乗って帰る時だったからである。幼子のはしゃぐ姿を見る、若い夫婦は、今が幸せの真っ只中だろう、でも、心配しなくても良い、自分たちのような年齢になっても、年相応の楽しみ方があって、毎日を生きていけるから、と言いたくなった。まだまだ、大丈夫。

畑仕事

今は、土曜の夕方、秋晴れの天気が続いて、気持ちの良い時を過ごしている。つい、うとうとした、無理もない、今日は、午後になってすぐにスポーツジムに行って、身体を動かし、プールで泳ぎ、帰ってから畑仕事をしたから、もう身体がくたくた、しかも、早朝と言うか真夜中に目が覚めたから、少し寝不足気味なので、眠気が襲ってくる。自分は、手帳に書いている通りに実行しているので、午前中は、原稿を書くことになっていて、書けたのだが、推敲する時間がかかるので、午前中一杯使ったが、自分の気に入った原稿ができると、どこかワクワクして、スポーツジムに行くのも、心が弾む。この1週間は忙しく、スポーツをする時間がなく、ジョギングもできず、体重計は正直なもので、確実に数値が上がっていくので、今日こそは、と思って、行ったのである。明日は、久し振りの行楽としゃれこんで、日高市の曼殊沙華公園に行こうと予定しているが、今、ネットで調べたら、明日で曼殊沙華祭りは終わりだそうで、明日は、相当の数の見学者がいて、混雑するだろう。この巾着田辺りは、郷愁をそそるような昔ながらの土地柄で、道端に、野菜や漬物の出店があったり、赤い曼殊沙華を見ながら、何年も変わらない光景に、心が休まるだろう。だから、明日は帰りが遅くなると思って、今日中に、畑仕事とブログを書くことにしたのだが、少し頭が朦朧としているから、今日のブログは論理的な文章でないかもしれない。畑仕事は、もう歳を取ってきたから、野菜作りは、ほどほどにして、芝にしようと家内と相談していたら、近所の方から、きれいな芝をもらった。芝と言っても、我が家の芝は、雑草と呼ぶ方が正しいのだが、いただいた芝は、きれいな日本芝なので、恐縮した。数日前にいただたので、今日は植えて、箱をお返ししなければと思って、今日を待っていたが、なんとか予定通りお返しできた。日本人には、どこか、こんな風景がよく似合うようで、助けられたり助けたり、貸したり借りたり、あげたりもらったり、などの些細なことで、人間関係を維持しているのかもしれない。日高の公園に行くのも、昔の姿を見たいからで、童謡を歌いたくなるような風景で、夕焼け小焼けとか里の秋などの歌が、耳元で聞こえそうな土地なのである。あの辺りは巾着田と言って、巾着袋の形をした平らな田や野原が一面に広がって、童謡の世界そのものである。思えば、日本人は、このようにして生活してきて、どんなに生活が便利になっても、自分の近所付き合いは、昔から変わっていない。また日高辺りの漬物は、何故か美味しい、伝統の味なのだろうか、お年寄りがつけた味なのだろうか、まだ日本が色濃く残っている。新聞に、駄菓子屋も婆も健在扇風機(中里とも子)の句があった。まだまだ、お年寄りは元気だ、それにしても、扇風機も仕事をしているのか、うーん、自分は、そこまでは戻っていないから、観光客として、昔の日本に浸ってみる、という程度だが、新旧が混じっているから、いいのかもしれない。